その山荘にいる看板娘と言えば、昔から常連の登山客の間で語り草だった。
毎年、連休が明ける寸前に、そこの主人は決まって一人のバイトを雇う。それ自体は、別段
珍しい話でもない。山開き直後の書入れ時に、臨時のバイトを入れるのは、どこの小屋でも同じ
である。
ただし、それは大抵、地元山岳部の若い男と相場が決まっているものだ。そこに女の子を
入れるだけでも珍しい話と言えるのに、それが毎年器量好し、気立て良しのよく働く娘を捕まえて
くるとなれば、噂になるのは当然だった。同業他社たる他の山小屋にとってすれば、一種の怪談
ですらある。
おまけに、彼女たちの出所について山荘の主人は一度として明かした事が無い。一体どこから
攫ってくるのだと嫉妬混じりに問われても、男は妖しげな与太話を繰り返すばかりで、まともな
返事をしたためしが無かった。因みに、今年で還暦になる主人は、結局嫁さんを取ること叶わず、
寂しい老後が確定している。しかしながら、いや当然と言うべきか、同情するものは少なかった。
皆自業自得だと思っている。
今、座敷に置かれた粗末な折り畳み机について、かき氷を突いている良太も、そう思っている
登山客の一人だ。彼はしばし、狭い机の間をきびきびと飛び回る娘の姿を堪能してから、もう一度
目の前の氷を掬って食べた。
量を加減したつもりだったが、やはり頭にキンとくる。小満を過ぎて山の日差しは夏さながらの
強さとはいえ、五月の内から氷菓子というのは早過ぎである。
二・三口食べて、良太は氷を日の当たる窓際へ押しやった。そのままいっそ融かしてしまおうか
と思案していると、隣で畳を摺る音がする。
顔を向けると、件の娘がちょこんと隣に正座していた。片手に持ったお盆の上に、湯呑を一つ
乗せている。
それを彼の前に置きながら、娘は言った。「ほうじ茶、いかかです?」
「ああ……ありがとう」
「どういたしまして」 きょとんとする良太に、彼女は少しおどけて言った。「この時期に氷は、ちょっと
早かったんじゃないですか?」
「……そういう事は、頼む前に言ってくれなきゃなあ」
「あはは、まあそうなんですけど。そこはそれ、こちらも商売だったりしますので」
そう言ってぺこりと頭を下げてから、上目遣いで悪戯っぽく良太の瞳を覗き込む。こうなっては、
もはや大抵の男に勝ち目は無い。
苦笑いではいはいと応じ、良太は窓へと視線を逃がす。そのつむじに向かって、娘は「ごゆっくり」
と頭を下げてから、パタパタと炊事場に戻って行った。
娘の気遣いは、正直とても有り難かった。かき氷をお茶請けに熱いほうじ茶を啜りつつ、良太は
先ほどの彼女の姿を反芻する。
作り物めいた白い肌に、後ろで一つに束ねた艶やかな黒い髪。目鼻立ちは、どちらかと言えば
大人しい日本顔で、全体の雰囲気より少し幼い印象を受ける。或いはそれが年齢通りで、立ち居
振る舞いがしっかりしているだけかも知れない。いずれにせよ、整った顔立ちには違いない。
実を言うと、毎年この山小屋で働く娘の描写は、いつでも大体こんな感じで事足りる。もちろん、
年ごとにやってくる娘は異なるはずで、それぞれに個性があるはずなのだが、ここの娘達は
どうにも受ける印象が似ているのだ。没個性と言うわけではないのだが。
常連客の見解は、恐らくそれが主人の趣味なのだろうということで一致していた。イヤラシイ話
だと良太も思うが、それはそれとしてセンスの良さだけは認めないでもない。
そんな物思いをしながら、なんとか八割方片付けたところで、再び娘が座敷の方に現れた。
今度は、片手に良太と同じかき氷を持っている。
客足はちょうど途切れたところで、彼の他は座敷に誰もいなかった。どうやら三時の休憩らしい。
彼女は一番奥の日陰席に腰を下ろすと、いそいそと氷をつつき始めた。
その様を、何とは無しに横目で窺い見ていると、出し抜けに娘が顔を上げた。しかし覗き見が
ばれた気不味さに、良太が俯いて目を逸らす直前、「最近、めっきり暑くなりましたねえ」と、
彼女の方から声をかける。
この辺りのフォローのうまさは、さすが看板娘といったところだ。
「五月半ばから、この辺は急に蒸してくるよ。梅雨に入ると逆にマシになったりするんだけど」
「ああ、やっぱり常連の方でしたか」
言いながら、娘はトテトテと彼の真向かいに移動した。休憩時間にまで営業させるのは気が
引ける、と良太も思わない訳では無いが、しかし折角来てくれたものを断る道理もないだろう。
「ここへはバイト?」
「はい、三週間ほど前から」 氷を一匙、口に運ぶと、娘は笑顔をもう少し気さくなものにした。
「何でも、毎年ここに来る子はみんなこんな感じらしいですね」
「ははあ、やっぱり聞かされてたか」
「ええ、結構な数のお客さんから、何度も」
これだけ愛想のいい娘なら、連休中はさぞかし人気者だったことだろう。特に、女っ気の無い
山男達の間では。
彼らが山小屋の主人をダシにして、自らの旅にいっときの彩を加えているところが、良太には
簡単に想像できた。
「それで、君は例年通り、自分は雪女だって名乗った訳か」
「あはは。そう、例年通り、でいいのかな。でも、私が言うんじゃないんですよ? 横から勝手に
店長が出てきてとうとうと……」
そう言って、娘はおっとしまったというような顔を作り、わざとらしく炊事場を振り返る。
それが、この山小屋の主人の"与太話"だった。普段、男客が息抜きがてらに、ちょっと粉を
かける程度だと、主人が出しゃばることは無い。基本的に娘の裁量任せである。だが、ごく稀に、
彼女達にもあしらいかねるような絡み方をする男が出ることがある。そんな時、主人はついと
娘の後ろにやって来て、いきなり脈絡も無く語り出すのだ。
──お兄さん、あんたの御目は中々に高いが、ちょっと考え直した方がいい。この子は
確かに別嬪だけれど、蓋を開けりゃあこの山に住む齢一千の雪女なのさ。今日まで
凍った哀れな男の数と言ったら、下で咲いてる水芭蕉の花とタメを張る。つまらん故
で夏場はウチの丁稚をしてるが、それも立夏を過ぎてからだ。じゃないと、機嫌一つ
で俺は小屋ごと氷漬けになる寸法で──
内容は、そんなオチも無い小話だ。おまけに、それを主人がいかにも興にのった様に話すので、
聞いている側はますます余計につまらない。その結果、娘にちょっかいを出していた男は、面倒
臭さ八割、居た堪れなさ二割で早々に席を立つことになる。もちろん、それが主人の狙いである。
「あの雪女の話は、地元の方に伝わる民話か何かなんですか?」
「いいや、違うよ。丸ごと全部あのおっさんのでっち上げさ」
そう答えて、良太はほうじ茶を飲み干した。湯呑の影は大分長いが、まだ時間の余裕が無い
わけでは無い。
「でも、そうだなぁ」 娘の氷に目を落として、良太は言った。「その食べっぷりを見てると、雪女って
言われても信じそうだ。頭、痛くなったりしない?」
一瞬、んぐっと匙を含んで固まった後、娘は顔を赤くして手を振った。
「やだなあ、もう」
「ごめんごめん。気にせず食べて」
「厨房とか動き回ってると、今日ぐらいの気温で結構暑いものなんですよ。……でもお客さん、
見かけによらずイジワルですね。油断してた」
そう言ってこちらを見上げる瞳は、もちろんちょっと拗ねているようで。我ながら単純と思いつつ、
良太は素直に彼女の反撃に白旗を上げた。「黒餡蜜、追加」
三度目のお盆には、初めから湯呑がついて来た。中身はちゃんとお煎茶に変わっている。しかし
良太が礼を言って湯呑の淵に口をつけた時、彼女は言った。
「雪女の配膳で冷めない様に、ぐらぐらに熱くしておきました」
勿論、飲み頃の適温だったが、良太は少しだけ咽かけた。苦笑いで湯呑を置くと、娘は澄まし顔
で昌平の向かいに正座している。どうやら、そのままいてくれるつもりらしい。
「まいったなあ」 良太は口を開いた。「じゃあ、一つ白状するとね。俺は主人の雪女の話を、半分
信じていたりするんだよ」
「ふえ?」
思った以上にいい反応が返って来て、良太は少し驚きつつも、先を続ける。
「俺が小さい頃、やっぱりあなたぐらいの娘さんが、この時期この店でバイトしていてね。彼女から
似たような雪女の話を聞かされた事があるんだ」
十八年前の話になる。
良太が四歳になった冬、彼の父はこの山で死んだ。
ありがちな遭難事故だった。その日の登山計画は、大分前から良太の父が友人たちと一緒に
練っていたものだった。それを自分の都合でキャンセルするのが忍びなかった彼は、急に入った
仕事を徹夜で片付け、そのまま冬山に入って、沢の一つに滑落した。
亡くなったのが父一人だったのは、色んな意味で幸運だった。残された良太達は、おかげで
「可哀想な遺族」のままでいられたからだ。父の登山仲間たちも、百パーセントの同情を持って、
彼らを支援することが出来た。母親も、周りの支援の中で、残された父無し子を育てることに
全力を上げることが出来た。
その甲斐あってか、四歳の良太に父親の死は、大きなトラウマにはならなかった。正直なところ、
父親の死に関して今では記憶に残っていることの方が少ない。憶えていることと言えば、霊安室
で見た父の安らか過ぎる死に顔ぐらいだ。
当時の彼は、それが既に魂の無い骸と、信じることができなかった。全く、ただいい夢を見て
眠っているようにしか見えなかった。
「で、その半年後、ちょうど今ぐらいの季節だな。俺は親父の登山仲間に連れられて、ここへ来た。
お袋はさすがに忙しかったし、なかなか遊びに連れ出して貰えない俺を、弔いがてらってところだな」
餡蜜をおやつに、良太は調子よく話を続けた。娘も商売柄、聞き手に回るのに慣れているの
だろう。絶妙のタイミングで打たれる相槌が、男の口をますますなめらかに滑らせる。
「その時に、この山小屋で一泊したんだが、正直なところ俺は退屈で仕方が無かった。まあ四歳
のガキに湿原を見て感じ入れ言う方が無茶だよな。山登りしている内は良かったが、木道に
入ってからは三十分もあれば十分だった。疲れた俺は早々にぐずって、結局、子守役だった
親父の友人の一人と一緒に、昼過ぎにはこの小屋へ引き上げた。
しかし、一眠りすると、すぐ復活するのが子供だろう? 昼寝後、早速元気を取り戻した
四歳児に、いよいよ手を焼き始めた男を見かねて、子守を申し出てくれたのが、ここの看板娘
だったっていうわけだ」
たまたま、客の入りが悪い日だったこともあり、彼女は殆どつきっきりで、良太の相手をして
くれた。世話疲れした中年のオジサンよりも、気の利く優しいお姉さんの方が、子供心にも嬉しい
のは当然で、彼はすぐにその娘の事が大好きになった。その日は、湿原へ回った大人たちが
返ってくるまでずっと、良太は彼女の前掛けに纏わりついていた。
だが夕食後、そろそろ寝かし付ける時間になっても、良太は娘の側を離れようとしなかった。
最初は面白がっていた大人たちも、こりゃ困ったなと次第に顔を見合せるようになった頃、小屋の
主人がふざけて「俺に任せろ」と言い出した。そして例の与太話を、子供向けの怪談風に少し
アレンジを加えながら、良太は披露し始めた時。突然、彼は大声を上げた。
「分かった!分かった! パパも本当は雪女で死んだんだ!」
その時の、小屋の空気の凍りようと言ったら、それこそ本物の雪女もかくやというほどだった。
良太の保護者達は、何か言わなきゃと思いつつも、言葉が出ずに一瞬で固まった。子持ちの
者でもいればまた違ったのだろうが、咄嗟のことに独身の彼らは全く頭が回らかった。山小屋の
主人は、彼らよりは子供慣れしていたものの、詳しい事情が解らなかったし、何より当の怪談の
語り手としては、フォローするのも難しかった。
そんな中、良太を膝に抱いていた娘が、つと、立って言った。
「ちょっとお星様でも見せてきますね」
落ち着いたら戻ります、と主人に目配せして、彼女は外のベンチへと良太を抱いて連れ出した。
二人っきりになると、良太は怒涛の勢いで話し始めた。
「おかしいんだよ。パパは死んじゃったのに、ぜんぜん痛くない顔してた。なんか嬉しそうな顔
してた。だからね、谷におっこって死んだわけ無いよ。お姉ちゃんと、話してる間に死んだんだよ。
だから、ニコニコしてたんだ。ね、そうでしょ、そうでしょ?」
興奮して捲し立てる幼児の口調に、翳りの色は全くなかった。それどころか、寧ろ彼女なら、
父親の死を安らかなものにしてくれたに違いないと、良太は感謝すらしていた。それは勿論、
達観のようなものでは無く、自分を甘えさせてくれるこの娘が、幼い彼の中で悪者には
なり得なかった、というところだろう。
娘は、そんな彼を懐に抱いたまま、喋り疲れるのを辛抱強く待った。そして一段落ついた所で、
そろそろ寝よっか? と水を向ける。
「やだ」 条件反射で、少年は答えた。「まだ寝ない」
「じゃあ、まだお話しする? でも、りょう君、喋るの疲れちゃったでしょう」
「うん……」
「それじゃあ、」
「雪女のお話して」 顔を上げて、良太は言った。「それか、パパが死んだときの本当の話」
膝の上から、逆さまの少年の瞳が、娘の顔を凝視した。それを、優に十秒は受け止めて、
娘はふと、息を吐いた。
「分かった」 瞼を閉じて、娘は言った。「本当の、話をしましょう。その代わり、絶対に私達だけの
秘密だよ? 」
「うん!」
「私ね、実は、雪女なの」
すぐさま「知ってるよ!」と言う少年に、そうだね、と娘は穏やかに返す。
「でもじゃあ、これは知ってたかな? 毎年、夏ここに来る娘は、全部私。普通の人にはバレない
程度に、ちょっとずつ姿を変えてるけどね」
そして、きょとんとする良太の髪の毛を、「ちょっと難し過ぎたかなぁ?」とぐりぐりかき回す。
「そんなことないもん」
「そっかそっか。じゃあ続けましょう。悲しいかな、夏場はこんな所でアルバイトの生活だけど、
冬になると結構実力派の妖怪なのよ」
そう言って、すごいね、と呟く良太の頭を、ありがとうと言いながら撫でつける。
「どこぞの酔狂な外人のお陰で、最近下火の地方妖怪の中じゃ、知名度だけは抜群なの。
りょう君だって前から知ってたでしょう。幼稚園でお話を読んだことがあるのかもしれないね。
姿かたちもみんなと一緒だし、結構親しみ易いのかもしれないな」
トントンと、語りと同じリズムを刻んで、娘の指が少年の肌に触れている。その体から徐々に
力が抜けて来るに従って、娘の語調も変わり始めた。
「でもやっぱり妖怪だから、貴方達には畏れていて貰わなくちゃ不可ないの。だって、這入るなと
言われたら、這入りたくなるのが人でしょう。冬山の禁は、登り口に衝立を建てたって意味が無い。
思わず皆が躊躇う程に、理不尽なものでなくては不可ない」
解るわね、と娘が云う。良太は、独りでに頸が頷くのを感じる。
「父君は、畏れを忘れて此の禁を破られた。其れを、私は見過ごす訳には不可ないの。放って
於けば、その畏れは何れ万人から消えてしまう。山に禁忌が無くなってしまう」
序に、瞼も重くなって来た。とうとうと語る娘の声音が、丁度好い子守唄になっている。
「夏の間、此処に身を寄せているのは、其れらがもう殆ど忘れられてしまったから。信仰に篤い
あの人の傍を離れたら、私は夏を越せないでしょう。此の山に棲む雪女は、もう言伝えにすら
残れそうに無い」
娘の腕が、良太の体を抱き直す。彼は逆らわず身を任せ、そして耳だけが続きを訊いた。
「私の正体を言い当てたのは、貴方が二人目よ。本来なら、生き残りを賭けて全力で貴方を
口説き落とす所だけれど……残念、縁が無かったわね。貴方は、私を赦さないでしょう?」
耳にかけられた涼しい吐息が、寝付き端の火照った体に心地いいと、良太は思った。
翌朝、良太達は昼前に山小屋を立った。その日は普通に客の入りも良く、余り娘に良太を構う
時間は無かったが、それでも見送りには出てくれた。そんな彼女に、良太はやはり纏わりついて、
周りの大人たちを笑わせた。
帰り際、最後にもいっちょ口説いてみろとけしかけられて、少年は少し離れた所に立っている
娘の傍へ走った。
「オレ、お姉ちゃん大好きだから、ちゃんと秘密守るよ。またね」
「ありがと」 娘は、少し淋しそうに笑った。「じゃ、さよならね?」
「またねっ!」
「うん。バイバイ」
そして、良太は別れた。またおいでとは、言われなかった。