「……主様?」
私はその言葉に顔を上げた。
目を伏せたままの少女が、部屋の入り口に立っている。
「どうなされたのですか?」
彼女の訝るような答えに、私は静かに立ち上がった。
そのまま、彼女の肩を抱きしめた。
触れた部分を通して、彼女の温もりが伝わってくる。
それが嬉しいと思える自分自身に、私はただ苦笑を浮かべる。
「主様?」
「お前と、出会った頃を思い出していた」
私の言葉に、彼女の肩がぴくりと震えた。
彼女もその頃のことを思い出したのだろう、その記憶は辛く苦しいものの筈。
彼女が、私の腕をそっと両手で掴んでくる。
その腕の優しさに、彼女が優しさを秘めていることに、ただ胸が痛くなった。
……私が、その妓廊に上がったのは、悪友の誘いに乗ったからだ。
私とて木石ではない。男である以上溜まる物はあるし、無論いくつかの妓廊に上がったこともある。
だが、彼に連れて行かれたその妓廊は、私にとってあまりにも異様なものであった。
服を脱ぎ薄暗い風呂場に入った私は、そこにいる少女の姿に少し違和感を覚えた。
妓廊といえば春をひさぐ場所だが、そこにいる女はただの売り物ではない。
例えば歌、例えば舞、例えば音曲等に優れ、男を楽しませる技芸を持ち互いに同意に至って初めて体を重ねるもの。
だが、この娘は既に服を纏わず、ただ道具のように扱われている。
不快感を覚えた。
彼女の前に椅子が固定されている。別段言われた訳ではないが、そこに渋々腰を下ろすと同時に、彼女が首を伸ばして私の逸物に舌を伸ばしてきた。
……目を伏せたまま。
聞いたことがあった。
幼い頃に目を針で潰して、口淫のみをさせる奴僕(ぬぼく)が存在すると言うことを。
私とて、家には多数の奴卑(ぬひ)を召し使う身だ。
妓姑も結局は奴僕だと言うことも解ってはいる。
だが、不快感を止めることだけは出来なくて、私は彼女の肩をそっと押さえた。
「そのようなことはしなくても良い」
必死に吸い付いて舐めしゃぶってくる仕草は、犬が主人に奉仕している光景を思い起こさせて、それが余計に許せなかった。
あううく、と言葉にならない音を漏らす少女。
この娘は道具として扱われてきて、言葉をまともに習うことも出来なかったか、……或いは、言葉を話すことを許されていないのか。
おそらく前者だろうと言うことは見て取れた。
「良いんだよ、そのようなことは」
私はそっと椅子から立ち上がる。
この場所は不愉快だ。人を道具としてしか見ていない。
妓姑達でさえ人としての生活を営んでいると言うのに、この娘は、否、ここにいる娘達は皆人として扱われていない。
「うぅう……あうぅく」
不意に、ボロボロと彼女が涙をこぼしはじめる。
達することなく席を立った私が怒りを覚えているのだと、勘違いしているのだろう。
あるいは、此処の主に折檻を受けるのかも知れない。
そう感じた私は、震える手を押さえた。
私ならば、このような妓廊を取りつぶすことは可能だ。
それだけの縁故と財産を持ってはいる。
だが、この妓廊だけを潰した所で意味がないことも解っていた。
「……しかたがあるまい」
私に出来ることは、ただ目の前の娘を引き取ることでしかない。
それが偽善だと嗤われようと構わない。
私は私に出来ることと出来ないことの区別は付けているつもりだ。
無論、私が至尊の地位にあれば、この国にある全てのこのような妓廊を取り壊すことも出来ようが、それは私にはほど遠い地位だ。
「うぅぅ……」
ボロボロと涙を流す彼女の前に跪いて、私はその目にそっと口づけた。
「んぅ……?」
不思議そうな彼女を優しく撫でながら、私はただ彼女を抱きしめた。
「主様……なぜ、私ではなく、ご主人様が泣かれているのですか?」
「……すまない。私に力があればお前だけでなく、あの妓廊にいた全ての者を救えたというのに」
彼の妓廊は既にない。
他の妓廊の主達が、その妓廊の妓姑の扱いに怒り、人を使って潰したのだ。表向きは。
私には解っている。他の妓廊にとって、そこがあまりにも繁盛しすぎた故に、汚点を抉りだし潰したのだと言うことを。
そして、潰された側の財産は、……金や建物だけでなく婦人や奴僕なども含まれたソレは、潰した側の所有物になる。
彼女の輩達は、妓廊の隅で慰み者にされているか、牛馬の如く賤役につかされているかも知れない。
ソレを思うだけで、胸の奥に痛みが走る。偽善者だと罵られようとも、この痛みだけは真実の物。
「主様、気になさらないで下さい。私は救われました。主様がいなければ、私も救われることは無かったでしょう」
その言葉に、痛みが消えたわけではない。
それでも、彼女の言葉が心にしみる。
「主様がおつらいならば、私の体で癒させてください。どうか私の中で辛さや苦しさを吐き出して下さい」
その言葉に、胸の痛みを抑えて私は彼女を抱き上げる。
ほんの一瞬身を固め、それでもすぐに私に全てを預けてくる。
なんと愛おしいことか。彼女への愛しさは、私の地位や財産よりも、私を喜ばせてくれる。
痛みを忘れるためではなく、否この痛みを忘れることなど有り得よう筈もないが、それでも今は彼女を抱きたかった。
私は何も言わずに房に向かい、彼女を牀(ベッド)に乗せた。
「主様」
目を潤ませて見詰めてくる彼女に、少しだけ笑いかける。
ふと、思いついた言葉があった。
「ところで」
「はい?」
「いつになったら、良人(おっと)と呼んでくれるのかな?」
私の問いかけに顔を赤くして、彼女は顔を逸らした。