「触んないでよ!! 変態!!」  
 
甲高い女の声が、薄暗い部屋に飛び散った。  
男が何も言い返さないでいると、耳鳴りがするほどの沈黙が  
埃のようにゆっくりと舞い降りてくる。  
 
男は払いのけられた手を撫でながら  
「面と向かって変態って言われたのは初めてだな」と呟く。  
 
「調子に乗んないでよ。なんなの!? キモすぎるんだけど!!」  
 
女が再度怒鳴る。沈黙を怖れているかのように早口だった。  
細い眉を歪めたその表情には、ゴキブリを見つけたような嫌悪と恐怖が浮かんでいる。  
 
「こういうことして恥ずかしくないの? 情けなくない!?」  
 
女はさらに付け加えた。  
そこまで言われて、ようやく男は反論をする。  
 
「君はあのとき、恥ずかしくも、情けなくもなかったのかな?」  
 
男の静かな言葉が、ヒステリックに紅潮した女の顔を凍りつかせる。  
 
「……あ、あたしは」  
「分かるよ。全く何も感じてなかったんだろう?」  
女の言葉をはじめて遮って、男は続ける。  
 
「それどころか、嬉しくて楽しくてしょうがなかった。  
 好きなものを好きなだけ持って行ける、私ラッキー。  
 そんな風に思ってたんだろう?」  
 
諭すような、それでいて悪意の篭もった口調だった。  
 
「それはそうだ。欲望に正直に好き放題できることなんて  
 人生、そうそうあるもんじゃないからね……」  
 
男は含みのこもった口調でそう言うと、再び女に手を伸ばす。  
 
「触んないで」  
 
セリフは同じだが、今度は手を振り払わなかった。  
身体をそむけた女の肩に、背後から男の掌が乗せられる。  
鳥肌とともに、生理的嫌悪感が頭頂から爪先まで走り抜けた。  
 
女がまるで空中を引っかくように、手を浮かせた、その瞬間。  
男の両手が、女のわきの下を潜って、身体を抱き寄せた。  
 
男の右手が女の左乳房を、男の左手が女の右乳房をそれぞれ鷲づかみにする。  
ぐにゃり、と柔らかな肉が歪んだ。  
 
ここにきて初めて、女が悲鳴を上げた。  
「きゃあ、やぅっ、ゃだ!! 放して!!」  
 
男は、その声を聞いているのが自分だけだと知っているから、冷静だった。  
服の上から、女の乳房をもてあそびながら、野卑な笑みを浮かべる。  
 
「バスト87、Fカップ。って雑誌に書いてあったな……」  
 
そう言いながら、男は首筋に舌を這わす。  
甲高い悲鳴が、また上がった――。  
 
 
芳野あずさを覚えているだろうか。  
 
彼女が水色の水着姿で浜辺に寝そべる、スポーツドリンクのCMを記憶している人も多いはずだ。  
濡れたように輝く唇を自慢げに歪め、アーモンド形の瞳がカメラを捉えるカットは  
多くの男を虜にしていたことだろう。  
 
少しだけ茶色がかった長髪が鎖骨にかかり、お椀型の乳房の谷間に流れていく。  
脚の付け根から足首まですらりと伸びた、細長い流線型。  
染みも吹き出物も無い白い肌には、触れれば吸い付きそうな若さがある。  
 
もう二年余りが経過してしまったが、まだ覚えている人はいるだろうか。  
バラエティ番組にも幾つかレギュラーを持っていたせいもあってか、  
グラビアアイドルにしては同性からの支持も高かった。  
 
芳野あずさは当時、二十一歳になったばかり。  
あの頃の彼女は間違いなく、栄光の階の上に居たはずだ。  
しかし、  
彼女は一つ、大切なことを知らなかった。  
 
どれほどの速さで駆け上がっても、どれほどの勢いで突き進んでも  
逃れることの出来ないものがあるということを。  
彼女の引き締まった細い足首には、外れることのない枷がはまっていることを。  
 
これは、今では人口に膾炙することもなく、雑誌で見かけることもなくなってしまった、  
一人の元アイドル、芳野あずさの物語。  
 
 
生暖かい風が、体にまとわり付くようだった。  
露出した二の腕がじっとりと汗ばんでいるのが分かる。  
日傘を持ってこなかったことを、あずさは後悔していた。  
 
平日の昼間だというのに人気の無い路地を進むと、小学校が見えてくる。  
十年前に逆上がりした鉄棒がまだ残っていたけれど、懐かしさを感じる余裕はなかった。  
日に焼けちゃうじゃない、と独り言を言いながら、彼女は角を曲がる。  
 
肩から提げたヴィヴィアンウエストウッドのバッグの中に、一葉の写真が入っていた。  
あずさが写ったものだ。  
それは恐らくこの世に現存する、芳野あずさを被写体とした写真の中で、  
一番奇妙なものであるに違いなかった。  
 
なにせ最初にそれを見た瞬間、反射的に床に投げ捨ててしまったほどである。  
フローリングにひらりと落ちたそれを拾うことさえ躊躇った。  
奇妙で不快で、それでいて、あるはずのない一枚。  
 
写真と一緒に、手紙が入っていた。  
犯人がどんな想いで、これを自分の郵便受けに入れたのかを想像すると、  
あずさの背筋に冷たいものが走る。  
 
手紙にはこう書かれていた。  
 
「この写真は、監視カメラの画像をプリントアウトしたものです。  
 撮影されたのは、四年前です。テープも保管してあります。  
 お返ししようと思いますので、今度の日曜日にでもお越し下さい」  
 
白いA4の用紙に、ボールペンで書かれた、手書きの脅迫状だった。  
 
あずさはしばらくの間、唇に手を添えた姿勢で固まった。  
警察を、と考えて携帯電話を取り出して、ボタンを押そうとして、やめる。  
プリクラが二枚張られた携帯電話を、ばちんと乱暴に折りたたんだ。  
 
今、この件を警察に届けたところで、どうにもならないことは容易に想像できた。  
なにしろ、手紙も写真も、犯罪を立証する根拠になりえないのである。  
いや、それどころか、写真は、あずさ自身の「犯罪」の証拠にすらなってしまう。  
 
彼女は窓の外に広がる、東京の夜景を見るともなく眺めながら  
たっぷり十分間、立ち尽くしたまま思案した。  
そして、指定された日曜日に、店に行こうとそう決めたのである。  
 
恐らく、現時点ではそれくらいしか打つ手が無いと、そう思って。  
 
 
 
七月に入って最初の日曜日。久々に暑い日だった。  
太陽が雲を蹴散らして、いつもより大きな姿で自己主張をしている。  
その下で人々は否応無く「うだるような」という形容詞を思い出す。  
 
平野健二は、クーラーの効かない部屋で寝転がり、  
借りてきたポルノDVDをぼんやりと眺めていた。  
 
テレビのモニターの中で、涙を流す女の顔のアップと、  
それを後ろから突き立てる男の姿が、無表情な平野の瞳に映っている。  
ペットボトルのふたを開けて、ぬるくなった水をのどに流し込んだ。  
もうすぐ正午だ。  
 
ピンポン、とチャイムの音がした。  
 
平野はすぐにDVDを止めて、ジーンズを穿いた。  
日曜日のこんな時間に来客など、そうそうない。  
 
もしかしたら、という期待と興奮が胸に広がった。  
スキップするように、平野は階段を駆け下りる。  
 
 
 
茶色のドアが開いて、出てきた男の顔に見覚えは無かった。  
 
あずさが「こんにちわ……」と言うと、男はあごの無精ひげをつまみながら  
「どうも」と会釈をする。社交的な人間には見えなかった。  
 
「あの、店は……」  
 
あずさが言いかけると、男はすぐにそれを遮って  
「店はとっくに潰れましたよ。三年前に」と言った。  
それから一拍置いて「ひどい輩が多くてね」と付け加えた。  
 
額にじわ、と汗がにじむのを自覚する。  
外からの熱気と、体の内から沸き起こる熱が相乗し、体温が二度は高まっている気がした。  
 
「あの、私、この……」  
 
沈黙を怖れて、あずさは口を開くが、言葉がつづかない。  
男はじっと彼女を見つめている。三秒ほど間が空く。  
 
「昔の常連の方ですよね。……親父が良く言ってましたよ」  
男はそう言うと、空を見上げて、シャツの襟をはたく動作をした。  
 
「暑いですね。お話でしたら、中でしましょうか」  
 
 
 
ドアののぞき穴に眼球を押し当てて、平野健二は数秒間息を止めた。  
魚眼レンズの向こうに、不安げな女の顔がある。  
初対面だが、同時に平野にとっては見慣れた顔でもあった。  
 
くっきりとした二重まぶた。上下を長い睫毛にふちどられた大きな瞳。  
筋の通った鼻。濡れたように光を反射する唇。  
無造作に垂らした髪は、シャンプーのCMみたいに艶めいている。  
 
だが、美しい造詣とは裏腹に、その表情は硬く沈鬱だった。  
無理もない、と平野は思う。人間は罪悪感を持ったときが一番脆いものだ。  
 
しばらく顔を眺めてから、平野の視線は女のあごに、そしてそこから下に動いた。  
白いカットソーの生地を歪めている胸元は、  
大きいがしかし細い身体に不釣合いではなく、一つの調和形を成していた。  
 
Vネックの襟から、ほんの少しだけ、胸の谷間が見えそうで、  
平野は更にドアスコープに目を押し付ける。  
その瞬間、女の視線が上目遣いになり、平野と目が合った。  
 
女の力強い視線と、平野の欲望に満ちた視線がぶつかった。  
 
平野は慌ててドアから飛びのき、壁に寄りかかり、肺に溜めていた息を吐き出した。  
それから冷静になって「目が合った」のではなく、  
「ドアのレンズを女が見ただけ」だったのだと気付く。  
 
己の臆病なリアクションを思い出し、平野は苦笑した。  
罪悪感を持ったときが一番脆い、という説を情けなくも自分で証明してしまった。  
 
もう一度、チャイムが鳴った。  
ここで出ないと、帰ってしまうかも知れない。  
そう思って平野は、一度深呼吸をしてから、ドアノブを掴んだ。  
 
なるべくゆっくりとそれを回して、ドアを開く。  
湿度の高い外の風が入り込んできた。  
 
「こんにちわ……」  
女が固い表情のまま、会釈をした。  
その瞳には、不審なものを見るような疑念と、不安が満ちている。  
 
「どうも」と平野は答える。  
なるだけ素っ気無く、まるで望まぬ客が来たかのように。  
 
 
 
「暑いから中で」と言った割には、家の中も暑かった。  
 
男の家の一階は、昔あずさも良く来ていた雑貨屋で、  
コンビニエンスストアが少なかった頃は繁盛していたものだった。  
店の主人は好々爺然とした中年男性で、何度か会話をしたのも覚えている。  
 
この男は、あの店主の息子だろうか。  
あずさはそう考えて、男の後ろ姿を見た。  
スポーツをやっているようには見えない、細い背中。  
 
そんなことを考えているところに突然、  
男がくるりと振り向いたので、あずさは思わず肩を震わせた。  
 
「この階段、上って右の部屋です」  
男はそう言うと、階段の上に向けて指をさした。  
先にのぼれ、ということだろうか。  
 
逆らうことも出来ず、あずさは少し急な角度の階段に足を乗せる。  
裸足の足が、濃い木目を踏むごとに、ぎしぎしと音を立てた。  
いかにもそれは古い家屋の階段で、あずさにとっては親戚の家を思い出させる。  
 
スカートを下から覗き込まれないように、彼女は両手を後ろに組んだ。  
 
階段を上っていく女を、平野は見上げる。  
彼女は尻に両手を当てて、スカートがめくれないように押さえながら  
しかも数歩ごとに振り返りつつ、歩いた。  
 
明らかに平野の下心を警戒している。  
そういう素振りは、まだ見せていないはずなのにな、と平野は思ったが  
冷静に考えれば男と女が二人きりで、しかも関係としては脅迫者と被害者でもある。  
警戒するのは当然だろう。  
 
まして、彼女は自分がどれだけ男から見て魅力的かを良く知っている。  
自分の肢体が、どれほど男を惹きつけているのかを良く知っているのだ。  
また、実際に肉体を狙われたことだって皆無ではないだろう。  
 
振り返り平野を見下ろす彼女の視線は、まるで犯罪者を見るようだ。  
 
ひどいなあ――。  
平野は心の裡で卑屈に笑う。  
 
そんな目で見なくてもいいじゃないか。  
まるで――俺が、弱みをつかんだのをいいことに、君の肉体を舐り弄ぼうとしているみたいじゃないか。  
 
 
 
「煙草吸ってもいいですか?」  
あずさは洋椅子に腰掛けると、すぐに膝を組んでそう言った。  
 
男は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにさっきまでの鉄面皮に戻り  
「ああ、いいですよ。換気が悪いから、少し煙たくなるかも知れないけれど」と言った。  
 
あずさはバッグを開いて、ヴァージニアスリムを一本取り出す。  
火をつけるのに時間がかかった。手が震えている。  
それでも余裕があることを示したかった。  
 
男の視線は、ほとんどあずさを捉えない。目も合わせようとはしない。  
そのくせ、数秒に一回、ちらちらと見ているのが分かる。  
男の陰気な無表情は変わらなかったが、その瞳の奥には何らかの意思が隠れていると  
彼女は確信していた。その意思が自分にとって迷惑なものであることも。  
 
「で、返してもらえるんですか?」  
あずさは唐突に、コンビニの店員に弁当を温めさせるような、突き放した口調で言った。  
精神的に弱みを見せるべきではない、と本能的に判断している。  
 
それ以上に、こんな男に上座から口をきかれたくない、という勝気な想いもあった。  
 
男は、あずさから目をそらしたまま、黙り込む。  
 
「返すって、何をですか?」と白々しくとぼけるのか、  
それとも強い調子で言い返してくるのか。  
あずさは男の反応を待った。  
 
ややあって、男は立ち上がる。  
そして、そばにある机の引き出しから、古びたビデオテープを取り出した。  
DVDが普及した最近では、見かけることの減った8oテープである。  
 
「これの話ですよね」と男は言った。  
あずさは唾を飲み込む。  
もしかしたら、本当にただ返すだけのために呼んだのだろうか、と一瞬思う。  
 
男はそれをテーブルに置いて、洋椅子に座った。  
「一時間ほど入っています。全て貴女の映像です。家に帰ったら見てみるといい」  
まるで独り言のようにそう言ってから、男は少しだけ表情を歪めた。  
 
「やっぱり煙たいな……煙草、消してもらえます?」  
 
 
少し間があった。  
 
女はしばらく煙草を指に挟んだまま、平野を睨んでいた。  
細い指先、長い爪。小刻みに震えているのが分かる。  
 
「聞こえませんでした? 煙草、消してくださいよ」  
言葉に少し力を入れた。  
そしてようやく平野は、真っ向から彼女を見据えた。  
 
目が合う。  
上下を長い睫毛でふちどられた、力強い瞳。  
そこには、理不尽になにかを強制されたことの無い、子供じみた強さがある。  
 
一瞬だけ、平野は怖気づきそうになる。  
美人と目を合わせて会話したことなど、今までほとんど無かった。  
それでも、へそと性器の中間あたりに力を込めて、平野は口を開く。  
 
「テレビで、女優になるのが夢、って言ってたね、確か。……でもな」  
 
 
「アンタは犯罪者だ。立派な犯罪者だよ」  
唐突に、平野の口調が変わった。  
意図して変えたような気もするし、無意識に変わったような気もする。  
 
「店がつぶれてから、ウチの親父がどうなったか、話しても理解は出来ないよな。  
 あんたには。積み上げてきたものを突き崩された人間の話なんかな」  
 
平野が立ち上がった。  
怯えたように、女も立ち上がり、二歩後ずさる。  
 
「なに? 近寄んないでよ……ちょっと」  
 
テーブルの上のビデオテープを手に取り、平野は独白するように  
「これを持って帰れれば、全部チャラだ。君は何もしなかったことになる」と言った。  
 
心の中を見透かされたと思ったのか、女は言葉を失った。  
主導権を掴んでいることを平野は自覚する。  
 
「欲しいだろう?」  
 
 
男の表情は変わらぬままだった。  
その内には、優越感があるのか、興奮があるのか、不安があるのか  
嗜虐心があるのか、怒りがあるのか、欲望があるのか、全く読めない。  
 
「そんなんで脅すつもりなの!? バカじゃないの?」  
心に流れ込んできた恐怖が、腰の高さまで浸しているのが分かる。  
振り払うように、あずさは大声を出した。  
 
「別に、脅すつもりも、償いを求めるつもりもないけれど。  
 ただ、返して欲しいなら、対価を払う必要があるってだけだよ。  
 要らないなら、このまま帰ればいいし。止めもしない」  
男はやや早口でそう言う。  
 
ここでテープを取り返さないとどうなるか。  
あずさの頭の中で、昨晩何度も繰り返したシミュレーションがまた行われた。  
写真であれ、動画であれ、それが世の中に知れれば、間違いなく終わる。  
勿論、彼女が警察に拘束されるようなことはないだろうけれど、  
少なくとも彼女の今の地位は間違い無く失われることだろう。  
 
――このまま帰るわけにはいかない。  
 
「今はインターネットだってあるからね。情報はどこにだって流せる。  
 一度流れたら、二度と取り消すことは出来ない」  
男は淡々とそう言ってから、あずさの方に二歩近づく。  
 
無造作に、その手が伸びてきた。  
 
「や、何?」  
あずさはすぐに、男の手を払い落とす。  
 
男は何も言わずに、口を開いた。  
乾いた舌が、上唇を舐める。  
無感情な顔の上に、ほんの僅かに、欲望が滲んだ。  
 
恐怖が、肩まで浸していることを、あずさは自覚する。  
 
また、男の手が伸びてきて、彼女の肩を掴んだ。  
 
――なんなの!? コイツ!!  
こみ上げた怒りをそのまま、咽喉から解き放つように、あずさは声を出した。  
 
「触んないでよ!! 変態!!」  
 
 

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