『メイド・小雪 2』  
 
「違うだろ、小雪。大芝先生のゼミの日は、ぼくはポロシャツを着るんだよ」  
 
朝の着替えの時にそう言うと、小雪は大慌てでまたクローゼットを開けた。  
「申し訳ございません!うっかりいたしましたっ、うっかり、…うっかり?」  
Tシャツの入っている引き出しを開けて、小雪は人差し指をほっぺたに当てて、首をかしげた。  
「そうでございました?」  
 
ぼくがぷっと笑うと、小雪は小さな唇をとがらせた。  
「んもう、おからかいにならないでくださいませっ」  
もちろん、ぼくはゼミの先生ごとに服装を決めたことなどないし、だいたいポロシャツは着ない。  
まったく、小雪はからかいがいがある。  
 
「ごめんごめん、ちょっと困らせてみたかったんだよ。怒ったかい?」  
小さな小雪の頭に手を乗せて、撫で撫でする。  
最初の数日は気づかなかったが、小雪はほんとに小さい。  
子供の頃の担当メイドだった小柄な千里と同じくらいか、それよりちょっと小さいし、細い。  
夏の半袖の制服から出た二の腕なんて、ぼくの手首かと思うくらいか細いし、ウエストなんて本当に内臓が全部入っているのだろうかと思うくらい、きゅっとくびれている。  
 
「そんな、とんでもございません、小雪が直之さまのことを怒るだなんて、そんなふうに小雪のことを・・・、ひどうございますっ」  
「わかったわかった、ごめんよ。知ってるよ、小雪がぼくのこと大好きだってことはさ」  
小雪はぽっと頬をピンク色にして、また唇をちょっとだけ突き出した。  
今日の口紅のツヤツヤした薄いピンク色と頬が同じになった。  
 
ぼくは二十歳の誕生日を迎えて、初めて担当メイドが新人になった。  
今までは年上のメイドばかりで教育される側だったから、今はこの小雪をからかったりちょっとだけいじめたりするのが楽しくてたまらない。  
小雪も真面目な性格だし、ぼくのクセや好みを覚えようと一生懸命だから、何にでも真剣だ。  
 
ぼくがいつまでも小雪の頭を撫でているので、小雪はぼくのシャツを抱きしめたまま居心地悪そうにした。  
「あ、あのっ、直之さま、いつまでも、そのような格好ですとっ」  
「うん?どのような格好?」  
「ですから、あのっ」  
パジャマを脱いだところでポロシャツ騒ぎになったので、ぼくは上半身裸だった。  
「おっ、お風邪を召しますっ!」  
「うん、大丈夫だよ。もう秋だけど、ここんとこは残暑が厳しいし、今も暑いくらいだよね」  
ちょうど、小雪の目の前にぼくの胸がある。  
「で、で、でも、ほら、シャツを。あの、お食事に遅れるといけませんしっ」  
ああもう、このままずっとずっと小雪の頭を撫でていたい。  
「うん、そうだね」  
撫で撫で。  
「それに、あの、あのっ」  
「うん、なんだい?」  
撫で撫で。  
「このまま、このままずっとそうなさってますと…」  
とうとう、小雪は抱きかかえたぼくのシャツに顔をうずめてしまった。  
「うん、ずっとこうしてると?」  
撫で撫で。  
「こっ、小雪の頭がカッパになってしまいますっ!」  
ぼくはのけぞって笑ってしまった。  
 
まったく、小雪には飽きない。  
ぼくは、それなりに小雪を気に入ってきていた。  
 
満足するまで小雪をからかってから、ぼくは余裕を持って朝食の席に着いた。  
父がフォークを取り上げて、食事が始まる。  
「先月までうちにいた、初音だが」  
いきなり父がいいだして、ぼくはオムレツが喉に詰まりそうになった。  
もちろん、食事の席で咳き込むような行儀の悪いことは許されない。  
ぼくは隣にいる兄と同じように、全くの無表情と無関心を装った。  
「そろそろ結納ではなかったかな」  
 
どきっとした。  
もちろん、初音はそのために退職したのだし、結婚を先延ばしにする理由などない。  
相手はいわゆる玉の輿で、三男とはいえ明治維新前からの家柄の息子だ。  
うちと同じように、戦後の財産税や財閥解体を生き残った資産家。  
パンにバターをつけながら、母が満足げに頷いた。  
「初音でしたら、きっと三条のお宅でも気に入っていただけますわね。うちはメイドといっても、どこへ嫁がせても恥をかかない教養を身につけさせておりますもの」  
確かに、うちのメイドたちは仕事の一部として、社交マナーや文化教養の講義を受けねばならないはずだ。  
万一の時は、奥方や令嬢の身代わりもこなし、誰の目に留まって所望されても困らないように。  
初音も、ダンスやお茶やお花に舞踊、英語にいたるまで週に一度はなにかしらを習っていたはずだ。  
三条家の若奥様になったくらいで、困るようなことは何もない。  
「なにかの席で顔を合わせても、もううちのメイドではないからな。三条に失礼のないように接しなければな、直之」  
もちろんわかってる。  
「市武くんは、人柄がいい。初音も安心だ」  
当たり前だ。  
顔がよくたって家柄がよくたって、性格の悪い男になんか、初音をやるものか。  
ぼくは急に食欲がなくなった。  
勝手に席を立つことはできないので、皆が食事を終えるまで適当に食べているふりをした。  
 
まだ、ぼくは初音の名前を聞くと胸が痛んだ。  
ぼくの初音。  
ぼくだけのものだった、初音。  
いまはもう、三条市武さんの初音なんだ。  
 
食堂から出るとき、隣を歩いていた兄がぼくにこっそり言った。  
「私も、七緒が交代した時は辛かったが、今は菜摘に満足しているよ」  
足が止まった。  
日頃、兄弟らしく一緒に遊んだり話をしたりする機会もなく育ったせいか、兄はさほど身近な存在ではない。  
すっかり忘れていたけど、兄もぼくと同じように、ぼくより早く、4人目の担当メイドを使っているのだ。  
もしかして、兄も三人目の、16の誕生日から二十歳までの担当だった七緒に、いろんなことを教わったんだろうか。  
ぼくが、初音に対して抱いたような感情を、七緒に抱いたのだろうか。  
七緒は、兄の担当を外れてしばらくして、一身上の理由で辞職した。  
もしかして、新しい担当メイドである若い菜摘が、兄によって兄好みに教育されていくのを見るのが忍びなかったとか・・・。  
 
ぼくが立ち止まったのを見て、兄が振り返った。  
「おまえ、全くダメでもないんだろ?今夜、部屋に来いよ。たまに話をするのもいいだろう」  
片手でくいっとグラスを傾ける真似をして、兄は正面玄関に向かった。  
父と一緒に出社するために、使用人たちの総見送りを受けて、車に乗る。  
 
兄の話を聞いてみたい、と思った。  
 
「直之、聞いたぞ」  
授業の合間に、聡が声をかけてきた。  
倉橋家の跡取り息子だ。  
向こうは家柄的には格下だが跡取り、こちらは次男ということで、子供の頃からなにかと気が合う。  
「なんだい?」  
「三条の市武さん、婚約したっていうじゃないか。しかも、きみの家のメイドだって?」  
「ああ、それか。でももう退職したからね。うちのメイドじゃないよ」  
せいぜい何気なく、ぼくは笑って言った。  
「ま、三条家も三男だといろいろ自由だよね。で、どうなんだよ」  
「どうって?」  
「その、市武さんの婚約者だよ。どんな人だい?」  
「どんなって」  
最高だよ、と言いたいのを、ぐっとこらえる。  
「うちにもメイドはたくさんいるからね」  
「でも、市武さんが見初めるくらいだから、美人なんだろ?どの子かなあ、ぼくもきみの家のパーティーなんかで見たことがあるかな」  
「…あるんじゃないかな。そういう席には出るメイドだったから」  
初音を人前に出さないで、誰を出すんだ。初音はうちの看板メイドじゃないか。  
看板メイドなんて言葉があるのかどうかは知らないけど。  
だいたい、初音に気がつかないなんて、聡の目は相当なふし穴だ。  
 
「そうか。直之んとこのメイドはレベルが高いからな。なんて言ったっけ、運動会の時にお弁当を持ってきてくれてた」  
いきなり小学校の思い出か、と笑ってしまった。  
「千里かい?」  
「ああ、うん、そうだ。あの人きれいだったよな。ぼくなんかぼーっと見とれてたよ。直之の弁当がうらやましくてうらやましくて。おにぎりがアンパンマンになってたよな」  
聡が本気でなつかしそうなうらやましそうな顔をした。  
そういえば、小学校の運動会は、いつも千里がお弁当を持って応援に来てくれたな。  
ぼくはいっつも徒競走で2位だったけど。  
がっかりして帰ると、千里は僕の頭にキスして、言うんだ。  
 
――直之さまが入賞なさって、千里は、鼻が高うございました。  
 
「千里ならまだうちにいるよ。もうとっくに30越えたけど」  
「いやいや、あの人なら30でも40でもキレイだよ。そうか、まだいるのか。会いたいなあ」  
「なに言ってんだか。ぼくは君のお母さまが来てくれてるのの方がうらやましかったよ」  
聡が階段教室の机に突っ伏した。  
「そんなもんか?君んちくらいになると、奥さまが息子の運動会の応援、ってわけにはいかないのかな」  
それはどうだろう。  
ただ、うちの母がそういう行事を嫌っているだけかもしれないけど、ぼくは笑ってごまかした。  
「はあ、ぼくなんかは三条家の披露宴によばれるかどうか、微妙だよなあ。あ、今度、君の家で交流会をやるときには、千里さんに会わせてくれよな」  
 
市武さんと初音の、披露宴。  
初音の白無垢やウエディングドレス姿は、どんなにかきれいだろう。  
でも、隣にいるのは市武さんなんだ。  
初音はきっと嬉しそうに恥ずかしそうに、市武さんの隣で微笑むんだろう。  
ぼくは、それを見ていられるだろうか。  
 
――初音のことを忘れろとは申しませんが…。  
 
わかってる、わかってるよ千里。  
ぼくだって、三条家の嫁になった初音に良からぬ思いは持たないよ。  
それに、ぼくには小雪がいるから、さ・・・。  
 
「…聡の家にもメイドはいるだろ。人の家のメイドばっかり気にするなよ」  
授業の準備をしながら言うと、聡は自慢の腕時計を見た。  
なんていったかな、大学の入学祝に買ってもらったっていう、どこだかのブランドの。  
「まあな。あ、今年うちに入ったメイド、ちょっといいのがいるんだよ。見に来るか?」  
教室に人が増えてきて、聡が小声になる。  
ぼくが笑っていると、教授が入ってきた。  
 
聡に、絶対に小雪は会わせないでおこう。千里にもだ。  
 
 
「私は、16だったな」  
 
夜になってから兄の部屋へ行くと、兄はぼくを大きな革張りのソファに座らせた。  
なるほど、これが跡取り息子の部屋のソファか。  
大きさとふかふかのクッションに、ちょっと他人事のようにそう思った。  
兄の担当メイドの菜摘が、かいがいしく酒とつまみの準備をしてくれる。  
ぼくと兄は5つ違いだから、兄が二十歳のときに担当になった菜摘は、今22歳。  
5年も担当をしているということは、ぼくと初音より長いわけで、菜摘は兄が目配せ一つしないのになんでも先回りして世話を焼く。  
ぼくの大学の話や、兄の仕事の話なんかをしながら、ぼくもこんなふうに小雪を教育できればいいんだけど、と菜摘の作ってくれた二杯目の甘いカクテルを舐めたところで、兄が言った。  
 
「は?」  
ぼくが顔を上げると、兄はふっと笑う。  
少し長めの前髪の間から、弟のぼくが見てもぞくっとするような色っぽい切れ長の目がのぞく。  
この兄ときたら、眉目秀麗という言葉のために生まれてきたような人だ。  
顔良し頭良し運動神経良し性格良しの家柄良しで、幼稚舎から大学まで、ぼくが後を追って入学するたびに伝説を聞かされた。  
教科書を取り出すそのしぐさすら優雅で品があって、視線を向けられただけで女の子は舞い上がったこと、  
学校中の女の子だけでなく、女教師や生徒の母までを次々と夢中にさせ、  
次々とつきあう女の子を代えたのに周囲の評判を下げず、別れてからも兄のことを悪く言う女の子は一人もいなかったこと。  
 
「女だよ。16で七緒が担当になって、すぐ抱いた」  
「…あ、ああ、そう」  
こういう場合、どういう返事をすればいいんだ。  
ちらっと見ると、菜摘は平然とした顔でチーズを取り分けている。  
「菜摘、直之はゴーダを食べない」  
「かしこまりました」  
ぼくがゴーダチーズを苦手にしているなんて、兄に言ったことがあっただろうか。  
なにかのパーティーや、関連会社の子女を集める交流会の席かなにかで、ちょっと選り好みをしているのを見たことがあるのかもしれない。  
さすが、グループ企業の総帥になろうという人は観察力と気配りが違うと感心してみる。  
 
「まあ、七緒はそういうメイドだし、別にのめりこみもしなかったつもりだが」  
…そういうメイド、っていうのはどういうことだ。  
16からの担当メイドは、そっち方面だけの教育係だとでも言うんだろうか。  
兄ならぼくと違ってメイドに細々と説教されることもなかったかもしれないが、だからって。  
少なくとも、初音は違う。  
ぼくは、初音をそういう、性欲の対象だけのメイドにはしなかった。  
 
ぼくの表情を観察するように見て、兄はまた笑った。  
少しも嫌味でなく、皮肉っぽくもなく、ばかにしたようでもなく、優しい笑み。  
どうやったら、こんな風に笑えるんだ。  
 
「それでも、担当が替わったときは寂しかったものだよ」  
櫛形に切られたカマンベールチーズを口に運びかけた手を止めた。  
兄はウィスキーのグラスを片手で持って、一口飲んだ。  
「今のお前の気持ちがわからないでもない」  
そうだろうか。  
七緒を、『そういうメイド』などと言う兄に小さく失望したぼくは、返事をしなかった。  
「まさか、結婚しようなんて思ってなかっただろうな」  
菜摘が小さなフォークに刺したオリーブを兄に手渡す。  
「そういうメイドにのめりこむ危険はあるからな。従兄弟の涼太郎、あいつが以前、そう言ってごねたらしい」  
涼太郎は父方の従兄弟で、ぼくより二つくらい年上だ。  
でも、二十歳のメイド交代のときにそんなことを言ったとは聞いていなかった。  
恐らく、両親が反対し、本人も納得したのだろうけど。  
もし、ぼくが初音と結婚したいと言っていたら、どうなったのだろう。  
初音は、三条に行かずに、ここにいてくれただろうか。  
 
「あれは、メイドがかわいそうだった。そのまま働くつもりだったのに、いきなり暇を出されたそうだ」  
「え…」  
「主人のわがままが、メイドの人生を変えてしまうということもある。お前は、よく我慢したよ」  
ぼくはちょっとだけ頷いた。  
兄は兄なりに、自分も経験した、二十歳のメイド交代の時期にいる弟を気遣ってくれているのがわかった。  
もし、ぼくが初音と結婚したいと言っていたら。  
初音は三条市武との縁談も破談にされて、ぼくと二度と顔を合わせないようにどこかへやられてしまったのだろうか。  
 
「で、小雪はどうだ?」  
ぼくがぼんやりとカマンベールチーズを咥えていると、兄はまた平然と話題を変えた。  
「小雪?」  
さっき、自分の部屋を出てくるときに、小雪には今日はもういいから自分の部屋で休みなさい、と言い置いてきた。  
スカートの前で手を合わせて、ぴょこんと頭を下げた小雪を思い出す。  
「どうって?」  
気がつくと、兄は隣に座って世話を焼く菜摘の膝をスカートの上から撫でていた。  
「抱いたんだろう?」  
「!」  
ぽろっとチーズが落ちた。  
菜摘がそっと動いて、それを拾う。  
兄の隣に戻ると、また黙って膝を撫でさせている。  
気のせいか、菜摘の目元がとろんと潤んでいた。  
 
なんだ、これは。  
眉目秀麗完全無欠だと思っていた兄が、予想以上の好色らしいという衝撃。  
「いえ、だって小雪はまだ」  
「なんだ、思ったより手が遅いんだな。小雪のあのお前の慕いようは、とっくに済ませたのかと思っていたのに。な?」  
兄が菜摘の顔を覗き込むようにする。  
「正之さまのお手が早すぎるのでございます」  
「そうか?」  
「はい。菜摘など、ご挨拶したその日のうちにお召し上がりに」  
な、なんだ、この主人とメイドの睦言は。  
「それは、お前があまりにおいしそうだったからだな」  
「ま…」  
放っておいたら、このままここで何かが始まりそうで、ぼくは不自然に咳払いし、カクテルをあおった。  
「えー、あー、そうだ、例えば、メイドを躾けるのに、兄さんなりの秘訣とか、そんなのありましたか?参考までに」  
徐々に上がってきた兄の手が、菜摘の太ももを撫でている。  
いいのか、これで。うちの会社は。  
「そうだな。菜摘は飲み込みが早かったし、よく出来たメイドだからな。強いて言えば」  
ウィスキーグラスの氷が、カランと音を立てた。  
「毎回、きちんとイかせてやることかな」  
だめだ、これは。  
兄が真顔でテクニックを語り始め、その間にも菜摘の脚を撫で続け、ぼくは目のやり場に困りながらなんとか話を打ち切って立ち上がった。  
兄が、見送ろうと腰を浮かした菜摘の腕を引いて、自分の方に倒れこませる。  
ドアのところでちらっと振り返ると、酒の入った兄はすっかりその気のようで、菜摘の顎に指をかけてキスしていた。片手は胸をまさぐっている。  
「あん・・・」  
ドアを閉める直前に、聞いたことのない菜摘の声がした。  
 
 
 
まったく、兄の意外な面を見せられたものだ。  
 
体の奥がかっと熱くなった気がする。  
ぼくは兄の部屋に行ったことを後悔しながら、自分の部屋のドアを開けた。  
 
「お、おかえりなさいませ」  
クローゼットを開けてその前に座り込んでいた小雪が、ぼくを見てぴょんと立ち上がった。  
「なんだ、休んでいなかったのか」  
つい今までしていた話が話なので、ぼくは小雪を見るのがちょっと照れくさかった。  
「は、はい。まだお戻りにならないと思っておりましたのでっ」  
「ふうん」  
目をやると、クローゼットの中の引き出しが開いてぼくの服が出ている。  
「なにをしている?」  
「あ、あの、あの、こ、衣替えでございます」  
「こんな季節に?こんな時間に?」  
「う、え、あ、あの」  
しどろもどろになっている。  
主人の留守に、主人の部屋で衣類を片付けたり掃除をしたりするのはメイドの仕事だ。  
だが、どうも様子がおかしい。  
ぼくは小雪の側に寄った。  
「なにをしていたんだ?」  
「あ、あのっ」  
「小雪」  
ぼくは、小雪の頭に手を乗せて、撫でた。  
「正直に言わないと、カッパになるよ。いいのかい」  
小雪が、うう、とうめいた。  
 
「ボタンでございます」  
「ボタン?」  
「はい、今日直之さまのシャツにアイロンをおかけした時に、お袖のボタンがひとつ、緩くなっておりましたのですけれど、後でお付け直しするつもりで、あの、忘れてしまいました」  
なんだ。  
そんなことか。  
隠すようなことでもないのに、小雪があまりにうなだれているので、ぼくの中にちょっといたずら心が芽生える。  
 
「小雪。主人の服のボタンを付け忘れるなんて、とんでもなく悪いメイドだよ」  
「はい。申し訳ございません」  
「もしぼくが緩んだボタンのままそれを着て出かけたらどうするんだ。日中、ボタンが取れて袖口がブラブラするじゃないか」  
「はい。申し訳ございません」  
「小雪はまだ新人だから仕方ないかもしれないが、主人としてはメイドをきちんと躾けなければならない」  
「はい」  
「メイドが粗相をしたら、しかるべきお仕置きも必要だ。わかるね」  
「……はい」  
さて、これから小雪をどうしてやろう。  
 
兄と菜摘の痴態を見せ付けられたばかりだし、これでメイドが初音なら間違いなく「脱ぎなさい」と言うところなのだけれど、どうも小雪にいきなりそれは可哀相だ。  
しかし、二度とボタンを付け忘れたりしないように、しっかり反省させる必要がある。  
ぼくはうつむいた小雪から離れて、ソファに腰を下ろした。  
「こっちに来なさい」  
小雪が、僕の前に立つ。  
「そうだね。歌でも歌ってもらおうか」  
小雪はびっくりしたように顔を上げ、両手で口元を覆った。  
「う、歌でございますか?!」  
「そうだ、なんでもいいよ。歌いなさい」  
耳も首も真っ赤に染めて、小雪は一歩下がった。  
「あ、あのあのあの、直之さま」  
「なに」  
「こ、こ、こ」  
「こ?」  
「こ、小雪は、あの、お、お、お、お」  
「お?」  
「音痴でございますっ!」  
ぼくは、思わず噴出しそうになったのを、ぐっとこらえた。  
「かまわない。歌いなさい」  
小雪は泣き出しそうな顔をしながらしばらく考えて、それでも主人の命令に従った。  
 
「ぽっぽっぽ〜、はぁとぽっぽ〜」  
 
今度こそ、ぼくは噴出した。  
すばらしい選曲センスだ。  
そして、本当に音痴だった。  
「なおゆきさまの、いじわる…」  
最後まで歌ってから、小雪は両手でスカートを握り締めるようにして、顎が胸に埋まってしまいそうにうなだれた。  
 
心ゆくまで笑ってから、ぼくは自分の膝を手のひらで叩いた。  
「わかったわかった、もういいよ。反省しただろ?こっちにおいで」  
小雪ははい、と返事をして顔を上げ、それからちょっと首をかしげた。  
ここに、というのがどこかわからなかったのだろう。  
ぼくはもう一度、膝を叩いた。  
「さ、おいで」  
小雪の顔が、火を噴いたようになる。  
人間の顔というのは、どこまで赤くなれるものなのだろう。  
「そ、そちらでございますか?」  
「何度も言わせるものではない。命令は一度できちんと理解して従いなさい」  
うん、我ながら、いい躾をしてるじゃないか。  
「はい…」  
小雪がぼくの膝の上に、浅くお尻を乗せた。  
体重をかけないようにしているのか、脚がぷるぷると震えている。  
ぼくは小雪のウエストに手を回して、ぐいっと引き寄せた。  
「ひぁっ!」  
思わず出た声を戻そうとするように、口を押さえる。  
膝に乗せてみると、小雪は軽かった。  
見た目どおり華奢な体つきをしている。  
これでは、毎日のハードなメイド仕事はきつくないのだろうか。  
顔を寄せてみると、覚えのある香りがした。  
「あ、あの、直之さまっ」  
「なに」  
後ろから抱きしめて小雪のうなじに軽くキスしてみる。  
胸は、まあ、平らではないかな。  
「あ、あの、小雪は今日はお庭の草むしりなどいたしましてっ」  
「うん。ご苦労様」  
「それから、お廊下の窓拭きなども」  
「そう。大変だったね」  
「で、ですからあの、すっ、少し汗などもかきましたので」  
「今日は暖かかったからね」  
「で、ですからっ」  
「小雪はちっとも汗臭くなんかないよ。いい香りがするくらいだ」  
いやあん、と小さく言って、小雪は今度は両手で顔を覆ってしまった。  
小さな小雪が膝の上で脚をパタパタさせたくらいで、ぼくの腕から逃れられるわけもない。  
 
「ねえ、小雪」  
呼ぶと、小雪はぴたっと動きを止めた。  
回した腕に、小雪の心臓が飛び出しそうにドキドキしているのが伝わってくる。  
そういえば、初音がいなくなってから、もう一ヶ月以上ぼくは禁欲生活をしている。  
小雪はまだ未体験だと思っていいだろう。  
その時は、優しくしてやらないとな。  
「はいっ、あの、大浴場の!」  
「大浴場?」  
「び、備品のシャンプーをっ!」  
緊張のあまり、変なことを口走っているのかと思った。  
ぼくはちょっと考えて、そして理解した。  
住み込みの使用人たちの部屋には、それぞれ簡単なシャワーの設備しかついていない。  
あとは共同の大浴場があって、ゆっくりお湯に浸かりたい時などはそこを利用することになっている。  
小雪はその大浴場にあるシャンプーを使って、髪を洗っているんだろう。  
だから、他のメイドたちとすれ違った時に感じるのと同じ香りがするんだ。  
覚えがあるのは、そのせいか。  
 
「ふうん」  
ぼくはきれいに結い上げて、後れ毛をピンで留めた小雪の髪に鼻をうずめるようにして深く呼吸した。  
「小雪は、どこから洗うの?」  
「は、はっ?!」  
「お風呂で最初に洗うのはどこ、と聞いたんだよ」  
腕に伝わる小雪のドキドキが大きくなる。  
「あの、あの、えっと、かっ、髪の毛でございますっ」  
「それから?」  
「それから、あの、顔を」  
「そして?」  
「そして、あの、う、腕などを」  
「うん、それから?」  
「そ、それから、あの、身体でございます」  
膝の上で小雪がこれ以上ないほど小さく縮こまる。  
わざと何かの間違いのように胸にタッチした。  
「きゃっ!」  
「ここはいつ洗う?」  
「う、え、あ、うう」  
返事が言葉にならない。  
「ボディソープも備品?ぼくと同じ香りにしてみるかい?」  
「え、えええ、ええ?!」  
小雪はぼくの膝の上でパニックになっている。  
それがおもしろくてかわいくて、ぼくは小雪をぎゅうっと抱きしめ、それから解放した。  
 
「ボタンは明日でいいよ。お風呂に入っておやすみ。また明日、起こしてくれ」  
ぴょんとぼくの膝から飛び降りた小雪は、スカートの乱れを手で直しながら、頭を下げた。  
「は、はいっ、では、お疲れ様でございました、おやすみなさいませっ」  
まだ顔を真っ赤にしたまま、ドアのところで、もう一度頭を下げる。  
顔を上げたとき、ぼくは機嫌を損ねていないことを伝えるために、笑顔で手を上げた。  
小雪の顔が、ぱっと明るくなる。  
兄のように視線を合わせる全ての女性をうっとりさせるには程遠いけど、まあ小雪に喜んでもらえるくらいなら、ぼくの笑顔もそう捨てたものではない。  
 
手の中にまだ、小雪の温もりが残っていた。  
惜しいことをしたかな。  
 
――菜摘など、ご挨拶をしたその日のうちに。  
 
兄の担当メイドの、色っぽい目つきを思い出した。  
体の一部が、まだ熱を持っていた。  
 
まあ、いい。  
小雪はまだ子供子供している。  
無理強いするのは本意ではない。  
 
いずれそういう時が来たら。  
 
――――了――――  
 

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