『メイド・小雪 12』  
 
ぼくが大学四年になった春、兄が酒井家のお嬢さんと結婚した。  
 
その準備も式も披露宴も、それはそれは盛大で、屋敷はしばらくの間ひっくり返したような大騒ぎだった。  
義姉になった人は日本人形のようにきれいでおとなしく、ほとんど声を聞くことがないような人だ。  
そのあまりの従順ぶりに驚かされることもあったけど、その度に兄はにっこりと笑ってぼくを見た。  
ぼくはとても、兄のようにはなれないと思う。  
 
そして、兄はその後も度々、菜摘の部屋に通っているようだった。  
 
「はい、小雪」  
父の会社の研修に無理を言って参加させてもらい、一週間ほど留守にして帰ってきたとき、ぼくは小雪に紙袋いっぱいのお土産を渡した。  
「向こうの名物のお菓子らしい。みんなで食べるといいよ」  
新幹線に乗る前に、大急ぎで買ったものではあったけど、小雪は満面の笑顔になって紙袋を受け取った。  
「あ、ありがとう存じます。あの、先だってのお出かけの折も、たくさんチョコレートを」  
「ああ、うん。メイドはみんなお菓子が好きだと思ってね」  
「はい、はい、ですけど、それはそうなのでございますけれども…」  
ぼくの着替えを手伝いながら、小雪が頬を赤らめた。  
「みんなが、あの、直之さまはいつも使用人のことまでお気にかけてくださって、細やかにお声もかけてくださいますし、こうしてお出かけのときにお土産までくださいますし、それに」  
使用人たちがぼくのことをそんなふうに噂しているとは思わなかった。  
ぼくはただ、メイド仲間が珍しいお菓子に喜ぶのを見て小雪が喜んでいるのがわかるから、ただ小雪一人を喜ばせたかっただけなんだけど。  
使用人たちに人気があるかどうかはともかく、ぼくが褒められて小雪が頬を赤くするくらい嬉しいのなら、それでいい。  
「それにあの、直之さまは、このところお顔が」  
「顔?」  
「お、お顔が、とても凛々しくなられて、……素敵ですと」  
スーツの上着とネクタイを受け取ってクローゼットに向かった小雪の背中が、急に小さくなる。  
「顔が変わった?」  
小雪の頭越しに、クローゼットの鏡を覗き込む。  
確かに、ちょっと顔の丸みがなくなってゴツゴツしてきたような気はするけど。  
「小雪は?ぼくが変わったと思う?」  
小雪が小さく小さくぱたぱたっとした。  
「え、いえ、あの、あの、小雪は、あの、こ、こちらに参りましたときから、あの、直之さまは、す、素敵で」  
ぷっと笑ってしまった。  
 
小雪は、今年も桃の節句に誕生日を迎えた。  
ぼくの手作りの三段雛は、小雪が一番長く眺められる場所として、ぼくの部屋に飾った。  
メイドも3年目になり、千里によれば小雪は失敗も少なくなり、真面目で一生懸命な性格はそのままで、安心して仕事を任せられるようになったという。  
相変わらずぼくの前ではあたふたしたり、ぱたぱたしたりしてはいるけど。  
ぼくも、就職活動が本格化し、いろいろ資料を取り寄せたりセミナーに出たりもしているし、その合間に父の秘書に会社の仕事というものを尋ねたり、研修にもぐりこんだり、執事の葛城に家のいろいろなことを教わったりもしている。  
いいとこのお坊ちゃんだから、就職しても使えないだろうとか、兄が優れている分弟は役に立たないとか言われないように。  
 
部屋のドアがノックされ、ぼくが頷くと小雪が行ってドアを開けた。  
葛城康介が、頭を下げている。  
「お尋ねのものをお持ちいたしました」  
すっかり執事見習いも板についた康介が、ちらっと小雪に視線をやる。  
小雪が康介からファイルを受け取って、ぼくのところに持ってきた。  
「ありがとう。…多いな」  
康介が持ってきたのは、今月の交流会への参加メンバーリストだった。  
今までは招待状が来るたびに、なんとなく行くことが多かったけれど、最近は参加者をチェックするようにしている。  
「今泉さんとこはご令嬢だけ、か。跡取り息子は来ないんだな。あそこは最近業績が思わしくないから交流会どころじゃないのか…、少し様子を探りたかったんだけどな」  
「今泉興産の資料は、後ろにございます」  
康介が言い、ファイルをめくると今泉だけでなく、ぼくが動向を知りたいと思っている会社の資料がいくつも閉じこんであった。  
確かに康介はよくできた執事見習いだ。  
将来、屋敷の内政だけを仕切らせるのは惜しいくらいかもしれない。  
康介を下がらせると、小雪はファイルを広げた机の隅に、そっとアイスティーを置いてくれた。  
「ああ、ありがとう…」  
目はファイルを追っていて、小雪がこっそり後ろから覗き込んでいるのにしばらく気づかなかった。  
顔を上げると、小雪はぱっと下がった。  
 
「あ、も、申し訳ございません」  
「ん、いいよ。気になる?」  
「いえ、小雪には、あの、難しいことはちっともわかりませんのですけれども」  
小雪の頬がまた、うっすら赤くなった。  
ちょっと前なら、すぐにぼんっとなったのに。  
小雪が少しずつ大人になっていくのが、嬉しくもあり寂しくもあった。  
「なに?」  
聞くと、小雪がうつむく。  
「と、とても、おきれいな…お嬢さまばかりですので」  
言われて見ると、資料の中には参加者の写真が混じっている。  
「ああ、こういう人たちはね、すごくお化粧してるしきれいに見えるように服も選んでるからね。本物より良く映ってるんだよ」  
「……さようでございましょうか…」  
「小雪のほうがかわいいよ」  
ファイルの中身の方に気が行っていたので、言い方が少しおざなりだったかもしれない。  
小雪が敏感にそれを察知して、小声で呟くように言った。  
「……でも、小雪は、こんなきれいなお洋服を着ることはございませんので…」  
小雪が、そっと下がる気配がした。  
自然と目がファイルにもどり、内容に集中していく。  
康介の揃えてくれた資料は、ほぼ完璧だった。  
こういう資料は、どういった視点で集めるといいんだろう。  
どのように調べて、どのようにまとめるのがいいのか。  
その方法を、学びたい。  
わずかな葛藤のあとで、ぼくは個人的な感情を押し殺すことに決め、顔を上げて振り返った。  
少し離れて立っていた小雪が言った。  
「康介さんを、お呼びしてまいりましょうか」  
 
呼び戻した康介から、リサーチやマーケティングなどについて教わる。  
屋敷の内部を取り仕切るだけが執事の仕事ではないと改めて驚くほど、康介は何を聞いても的確な答えをくれ、ぼくはあら捜しをして文句を言うこともできず、資料を睨みつけていると康介が付け加えた。  
「明日にも東証の追加資料をお持ちいたしましょう」  
執事見習いに完敗だ。  
小雪は康介に教えられたり間違いを正されたりしているぼくを見て、幻滅してはいないだろうか。  
資料に書き込みをしていると、ひととおり質問に答えた康介がさしでがましいかと存じますが、と断ってから言った。  
「旦那さまが先ほどお帰りになりまして、お風邪を召されたようで侍医の中村先生をお呼びいたしました」  
顔を上げる。  
父が風邪を引いて仕事を切り上げるというのは珍しい。  
ふうん、と聞き流そうとすると、康介が声を落とす。  
「お見舞いにいらっしゃいませ」  
びっくりして康介を見る。  
父はお元気な方だから、病気らしい病気で寝込んだことはない。  
多少の体調不良や疲労はあったかもしれないが、ぼくもわざわざ見舞うなんてことはしたことがない。  
「いや、静かに寝ていた方がいいんじゃ」  
「若さまはまだお戻りではございませんが、ご帰宅なさいましたらお見舞いなさるでしょう。お先に参られませ。体調の良くないときは心細いものでございます」  
康介の顔をまじまじと見てしまった。  
なにかたくらんでいそうな目で、康介は力強くぼくに頷いて見せた。  
思わず、聞いてしまった。  
「お前って、けっこう策士?」  
康介は器用に片方だけの眉を上げた。  
「そうでございましょうか?」  
どうも、康介にはかなわない。  
 
風邪がよくないらしく、翌日の朝食の席に父はいなかった。  
確か今日はどこだかの家でのパーティーに招待されており、父と母が出席するはずだったが。  
母は仲のよいご夫人方が多く集まるといかで、張り切ってドレスを新調していたのに。  
「お父さまはご無理なようですから、今日はお早くお帰りになって直之さんがご一緒してくださいね」  
ぼくは思わずフォークで刺しそびれたミニトマトをテーブルに転がして、母に軽く睨まれる。  
「ぼくが…ですか」  
だいたいパーティーなんかに招待されて、行けなくなったから代理が行くなんてことは普通ない。  
それにどうしてもということになっても、兄がいるではないか。  
「直之さんも、ずいぶん大人な行動ができるようになったようでございますし、こういう機会もよろしゅうございましょう」  
それが、昨日父を見舞ったことに対する褒め言葉だと気づくのに少しかかった。  
悔しいことに、康介のおかげだった。  
「あちら様が、ぜひ直之さんをとおっしゃいましたの。近頃ずいぶんと評判がよろしいようで、噂のご次男を隠しておかずにお披露目なさいませと」  
……そんな評判、聞いたことがない。  
ぼくの顔が気乗りしないように見得たのだろう、ごく親しい人が集まるブッフェスタイルだから、気楽に参りましょうと母が言った。  
きっと、仲の良いご夫人がたくさん集まるのに自分だけ欠席するのは悔しいのだろうなと思うと、根っからのお嬢さま育ちの母がかわいらしく見えた。  
 
急なことだったので、小雪は大慌てで準備を始めた。  
それでも小雪がぼくの担当メイドになってから様々なパーティーに出ているから、小雪も仕度に慣れてきているようで、母のメイドにドレスコードや母のドレスの色を確認して、クローゼットから衣裳を取り出している。  
大学から帰って着替えると、小雪がほう、とため息をついた。  
「あの、あの、小雪は、直之さまは、夜のブラックタイのお衣裳が、一番お似合いで、素敵なようにお見上げいたします…」  
ぼくは、前からも後ろからもくるくると回って装いが完璧なのを確かめた小雪の頭に、ぽんと手を置いた。  
「パーティはあんまり好きじゃないよ。エスコートするのが小雪だったらいいんだけどね」  
小雪はちょっと笑って、首をかしげた。  
「行っていらっしゃいませ…」  
 
パーティー会場に着くと主催者と主賓に挨拶をし、母に引廻されるようにあちこち紹介された後で、ようやく母と離れた。  
それでもボンヤリしているわけにもいかず、たわいのない世間話や、重過ぎない時事問題なんかで人の間を泳ぎまわる。  
車の中で、急いで康介が準備してきた参加者の資料に目を通したのが役に立つ。  
まったく、悔しいくらいに気の回る執事見習いだ。  
相手の肩書きや趣味に合った話題を頭の中から引き出しては社交辞令を並べるといったことを繰り返していると、一人の背の高い男性が目の前に立った。  
「お久しぶりです」  
三条市武さんだった。  
相変わらず穏やかな微笑みを浮かべている市武さんの差し出した手を握り返して、ぼくも微笑んだ。  
「交流会でお会いできなくなりましたから。お元気そうですね」  
ぼくが出席するような交流会は独身者限定だから、市武さんが結婚したあとは顔を合わせる機会がなかったのだ。  
「ええ。正之さんのご結婚、おめでとうございます」  
「ご丁寧に、ありがとうございます…」  
市武さんがここにいるということは。  
作り笑顔で談笑しながら、視界の端で会場の中を探す。  
「…妻とも話をしてやってください」  
市武さんが、そう言ってちょっと片手を上げる。  
視線を追うように振り向いた先に、笑いさざめく女性たちがいた。  
その着飾った夫人たちの間から、一人の夫人が出てくる。  
ぼくは思わず目を細めた。  
藍色のドレスに身を包んだ初音は、子供を産んだというのに少しも以前と変わらない。  
いや、子供を一人産んだ後が女性は一番美しいともいうらしい。  
毎日見慣れていたはずの初音が、まぶしいほどきれいになっていた。  
 
市武さんが初音の耳元で何かささやき、別のお相手を見つけたようにその場を離れていった。  
初音は、ぼくを見上げた。  
「お久しゅうございます」  
「……お変わりなく。奥さま」  
少しはにかんだように、初音が笑った。  
その笑顔も、少しも変わらない。  
「なんだか、恥ずかしゅうございます。直之さまに、そう呼んでいただくと」  
ちらりと周りを確認する。  
みんなあちこちで話に花が咲いているようで、ぼくらの会話に聞き耳を立てている様子はなかった。  
「さま、なんて呼んじゃいけないじゃないか。こっちはただの冷や飯食いで、初音は三条家の若奥さまなんだからさ」  
くすくす、と初音が笑う。  
「……なんだかおかしなもので」  
「元気?坊ちゃんは大きくなっただろ?市武さんは少し太ったね。初音はすごくきれいになった」  
声を落として、早口で言う。  
「直之さま」  
初音が、ぼくを見ている。  
「ご立派に、おなりですね」  
「……え?」  
「正之さまのご結婚の折に、もっぱら噂でございました。昔から評判の高かったご長男はともかく、会長はもうひとり優秀なご子息を隠しておられたのだと」  
ぼくのことを?  
初音が、にっこりした。  
「嬉しゅうございました。初音は、鼻が高うございます」  
目頭が、熱くなった。  
「……ぼくが、ぼくがもし少しでも誰かから誉められるようなことがあるとすれば、それは初音のおかげだよ」  
初音がいなければ、今のぼくはいない。  
「そのようなこと。決して、人様の前でおっしゃってはいけません」  
「そんな規則があったかな」  
初音が、ぷっと吹き出し、ぼくも笑った。  
「わたくしの息子が、直之さまのように育つとよろしいのですけれど」  
「ぼくのように?だめだよ、お兄さまのようにならいいけどね。ぼくなんか」  
冗談めかして言うと、初音は真顔で首を横に振った。  
「直之さまのように。やさしくて、思いやりのある、元気な子に育ってくれればと思います」  
返事が、できなかった。  
やさしくて、思いやりがあって、元気で。  
「……そんなの、市武さんにそっくりなだけじゃないか」  
気のせいか、初音の目元が潤んでいる。  
ぼくはそれに気づかないふりをした。  
「…まあ、そうでございました」  
くすんと鼻を鳴らして、初音がそう言った。  
みんな、初音がぼくの家のメイドだったことを知っている。  
こんなところで三条の若奥さまを泣かせたなんてことになったら大変だ。  
「幸せなんだよね?」  
無粋なことに、確認するように聞いてしまった。  
いくら初音が市武さんに愛されていて、よくできた若奥さまだとしても、意地悪な人間はいる。  
噂では、奥さまにも気に入られていて評判はいいと聞くけれど、辛いこともあるだろう。  
三条さんは公家の流れだし、しきたりもうち以上にうるさいに違いないから。  
初音は、黙って頷いた。  
「二人目ですの」  
そっとお腹に当てた、メイドの重労働から開放された、白い華奢な手。  
「……そうなんだ」  
市武さんは案外仕事が早い。  
初音が、誰かに向かって会釈をした。  
少し離れたところで、母がぼくを呼んだ。  
二人きりで少し長く話しすぎたかもしれない。  
「今夜、直之さまにお会いできるとは思っておりませんでしたので…大変嬉しゅうございました」  
「……うん。ぼくも、初音に会えてよかった」  
母の方へ歩き出しながら、ぼく振り返った。  
初音はもう、白髪交じりの紳士と話をしていた。  
 
その後、母とご夫人たちに囲まれて作り笑顔が固まる頃、パーティはお開きになった。  
帰りの車の中で、母はぼくの評判が良かったと満足そうだった。  
「……不肖の息子が、ご迷惑をおかけしていなければ幸いです」  
少し卑下して言うと、母は目を丸くした。  
「なんですの。わたくしには自慢の息子が二人いるだけですよ」  
自分の顔が熱くなった。  
小雪じゃあるまいし、と思いながら、母に赤くなった顔を見られないよう、窓の方を向いた。  
康介の下準備によるところは大きいと思いながら、兄びいきだと思っていた母に評価されたのが嬉しかった。  
初音のおかげだよ、と言った自分の言葉を思い出した。  
どうしても、兄と義姉、市武さんと初音の二組の夫婦を比べてしまう。  
義姉はいつも微笑んでいるけれど感情の出ない人だし、兄はいつも笑顔だ。  
市武さんも初音も笑顔だけど、兄夫婦とは違う気がする。  
菜摘のことがあるから、兄に批判的になってしまうのかもしれないけれど、初音はほんとうに幸せに見える。  
きっと、ぼくでは市武さんのように初音を微笑ませることはできなかっただろう。  
ぼくは、いつかあんなふうに自分の妻を幸せにできるだろうか。  
ぼくが初音に抱いていたのが恋心だったのかどうかがわからない。  
でもたぶん、今ぼくが小雪に向けている思いとは違うな、ということだけはわかる。  
だから、初音はぼくから離れて行ったのではないだろうか……。  
車の中で満足げにパーティで仕入れた噂話のおすそ分けをしてくれる母に相槌を打ちながら、ぼくはそんなことを考えながら眠くなってきていた。  
やはり父の名代ということで気が張っていたのだろうか。  
帰宅して部屋に戻ると、すぐにベッドに倒れこむようにして眠ってしまったくらいだ。  
朝、腕の中にいた小雪がそっとベッドを抜け出したことにも気づかなかった。  
休みの日でないと、小雪は朝早く自分の部屋に戻って髪を結いなおしたり、きれいなエプロンに取り替えたりしてくる。  
ぼくの部屋で身支度すればいいのに、と言ったことがあるけれど、恥ずかしいらしい。  
戻ってきた小雪に起こされるまで眠って、ぼんやりしたまま着替えをする。  
大学のことも、就職のことも、社交や人間関係や将来のこと、考えなければいけないことが溜まっていた。  
ぼくが無口だと小雪も無駄なことは言わない。  
髪を整えながら鏡越しに見ると、小雪の表情が少し違う。  
呼んで近くに来させ、じっと見つめる。  
「ね。なにかあった?」  
小雪はびっくりした顔になった。  
「え……」  
「変な顔してるよ」  
「そ、そうでございますか?」  
小雪が両手で頬を挟んだ。  
そのまま、ちょっと考える。  
「あの。直之さまに申し上げるようなことではないかと、あの、でも」  
やっぱり、なにかあるらしい。  
ぼくは自分のことでいっぱいになってしまうと、小雪のことまで気が回らなくなる。  
気づいてやれてよかった。  
「うん?」  
朝食までにはまだ少し時間がある。  
ぼくはソファに腰を下ろして、小雪を自分の膝の間に引き寄せた。  
「あの、小雪はさきほど自分のお部屋に戻ったのでございますけれども、その時に、あの、母屋からの渡り廊下で、わ、若旦那さまにお会いいたしました……」  
どうやら、母屋と使用人の棟をつなぐ渡り廊下で兄さんとすれ違ったらしい。  
早朝、母屋から別棟に向かうメイドと別棟から母屋に向かう総領息子。  
どちらも気まずいだろうが、問題はそこじゃない。  
間違いなく、兄は菜摘の部屋から戻る途中だったのだ。  
「そ、そのあとこちらに参りますときに、今度は菜摘さんと一緒になりまして」  
小雪がうつむく。  
「ほんとうは、お廊下でおしゃべりをいたしましてはいけないのでございますけれど、あの」  
 
小雪の話を聞いて、ぼくは途方にくれた。  
今のぼくにはどうにもできないことだった。  
小雪を元気付けることもできないまま、ぼくは今日はゼミの食事会があるからと、康介の運転する車で大学に向かう。  
康介は車に付属する部品のように気配を消して、運転していた。  
途中、昨日のパーティに出かける前、康介が急いで準備した出席者の資料を渡してくれた事を思い出す。  
おかげで、話題に困ることもなく父母の顔を潰さないよう立ち振る舞うことができた。  
康介にその礼を言うと、バックミラー越しにちらりとぼくを見た。  
「お役に立てましたならよろしゅうございました」  
ぼくが話しかけたことで車内の空気が少し変わったのか、康介が少しお話してもよろしいでしょうかと聞いた。  
「……どうも、担当メイドから父のほうに苦情があったようです。まだ千里さんが話を止めているようですが、旦那さまのお耳に入るようですと、困ったことになりますかと」  
前置きもなく、わざと主語をはぶいているから、わかりにくかった。  
「なんの…」  
聞きかけて、さっき小雪から聞いたばかりの話を思い出した。  
それがもう葛城のところまで上がっているとは。  
「……これは葛城にはまだ言うなよ」  
「はい」  
「今朝、小雪が菜摘から聞いたそうだ。暇を願い出ていると」  
ミラー越しに康介と目が合う。  
「それは、菜摘が申しましたのですか」  
「菜摘は小雪と仲がいいんだ」  
「…さようでございましたか」  
今朝、小雪が言いにくそうにぽつぽつと話してくれた。  
――留美さんから、お話があったそうなのでございます。  
留美というのは、義姉が実家から伴ったベテランのメイドだ。  
小雪ははっきり言わなかったが、恐らく菜摘は留美から「若旦那さまをたぶらかすな」くらいは言われたのだろう。  
新婚の兄がたびたび担当メイドの部屋に泊まるのを、義姉に隠せるはずがない。  
菜摘ならきっと、兄夫婦の関係にこれ以上亀裂が入る前に身を引こうと考えるだろう。  
あんなに兄を想っている菜摘の気持を考えると胸が痛い。  
――でも、お許しがいただけませんとのことで。  
兄は、何を考えているのだろう。  
康介は眉間にしわを刻んだ。  
「父に聞きましたのは、留美さんのほうからのお話でした。菜摘本人がそのように考えているとは存じませんでした」  
ぼくは、後部座席から身を乗り出す。  
「康介。菜摘にいいように、取り計らってくれないか。なんとか」  
具体的にどうとは言えないまま、康介に頼み込む形になってしまった。  
自分の非力さに嫌気がさす。  
康介は、できるだけ善処いたしますと政治家みたいな言い方をして、車を校門のそばで止めた。  
「坊ちゃまは、小雪のほうを」  
ドアを開けてもらって降りたところで、そう付け加える。  
ここで康介に腹を立てている場合ではない。  
 
以前、小雪がいきなり泣き出したことがあった。  
千里の助言で、ぼくはその理由を問いただすことはしなかったけれど、あれはいつだったろう。  
ちょうど、兄が交流会やパーティで婚約者を探し始めていた頃ではないだろうか。  
兄のことだ、平気でその話を菜摘にしていたのかもしれない。  
小雪と菜摘は仲がいいから、もしかして菜摘が小雪に話したかもしれない。  
小雪は、兄を慕いながら、兄の結婚生活を見守り、兄に仕え、気まぐれに相手をされている菜摘を見て、どう思っていたんだろう。  
ぼくは兄と同じようにはならないと思っていたけれど、小雪は菜摘の姿を自分に重ねていたんじゃないだろうか。  
だから、小雪は、直之さまにお嫁さまがいらしても、小雪をずっとお仕えさせてくださいませと言っていたのだ。  
菜摘が暇をとると知って、どんな気持でいるだろう。  
ぼくはその夜、ゼミの教授の隣でじりじりしながらビールを注ぎ、二次会を断って帰宅した。  
 
出先からタクシーで帰宅すると、出迎えてくれた小雪の目が真っ赤だった。。  
「小雪?!どうした?なにがあった?」  
とりあえず部屋まで戻って、小雪を問いただすと、小雪は立ったままぽろっと涙をこぼした。  
「な、菜摘さん、が」  
ソファに座らせて顔を覗き込むと、小雪はひっく、としゃくりあげた。  
「お、お、お暇を…」  
「え」  
「あの、あの、お夕食のときに、急にみなさんにご挨拶をとおっしゃって、もうお荷物もまとめておいでですとか、さきほど康介さんが送って行かれました……」  
康介も頼みがいがない。  
かといって、義姉側にも夫とメイドとの関係を認めろというわけにもいかず、苦情が出たのにそれを知らんふりというわけにもいかず、菜摘の立場は崖っぷちだったのだ。  
「菜摘にはかわいそうなことをした……。責められるべきは、兄さんなのに」  
小雪の背中をなでてやりながらそう言うと、小雪は小さく首を横に振った。  
「そんな、若旦那さまがいけないというようなことなど、そんな」  
ここでぼくが兄に嫌味や文句のひとつも言ったところで、もう菜摘は帰ってこないだろう。  
小雪に聞かせるべきかどうか迷ったが、ぼくは康介に戻ったら部屋へ来るように伝えてもらった。  
朝早くに菜摘から辞職の意思を聞いて、夕方には見送らねばならなかった小雪もかわいそうだ。  
メイドたちは噂話が大好きだから、悪く言う者もいたかもしれない。  
きっと菜摘は言葉少なに、そっと出て行っただろう。  
そんな日に、ずっと家に帰らず小雪に心細い思いをさせてしまった。  
「……小雪は、心配しなくていい」  
一生懸命涙を飲み込もうとしている小雪の肩を抱いて、ぼくはそう言った。  
そう言うのが、精一杯だった。  
その時、部屋のドアがノックされて、小雪が飛び上がった。  
開けたドアから、康介が入ってくる。  
気のせいか、朝より疲れた顔をしていた。  
小雪にちらっと視線をやってから、口を開く。  
「菜摘のことでございましょうか」  
頷くと、康介は前で合わせた手を組み替えて姿勢を正した。  
「菜摘は実家が遠うございますし、当てもないとのことでございましたので、とりあえず葛城の家へ預けました」  
「葛城の?」  
確か、康介は屋敷に住み込んでいるけれど、父親の葛城は通いだったはずだ。  
「父が執事組合の方へ問い合わせたりもいたしまして、次の勤め先を探すつもりではございますが、それまでは少々病気がちな祖母もおりますし、手伝ってもらうつもりでおります」  
菜摘の実家が遠いというのは知らなかったが、葛城が手を回してくれなければ菜摘は危うく放り出されるところだったのだと思うと、また兄に腹が立った。  
「そうか。ただの居候より菜摘も気が楽だろうな。…ありがとう」  
ぼくの顔色を見ていた康介が、出すぎたことと存じますが、と付け加えた。  
「世間的には、奥さまのあられる主人と通じたメイドの方に非がございます。そこのところをお忘れになりませんよう」  
視界の端で、小雪がびくっと震えた。  
確かに、康介のほうが正しい。  
ここでぼくが感情に任せて兄をなじったところで、どうにもならないのだ。  
ぼくにはどうすることもできなかった。  
ぼくは、非力だ。  
それでも。  
「兄さんに、訪ねると伝えてくれ」  
康介は、なにか言いたそうに口を開いたが、そのまま黙って出て行った。  
小雪が不安そうにぼくを見ている。  
「小雪は、心配しなくていい」  
もう一度繰り返すと、小雪はすっとうつむいた。  
はい、とは答えてくれない。  
「ぼくが、信用できないのかい」  
近づいて、肩に手を置くと、首を横に振った。  
「そ、そのような、あの。あの……」  
心配するなとは言っても、なにか考えがあるわけではない。  
ぼくは小雪の顔を覗き込むと、その柔らかいほっぺたにキスをした。  
「ごめん、ぼくは菜摘には何もしてやれないかもしれない。でも、小雪には同じ思いはさせないから」  
小雪が、目に涙を浮かべたままけなげに微笑む。  
肩に置いたぼくの手に、そっと自分の小さな冷たい手を重ねる。  
「小雪には、…難しいことはわかりませんのです…」  
どうにかしてくれと言えば、メイドとして出すぎた発言になると思うのだろう。  
ぼくは、兄のところへ行った康介が戻ってくるまでの間、ずっと小雪を抱きしめていた。  
緊張していた小雪の冷たい手が暖まり、小刻みな震えがおさまるころ、康介は兄の許可を持って帰ってきた。  
 
兄は、部屋に居た。  
「どうした。めずらしいな」  
いつものように、にこやかに兄が迎えてくれた。  
隣に、口元だけを柔らかくした日本人形のようにきれいな義姉。  
ドアを開けたのは、同じように愛想よく微笑む義姉のメイドの留美。  
この留美が、菜摘に苦情を言ったのだ。恐らく、義姉の代弁で。  
そう思うと、みんなが感情を微笑みに隠しているように見えてきて、不愉快だった。  
兄は続き部屋になっている書斎へぼくを招き入れ、義姉も留美も下がらせた。  
「……菜摘だろう」  
意外にも、兄はつまらなそうに洋酒の瓶を取り出しながら、そう言った。  
「まさか、こんな急に出て行くとは私も思わなかった」  
グラスに氷を入れて、酒を注ぐ。  
「お前から見たら、腹立たしいだろうな」  
腹立たしいです、ひどいです、冷たすぎます。  
そう言ってやりたかった。  
でも、兄は今までに見たことがないような覇気のない顔をしていて、ぼくは何も言えなくなった。  
「お前は、私がただ性欲で菜摘を抱いていたと思っているだろうな」  
「……」  
「…なんとも思っていなかったわけではないよ」  
ぼくの前にも、グラスを置く。  
「だが、菜摘を妻にしようという気は全くなかった」  
「どう……」  
「どうして?お前だって勉強しているだろう。うちと酒井の結びつきが強くなったことでビジネス上でどんな変化があったか」  
たしかにそれは兄の言うとおりで、返す言葉がない。  
「だから、菜摘にはもっと働きやすいところへ世話するか、うちに残ったとしてもいずれ担当を外して一般職で働かせるのがいいのだろうと思っていたんだよ」  
兄は、うっすらと笑いながら、脚に肘をつくようにして前かがみになった。  
「でも、できなかったな。私のわがままだ。菜摘を、手放したくなかった」  
急に、心臓がばくばくしてきた。  
今、ぼくは兄の本音を聞いているのだ。  
「菜摘がそれでいいと言ってくれたから、甘えてしまった」  
グラスに口をつけ、それを一度おいて酒を注ぎ足した。  
いつも何も言わなくても、菜摘が好みの濃さで作ってくれていた水割りを思い出しただろうか。  
「妻にも、甘えたんだな。気づいていないはずはないのに」  
兄が小さく見えた。  
いつも、完全無欠な存在としてぼくの前を歩いていた兄が、菜摘を失って肩を落としている。  
「七緒が辞めたときもこたえたが……比じゃないな」  
そういえば菜摘の前の兄の担当メイドも、交代のあとで辞職している。  
寂しかった、と聞いたことはあるけれど、気持を隠していたんだろうか。  
「……葛城が預かっているようですよ」  
ひどい、冷たいと責めるつもりで来たのに、なだめるような事を言ってしまう。  
兄は黙って頷いた。  
空になったグラスに水割りを作って差し出すと、持ち上げて氷を揺らす。  
「どうも私は女を不幸にする。同じ轍を踏むなよ、直之」  
「……いえ、あの」  
返す言葉が見つからず、なにしにやってきたのかわからなくなる。  
兄はそんなぼくを見て、やっとちゃんと笑った。  
手をつけないぼくのグラスを指差して勧められ、ぼくはようやく少し薄いその水割りを飲んだ。  
兄は、空になったグラスといつまでも向き合って、ぼんやりしている。  
気のせいか、そらした目が光っている。  
泣くほど辛いなら、菜摘を手放さなければ良かったのに。  
そう考えてしまうのは、ぼくが次男である気楽さなんだろうか。  
総領息子として、グループ企業会長の跡取りとして、兄にはそんな自由がなかったんだろうか。  
完璧だと思っていた兄の、はじめて見た姿だった。  
それでも兄はいつか、菜摘のことなど忘れてしまうんだろうか。  
菜摘は、いつか兄を忘れられるのだろうか。  
 
ぼくは。  
 
兄の部屋を出ると、廊下に康介がいた。  
ぼくを見て、ほっとしたような顔をする。  
「殴り合いでもしてくると思っていたか?」  
聞くと、首を横に振った。  
「一方的な方を心配していました」  
ぼくが、兄を殴ってくると思ったのか。  
「……小雪もここでお待ちすると言ったのですが、お部屋で待たせました。お送りしましょうか」  
「いいよ」  
康介が腰を折り、ぼくは自分の部屋に向かって歩き出そうとして、振り返った。  
「康介。もし将来、ぼくが分家を許されるようなことでもあったら、お前、一緒に来てくれるか?」  
顔を上げた康介が、かすかに笑ったように見えた。  
「参ります」  
即答だった。  
十年か二十年かそれ以上先に、もしそんなことになったとしても、ぼくには心強い右腕がいることになる。  
それでもぼくは、ぼくの未来の執事(仮)に、釘を刺しておいた。  
「でも、小雪はだめ」  
 
声を殺して笑う康介をそこに残して、ぼくは小雪の待つ部屋に帰った。  
不安そうな顔をしていた小雪を、力いっぱいぎゅうっとした。  
ごめん、小雪。  
やっぱりぼくは、菜摘になにもしてやれなかった。  
兄に文句のひとつも言ってやろうと思ったのに、それさえできなかった。  
「…にゃ、なおゆひさま…」  
ぼくの腕の中で、小雪が苦しそうにしたけど、ぼくは力を緩めなかった。  
まだまだぼくはなにもできないけど。  
「……小雪は、心配しなくていいからね」  
ぱたぱたしていた小雪が、動きを止めた。  
「……え、あの」  
「いいかい、小雪は、小雪のことは心配しなくていい。ぼくは、兄さんとは違うんだ」  
「あ、あの」  
「決めたんだ。だから、小雪はだいじょうぶだ」  
そうだ。  
ぼくは、決めた。  
小雪は、小雪だけは守る。  
「……はい」  
 
小雪を抱きしめたままソファに腰を下ろし、倒れこんできた小雪を膝の上に抱きなおした。  
今日は疲れた。  
「なんか……、兄さんと対決してぐったりだよ」  
「まあ、あ、あの」  
「小雪も今日は疲れたよね。朝からいろいろ心配しっぱなしだったろ」  
「……い、いえ、あの」  
「ごめん」  
「え、え、え、あのっ?」  
「心細いときに小雪のそばにいてあげなくて、ごめん。友だちとご飯なんか食べてきて、ごめん。兄さんに文句も言えなくて、ごめん。なにもしてあげられなくて、ごめん。もうぼくに愛想がつきたかい?」  
小雪が、膝の上でぱたぱたする、いつものその仕草が、ぼくを日常に引き戻してくれる気がした。  
「いえいえ、そ、そんな、とんでもございません、あのっ」  
小雪があたふたするので、なんだかおかしくなった。  
おかしいのに、なんだろう。  
目からなにかが出る。  
「な、直之さま……?」  
「あれ、どうしたのかな。水が」  
小雪がエプロンから出したハンカチで拭いてくれた。  
あんまり自分が無力で、泣けてきた。  
ハンカチを握ったまま、小雪がぼくの首に腕を回してくれた。  
 
「あ、あの、あの……お子さまのようでございますね……」  
「……うん」  
小雪の柔らかな髪が鼻をくすぐる。  
うなじに顔を押し付けるようにして、ぼくは小雪を抱きしめた。  
「子どもっぽいのは、嫌いかい?」  
「い、いえ……、で、では、今日は、こ、小雪が直之さまをぎゅうっとしてさしあげます」  
「ん?」  
「な、直之さまが、今日はお子さまなのでしたら、あの、小雪が、あの」  
ぷっと笑ってしまった。  
それもいい。  
自分の非力をかみしめながら、無力な子どものように、小雪にぎゅうっとしてもらおう。  
 
ぼくベッドの中で小雪にぎゅうっとしてもらった。  
小雪の腕枕で、細い腰に腕を回して。  
ぼくと同じボディソープの香りがする胸に顔を寄せてみる。  
小雪はぼくの頭の後ろにを撫でて、ずっと抱いていてくれた。  
自分だって、辛いだろうに。  
こんな情けないところを全部さらけだしてしまって、小雪に呆れられたりしないだろうか。  
とろとろと眠気に身を任せながら、ぼくは小雪にお願いした。  
小雪は、ずっとこうしてぼくのそばにいておくれね。  
それが頭の中で考えたことなのか夢で言ったのか、ほんとうにつぶやいたのか。  
――――小雪を、ずっとおそばに置いてくださいませ。  
そう聞こえたのも、夢なのか。  
――――直之さまにお嫁さまがいらしたら、小雪はお邪魔をいたしませんから。  
――――奥さまに嫌われないようにいたしますから。  
――――ですから、小雪にお暇を出さないでくださいませ……。  
夢の中で、小雪がそう言っている。  
涙を浮かべて、ちょっとだけ微笑んで、そう言っている。  
ばか。  
心配しなくていいって言ったじゃないか。  
 
――――同じ轍を踏むなよ。  
 
ぼくは、小雪の暖かで柔らかな胸に抱かれて深い眠りに落ちた。  
 
――――了――――  
 

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