「また母さん?」  
夫の声に、彩音はびくりと身をすくめた。振り返れば、夫の真央はひどくバツの悪そうな顔で、  
風呂上りの髪を拭いていた。  
「いい加減にしろって言ってやれよ。どうせ小言ばっかりなんだろう?」  
さすがに実の母子だけあって、真央は義母のことをよく分かっている。  
息子の亜希が生まれてからというもの、義母からの電話はほぼ毎日だ。  
離乳食から情操教育、着せる服からおしゃぶりの銘柄、果ては子守唄の指定まで、  
実に事細かに注文、もといアドバイスをくれる。最後には決まって、  
『この家にふさわしい跡取りに育つように、お願いしますよ』、だ。  
いかに辛抱強い彩音といえど、煩わしくないと言えば嘘になる。  
それでも、1年前まではずっとましだ。結婚してから2年、なかなか子どもを  
授からなかった彩音は、義母から限りなく罵倒に近い催促を聞かされ続けてきた。  
やっとそれが終わったのだ。贅沢を言ったら、罰が当たる。彩音は努めて明るく笑った。  
「初孫だもの、お義母様も色々言いたいのよ。それだけ可愛がって下さってる証拠でしょう?」  
真央はそれを聞いて、安心したように頬を緩めた。真央はいつも姑から彩音を庇ってくれるが、  
母親を大切に思っていない訳ではない。真央に両肩を抱かれ、彩音はその温もりに目を閉じた。  
「ごめんな、苦労かけて。僕にはできすぎた嫁さんだよ」  
言葉は、胸ごしに聞こえる心音と同じくらいに温かい。こんな結婚を夢見ていた。  
家族思いの優しい男性を、父とよく似た人を。  
「ふえぇぇぇーーん!!」  
子ども部屋から、亜希の泣き声が飛び込んできて、真央は慌てて彩音から体を離した。  
「やきもちか?男だな、あいつも」  
おどけながら、真央はばたばたと子ども部屋へ走っていく。呆れるほどの子煩悩だ。  
亜希がいる。以前よりずっと穏やかになった義母と、ずっとよく笑うようになった彩音がいる。  
今の状態を誰よりも待ち望んでいたのは、もしかすると真央かもしれない。  
―――だから、あなたに知られるわけにはいかない。  
一人残された暗い夜の部屋、彩音はか細い手で、心臓を覆い隠す皮膚と肉を、きつく掴んだ。  
さっきの電話が義母からではないことを、『それ』が誰なのかを。  
知られるわけにはいかないのだ。  
 
 
『ご主人は、無精子症ですね』  
医師の宣告に、彩音は硬直した。目の前の男が纏う白衣の、無機質な白を、茫然と見つめる。  
子どもが、できない。愛する人と子どもをもうけ、育てること。その夢を唐突に摘み取られ、  
彩音は涙を流すことさえ忘れていた。ついで、真央の悲しみを思う。真央もまた、彩音との  
子を切望していた。そして、義母がどれほど跡取りを望んでいるかも知っている。何もかも、  
自分のために叶わないと知ったら、あの人はどれほど苦しむだろう。  
『あの、薬とか、手術とか、できませんか。何とか治すことは』  
彩音は藁にも縋る思いで、医師に詰め寄った。数日前の検査以来、2度目に会うまだ若い医師は、  
名を春野といい、面長な輪郭にやや中性的な面差しがよく調和している。どこかで見たような顔だが、  
その時の彩音はそれどころではなかった。  
春野はうっすらと笑い、整然と片付いたデスクにカルテを放った。  
『治療は不可能です―――が、あなたの妊娠は、可能ですよ』  
意図が分からず、彩音は身を乗り出した。  
『何とかして頂けるんですか』  
『ええ、もちろん。あなたがその気ならね』  
頬に触れられ、彩音はやっと春野の意図を察した。慌てて身を翻し、立ち上がる。  
その拍子に椅子が倒れ、春野は肩をすくめた。  
『そう興奮しないで。悪い話ではないと思いますよ。母親が誰なのかは万人に明らかだが、  
父親が誰なのかは誰にも分からないし、よほどのことがなければ誰も疑わない。  
特に貴女のように、貞淑な人妻なら尚更』  
『そんなこと、できるはずないでしょう』  
『何故?あなたもご主人も、恐らくはご家族も、みんな赤ん坊を望んでいる。あなたと私が  
秘密を守れば、その誰もが幸せになれるんですよ』  
見透かされている、と思った。結婚からたった2年で病院に来るような夫婦だ。当人たちが、  
周囲が、どれほど二人の子を望んでいるか、すぐに分かるのだろう。  
しかし、彩音が迷ったのは、その言葉ではなかった。誰もが、幸せになれる。思い描いた将来が  
すぐそこにあると知って、彩音は平静さを失っていた。  
彩音の両親は、父が先妻と別れての再婚だったが、彩音のことをよく可愛がり、大切に育ててくれた。  
父や母のような家族になりたいと願い続けてきた。真央と出会い、結婚して、その夢のきざはしは  
すぐそこにあるのだ。  
秘密さえ守れば、誰にも分からない。魔がさしかけて、彩音はそれを振り払うように首を横に振った。  
『子どもが育てば、すぐに分かります。少しも父親に似ていない子どもなんて』  
『ああ、それなら大丈夫』  
春野は不意に、彩音の背まで伸びた長い髪に手を入れた。突然のことに身を竦めた彩音に構わず、  
春野はその手で、彼女の髪を首の後ろ辺りでまとめた。  
『ほら、御覧なさい』  
促され、壁にかかった鏡を見て、彩音は息を飲んだ。面長な輪郭、やや切れ長な目に、ほっそりした  
鼻梁と薄い唇。よく似た二つの顔が、鏡の中で並んでいる。どこかで見た顔と、春野を認識するはずだ。  
毎日鏡で見ている顔ではないか。  
『どうして……』  
『さぁ?他人の空似でしょう。けど、素晴らしい偶然だとは思いませんか。生まれてくる子どもが“母親”に  
似ていても、誰も不思議とは思わないでしょう?』  
自分と瓜二つの顔が、目の前で笑う。彩音は夢を見ているような気がして、眩暈を覚えた。  
『返事は一度しかうかがいません。よくお考え下さい』  
突き放され、彩音は立ち尽くす。他人の空似、偶然。こんな機会は、二度とない。  
春野の声が自分の声と重なり、彩音はその場で、承諾の返事をしてしまった。  
 
 
春野と交わったのは、たった2回だ。指定された日に空いた病室で落ち合い、鍵をかけられてその場で犯された。  
今はもう使われていない病室らしく、シーツもかかっていないベッドの傍で、彩音は立ったまま身体を  
まさぐられた。お互いに高まると、壁に手をつかされる。尻を突き出す格好は屈辱的だったが、春野の顔を見ずに  
済むことに感謝した。真央だと思えばいい。愛しいあの人に抱かれているのだと、その子どもを孕むのだと、思えばいい。  
『いけませんね、そんなに力んでは』  
『え……?』  
2度目のときだ。固く目を閉ざして、されるがままになっていた彩音から、春野は自身を引き抜いた。  
『跡取りの男の子が欲しいんでしょう?ならもっと楽しんで、濡れて下さい』  
『えっ……あっ!』  
その時にされた、信じられないほど淫らなことを、彩音はよく思い出せない。忘れるようにしているのだ。  
妊娠のためだけにしたはずの行為で、あんなはしたない声をあげた、自分を。  
『いやっあっあぁっ!!』  
『声をたてるなと言ったでしょう』  
春野は汚いものでも見るように彩音を一瞥し、掌で彼女の口を塞いだ。身体の中心が蕩けていくようで、  
彩音は春野の掌の下、くぐもった悲鳴をあげる。真央の顔を思い浮かべようとして、できなかった。  
再び壁のほうを向かされたが、今度は前身を壁に密着する格好だった。下から突き上げられるたび、  
すっかり凝った乳首が冷たい壁で擦れる。  
『あぁっ……あなた……!あなた……!』  
彩音は泣きながら真央を呼んだが、それは呼びかけではなく懺悔だった。  
子種を植えつけられる瞬間、やっと思い出せた真央の顔が、ひどく悲しげだったことを、彩音は  
今でもはっきりと覚えている。  
 
そうして、心まで真央を裏切って、授かったのが亜希だ。彼は天使だった。真央はもちろん、  
彼がどんな背徳の中でできた子かを知っている彩音さえ、愛しいと思わずにはいられないほどに。  
血液型等、不都合な事情は全て春野が誤魔化してくれた。このまま忘れられる、家族3人で幸せに  
暮らせると、思っていたのに。  
亜希の泣き声が次第に小さくなっていくのと、真央のあやす声とを、どこか遠くに聞きながら、  
彩音は身震いした。亜希と退院して半年にもなるのに、どうして、今更。  
『息子の顔を見せて頂けますか?』  
穏やかな低い声が、彩音の耳にこびりついて、繰り返し反響していた。  
 

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