ゴールデンウイーク開けの金曜日。  
 大学が終った夕方。初馬はアパートのドアを開けた。  
 
「たいだまー」  
 
 靴を脱いで室内サンダルに履き替える。  
 白砂宗家。一応それなりの旧家だが、贅沢が出来る金があるわけでもない。  
 初馬が借りているのは簡素なワンルームアパートだった。お世辞にも広くない台所。風  
呂トイレは別である。八畳間の洋間にはパイプベッドと机とテレビなどが置かれていた。  
男の独り暮らし、散らかるのは一瞬なので、片付けは念入りにしてある。  
 
「おう、お帰り」  
 
 窓辺に座った一ノ葉が一瞥を向けてきた。  
 先日式神にした大柄な狐である。床に投げ出された尻尾。ぱたぱたと先端で床を叩きつ  
つ、本を読んでいた。前足で器用にページをめくる。  
 初馬はベッドに腰を下ろした。ややしわの付いた水色のシーツ。  
 
「お前、朝からずっと読んでるのか?」  
「ふむ」  
 
 初馬の問いに、一ノ葉が狐耳を動かす。傍らに置いてあるしおりの紐を口先で咥え、本  
に挟んだ。右前足で表紙を持ち上げて閉じる。  
 図書館から借りてきた、気象現象入門という新書。  
 
「テレビ見ててもつまらぬし、ワシには本を読むくらいしかやることがないのだ。昼寝す  
るのも飽きたし、式神は飯を食う必要もないから、おやつを食う気にもなれぬ」  
 
 自分の前足を眺めてから、退屈そうに欠伸をしてみせた。  
 式神は太陽光などの自然エネルギーを糧に動いている。また、使役者の霊力も自分に還  
元出来るため、よほどのことがない限り食事をすることはない。  
 初馬は窓の外を指差した。  
 
「街に散歩に出掛けてもいいんだけどな」  
「あいにくワシは一般人にも見えるからな。大狐が街中歩いていれば騒ぎになるだろ。ワ  
シは無意味に注目を浴びるのが嫌いだ」  
 
 一ノ葉は本物の狐を素体に作られた式神。術の使えない一般人にも認識できる上に、普  
通の狐よりも二回りほど大きい。しかも喋る。目立つだろう。  
 
「人間に化ければいいのに。狐だし」  
 
 率直な初馬の意見に。  
 一ノ葉が目付きを険しくする。  
 
「ワシは変化の術を使えん。ワシを作った奴らが使えるようにしなかったのだ。それに、  
人に化けてもワシは歩けぬからな」  
 
 式神にしてから分かったこと。一ノ葉は法力が強いのに、使える術が少ない。本来なら  
あらかじめ組まれている術の発動法が組み込まれていないのだ。もっとも、炎の術で家一  
軒燃やすくらいは普通にできたりもする。特殊な式神なのだろう。  
 
「あ、そうだ。思い出した」  
 
 ぽんと手を打つ初馬。元々一ノ葉に言うことがあったのだ。すっかり忘れていたが、今  
の会話で思い出した。急ぐことでもないが、早い方がいい。  
 一ノ葉の目蓋が半分降りる。  
 
「貴様、何を思いついた?」  
 
 胡乱げな呟き。腰を上げて逃げるように後退った。不穏な気配を感じたのだろう。  
 初馬はにっこりと笑い、  
 
「ちょっと出掛けよう。ここじゃ場所が悪い」  
「だから、何を思いついた!」  
 
 叫んでくる一ノ葉。再び後退ってから、お尻が網戸に当たる。ここから先には逃げられ  
ない。振り返って網戸を開けるのでは遅いだろう。  
 窓の外に見えるのは、夕方の空と隣の駐車場だった。  
 初馬は両手で印を結びながら、宥めるように告げる。  
 
「お前が心配するようなことじゃないから安心しろ……隠れ蓑の術」  
 
 放たれた霊力が、一ノ葉を包み込んだ。霞のような密度の霊力と、比較的単純な術式。  
一種の幻術だった。初馬が使える数少ない幻術のひとつ。  
 数秒目を瞑ってから、一ノ葉は怖々と目を開けた。自分に異常がないか確認するように  
振り前ってから、その場でくるりと回ってみる。  
 細い吐息を漏らしてから呟いた。  
 
「認識力をぼやかしたのか……」  
「そういうこと、これなら外にも出られるだろ」  
 
 認識をぼやかす簡易結界。平たく言えば、存在を思い切り薄くして、人に気づかれない  
ようにする術である。姿を消すわけでないので相手に気づかれる可能性はあるが、普通に  
街中歩くくらいで気づかれることはない。  
 一ノ葉は腰を下ろしてから、リズムを取るように尻尾を動かす。  
 
「つまり、ワシをどこかに連れて行きたいということか?」  
「近くの公園だ。おかしな所じゃない」  
 
 初馬はそう言って笑った。  
 
 
「さて、何をする気だ?」  
 
 芝生に腰を下ろした一ノ葉が訊いてくる。  
 近所の公園の隅っこ。芝生広場。時々子供が遊んでいることもあるのだが、今日は人気  
もなかった。午後六時過ぎだからだろう。一応人払いの結界も張ってある。  
 初馬はあっさりと答えた。  
 
「歩く練習」  
「歩く練習?」  
 
 訊き返してくる一ノ葉。どうやら言われた意味が理解できなかったらしい。自分の前足  
を見つめてから……意味を理解する。  
 既に初馬は印を結び終っていた。  
 
「式神変化」  
「待て……!」  
 
 術式が発動し、一ノ葉の身体を組み替える。  
 一瞬で狐から人間の少女へと変化した。  
 年齢十六歳ほどで、すっきりした体付き。腰上まで伸びた長い狐色の髪に、やや生意気  
そうな顔立ち。今回は裸ではなく、白い半袖のワンピースを着て、サンダルを履いていた  
いた。狐耳と尻尾はそのままである。  
 
「また、これかぁ……!」  
 
 芝生に突っ伏したまま、一ノ葉が呻く。  
 初馬は一ノ葉の前にしゃがみ、その頭を撫でた。艶やかな髪の手触りが心地よい。  
 
「狐なんだから人に化けられないとちょっと頼りないだろ。しばらくは俺が変化の術使っ  
てやるから、まずは二本足で歩く練習な」  
「ただ面白そうだからやってるだけだろうが!」  
 
 右手を伸ばして掴みかかろうとするも、届かず空を掴む。  
 初馬は両手で一ノ葉の肩を掴み、その場に起こした。両足を掴んで前へと伸ばし、両手  
を太股の上辺りに置かせる。芝生の上に両足を伸ばして座っている姿勢。下手に動くと倒  
れるため、何も出来ないでいた。  
 
「絶対に遊んでるだろ……?」  
「お気になさらず」  
 
 涼しげに聞き流してから、初馬は左手で一ノ葉の肩を掴んだ。倒れないように固定して  
から、右手でワンピースの胸元を引っ張り、中を覗き込む。  
 
「って、何をしている!」  
 
 慌てて初馬を引き離そうとするが、腕に力は入っていない。契約のため主のすることに  
積極的な反抗が出来ないようになっているのだ。  
 きれいな肌と胸を覆う白いブラジャー。余計な装飾はなく、簡素なものだった。大きす  
ぎたり小さすぎたりということもない。  
 
「こっちは問題なし」  
 
 頷いて手を放した。  
 
「何が問題なしだ……このドスケベが……!」  
 
 頬を赤くしながら、一ノ葉は両手で胸元を押さえる。目付きを険しくして睨んでくるも  
のの、起き上がって殴りかかることもできない。  
 初馬は答えずにワンピースの裾を持ち上げた。  
 
「!」  
 
 きれいな太股と、大事な部分を覆う白いショーツ。一般的にビキニタイプと呼ばれるも  
のである。よくマンガなどで見るものだった。ショーツの上には引き締まったお腹と小さ  
なへそが見える。  
 
「だから、何がしたい!」  
 
 慌ててワンピースを押さえる一ノ葉。  
 初馬は左手で一ノ葉の肩を掴み、ひっくり返した。元々座っているので精一杯だったた  
め、苦もなくうつ伏せに倒される。  
 
「ぬぐぐ……」  
 
 腰の後ろから尻尾がワンピースを突き抜けていた。尻尾抜きの術と言われる、獣族の基  
礎術の応用。裾をめくると、ショーツの生地を透過している尻尾が見えた。  
 
「こっちも問題なし」  
「だからぁ……」  
 
 額に怒りのマークを浮かべて、険悪に唸る。  
 初馬は一ノ葉を仰向けにひっくり返し、肩を掴んで起き上がらせた。両足を伸ばしたま  
ま座った、最初の姿勢に戻る。威嚇するように犬歯を見せていた。  
 
「いや、術で作った下着がちゃんと出来てるか心配だったから。幸い術は上手くいったし、  
そのうちもっときれいな服作ってやるから」  
 
 一ノ葉の着ているワンピース、ブラジャー、ショーツ、サンダル。これらは術で具現化  
させたものである。変化の術で服などは作れないので、別に作る必要があった。  
 なお、これらを作るために本物の服や下着を一時間ほど念入りに観察した後、そのまま  
死にたくなったのは秘密である。  
 
「大きなお世話だ」  
 
 羞恥心に顔を赤く染めている一ノ葉。  
 狐の姿で裸を見られるのと、人の姿で下着などを見られるのでは恥ずかしさが違うらし  
い。その辺りは女心とかいうものだと思う。  
 初馬はそう納得してから、一ノ葉の前に右手を差し出した。  
 
「じゃ、歩く練習始めるか」  
 

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