半分ほど開いた窓から流れ込んでくる秋の風。卓袱台の前の座布団に座ったまま、初  
馬は現実逃避気味に窓の外の青空を眺めていた。  
 
「どうしたものかなぁ……」  
 
 そんな言葉が喉から漏れる。やや甲高い女の声。  
 自分の右手を持ち上げてみた。節くれ立った男の手ではなく、白く細い女の手である。  
腕も細くきれいな女の腕。頭を撫でてみると、狐色の長い髪の毛。視線を下ろすと、白い  
ワンピースを着た細い体躯。胸の生地を押し上げる膨らみ。本来なら両足の間にあるも  
のもない。空気に触れているため、足もすかすかしていた。  
 視線も普段から十五センチほど下がっている。身体が一回り小さくなっているため、見  
える風景が別のものになっていた。部屋が大きくなっている。  
 
「他人の身体ってこんな感じなんだな。うん、興味深い」  
 
 狐耳と尻尾を動かしながら、感心してみた。どちらも人間にはない未知の器官。腰の上  
辺りと、首筋に奇妙なくすぐったさを覚える。  
 まとめると、初馬は一ノ葉になっていた。なお、狐状態ではなく人型である。  
 
「というか、さっさとワシから出て行け!」  
 
 自分の意思とは無関係に、口が声を発する。一ノ葉の口調で一ノ葉の台詞だった。  
 初馬は短く吐息し、両腕を広げて見せる。無論、動くのは一ノ葉の両腕だった。ついで  
に尻尾を左右に一振り。腰の付け根に引きつるような感触。  
 
「出て行きたくとも、出て行く方法が分からないんだから仕方ないだろ」  
 
 首元の赤いチョーカーを弄りながら見つめる先――ベッドに座って両手で印を結んだ初  
馬の身体があった。目を閉じたまま動かない。分かりやすく言うと、眠っているような状態  
である。  
 両腕を腰に当て、一ノ葉は眉根を寄せた。  
 
「貴様は……もう少し計画性を持て。何でワシに取り憑いてるんだ!」  
「うーん」  
 
 初馬はパソコンデスクの椅子に腰を下ろした。身長が変わっているせいで、座り心地が  
悪い。両腕を下ろしてから腕組みする。胸の膨らみが腕に触れているが、とりあえず無視。  
一ノ葉も気づいていないはずないが、特に何も言わない。  
 初馬は言い訳するように答えた。狐耳が勝手に動いている。  
 
「いや、俺も好きでこんな事になってるわけじゃないんだけど。この状態は明らかな事故だ  
し、今すぐ元に戻るってのは無理だ」  
 
 式操りの術の応用による、視聴覚の共有。それを試そうと思ったのだが、術の発動に  
失敗。一ノ葉との全感覚共有が起こってしまった。しかも、本体の意識は閉じてしまい、事  
実上一ノ葉に憑依している状態である。  
 稀にこのような事故は起こるらしい。だが、実際に起こるとは思わなかった。  
 
「術式に問題はないはずなのに、遣い魔の契約式組み込んだのがマズかったかな?」  
 
 初馬は顎に手を当て、天井を見上げた。首の後ろでさらりと流れるきれいな狐色の髪  
の毛。自分の身体ではないのだと自覚させられる。  
 
「何にしろ、実家に連絡しないとな……。感覚共有を強制解除する薬があったような気が  
する。速達で送ってもらうことにして、明日かな? 届くのは」  
 
 実家までは電車で二時間ほど。遠いというほどではない。しかし、わざわざ取りに行く気  
にはなれなかった。笑われるのは目に見えている。  
 
「ということは、明日までこの状態だというのか……?」  
 
 一ノ葉が頬を引きつらせ、自分の身体を見下ろしていた。一人の身体に二人の意識。  
端から見れば滑稽な一人芝居をしているようなものだが、幸い観客はいない。  
 
「そういうことだ。よろしく」  
「貴様と身体を共有するのは、ぞっとしない……。どうせよからぬ事をするに決まっている。  
貴様が大人しくしているはずがない」  
 
 不服そうに口元を引き締め、一ノ葉は唸った。苛立ちに歯を噛み締めつつ、尻尾に力  
が入っている。他人に身体を動かされるのは、いい気がしないだろう。  
 
「それはこういうことかな?」  
 
 にやりと笑いつつ、初馬は両手を胸に触れさせた。  
 それほど大きいとは言えないものの、丸く滑らかな膨らみ。指を動かし服の上から優しく  
揉んでみる。ほどよい弾力と柔らかさ。胸の先の小さな突起を服越しに軽く引掻いてみる  
と、微かなくすぐったさが走った。  
 
「貴様は……!」  
 
 両手が引き離されて、表情に怒りが浮かぶ。  
 口元を右手で抑え、初馬は首を傾げてみせた。胸を指でつつきながら、  
 
「自分で触っても気持ちよくないんだな。もう少し気持ちいいと思ったんだけど」  
 
 例えるなら、自分で自分の肩を揉んでいるようなもの。特に感じることもなく、興奮もしな  
い。元の身体のまま人に変化させた一ノ葉の胸を触る方が気持ちいいいし面白いだろう。  
雰囲気の問題なのかもしれない。  
 
「当たり前だ、ボケ!」  
 
 右手で頬を引っ張りながら、一ノ葉が怒る。自分の頬を引っ張るので一ノ葉も痛いはず  
だが、初馬に痛みを与える方が重要らしい。  
 
「さてと」  
 
 初馬はその手を頬から引き離した。両手を組んで印を結び、意識を集中させる。狐耳と  
尻尾がぴんと立った。自分の意識が手足の先端、狐耳や尻尾の先まで届くように。  
 両手を膝に置いて一息つく。準備は完了。  
 
 五秒ほどだろう。一ノ葉が身体を動かそうとした気配が伝わってくる。だが、一ノ葉は身  
体を動かすことはできなかった。  
 
『……貴様、何をした!』  
 
 意識に割り込むような一ノ葉の声。今までのように声帯を通した声ではなく、思考に直  
接響いてくる声だった。念話というのはこういう感じらしい。  
 
「すまん、しばらく身体の支配権は俺が貰うから」  
 
 狐色の髪を手で梳きながら、初馬は笑う。  
 感覚の共有率を高めて、一ノ葉の支配権を押さえたのだ。今まではお互いに身体を動  
かしていたが、これでほぼ初馬の意思のみで身体を動かせる。穿った言い方をすれば、  
一ノ葉の身体を完全に乗っ取った。  
 
『ふざけるな! この身体はワシのものだ。勝手に使うな!』  
「気持ちは分かるけど、お前じゃこの状態直せないだろ。こっちは命掛かってるんだから  
多少無茶はさせてもらう」  
 
 言い訳しながら、ベッドに座ったままの自分の身体を見やる。一ノ葉も見ているだろう。  
厳密には一ノ葉に見せている風景を、初馬も見ているのだ。  
 両手で印を結んだまま動かない身体。放っておけば、ずっとそのままである。  
 
「これ、早く戻さないと衰弱死するから」  
『そのまま死んでしまえ……アホが』  
 
 不機嫌そうな一ノ葉の悪態。冗談めかしているが、半分は本気なのだろう。初馬を主と  
認めたとはいえ、お世辞にも服従しているとは言い難い。しかし、現実味がないとはいえ、  
危機的状況であることは理解してくれたらしい。  
 
「……そうもいかないんでね。俺はまだ死にたくないし」  
 
 初馬は椅子から立ち上がった。  
 尻尾を動かしながら、自分の身体の元へと歩いて行く。普段から鏡で見慣れている姿で  
あるが、他人の視線となって見てみると、自分なのに他人のように見える。  
 軽く肩を左に押すと、身体は力無くベッドに倒れ込んだ。印が解けるが、効果に変化は  
ない。そのまま、両足をベッドの足下に移してから、布団をかけて終了。とりあえず寝かせ  
ておけば、しばらくは大丈夫だろう。  
 
『これからどうする気だ? さきほどの話しぶりからするに、自力で戻るのは無理なんだろ?  
最終手段はあるんだろうがな』  
「実家から感覚共有を解除する薬を送ってもらう。自分で強制解除する度胸はない」  
 
 答えつつ、初馬は椅子に座った。パソコンの電源を入れる。  
 首元のチョーカーを弄りながら狐耳を動かし待っていると、三十秒ほどでOSが立ち上  
がった。両手の指を組んで、解すように動かす。一ノ葉はキーボードを触ったことがないも  
のの、今身体を動かしているのは初馬の意思。入力に問題はないだろう。  
 メールソフトを立ち上げ、実家のアドレスを開く。  
 
 ------  
 
式操りの術を試していたら、感覚共有事故が起こった。自力じゃ戻れないから、解除薬を  
送って欲しい。できるだけ早めにお願い。  
                             白砂初馬  
 
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 本文は手短にして送信。言いたいことは伝わるだろう。  
 それから両手の指を見つめる。身体が変わっているため、指の長さも太さも違う。しか  
し、さほど不自然さはない。一ノ葉の身体の感覚もある程度利用できるのだ。  
 
『元に戻る薬が来るのは、早くても明日。それまでどうやって時間潰すつもりだ? さっさと  
ワシに身体を返せ。貴様は大人しくしてろ』  
「あと、手紙出して来ないといけない」  
 
 一ノ葉の言葉は無視して、初馬はパソコンの上に置いてあった封筒を手に取った。長形  
3号の白い封筒。宛先は知り合いの術具師の家である。内容は大したことないが、早め  
に出しておいた方がいいだろう。  
 
『外を出歩く気か? 手紙は今日でなくてもいいだろうに』  
「面白そうだから」  
 
 きっぱりと断言し、初馬は椅子から立ち上がった。狐色の髪が揺れて、胸の重さが微か  
に肩を引っ張る。どちらも男にはない感覚だった。  
 
「やっぱり、女って男と違うんだよな――」  
 
 右手で胸を撫でながら、左手で髪を梳く。セクハラじみたことをしている自覚はあった。  
しかし、意外と卑猥なことをしている感じがしない。  
 
『だから、人の身体を勝手に弄るな! このスケベが』  
 
 一ノ葉にしてみれば勝手に身体を弄られているだけ。良い気分ではないだろう。  
 
「それよりこの格好じゃ外歩くのはちょっと難しいかな?」  
 
 初馬は両腕を左右に広げてみた。飾り気のない、半袖の白いワンピース、裸足に室内  
用サンダルを履いていた。サンダル以外は全部術で作ったものである。  
 術で狐耳や尻尾、髪色を誤魔化すのはともかく、白いワンピースのみの格好で出歩くの  
はまずいだろう。格好が不自然すぎて、目立つ。  
 
『またよからぬことを考えているな?』  
「よからぬこと――だなんて心外だな」  
 
 朗らかに告げてから、初馬は両手で印を結んだ。一ノ葉の持つ妖力を利用し術を使うこ  
とも可能だ。正確には一ノ葉に術を使わせているのだが。  
 
「変化!」  
 
 術が発動し、狐耳と尻尾が消え、髪色が濃い茶色へと変化する。  
 術によって作られたワンピースが一瞬で組み替えられ、別の服装へと変化した。  
 淡い水色の半袖パーカーにデニムのハーフパンツという格好。足には白いハイソックス  
を穿いている。表からは見えないが、下着も普通のものからスポーツ用に変化している。  
胸回りと腰回りがぴっちりと引き締められるような感触。  
 右手に具現化させていた赤いリボンで、長い髪の毛をポニーテイルに縛り上げる。これ  
でスニーカーを穿けば、活動的な少女の出来上り。  
 首元のチョーカーは術で見えないようにしてある。  
 封筒を手に取り、財布をポケットに入れ、初馬は玄関に向かった。  
 
『ひとつ訊きたい』  
 
 どこか醒めた一ノ葉の声。  
 
「何だ?」  
 
 玄関に向かいながら促すと、約三秒ほどの沈黙が返ってきた。何か言うのを躊躇うこと  
を思いついたのだろう。その内容は初馬にも想像が付く。  
 意を決したように、予想通りのことを訊いてきた。  
 
『これは何と言うべきか……。貴様、やけに手慣れた手際で、妙に楽しそうにワシの服装  
を変えているが。もしかして、女装願望でも持ってないか?』  
「普段からお前にどんな服着せたら可愛いかなー。とかは考えてる」  
 
 こちらも正直に答える。  
 一ノ葉は自分から人の姿に変化することはない。単純に好き嫌いの問題なのだろう。人  
の姿になる時は、いつも白いワンピース。本人は他の服を着るのが嫌らしい。だが、色々  
な服を着せたら似合うとは常々思っていた。  
 初馬は下駄箱からスニーカーを取出す。時期が来たら一ノ葉に穿かせようと思って買っ  
た物である。結局、一ノ葉になった自分が穿くことになってしまった。  
 スニーカーに両足を通し、爪先で床を叩く。サイズはぴったりだった。  
 
『本当に変態だな……』  
「ありがと」  
『褒めてない』  
 
 一ノ葉の言葉を聞きながら、初馬は玄関のドアを開けた。  
 

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