『メイド・小雪 14』 
 
小雪が泣きながらぼくのプロポーズを受け入れてくれた翌日、ぼくは父の書斎を訪ねた。 
次々と持ち込まれる縁談を断ってもらうため、小雪との結婚を許してもらうため。 
厳しいことを言われるのを覚悟していたぼくに、父は穏やかに頷いた。 
「小雪は、うちで躾けたメイドだ。不足があるはずがない」 
反対されたら小雪を連れて家を出ようとも思っていたぼくは、意外さにぽかんと口を開けてしまった。 
それから父は小雪を呼ばせ、緊張で真っ青な顔をした小雪が、ぼくの隣に座って震えた。 
当主の書斎の客用のソファで、いつもより一回り小さくなっている小雪に、父は優しい声で二つの条件を出した。 
 
ぼくが内定を取った会社で1年か2年働いて、本社か系列会社に移動してくるまでは婚約発表はしないこと。 
婚約発表までは今までどおりぼくのメイドとして勤め、他言無用のこと。 
 
そして、ぼくに。 
「小雪が私をお父さまと呼んでくれるのがいつになるかは、お前しだいだ。がんばりなさい」 
ぼくらは揃って父に何度も頭を下げ、廊下に出たところで小雪は腰を抜かして座り込んだ。 
緊張の糸が切れ立とうとしても立ち上がれない小雪に手を貸して、ぼくも泣き笑いになった。 
 
ぼくは、ぼくは小雪をお嫁さんにするんだ。 
 
 
 
春、大学を卒業してぼくは無事に社会人になった。 
毎日、朝早く出かけて満員電車に揺られ、会社では同期の女の子と一緒に掃除をして、先輩にくっついてお得意様を回り、 
途中でラーメンやカツ丼でお昼を取り、会社に帰るとまとめて事務処理をし、出来が悪いと叱られ、残業したり、 
ときには先輩に連れられて居酒屋に行ったりする毎日。 
正直、疲れる。 
それでも、新しいことを覚えるのは楽しかったし、会社が大きくないぶん他部署も含めて先輩も同期も仲が良い。 
初夏の誕生日の頃までには、ぼくはすっかり中小企業の新入社員が板に付いてきた。 
朝には洗い立てのパリッとしたシャツを着せ掛けてくれる小雪も、ぼくの帰りが遅くなっても部屋で待っていて、 
少しお酒を飲んできた日には軽い軽食を用意してくれたり、お風呂もすぐに入れるようにしてくれて、歩きつかれた足を 
マッサージしてくれたり、今まで以上にかいがいしくぼくの周りをくるくるしていた。 
婚約はまだ父とぼくと小雪だけの秘密で、その嬉しい秘密をぼくは大事に大事に胸に抱えている。 
今までと変わらずぼくの世話を焼いたり、昼間は他のメイドと一緒に屋敷の仕事をしたりしている、この世界で一番 
かわいいメイドは、将来ぼくのお嫁さんになるんだ。 
一緒にお風呂に入って髪を洗ってもらっている間にも、ぼくはそう考えると嬉しくて嬉しくてたまらない。 
「直之さま?」 
ぼくがニヤニヤしているので、小雪が不思議そうにぼくの顔を覗き込んだ。 
「あの、いかがなさいましたのでしょうか」 
自分の身体にバスタオルを巻き付けて、ぼくの身体を拭いてくれながら、首をかしげる。 
「ん?なんでもない」 
さすがに、小雪をお嫁さんにすると思ったら嬉しくて、なんて言うのは照れる。 
小雪は不思議そうな顔をしながら、ぼくの髪をドライヤーで乾かした。 
ベッドの中で、営業で会ったおもしろいお客さんの話をしていると、腕の中で小雪が眠そうにしているのがわかった。 
「寝ちゃった……?」 
「ふぇ、いえ、そのようなことは……」 
一生懸命、落ちてくるまぶたを押し上げようとするのが暗闇の中でもわかる。 
ぼくは小雪の頭の後ろに手を回して抱き寄せた。 
「うん。お休み、小雪」 
「ひゃい……おやひゅ……みな……」 
言い終わらないうちに、すうっと寝入ってしまった。 
そうか。 
小雪はいつもぼくより早く起きるし、昼間だってずっと忙しく仕事をしている。 
一般職のメイドが仕事を終えて自分の部屋でくつろぐ時間も、ぼくの部屋でぼくを待っていてくれる。 
疲れて眠くなってしまっても、我慢してるんだ。 
 
次の朝、着替えをしながらぼくは小雪に言った。 
「今日も遅くなるかもしれないんだ。もし帰りが10時を過ぎたら、小雪は先に寝ていていいよ」 
「……え」 
小雪が目をまん丸にして手を止めた。 
「あ、あの、それは」 
「遅くなると小雪も眠いだろ?お風呂もシャワーくらいならぼく一人でだいじょうぶだし、どうせ寝るだけだから」 
前の日から選んでおいたネクタイを持ったまま、小雪はちょっとうつむいた。 
「あの、そのような……あの、小雪は、直之さまのお帰りをお待ちするのはちっとも……」 
「それはわかってるけどね。でも小雪が身体を壊しちゃったりしたら、ぼくはどうしたらいいんだい?」 
「……あ、の……」 
ぼくは小雪の頭に手を乗せた。 
「ね。かまわないから、10時になったら小雪はお風呂に入って寝てること。出迎えもいらないからね」 
ネクタイを結ぶために顔を上げた小雪の目が潤んでいる。 
「……で、でも、あの、もし直之さまがお帰りになるのを、お迎えできませんでしたら、あの、小雪は、次の日の朝まで、 
直之さまにお会いできないことになってしまいます……」 
シャツの襟を立ててネクタイを結びながら、小雪が言った。 
もう、会社になんか行くのをやめようかと思ってしまった。 
「そりゃ、ぼくだって寂しいけどね。でも寝不足が続くとほんとに倒れちゃうかもしれないからさ。寝顔で我慢するよ」 
「……え、あの」 
あ、そうか。 
ぼくは小雪が勘違いしてるのにようやく気が付いた。 
ネクタイがきれいに結びあがり、ぼくはまた小雪の頭を撫でた。 
「なに、小雪は自分の部屋に帰って寝ちゃうつもりだった?ベッドは半分空けておいておくれね?」 
「そそそ、そのような、あの、こっ、小雪がお先に、直之さまの、そんな」 
スーツの上着を羽織って、ぼくはぱたぱたしている小雪のほっぺたを指でつついた。 
「夜這いみたいで、楽しそうだね」 
「よ、よ、よ……!」 
 
ぼんっ。 
 
うん。ぼくのお嫁さんは、かわいい。 
 
 
小雪の苦手な夏が過ぎ、時折降る雨が冷たくなってきた頃、ぼくは初めてお得意様とのとても大事な打ち合わせに 
連れて行ってもらえることになった。 
打ち合わせは午後からで、ぼくは同行する上司と先輩から事前に資料をもらったり自分でもいろいろ調べたりしたものを 
まとめたりして、準備万端整えた。 
ところが。 
天気予報が大きく外れて、ぼくは昼に出かけた先で夕立にあってしまったのだ。 
ふいのことで、近くのコンビニに飛び込むまでにずぶぬれになってしまった。 
このままでお得意様のところに行くわけにはいかない。 
どうしよう、着替えに戻る時間もない。 
ぼくは時計を見ながら屋敷に電話をかけ、小雪に着替えのスーツを持って駅まで来てもらうように頼んだ。 
お得意様に向かうために会社を出て、上司と先輩に少し待ってもらって、小雪を探した。 
学校の終わる時間なのか、学生で混雑した駅の構内で、小雪を見つけられるだろうか。 
小雪は携帯電話を持っていないから、こういうときに困る。 
待ち合わせた出口の改札で辺りを見回した。 
ぐるっと見回して、もう一度目を戻す。 
人混みで目立つ赤いかたまりが、転がるように駆けてきていた。 
「直之さま!」 
飼い主を見つけた子犬みたいだ、と思ってしまった。 
小雪はメイドの制服の上にフードの付いた赤いレインコートを来て、後生大事にスーツバッグと傘を抱えていた。 
「も、申し訳ございません、小雪が今朝、傘のご用意をいたしませんで……」 
人目がなければ、涙ぐんだ小雪を抱きしめてやりたかったがそうはいかない。 
「いや、天気予報が外れたんだ。ありがとう」 
スーツバッグを受け取って、ちらっと腕時計を見る。 
「トイレで着替えて行くよ。小雪も気をつけてお帰り」 
小雪は、はい、と返事をしてタクシー乗り場に向かって駆け出した。 
赤いレインコートがタクシーに乗るのを見届けると、小雪もぼくにちゃんと乗りました、というように笑って見せた。 
ここで小雪が、ぼくが濡れたこととか傘を持たせなかったことをいつまでも謝ったり、着替えを心配してぐずぐずすると 
、ぼくは小雪を見送る時間がなくなるし、見送れないとちゃんと帰れたかどうか心配になる。 
小雪はそれがわかっていて、すぐにタクシーに乗ってそれをぼくに見せたんだ。 
言わなくても考えていることをわかってくれたことが嬉しくて、ぼくはトイレで慌しく着替えをしながらまたにやけてしまった。 
おかげで上司と先輩を少し待たせただけで、取引先にもぱりっとしたスーツで尋ねることができ、打ち合わせも上々だった。 
帰りには、ぼくが説明を担当した部分を上司に褒められ、先輩には「着替えを持ってきてくれた妹」を紹介しろとからかわれた。 
 
帰宅してその話をすると、小雪もほっぺたを赤くして喜んでくれた。 
「こ、小雪は、直之さまがお仕事をなさるのに、お戻りになられてからもお勉強なさって、とてもとても一生懸命なさって 
いるのを存じておりますので、あの、直之さまの会社の方がお褒めになるのも、ほんとうに、もっともっとお褒めくださっても 
良いかと」 
それは大げさだよと笑ってしまった。 
それでも会社には父の仕事やグループ企業のことをあえて言っていないから、色眼鏡なしで評価してもらえたのが嬉しい。 
「そういえば、小雪の着てたコートはよく目立ったね。駅の中でもすぐにわかったよ」 
そう言うと、小雪はいきなりぱたぱたした。 
「そ、そうでございました、それなのでございますけれども」 
「うん?」 
「あのレインコートは、留美さんが小雪に着せてくださいましたのでございます」 
留美は、義姉が実家から連れて来たメイドだ。 
「はい、あの、あの時間の駅はきっと混んでおりますでしょうから、直之さまが小雪をすぐに見つけることができますようにと 
お貸しくださったのです」 
意外だった。 
留美は義姉にずっと付いているし、菜摘のこともあってうちにいるメイドとはそりが合わないようなイメージがあったのだ。 
「うん、おかげですぐにわかったけど」 
すると、小雪はちょっとだけ頬を膨らませた。 
「こ、小雪は、駅の中で皆さまが同じスーツをお召しだったとしても、すぐに直之さまを見つけることができると思うのです 
けれども、あの、でももし小雪が直之さまを見つけても、直之さまが小雪のことをわからずに違う方へ行ってしまわれては 
困りますので、あの」 
その言い方がおかしくて、ぼくは膝を叩いて隣にいた小雪をその上に座らせた。 
「だいじょうぶだよ、小雪が何を着てたって、ぼくはちゃんと小雪を見つけるからね」 
そうでございましょうか、と拗ねかけた小雪が、思い出したようにまたぼくの膝の上で小さくぱたぱたする。 
「あの、それで、あの、お屋敷に戻りましてから留美さんにお礼を申し上げたのですけれども、あのコートは、若奥さまが 
以前お召しになっていたものなのだそうでございます。お好きだったもので、こちらにお嫁にいらっしゃるときにお持ちに 
なったのですけれども、最近はあまりお召しにならないとかで、小雪にどうぞお使いなさいとおっしゃってくださいました 
のです」 
それは意外だった。 
今まで、義姉がメイドに衣裳を下げ渡したなんて聞いたことがない。 
ぼくと小雪の関係も知らないはずだけど、なにか察するところがあったのだろうか。 
微笑みを浮かべたまま固まったような義姉の顔を思い浮かべる。 
お人形のように何も考えてないように見えていた義姉が、ぼくの中で少し人間味を持って動き始めた気がする。 
「へえ、良かったじゃないか。とても似合っていたよ。着させていただくといいよ」 
後ろから小雪のうなじに顔を押し付けた。 
「で、でも、あの、よく拝見しますと、とても良いお品で、小雪なぞがいただけるような……」 
「いいじゃないか、お義姉さまのご好意なんだ。それに、小雪がぼくのお嫁さんになったら、小雪にもお義姉さまになるん 
だから、コートをいただくくらい気にすることはないよ」 
でも、とうつむいた小雪の頭を撫でる。 
ほとんど言葉を交わしたこともなかったのに、小雪に親切にしてくれたと思うだけで、義姉も留美もいい人に思えてくるん 
だから、ぼくもお調子者だ。 
「あ、そうだ」 
思い出した。 
「ね、小雪は携帯を持ってないよね」 
「携帯電話でございますか?」 
小雪が顔を上げたので、ついでにおでこにキスをしておいた。 
「うん。思ったんだけど、もしこれからまた今日みたいなことがあった時に、携帯があるとすごく便利だよ」 
「……直之さまが、小雪を見つけられなかったときでございますか」 
お。根に持ってる。 
「そう、小雪がちっちゃくって人混みに埋もれちゃってたときね」 
小雪のほっぺたが、またぷくっとふくらんだ。 
「こ、小雪はそこまでちっちゃくは、ございませんのですけれども……」 
日頃からあまりいろいろなものを欲しがらない小雪は、携帯電話と聞いても気乗りがしないようだった。 
毎日屋敷の中に住み込みで仕事をしていて、休日もぼくと一緒にいるから今まで必要性を感じなかった。 
「どうかなあ。それに、お休みの日に一緒に出かけるときも、もしはぐれちゃったりしたら困るじゃないか」 
小雪がちょっと考える。 
「もちろん、ずっと手をつないではいるけどね。それに、小雪が携帯を持ってたら、ぼくは会社の昼休みとか残業の間に 
メールを打てるよ。そしたら、小雪はぼくを待ってる間にメールを読めるじゃないか」 
「メールでございますか……」 
小雪の心が動く。 
「駅に着いたときに、これから戻るよとか、電話できるし。一人で歩いてる間中、ずっと小雪とおしゃべりできたら楽しいなあ」 
「お電話……」 
動いてる、動いてる。 
「仕事の間は、私物を持っていてはいけないんだろ?この部屋に置いておくといいよ。掃除の合間や、夕方にでもメールが 
来てないかどうかチェックして、返信してくれたら嬉しいな」 
「……そ、そうでございましょうか」 
あと一歩だ。 
「ね、次の週末に携帯電話を買いに行こう」 
もう、小雪が頭の中で、ぼくからのメールを受け取ってわくわくしたり、もう帰るよという電話を受けたりしているのがわかる。 
小雪に、とびっきりかわいい携帯電話を選んであげよう。 
そう思ったら、小雪がぷるぷると首を振った。 
「あのあの、小雪は、自分で、自分で携帯電話を、買えると思うのですけれどもっ」 
「ん?」 
顔を覗き込むと、小雪はちょっと唇を尖らせた。 
「小雪は、ちゃんとお勤めをしておりますし、お手当てもいただいておりますので、あの、メイドの中にも自分のお部屋で 
携帯電話を使っている方もいらっしゃいますし、ですからきっと」 
言いながら、心配そうな顔でぼくを見上げてきた。 
「きっと、携帯電話というものは、メイドのお手当てでも買えるようなものだと思うのですけれども、あの、違うので 
ございましょうか」 
ぼくは小雪の頭をなでた。 
小雪は、ちゃんとがんばっている。 
ぼくは一人の社会人として一人前になろうとがんばっているように、小雪もがんばっている。 
仕事をして、給料をもらって、その中から自分の必要なものを手に入れるという当たり前のことを、小雪はちゃんと考えて 
いるんだ。 
「うん。じゃあ、小雪が携帯電話を買いにいくのに、ぼくも付いていっていい?」 
小雪が、嬉しそうににっこりした。 
 
週末、出かけるときはいつもそうするように、小雪は私服に着替えたのを他の使用人に見つからないように、大急ぎでぼくの 
車に乗り込む。 
何年も変わらず胸元を雪の結晶が飾っている。 
他のアクセサリーを見に行くこともあるけれど、小雪はやっぱりこれが一番いいと言う。 
ぼくが初めて小雪に買ったクリスマスプレゼントだ。 
ぼくらは郊外のショッピングモールへ行き、話題になっていた洋画を見て、オムライスのランチセットを食べ、 
書店で雑誌を買ってから、携帯電話の店に行った。 
いろいろあって目移りする小雪に、とりあえず基本的なことを説明する。 
結局、ぼくの使っている携帯電話と同じ会社を選び、今度は機種を見た。 
小雪が迷っているので、機能を並べたカタログをもらって、一度ファーストフードの店に入ることにした。 
一緒にカタログを見て、これは便利とかこれはいらないとか話していると、小雪もだんだん仕組みがわかってきたようだ。 
「このコースにいたしますと、直之さまとどれだけお話いたしましても、通話料が変わらないのでございますか」 
と驚いているのが新鮮だった。 
テーブルのカフェオレが冷めるのも忘れてカタログに見入っている。 
今日の小雪は、いつも結っている髪を肩に垂らし、淡い色のカーディガンを着て、短いスカートをはいた膝の上にバッグを 
抱えている。 
メイドの制服もいいけど、私服の小雪はまた特別に眺めがいがある。 
カタログを見る小雪をぼくが見ているのに気づいて、小雪が首をかしげた。 
「直之さま?」 
きょとんとされて、ちょっと照れた。 
「うん、決まったかい?あとは店に戻って、手に持ってみるといいね」 
ぼくの使っている機種は少しごついし、小雪は同じものは分不相応だと言って、機能もごくシンプルで薄型のものを選んだ。 
契約を済ませ、さっきとは別のコーヒーショップに移動して、小雪に使い方を教えた。 
ぼくが電話をかけると、着信音に小雪がびっくりする。 
「ほら、履歴一番乗りだよ」 
番号を電話帳に登録すると、小雪がぷくっとふくれて遠慮がちに携帯を取り返した。 
「いけません、小雪がいたします。直之さまがそのように小雪を甘やかしますから、小雪はちっとも覚えられませんのです」 
じゃあメールアドレスを設定してごらんというと、分厚い説明書をめくって、一生懸命やっている。 
アドレスが決まったところで、ぼくは小雪にメールを打った。 
「あ、参りました!小雪の携帯に、メールが届きました」 
嬉しそうに、小雪が笑った。 
受信メールを開く。 
「……あ」 
ぱっと顔を赤くした小雪の携帯に、ぼくの打った二文字が表示されている。 
『好き』。 
「ね、返事は?」 
「あ、あの……」 
小雪の携帯を覗き込んで、メールの打ち方を教える。 
「あ、を三回押すと、う、になるんだよ」 
「あの、でしたら、てんてんは、どうしたらよろしいのでございましょう」 
「てんてん?」 
小雪は、『た』に濁点をつけたい、と言った。 
打ち方を教えると、小雪はぼくに画面を隠して、時間をかけて一生懸命なにか打っている。 
コーヒーがすっかり空になる頃、ぼくの携帯がメールを受信した。 
テーブルを挟んだ向こうで、小雪がはにかんだように笑っている。 
「できた?どれどれ」 
開いた携帯の画面に、文字が四つ。 
 
『だいすき』。 
 
やられた。 
即座にそのメールを、保護した。 
帰りの車の中でも、小雪はずっと携帯の画面を見ていた。 
信号待ちのときに覗き込むと、それはぼくからの最初のメール。 
たった二文字しかないその画面を、小雪はずっと飽きずに眺めている。 
部屋に帰ってから、二人で写真を撮ろう。 
それを待ち受けにできるんだよと教えたら、小雪はどんな顔をするだろう。 
毎日毎日、昼休みに小雪に『好き』とメールをしたら、どんな顔をするだろう。 
ぼくのいないぼくの部屋で、ぼくからのメールを読む小雪を想像する。 
そして、きっと小雪は長い時間の後で、返事をくれるんだ。 
 
『だいすき』。 
 
その後残念なことに、ぼくが最初に会社から小雪に送ったメールは帰宅が遅いことを伝えるものだった。 
接待の後で携帯を見ると、小雪から返信が入っていた。 
「ちゃんとおやすみします」 
ぼくの不在の間に練習したのか、ハートマークまでついていた。 
小雪の代わりに出迎えてくれた康介に見せびらかすと、康介はちょっと悔しそうにした。 
まだ、菜摘は落ちないらしい。 
「……若旦那さまと比べられては、かないません」 
がんばれよ、と康介の肩をたたいて、ぼくは多少酒臭いのを気にしながら部屋に戻った。 
少し明かりが落としてある。 
小雪は言いつけどおり先に寝ているようだ。 
ぼくはなるべく音を立てないようにシャワーを済ませ、寝室に入った。 
ベッドの半分が盛り上がっている。 
小雪はもう眠ってるかな。 
そっと布団を持ち上げて身体をすべりこませると、ぼくのパジャマを着た小雪がぎゅっと抱きついてきた。 
「……お、おかえりなさいませ」 
くすっと笑ってしまった。 
小雪は、遅くなったら先に寝てなさいといった言いつけに従ったものの、眠れなかったのだろう。 
「起こしちゃったかい?」 
小雪はぼくの胸の中で、首を横に振った。 
「あの、ちゃんと、ちゃんと小雪は、直之さまのおっしゃった通りにいたしましたのですけれども、あの……」 
「眠くなかった?いつもなら眠い時間だよ?」 
そうなのですけれども、と呟いて小雪が小さなあくびをした。 
「……あの、お布団が広くて、なんだかあの」 
眠れなかったといいながら、ぼくの腕の中でもう安心したように眠くなっている。 
「小雪?」 
すうすうと寝息をたて始めた小雪は、もう呼んでも返事をしなかった。 
 
やれやれ。 
どうやら、ぼくは夜遊びはできそうにない。 
 
 
 
 
『メイド・小雪 15』 
 
正月の松も取れない頃、兄に女の子が産まれた。 
期待された跡取り息子ではなかったせいか、もともと表情に出ない人のせいか兄はさほど嬉しそうには見えない。 
それでもぼくは赤ん坊が珍しくもあり、小雪に赤いコートを下げてくれて以来、義姉との距離が縮まっていたのもあって、 
会社の帰りにちょくちょく姪の顔を見に病院へ立ち寄った。 
義姉も、義姉につきっきりの留美も喜んでくれ、ぼくも毎日変わる姪の顔が面白くて写真を撮っては小雪にメールで送った。 
誰にも言わなかったけれど、きっといつか小雪がぼくの赤ちゃんを産んでくれて、それが女の子だったら、きっとこの子の 
100倍もかわいいのだろうな、と思ったりもする。 
 
退院した義姉と姪が帰ってくる前に、うちでは今年二十歳になるメイドたちの成人式があった。 
母は毎年、成人式のメイドに振袖を贈る。 
いつか結婚するときのお祝いを先渡しというつもりらしく、みんな楽しみにしている。 
今年は、小雪とあと二人のメイドが成人式だった。 
写真屋が来て、振袖を着たメイドたちが庭に出て写真を撮るらしい。 
振袖や帯を選ぶときに見せてくれと頼んだのに、小雪は内緒ですと言って見せてくれなかった。 
数日後、ぼくが帰宅すると康介が部屋にできあがった写真を届けに来た。 
小雪に手渡せばいいものなのに、わざわざぼくのいるところへ持ってくる。 
「見せて」 
言うと、小雪がちょっと恥ずかしそうに差し出した。 
部屋を出て行こうともせず、すました顔で康介が立っている。 
台紙を開くと、青い振袖姿の小雪が池の端に立ってはにかんでいた。 
小雪はなんとなく赤い振袖だと思い込んでいたので少し意外だった。 
着物の柄はよくわからないけれど、裾の方からグラデーションになっている色合いがきれいで、小雪に似合っている。 
「あの、奥さまがお見立てくださいましたのです……」 
なるほど、さすがだ。 
いつもより髪も華やかに結っているし、化粧も違うのだろうけど、なにより。 
「三人の中では、小雪が一番かわいいね」 
康介がくすっと笑い、小雪が真っ赤になった。 
「そ、そのような、あの」 
小雪がぱたぱたする。 
「やっぱり見たかったな。康介は写真屋が来たときに屋敷にいたんだろ?」 
「はい」 
ずるい。 
「小雪が一番かわいかったろ?」 
「まあ、沙織も茜もかわいらしゅうございましたが」 
「かわいくないとは言ってないよ。中でも小雪が一番だったろ、と言ったんだ」 
おやめくださいませ、というように小雪がぱたぱたぱたぱたする。 
他のメイドの写真を見もせずに小雪が一番と言い張るぼくに、康介は小さく肩をすくめた。 
「そうおっしゃるのでしたら、それでもよろしゅうございますが」 
なんだ、その言い方は。 
「お前、嫌い」 
康介がぷっと吹き出した。 
「そういう性格はね、絶対嫌われるよ。……菜摘に」 
小声で付け足した最後の一言に、康介がげほげほと咳き込む。 
菜摘も、この屋敷を出てからずっと葛城の家で病気の祖母の世話をしているくらいだから、決して康介が嫌いではないの 
だろうと思ったけれど、それは教えてやらなかった。 
ぼくが康介をやりこめて満足していると、小雪がきょとんとして首をかしげていた。 
 
小雪が二十歳になり、姪がはいはいを始め、小雪の苦手な夏が過ぎ、もうすぐぼくの社会人生活も3年目に入ろうという頃、 
父がぼくを呼んだ。 
春には今の会社を退社し、父が会長を勤めるグループ企業の傘下のひとつに入るように、と。 
 
いよいよだ。 
 
特にこれといった理由も見当たらないのに、たった2年で辞めようとするぼくに、課長はちょっとため息をつき、 
ぼくは申し訳なくうつむいた。 
「君は」 
課長がデスクの引き出しから何か出した。 
見せられたのは、入社試験のときに提出した履歴書。 
課長は、ぼくの家の名前を挙げた。 
「そこの、ご子息だろう?」 
父の職業欄は、ただの会社経営になっている。 
「ご存知だったんですか」 
課長は笑っていた。 
「以前、君の『妹』が着替えを届けてくれたことがあっただろう」 
大事な打ち合わせに雨に濡れたスーツで行くわけにいかず、小雪にスーツを持ってきてもらった時だ。 
「普通の家では、あまり名前に様をつけて呼ばれることはないからな」 
確かあの時、人混みの中で小雪は僕を見つけて「直之さま」と呼んだ。 
聞こえていたとは、知らなかった。 
「いいとこのお坊ちゃんなのに、普通の社員と同じように、それ以上にがんばるとは思っていたんだよ」 
がんばって、早くうちの会社にもいい仕事を回すようになってくださいと冗談まで言って、課長はぼくの辞表を受け取った。 
 
 
4月は、慌しかった。 
ぼくはいきなり役付きになり、『会長の息子』として働くことになったのだ。 
先輩に小突かれたり上司に怒鳴られたりすることはなかったけれど、その分の気楽さや楽しさもなくなった。 
屋敷では康介が『執事見習い』から『執事補』に格上げになり、弟の健次郎が新たに執事見習いとしてやってきた。 
「私は分家の執事になるのですからね。本家は健次郎にまかせます」 
そう言ってもらうのが心強い。 
それでも、以前の仕事のように残業や接待や先輩の付き合いはないものの、その分を補って余りある気疲れに、ぼくは毎日 
ぐったりしていた。 
小雪はせっせとぼくの世話を焼いてくれる。 
「あの、今日はあまりお夕食が進まなかったとお聞きしましたのですけれども、なにかお召し上がりになりますでしょうか」 
夜中まで数字の並んだ資料とにらめっこするのに飽きたぼくに、小雪が声をかけてくれた。 
「うん……、いや、いいよ。あんまりお腹の調子も良くないし」 
小雪を心配させまいと黙っていたのに、つい言ってしまった。 
「まあっ、どういたしましょう」 
小雪はびっくりして医者を呼ぶと言い、それを止めるとお腹を温めるとかで湯たんぽを持ってきてぼくに抱かせた。 
「だいじょうぶだよ。ちょっとだけだから。いろいろ気を使うこともあってね」 
変なものを食べた覚えもないし、ストレスだろうなと思う。 
小雪を隣に座らせると、心配そうに湯たんぽを触った。 
「も、申し訳ございません、小雪がちっともいたりませんで、気がききませず……」 
「うん、そうだね」 
手を伸ばして小雪の頭を撫でた。 
「だから、小雪が責任とってぼくを温めてくれる?」 
「は、はい?」 
仕事が変わってから、ずっと慌しくて小雪とあまりしていない。 
「ね、ちゅー」 
言うと、小雪が遠慮がちに顔を上げる。 
ぷくっとした唇にキスをする。 
下唇をちゅっと吸い上げる。 
顎に手をかけて乗りかかるようにすると、小雪がちょっとぼくを押した。 
「あ、あの、お、お腹が……」 
言われてみると、確かに力が入らない。 
仕方がない。 
今夜は小雪にちゅーするだけで我慢することにした。 
ただ、めいっぱいしたので、小雪には少しかわいそうだったかもしれないが。 
 
次の日、定時で仕事を上がったぼくが康介の運転で帰宅すると、出迎えた小雪の元気がない。 
昨夜、中途半端なことをしたので拗ねているのかと思ったので、廊下を歩きながらちょっとくすぐってみた。 
「きゃ……」 
慌てて口を押さえた小雪が、うらめしそうにぼくを見上げる。 
「ん?」 
部屋に入ったところで、ソファに座って膝を叩く。 
「どうしたの。まだ拗ねてる?今日はお腹の調子もいいし、たっぷり」 
ぷるぷる、と小雪が首を横に振った。 
「あ、あの、小雪は、あの、直之さまにお詫びを……」 
「え?」 
小雪が小さくなってぼくの胸に顔をうずめた。 
「け、携帯電話が、なくなってしまいました……」 
振り向くと、机の上に並んでいる二つの充電器の両方に、携帯電話がなかった。 
いつも片方の充電器の上に、小雪の携帯電話が置いてあるのに。 
「ん?どうしたの?」 
「あの、あの……、いけないとは存じておりましたのですけれども、あの。どうしても」 
小雪が途切れ途切れに話すのを聞くと、どうやら小雪はぼくのお腹が心配で、もしかしてぼくからメールが来たときに、 
いつものようにぼくの部屋に携帯を置きっぱなしにしていては気づくのが遅れると思ったらしい。 
「それで、エプロンのポケットに消音して入れておいたのですけれども、こっそり開いて見ているのを、あの、……メイド長に」 
「そうか。千里に没収されたんだね」 
「こ、小雪がいけないのでございます、規則違反をいたしましたから、あの」 
それで、さっき会社を出たところでメールしても返信がなかったのか。 
ぼくの部屋にいなくて、見ていないんだろうと軽く思っていたけど。 
「わかったわかった。小雪はぼくを心配してくれたんだから、ぼくが千里に話して返してもらうよ」 
「い、いえいえ、いけません、あの、そのようなことで、直之さまが、あの」 
ぼくの膝の上で小雪がぱたぱたして、それからまたしゅんとうなだれた。 
携帯電話を没収されたこともそうだけど、今までしたことのない規則違反をしてしまったこともショックなのらしい。 
小雪がこっそりエプロンから携帯電話を出して、ぼくからのメールがないかどうか確認しているのを想像すると、 
ちょっとおかしかった。 
ぼくが小雪に、お腹が痛いよと訴えてくると思ったのだろうか。 
そうしてみても、よかったかな。 
小雪の頭を撫でてなだめていると、誰かが部屋のドアをノックした。 
急いでぼくの膝から下りた小雪が返事をする。 
「千里でございます」 
ドアの向こうからの声に、振り向いた小雪の顔がもう泣きそうだった。 
主人の前で、メイド長に規則違反を叱責されると思ったのか、ドアを開けても顔を上げることさえできずにいる。 
千里は、両手をお前で組んで腰を折った。 
規定どおり、寸分の狂いもないお辞儀。 
「お邪魔をいたします。こちらを」 
ぼくの座ったソファの前にあるテーブルに、小雪の白い携帯電話が置かれて、千里の横で小雪が縮こまった。 
「千里、これはね、ぼくが小雪に持っていてもらったんだよ。今日はぼくの調子が悪かったから、特別に小雪はエプロンに 
入れてたんだ。ぼくとの連絡用だからさ」 
「存じております。小雪は理由もなく規則違反をするようなメイドではございませんし、預かっておりますときにメールが 
届きましたのを拝見しましたら、直之さまのお名前が表示されておりましたから」 
「……ああ」 
ちょっと照れくさい。 
千里は、小雪を見た。 
「ただ、他のメイドの手前もございますので」 
「も、申し訳ございません、もう、このようなことは、あの」 
小雪が頭を下げる。 
千里がぼくに顔を向けた。 
「こちらに参りましたのは、もうひとつ別のご用件がございました」 
「ん、なに」 
「小雪さん」 
いきなり、しかもさん付けで呼ばれて小雪がびっくりした顔になる。 
ぼくも、何事かと千里をまじまじと見てしまった。 
「こちらにどうぞ」 
きっぱり指示されて、小雪はいわれるままL字においてあるソファの隅に腰を下ろして、不安そうにぼくを見る。 
千里が、姿勢を正したままにっこりと微笑んだ。 
「先ほど、旦那さまから内々にお話をいただきました。おめでとう存じます」 
ぼくと小雪が顔を見合わせる。 
「まだ他言は無用とのことでございましたが、わたくしと葛城さん、康介さんにお話がございました。今から少しずつ心構えと 
準備が必要でございますので」 
つまり、父が話したのだ。 
ぼくと小雪が、近い将来結婚するつもりだということ。 
「あ、そう……」 
間の抜けた返事をするぼくを、千里はキッ、と見た。 
「ご結婚がお決まりとなりましては、今までのようにお坊ちゃまで甘えていらしてはいけません。小雪さんも将来女主人として 
軽んじられませぬよう、しっかりした振る舞いを身につけられませ」 
しまった。 
忘れていた。 
ぼくは子供の頃、この世で一番千里が怖かったんだっけ。 
「わたくしがお育て申し上げました坊ちゃまと、わたくしが指導いたしました小雪さんのご結婚でございます。 
お二方のいかなるお振る舞いも、この千里の失態と後ろ指をさされませぬよう、お世話申し上げます」 
言い切った。 
「ず、ずいぶん張り切ってるね……」 
千里はぼくの言葉には耳も貸さず、おびえた小雪の表情も目に入らないようだった。 
 
それから、小雪の特訓が始まった。 
普段から小雪はうちのメイドの教育方針でいろいろなお稽古をしていたが、その他にも夕食の後で厨房で料理を習って 
いるらしい。 
「お茶会などをいたしました折に、奥さまがお手ずから軽食をご用意なさることもございます」 
ということらしく、今まではメイドたちの食事を交代で用意するくらいしかしてこなかった小雪は苦労している。 
夜食にと、その日千里に教わって作ったカップケーキやタルト、炊き込みご飯のおにぎりなどを出してくれるようになった。 
今日は『ナッツとドライフルーツのバターケーキ』だそうだ。 
「あ、あの、いかがでございましょうか……」 
恐る恐る、隣に座った小雪がぼくの顔を覗き込む。 
千里が指導しながら作っているのだし、失敗したものを出すわけはないだろうから、みんなおいしい。 
もしかして結婚して小さな家に二人だけで暮らしたら、毎日小雪の手料理を食べたりできるんじゃないだろうか。 
想像すると、わくわくする。 
「毎日でございますか……」 
そう言うと、小雪は不安そうな顔をした。 
「あの、小雪はまだまだ、たくさんのものができませんで……、もっともっとお稽古いたしませんと」 
「うん、でも少しずつレパートリーが増えたり、たまに失敗したりするのも新婚ぽくっていいよ」 
新婚、の言葉に小雪が頬を染める。 
「ねえ、小雪は早百合に会うことがある?」 
早百合と名づけられた兄の長女は、最近よちよち歩きで目が離せないようだ。 
小雪は首をかしげた。 
「いえいえ、そのような、小雪などはめったにお見かけいたしますこともございません」 
小雪にとってもいずれ姪になる子だから早く懐いてもらえるといいのに、とは思うものの、義姉は今、お腹に二人目がいるし、 
宝物のように早百合を大事にしている留美が、むやみに使用人と遊ばせるはずはない。 
「ずいぶん大きくなったよ。顔立ちなんかは兄さんに似てるかな。性格はおっとりして、義姉さんに似てるかもしれない」 
「さようでございますか……、でも、あの、きっと、どちらに似ましても、美人におなりです」 
「うん。でね、ぼくらの子どももかわいいと思うんだ」 
「え、え、え……」 
いつもは、小雪はもう大人でございますから、とあまり慌てたりそそっかしくしたりしてはいけないと気をつけているようで、 
ぼくはその日、久しぶりにぼんっとなった小雪を見ることができた。 
「ね、ぼくは小雪に似た女の子がいいな」 
「そ、そのような、あの」 
耳まで真っ赤になった小雪がうつむき、ぼくは小雪の肩に手を回して抱き寄せる。 
「ちょっと大きくなったら、小雪と二人でぱたぱたしてるのが見られるよね。かわいいと思うんだけど」 
「そ、その、そんな、あの、こ、小雪はもう、そんなにぱたぱたは、いたしませんと思うのですけれどもっ」 
そう言いながら、もう両手を振ってぱたぱたしてる。 
「そ、それに、あの、あ、赤ちゃんは、髪の毛が細うございますので、あの、直之さまは、あまり」 
寄りかかった小雪の頭に顔を寄せて、ぼくはくすっと笑った。 
「かんたんにカッパになっちゃうね」 
「お、女の子が、小さなうちにカッパになってしまいましては、あの、か、かわいそうでございます」 
「そうだね。じゃあ、やっぱり代わりに小雪をカッパにすることにしようね」 
「え、え、え」 
また、ぱたぱたしてる。 
よかった。 
二十歳を越えて、小雪はずいぶん大人びたと千里や康介はいうけれど、小雪の一番小雪らしいところはちっとも変わらない。 
早く、ぼくと小雪のかわいい赤ちゃんを抱きたい。 
小雪はちょっとぼくの胸に顔をすりよせた。 
「でも、でも、あの、小雪は、直之さまによく似た男の子が、いいと思うのでございますけれども……」 
「……うん。どっちも欲しいね」 
小雪に似た男の子や、ぼくに似た女の子でも、いいと思う。 
どっちにも似てたり、どっちにも似てなくてそれぞれの親に似てたり、どんな子でもいいから、たくさん欲しいね。 
そう言うと、小雪は恥ずかしそうに頷いた。 
「ね、練習しよっか?」 
 
これも練習でございますか、と逃げる小雪を、お風呂で触ったり抱きしめたり、泡だらけにしたりしてぼくはちょっと 
悪ふざけをした。 
「んもう、危のうございますからっ、あんっ」 
立ち上がってバランスを崩した小雪を抱きとめ、二人でバスタブに落ちた。 
おかしくておかしくて、ぼくがいつまでも笑っていると、ちょっとのぼせたような顔をして小雪がぼくの腕にしがみついた。 
「ごめんごめん。ぶつけなかったかい?」 
「は、はい、あの、直之さまは、どちらか、んごぼ……」 
お湯の中でぼくの身体を確かめようとして、小雪が溺れる。 
沈んだ小雪の脇に手を入れて引き上げた。 
「だいじょうぶ?」 
「は、はい、び、びっくり……、いたしました」 
目を丸くした小雪がぼくの首にしがみついたので、そのまま抱き上げてバスタブから上がった。 
ちょっと風呂で遊びすぎたか、ベッドに転がすと小雪がそのままうつ伏せで動かなくなってしまった。 
「小雪?気持悪くなっちゃった?のぼせたかな」 
背中をさすってやると、小雪が目を開けた。 
「あ、の、だいじょうぶ、でございます。ちょっとぼうっといたしました……」 
「いいよ、ゆっくり休みなさい。長湯しちゃったからね」 
湯冷めしないようにブランケットをかけてやり、隣に寝て小雪の湯上りで薄紅色に染まった肌を撫でる。 
「今日のは新しい入浴剤だったよね。香りもすごく良かったけど、小雪の肌もつるつる」 
お尻を撫でると、小雪がころんと転がってぼくと向き合った。 
「そ、そうでございましょうか」 
「うん。すべすべして気持ちいい」 
小雪の手が、ぼくの腕に触れる。 
「あの、直之さまも、あの」 
「うん」 
小雪のほっぺたにキスすると、ほっぺたもすべすべだった。 
「練習できる?」 
返事の代わりに、小雪がぼくにぎゅっと抱きついた。 
その夜、ぼくたちはたっぷりたっぷり仲良く練習をしたのだった。 
 
 
夏、兄のところに二人目の子どもが産まれた。 
今度は男の子で、兄も嬉しいのか毎日早百合を連れて病院へ義姉を見舞っている。 
一緒にいる時間が増えたせいだろう、早百合も「お父ちゃまお父ちゃま」と兄の後を追うようになってきた。 
義姉が教えたのか、誰かが言うのを聞いたのか、ぼくのことも「なおゆきしゃま」と呼ぶのがかわいらしい。 
そして、ぼくも父から具体的なことを考えようと言われている。 
ぽつぽつと持ち込まれる縁談を断るのが大変になってきたらしい。 
水面下で動いている千里も、一番最近行われたメイドたちのお茶やお花、踊りといったお稽古のおさらいと、マナーや教養の 
試験での小雪の成績が良かったと喜んでいる。 
試験が近づくと、小雪はぼくの帰りを待つ間も部屋で勉強しているのを知っているので、ぼくもほっとした。 
父には、昔、叔父が結婚後、分家する前に住んでいた敷地の東側にある別棟を改装して、そこに住んではどうかと言われた。 
「別棟もいいけど、あそこはけっこう部屋数もあるし、広いよね。最初は小さい家かマンションでもいいから、小雪と二人で 
暮らしたいんだけどな」 
千里にそう言うと、ちょっと考えてから千里は言った。 
「それは、直之さまはそれでよろしゅうございましょう。小雪さんは直之さまのお世話は慣れておりましょうし」 
「うん……?」 
「でも、直之さまのお留守の間はいかがでございましょう。若奥さまともなりますと、いろいろなお付き合いもございますし、 
奥さまのお供でお出かけになることもございます。どなたかをお招きしなければならないこともございましょう。その度に 
、小雪さんがお一人きりですと、お召し物やお持ち物をご用意するメイドもおりませず、お送りする運転手もございませんでは、いろいろ支障もございます」 
……考えていなかった。 
「直之さまもますますお忙しくおなりでしょうし、小雪さんがお一人でお留守を守られるのは、心細くはございませんでしょう 
か。敷地の中の別棟、というのは旦那さまのおっしゃいますとおり、ちょうど良い距離ではないかと存じますが」 
ぼくは、小雪と二人で新婚生活を送りたい、という都合のいい空想しかしていなかった。 
「それは、空想ではなく、妄想でございます。しっかりなさいませ」 
どうも、ぼくは千里には頭が上がらない。 
 
秋にはまだ少し早い晩夏、正式発表はしないものの、ぼくと小雪のことを知らされた兄と義姉のところへ、小雪と一緒に 
赤ちゃんを見に行った。 
小雪は最初、留美の後ろのメイドの位置に立っていて、義姉に促されてようやく部屋の中へ進み、ベビーベッドの中の 
晴之を覗き込んだ。 
足元では、留美の手から逃げ出した早百合が、珍しそうに小雪の回りをうろちょろしていた。 
「まあ」 
一目見て小雪が驚くほど、晴之は兄にそっくりだった。 
「ね。よく似てるだろ」 
隣でぼくが言うと、小雪は何度も頷いた。 
おっぱいを飲んだばかりだという晴之は、すやすやと眠っている。 
晴之を覗き込んでいるぼくらの後ろで、兄が笑った。 
「そうしてると、けっこうお似合いだな」 
「……ほんとうに」 
振り向くと、義姉が兄を見て微笑んでいた。 
けっこうお似合いだな、とぼくも思った。 
兄夫婦の仲がいいことを、素直に喜べた。 
小雪が、足元にまとわりつく早百合の前に膝をついて、遊び始めた。 
留美がお茶を入れてくれ、ぼくは兄と向き合って座る。 
「で、黒田へはいつ行くんだ?」 
「え」 
「小雪の実家に挨拶なしというわけにはゆくまい」 
「ああ、はい。向こうの都合が良ければ、来週にでもと」 
小雪の実家の黒田家に挨拶に行く、というのはぼくにとって小雪にプロポーズするより緊張する。 
「兄さんは、仲人が立ったんですよね」 
「それでも、酒井に挨拶くらいはしたよ」 
「……そうですよね」 
しばらく前に、幼馴染の聡も婚約をしたが、親が見つけてきた相手なので、あまり参考になる意見は聞けそうもない。 
「あれだ、お嬢さんをください、というやつだな。それで、お前のような若造にうちの大事な娘がやれるか、と怒鳴られて来い」 
「あなたったら」 
義姉がとりなしても、ぼくはがっくりとへこんだ。 
小雪の両親というのはどういう人なんだろう。 
ほんとうに、怒鳴られたりしたらどうしよう。 
肩を落としたぼくを兄は楽しそうに眺め、後ろでは小雪と留美が早百合と遊んでいた。 
「黒田さまとは、実家の酒井でお付き合いがございましたのよ」 
義姉が言って、ぼくは少し驚いた。 
旧華族の出である義姉の実家が、どうして小雪の家と交流があるのだろう。 
「直接、お会いしたことはございませんけど、本家の方とは折々にご挨拶をいたしましたの」 
「本家?」 
ぼくが聞き返すと、兄が呆れたような顔をした。 
「なんだ、黒田と酒井に付き合いがあっても不思議ではないだろう」 
「ちょっと待ってください。小雪の実家は、普通の会社員だと聞いていますが」 
「うちのメイドの採用はそんなに甘くないよ」 
頭が混乱してきた。 
「メイド学校の成績はもちろん、家系図つきの身上書を提出させるはずだ。小雪の家も明治末期に黒田から分家した家柄だよ」 
本家は関が原以前から続く大名の家系で、明治以後は爵位も持っている、と聞かされてぼくはぽかんとした。 
「もっとも、戦後の華族制度崩壊で本家の方は財産税にも苦しめられただろうけどね。案外、早くに野に下った分家の方が 
闇市を渡り歩いたりして、たくましく生きてきただろうね」 
そういう家柄だと、明治以後に財を築いてきたうちなど、ただの成金に思えるんじゃないだろうか。 
ぼくはどんどん不安になってきて、その後は兄の話も耳に入らなかった。 
 
「ねえ、小雪のお父さまって、怖い?」 
翌週、康介の運転で小雪の実家に向かいながら、ぼくは隣で緊張して小さくなっている小雪に聞いた。 
「あの、そのようなことはございませんけれど……、あの?」 
「小雪をくださいって言ったら、お前のような半人前に娘はやれない、とか怒られないかな」 
小雪がびっくりした顔でぼくを見た。 
「え、え、まさか、そのような」 
運転席で、康介が笑いをかみ殺していた。 
ぼくは仕事のときよりちょっといいスーツで、小雪は千里が見立てたワンピースを着ている。 
住宅街の中の、小さいながらも手入れの行き届いた和風の一戸建てが小雪の実家だった。 
事前に知らせてあったので、小雪の両親が揃って出迎えてくれた。 
和室の上座に通されて、少し居心地が悪い。 
すぐに小雪のお父さまがやってきて、お母さまがお茶を持ってくる。 
こっちも緊張しているけど、ご両親も緊張しているようだ。 
手土産を渡し、小雪によく働いてもらっていることなど一通りの挨拶をした。 
「とんでもございません、この子のような者がちゃんとお勤めできておりますでしょうか」 
ぼくの前にお茶を置いた小雪が、ちょっと震えている。 
小雪とご両親があまりに緊張しているので、逆にぼくは少し落ち着いてきた。 
「それで、本日お尋ねいたしましたのは」 
話を切り出すと、ご両親が居住まいを正す。 
「……小雪さんを、私の妻にいただきたいのです」 
空気が凍る。 
ああ、きっと怒鳴られるんだろうな。 
ぽっと出の成金の家の息子に、由緒ある当家の一人娘をやれるか、とか。 
小雪のお父さまが腰を浮かせ、ぼくは覚悟を決めてお腹に力を入れた。 
「こ、小雪っ、お前という娘はっ……!」 
な、なんだ。 
とっさに小雪をかばって、ぼくは顔を真っ赤にして膝立ちになったお父さまと正面から向き合った。 
なにが起きたのかわからない。 
お父さまは、ぼくの顔を見ると、今度はがばっと土下座した。 
「申し訳ございませんっ!」 
ぽかんとしたぼくと、ぼくにしがみついた小雪、土下座したお父さまを見比べて、お母さまは静かに言った。 
「あなた。まずは直之さまのお話をお聞きなさいませ」 
見事な落ち着きっぷりだった。 
どうやら、父や祖父から武家の男としての教育を受け継いできたお父さまは、一人娘を会社勤めさせるよりはと硬い 
お屋敷奉公に出したものの、その家の若さまをたぶらかしてしまったと思い込んだようだった。 
もしかすると、小雪の性格はどちらかといえば父親似なのかもしれない。 
そうではなくて、ぼくが小雪を好きで結婚したいのだということを納得してもらうのには少し手間取った。 
理解してもらうと、今度はそんな恐れ多いことはとんでもない、身分違いの結婚は双方に不幸であると主張された。 
初めから落ち着いていたお母さまも、賛成はしかねると言ったので、小雪はすっかりうなだれてしまった。 
ぼくが何を言っても、一時の気持ちでは後悔します、と信用されない。 
どうしてもダメなら、小雪を連れて逃げると言うに及んで、ついにお父さまが折れた。 
「どうぞ、どうぞ娘をよろしくお願いいたします……」 
小雪が先に泣き出さなければ、ぼくも涙ぐんでしまうところだった。 
帰り道に康介が、ぼくと小雪が手をつないで出てくるのを見るまで、車の中でどきどきしていた、と笑った。 
 
ぼくは、車の中でずっと小雪の手を握っていた。 
ほんとうに、ほんとうに、いよいよ小雪をお嫁さんにするんだと思うと、走り出したいほど嬉しかった。 
そう言うと、小雪は、あまり早く走ってしまわれますと、小雪は追いつけませんと悲しそうな顔をして、ぼくは思い切り笑って、 
康介を驚かせた。 
 
 
 
『メイド・小雪 16』 
 
黒田の家に挨拶を済ませたことで、話はびっくりするほど急に進み始めた。 
小雪は正式にうちのメイド職を辞め、一ヶ月間、三条家の市武さんの屋敷に預けられることになった。 
二人の男の子と最近生まれた女の子、三人の母となった初音が「元メイドの分家の奥といたしまして、わたくしの知りうる 
かぎりのことを伝授申し上げます」と胸を叩いた。 
小雪が担当メイドになって以来、こんなに長い間離れるのは初めてで、ぼくは寂しくてたまらなかった。 
通いでいいじゃないかと言ったけれど千里は相手にせず、メイドの制服と少しの私服か持っていない小雪のために、いろいろな 
仕度を整えた。 
 
そして、両手で小さな白い携帯電話を握り締めて、胸元に天使の羽がついた雪の結晶を光らせて、小雪は三条の屋敷へ行った。 
朝早くに出発したので、ぼくも見送った。 
前の晩、寝不足になるほど別れを惜しんだのに、義姉から譲られた赤いコートの後姿を見たら、鼻の奥がつんと痛くなりそう 
だった。 
「さ、いつまでそこに突っ立っていらっしゃいます」 
小雪の不在の間、ぼくの担当メイドに復帰するという千里が、ぱんと手を鳴らした。 
「お食事をなさって、ご出勤でございますよ」 
しぶしぶ、屋敷の中に戻る。 
市武さんと初音が、小雪に優しくしてくれるといいな。 
ただでさえ引っ込み思案で口下手な小雪は、新しい環境に不安でいっぱいのはずだ。 
いつでもいいから、時間が空いたら電話しなさいと何度も言ったのに、小雪はその日ついに電話をかけてこなかった。 
夜12時を過ぎて、さすがにあきらめてベッドに入り、一人で自分の膝を抱いてもなかなか寝付けず、朝方になってうとうと 
すると、千里の声で目が覚めた。 
「お目覚めくださいませ」 
手を伸ばしても、隣に小雪がいない。 
千里はてきぱきと着替えを用意し、ぐずぐずするぼくをせかした。 
もちろん、顔を洗うときに横にタオルを持って立っていてくれはしないし、ネクタイを結んでもくれない。 
小雪がさんざんぼくを甘やかしたので、ぼくは千里の手厳しさに初日から根を上げそうになった。 
早く、小雪が帰ってきてくれればいいとため息をついて、また千里に叱られた。 
夜になって、初音の息子たちに気に入られて一緒に寝ることになったと小雪が電話をくれたとき、ぼくは一人でお風呂に 
入って一人で寝たのに、と愚痴をこぼした。 
「小雪は、寂しくないの」 
『え、あ、あの、あの……』 
小雪の返事がはっきりしない。 
誰かが、小雪の後ろで笑っている。 
「小雪?誰かいるの?」 
『小雪さんが一晩いないだけで、直之さまはすっかり赤ちゃん返りをしておしまいですの』 
……初音だ。 
息子たちに気に入られて一緒に寝る、ということは、子ども部屋にいるのだろうか。 
部屋には初音もいて、小雪はそこから電話しているのだろう。 
もしかして、市武さんもいるかもしれない。 
小雪がいなくて、千里は厳しくて、寂しいよ、という愚痴が全部聞こえたとは思えないけど、小雪の返事だけで初音が 
笑っている。 
ぼくは不機嫌になった。 
離れ離れになっている恋人同士の電話に聞き耳を立てるとは、初音も趣味が悪くなったものだ。 
 
もちろん、ぼくだって小雪がいないと寂しがってばかりもいられない。 
仕事はどんどん増えてくるし、別棟の改装も大急ぎで始まった。 
別棟の執事には康介が来てくれる事になっていたが、千里も母屋のメイド長を誰かに譲って別棟に来ると言い出した。 
久しぶりにぼくの担当メイドに復帰して、すっかり情が再燃してしまったらしい。 
せっかくの新婚生活に千里がついてきて口うるさくされたらかなわないけど、結婚もせずにずっとうちに勤めてくれた 
千里がそうしたいなら、もう一人の母親だと思って孝行しようと思っていたら、母が反対した。 
千里にいなくなられては困るというのだ。 
仕方なく、千里は今までどおり母屋でメイド長を勤め、合間に別棟の様子も見にくるという掛け持ちをするようだった。 
その他のメイドは、小雪と一緒に働いていた者だとなにかと気を使うだろうということで、母屋で今年採用した新人が二人と、 
少し年上のベテランがメイド長として来てくれるそうだ。 
雑用や力仕事は母屋の使用人が兼任するとか、コックは母屋から一人、とか、毎日のように康介がぼくに報告する。 
小雪が三条から帰ってきたら、正式に婚約を発表してあちこちに挨拶回りをすること、式は年明けになることなど、 
父の書斎に呼ばれることも増えた。 
正直、小雪もいないのにぼく一人にそんな話をされてもさほど心も浮き立たず、一人の時間を小雪を思って過ごすのも 
女々しい気がして、秘書から本や資料をもらって勉強に当てることにした。 
最初の晩に電話がなくてぼくが拗ねて以来、小雪はきちんきちんと電話してきてくれた。 
そばでいつも子どもたちの声がするのであまりゆっくり話せないのが不満だったけれど。 
「ですが、個室をもらってそこで一人ぼっちになりましても、小雪さんはお寂しいでしょう。お子様たちと賑やかに 
忙しくしているくらいがよろしいのではないでしょうか」 
康介にそう言われて、確かにそうかと思う。 
ぼくだって、夜の時間を持て余しているくらいだ。よその家ではもっと寂しいに違いない。 
これも、初音の気遣いなんだと思うことにした。 
それに康介も秘書も、ぼくが勉強すると言ったらどんどん資料を運んでくるので忙しい。 
「ご結婚なさったら、しばらくはそれどころではないでしょうからね」 
康介は口が悪いけれど、もしかしてぼくが寂しがる暇がないように気を使っているのかもしれない。 
「それで、お前のほうはどうなんだ」 
聞くと、康介はとぼけた。 
「忙しくしております。こちらで受け持っております仕事を健次郎に引き継ぐことになりましたし、父から筆頭執事の仕事も 
教わっておりますし」 
「そうじゃないだろ。昨日も実家へ行っていたじゃないか」 
休みの日だからどこへ何をしに行ってもいいのだが、康介はわずかに顔を赤らめる。 
この辺が、一見ふてぶてしい態度を取ることもある康介の憎みきれないところだ。 
「……実は、祖母の具合がよくございませんで」 
からかうつもりだったので、ぼくは少し反省した。 
「あ、ごめん。そうか」 
「もう高齢なので仕方ありませんが。菜摘がつききりでいてくれますし」 
兄の担当メイドだった菜摘は、うちを辞めて、葛城の家で康介の祖母の介護と家事手伝いをしている。 
康介はずっと菜摘に好意を抱いているのだが、菜摘はまだ兄を忘れないらしい。 
ぼくとしては、康介と菜摘にうまくいってもらいたいのだけれど、こればかりはどうしようもない。 
「私はお屋敷づとめをいたしましたときから、祖父母や親の死に目には会えないと覚悟しております」 
康介が言ったので、ぼくは「芸人かよ」と突っ込んでおいた。 
 
長い長い一ヶ月のあとで、小雪を迎えに行った。 
千里が整えたスリーピースのスーツを着て、康介の運転する車で三条の屋敷へ向かう。 
市武さんと初音に挟まれて、ピンク色のワンピースの小雪がぼくを出迎えてくれた。 
結婚した当初に市武さんが初音にたくさん作ってくれた服を、小雪に合うように手直ししてくれたという話は聞いていた。 
市武さんが手を差し出し、ぼくはその手を握り返して挨拶した。 
初音に促されて、小雪が頭を下げた。 
深く腰を折る、主人に対するメイドの形ではなく、母が父を出迎えるときのようなお辞儀。 
恥ずかしそうに微笑む小雪は、もちろんかわいいけど、きれいという言葉がぴったりくるようになった。 
応接間のソファで、小雪を真ん中にした市武夫妻に改めて頭を下げる。 
「……ありがとうございます。小雪を、ご指導くださいまして」 
基本的なマナーやしきたりはできても、女主人としての振る舞いはまた別のものだ。 
小雪は、見事にそれを身につけていた。 
「小雪さんは完璧でした。初音がうちに嫁いで、最初からなにも困らなかったわけがわかりましたよ」 
市武さんが言い、小雪さんと別れるのが寂しくなりました、と初音が涙ぐむ。 
少しの間、話題が途切れた。 
ぼくは、今日一番大事な、これを言うために来たという言葉を唇に乗せる。 
「……三条さん。黒田小雪を、私にいただきたくお願いに上がりました」 
市武さんが頷いて立ち上がり、小雪の手をとって立たせる。 
ぼくらはそれぞれに立ち上がり、市武さんは小雪を僕に引き渡した。 
「どうぞ、よろしくお願いいたします」 
こうしてぼくは正式に三条から小雪をもらった。 
一ヶ月、我慢したのはこのためだ。 
ようやくぼくは、誰にはばかることなく、小雪を自分のものにしたんだ。 
ぼくが小雪の手をとると、緊張のせいで冷たくなった指先が握り返してきた。 
「その服、よく似合うね」 
もう目を潤ませている小雪が、小さな声でかろうじてありがとうございますと答え、初音が嬉しそうに微笑む。 
「わたくしが三条に参りました折に、旦那さまが誂えてくださったのですけれど、三人も子どもを産みますとさすがにもう」 
見たところ、初音はちっとも変わらないけど、やはりちょっとは体型も変わるのだろうか。 
小雪は初音より小柄だから袖も丈もずいぶん直したのだろうけど、まるで初めから小雪のために作ったようにぴったりだ。 
「どうぞ、どうぞ小雪さんをよろしくお願い申し上げます」 
小雪を連れて帰るという時になって、初音がついに泣き出し、市武さんが笑ってその肩を抱いた。 
 
小雪を連れて屋敷に戻り、父と母に挨拶してから、小雪を連れて改装された別棟に向かった。 
改装前に見たときとは別の建物のようにきれいになっている内装に、小雪が驚き、康介が自慢げに案内する。 
「空調もすっかり取り替えましたし、これで冬は暖かで夏は涼しく過ごせます。水回りも全部新しくなりました。 
お部屋もすべて新しく内装しまして、お廊下も」 
「……康介、康介」 
ぼくが呼ぶと、康介が足を止める。 
「はい」 
「お前はね、ものすごーーく優秀で頼りになる執事なんだけど、ひとつ問題がある」 
「はい?」 
「こういうときは、もうちょっと気を利かせるべきなんじゃないかな」 
なんせ、ぼくと小雪は一ヶ月ぶりに再会したんだから。 
康介が苦笑した。 
「そうでした。失礼いたしました。では、食堂の方で使用人たちがご挨拶をいたしますので、そちらまでご案内いたします」 
なかなか二人きりにはなれないらしい。 
別棟の中の案内だけは打ち切って、ぼくらは食堂に行った。 
千里を筆頭に、四人のメイドが並んでいた。 
メイド長と新人の若いメイドが二人の他に、見慣れないメイドが一人立っていた。 
「直之さまはご存知かと存じますが」 
改めて言われてみて、ぼくはちょっとびっくりした。 
「……七緒?」 
「ご無沙汰いたしております」 
腰を折ったのは、菜摘の前に兄の担当メイドを務めていた七緒だった。 
今までどうしてたのかと聞くと、七緒はにっこり笑った。 
16から二十歳までの兄の担当を勤めた七緒は、担当メイドが菜摘に交代してから間もなくうちを辞めた。 
それから人の紹介で一度お嫁に行き、息子を一人授かって幸せに暮らしていたのも束の間、一年前に夫を亡くしたのだという。 
「この先をどうしようかと思っておりましたときに、千里さんに通いでお勤めしないかとお声をかけていただきました」 
ブランクがあるとはいえ、うちのことをよく知っていてくれる七緒なら安心だ。 
母屋の兄と顔を合わせることもあるかもしれないと思ったけれど、千里が連れてきたということはもう七緒に心配するような 
わだかまりはないのだろう。 
「新メイド長のもと、精一杯お勤めさせていただきます。旦那さまも奥さまも、ご安心くださいませ」 
うちにいたころの七緒をよく知っているわけではないが、結婚出産死別を経てずいぶん頼もしくなったようだ。 
頼もしいメイドも加わって、ぼくらの新婚生活が整っていく。 
 
そうして、それからぼくらはやっと新しい夫婦の居間で二人きりになれたのだ。 
ドアを閉めて、ぼくはまず小雪をぎゅうっとした。 
小雪も、ぼくをぎゅうっとしてくれた。 
「おかえり、小雪」 
「……はい」 
ああ、小雪だ。 
本物の、小雪だ。 
新しいソファに初めて一緒に座ると、小雪は嬉しそうにちょっと恥ずかしそうにぼくを見上げた。 
「本物の、直之さまでございますね…」 
「うん、ぼくも今そう思った」 
服や髪は少し変わったかもしれないけど、中身は小雪だ。 
「小雪がいなくて、すっごく、すっごく寂しかった」 
メイドの制服ではない小雪は、なんとなく膝に乗せてはいけないような気がして、ぼくは小雪の肩を抱いて引き寄せた。 
「はい、……わたくしも、寂しゅうございました」 
ん? 
「え、なに」 
聞き返すと、小雪は小さな声でくりかえした。 
「わ、わたくし、も」 
すごい、違和感。 
「それ、三条さんで直されたの?」 
確かに、『奥さま』らしい言葉遣いだけど。 
「あ、あの、あの、おかしゅうございましょうか……」 
「んー……、おかしくはないけど……なんか変」 
小雪は、もっとこう、小雪らしいほうがいい。 
ぺた、っと胸に触ると、小雪がきゃっと声を上げた。 
そう、このくらいがいい。 
「あ、あの、あの……。……あ」 
「ん?」 
「あ、あのとか、そのとかも、あまり使わないようにと」 
「そんな小雪はつまんないな」 
「いえ、いけません、これからは、直之さまに恥ずかしい思いをさせてしましますから、小雪はちゃんと、あの」 
一生懸命言いながら、小雪は両手で口を押さえた。 
「また、言ってしまいました……。三条さまのお宅では、ちゃんとできておりましたのに……」 
ぷっと笑ってしまった。 
「ぼくもね、会社やお父さまの前では、ちゃんと『私』って言ってるんだよ」 
「え、そ、そうなのでございますか」 
「うん。だから、小雪もぼくと二人の時は、今までどおりがいいな」 
「……は、はい……」 
小雪がぼくの胸にすり寄ってくる。 
「ね、三条さんではよくしてもらった?辛いことはなかったかい?」 
「はい、あの、小雪は、三条さまのお屋敷では、メイドのお勤めはございませんでしたのですけれども、あの」 
「うん?」 
「最初の日に、あの、まず……い、いちごはいけないとご注意くださいました」 
立て続けにぷっと笑いそうになって、ぼくは咳払いしてごまかした。 
三条さんの屋敷に行く日、小雪は千里の選んだツーピースドレスの下に、いちご模様の下着をつけていたのか。 
ぼくが、一番好きないちごのぱんつ。 
小雪がそれを選んだ気持ちを想像する。 
ぼくが笑いをこらえているのがわかったのか、小雪はちょっとだけ唇を尖らせた。 
「あの、着るお衣装に合わせまして、お色ですとかラインですとか、選ばなければいけないのでございます。初音さまも、 
メイドの制服の時は気にしたことがなかったとおっしゃいましたのですけれども」 
「うん」 
笑ってはいけないと思うので、返事が短くなった。 
小雪はちょっとの間ふくれていたけれど、すぐになにか思い出した。 
「あ、あの、ですけれども、初音さまに、いろいろと教えていただきました、あの、直之さまのことですとか」 
「ぼくの?」 
「はい、内緒ですよとおっしゃって」 
なんだろう。 
初音がぼくの担当メイドだったのは、ぼくがやんちゃな盛りの十代後半の4年間。 
ぱっと思いつくだけでも、相当なことをやらかしている。 
「なんだよ、なにを聞いてきたの?」 
ふふふ、と小雪が笑った。 
「内緒でございます」 
このっ、と小雪をソファに倒してくすぐると、小雪はきゃっと叫んで逃げようとする。 
「やんっ、もうっ、直之さまのいじわる……」 
「小雪が先にいじわるを言ったんじゃないか。初音さんと内緒の話をして、ぼくのことを笑ってたんだろ。ぼくが毎日 
どんなに寂しい思いをしてたかも知らないで」 
小雪が、ぴたっと動きを止めた。 
ぼくに押さえつけられてソファに倒れたまま、真剣な顔でぼくを見上げている。 
「……小雪も、寂しゅうございました」 
ああ、もう駄目だ。 
ぼくは、一ヶ月ぶりに小雪にキスをした。 
小雪が応えてくれる。 
 
腕の中に、小雪がいる。 
すぐに抱くのがもったいなくて、ぼくはずっと小雪を抱きしめたままだ。 
「…ぼくも、がんばってたんだよ」 
「……直之さまも?」 
「うん。小雪がいない間、ずっと千里がぼくの世話をしてくれたんだけどね」 
小雪の髪を撫でながら、ぼくは幸せでたまらない。 
「千里は小雪みたいにぼくを甘やかしてくれないからね。朝だって、いきなり大きな声でお目覚めくださいませって言うし、 
顔を洗うのが遅いとか、おヒゲの剃り残しがございます、とかうるさい。ネクタイも結んでくれないし、お風呂だって 
いっつもちょっとだけ熱いんだ」 
「まあ」 
子どもみたいだと笑うかと思ったら、小雪は悲しそうな顔でぼくを見上げた。 
「直之さまに、そのようなご不自由をおかけしまして、小雪は……」 
しまった。 
小雪にさせたいのはこんな顔じゃない。 
ぼくは小雪にキスをした。 
小雪も、ぼくをぎゅうっとしてくれる。 
「だから、小雪が帰ってきてくれてほんとうに嬉しい。小雪が何もしてくれなくても、小雪がぼくのそばにいてくれるだけで、 
とても嬉しい」 
それが、ほんとうの気持ち。 
強く扱うと壊れてしまうかのように、ぼくはそうっと小雪を抱き寄せた。 
「小雪が、好き」 
小雪が、ぼくの上になった。 
両手がぼくの胸の上ですべる。 
何度も指が乳首でひっかかり、うずくような気持ちよさが上がってくる。 
小雪が身体を伏せて、ぎこちなく吸い上げる。 
いつもぼくが小雪にしていることを、そのままなぞる。 
ぼくは小雪を愛撫するのが大好きで、自分も気持ちよくなってしまうのだけど、小雪はどうなんだろう。 
小雪の脚の間に手を入れてみると、小雪がきゃっと腰を浮かせた。 
「あん、いけません…、小雪がいたします……」 
寝転んだまま、下腹部に顔をうずめる小雪の頭に手を乗せる。 
小雪が一生懸命、しゃぶってくれる。 
「ん、あむ、んんっ」 
口の中に収めきれなくなると、手を添えて裏を舐め上げる。 
「く……、うあ……」 
思わず声が漏れてしまった。 
「ん、な、なおゆきしゃま……」 
「ありがとう、すごくよかった……」 
小雪の腰をつかんで引き起こし、今度はぼくが上になる。 
秘密の場所に指を差し込むと、ぬめっとした。 
「小雪も、濡れちゃったね?」 
ぱっと頬を染めた小雪が、顔をそらす。 
「あ、あの、……やん」 
小雪の硬くなった乳首をくすぐりながら、ベッドサイドの引き出しから避妊具を取り出した。 
まだ無理かなと思いながらそこに当てると、ぼくを受け入れる準備ができていた。 
「うんっ……」 
小雪が目を閉じる。 
ゆっくり動く。 
ああ、暖かい。 
小雪が、ぼくを締め付ける。 
片脚を高く上げさせて、奥に当たるほど突くと、小雪が声を上げる。 
「あ、あ…、んあ…、あ、あんっ、やっ」 
後ろ向きにすると、ちょっといやがる。 
慣れない体位はだめらしい。 
小雪はぼくに正面から抱きついてキスをねだった。 
「な、おゆきさまの、お顔を、拝見できません、のは、あの」 
ぼくは小雪の脚を抱え、小雪の顔を見ながら速度を上げた。 
じゅぶじゅぶと、はしたないほどいやらしい音。 
小雪の身体が持ち上がる。 
「はぁ……。きもちいい……?」 
「あ……あ、あ」 
返事ができないらしく、小雪がぎゅうっと目をつぶった。 
ぼくと小雪は、仲良く一緒に一番気持ちよくなれた。 
小雪がそばにいてくれる幸せを、かみしめて。 
 
その夜、ぼくは小雪をぎゅっと抱きしめて、小雪もぼくに抱きついて、ぼくらは一緒に眠った。 
 
結納と式の日取りが、決まった。 
 
 
『メイド・小雪 17』 
 
結納が行われた後は、大忙しだった。 
 
結婚式や披露宴、招待客や席次、挨拶や乾杯の音頭やスピーチなど、康介がどんどん草案を出してくる。 
兄に比べてこじんまりしたものになる計画を見て、小雪がうつむいた。 
「お相手がちゃんとしたお嬢さまでしたら、……もっと大きなお式になりましたのに」 
「どうして?どんな大きな披露宴をやったところで、隣にいるのが小雪じゃなければ意味ないよ」 
ドレスのカタログを何冊か持ってきた千里と、料理の見本写真を持ってきた康介が、聞こえないふりをした。 
「やはり、小雪さんにはこういったデザインの方がよろしいかと」 
千里が開いたドレスのカタログを、康介までも覗き込んだ。 
カタログでイメージを絞り込んでから、サンプルを試着して、最終的にどのように仕立てるか決めるということだった。 
千里は、華奢な小雪の体型をきれいに見せるデザインがよろしいと言う。 
康介はどう思う、と聞くと、康介が慌てて別のカタログを隠した。 
「……なにそれ」 
「いえ、こちらはデザイン違いです」 
無理やり引っ張り出すと、裾が大きく膨らんだタイプのドレスが並ぶカタログだった。 
「ふうん…、菜摘は背が高いから似合いそうだね」 
康介がこんなに一気に赤面するのを、初めて見た。 
千里はちょっと眉を上げるだけで何も言わず、試着へ行く日取りなどを小雪と確認している。 
「で?着せてやれるの?」 
小声で聞くと、康介はものすごく康介らしくない慌てぶりでぼくに黙るように頼んだ。 
「そ、それはのちほど」 
うん、ぼくもずいぶん勝率が上がってきたようだ。 
 
千里と康介が下がると、小雪はたくさん並べられたカタログを片付けた。 
「……父が、身分違いだと申しました意味がわかるようでございます」 
小雪がそんなことを言うのは初めてだったので、ぼくはちょっとびっくりした。 
主人とメイドという立場の違いはぼくも初めから考えたし、財産はなくても由緒正しい小雪の実家の家柄を知ってからは、 
逆に同等くらいの気持ちでいた。 
母屋のぼくの部屋や離れの使用人部屋から二人で別棟に引っ越したり、具体的に式や披露宴や挨拶回りの予定ができてきた 
ことで、いろいろ不安になってきたのかもしれない。 
三条さんのお屋敷にいたときも、市武さんの知人からお預かりしている娘さんという紹介で、初音と一緒にご婦人方のお茶会や、 
歌舞伎の鑑賞会に出かけることもあったらしい。 
食事やパーティーの社交のマナーを身につけているとはいえ、実際にご夫人たちに混じってお付き合いをするというのはまた 
別で、そこに身分の差のようなものを感じていたんだろうか。 
ぼくは小雪の隣に座った。 
「マリッジブルー?」 
「……そのようなことでは、ございませんのですけれども」 
メイドの制服を着なくなった小雪は、少し大人びて見える。 
それでもぼくは、メイドのときと変わらず小雪の頭に手を乗せた。 
「心配かい?」 
こくん、と小雪が頷いた。 
「小雪は、五年もメイドをいたしましたのに、内のことしか存じませんで、お客様のお名前をお聞きしましたら、おうちや 
お仕事のことを覚えておりますのに、お会いしましてもお顔がわかりませんでしたり……」 
「ぼくだって人の顔を覚えるのは苦手だよ。何度か会っていれば自然に覚えるし、何度も会わないなら覚えなくてもいいんだよ」 
ぼくが、ちょっとしたパーティや交流会でも、小雪が客の誰かに目を止められるのを恐れて小雪を人前に出さなかったのも、 
悪かったんだろうか。 
「……はい」 
三条家から戻って以来、ぼくに新しく担当のメイドをつけるのを小雪が嫌がったので、ぼくの世話は今までどおり小雪がして 
くれている。 
元気がないとは思っていたけれど、ぼくも忙しくてついつい小雪を気遣うのがおろそかになっていた。 
帰りが遅いときも、もうメイドのお勤めをしておりませんから眠くございませんとぼくを待っているのも、あまり気にしな 
かった。 
だから、出かけるときの見送りも、七緒が「もう中にお入りくださいませ」と言ってもいつまでも玄関に立っているとは 
そう聞くまで知らなかった。 
 
別棟の小さな食堂で、遅い夕食を取っているときだった。 
食事中に携帯電話が鳴り、廊下に出て話をした。 
披露宴で友人代表のスピーチを頼んだ幼馴染の聡からで、スケジュールを確かめに部屋まで行ったりして、少しだけ話が 
長引いた。 
話が終わって、食堂に戻ってぼくはひどく驚く。 
途中で食事をやめた小雪が、テーブルについたままぽろぽろと泣いているではないか。 
「小雪?どうした?」 
慌ててナプキンで涙を拭いてやると、小雪は小さくしゃくりあげる。 
「な、直之さまが、小雪のことを、お、お嫌いになって、どこかへ行ってしまわれた、のかと……」 
ぼくは呆然とした。 
電話が鳴ったのは小雪も知っているし、ちょっと中座するねと言って廊下に出たのだ。 
話が長くなったとはいってもせいぜい10分だ。 
それがどうしてぼくが小雪を嫌いになったなどという考えに結びついたのかがわからなかった。 
そんなわけはないよ、披露宴の打ち合わせだったんだよと小雪をなだめたけれど、もうそれ以上は食事が喉を通らないよう 
だった。 
それから、小雪はぼくが家にいる間中、ぼくの姿を探すようになった。 
部屋の外で康介とちょっと話をしてると部屋の中で涙ぐんでいるし、母屋の方へ行って戻りが長くなると、表玄関に出て 
待っている。 
「風邪を引くじゃないか」 
心配して言うと、小雪はうつむいた。 
「……で、でも、あの、もし、お戻りにならなかったら……」 
そんなばかなこと、とわざと笑って、冷たくなった小雪の手を包んで家の中に戻りながら、ぼくはどんどん心配になった。 
もうずっと、小雪から笑顔が消えていた。 
「ぼくはどこにも行かないから、安心しなさい」 
部屋の中で手を握っていたり、ぎゅっとしてあげている時だけ安心しているようで、落ち着いている。 
何気なく七緒に聞いてみても、特に変わった様子はないというから、ぼくが家にいるのに視界に入らない時に不安になる 
ようだった。 
このままでは困る。 
腕に絡み付いてくる小雪の頭を撫でながら、ぼくは途方にくれた。 
 
週末、ぼくと小雪は披露宴の招待状を持って三条さんの屋敷に出かけることにした。 
小雪がお世話になったのだし、直接お届けした方がいいとぼくが言ったのだけれど、ほんとうはマリッジブルーというだけで 
片付けられないような小雪の変化について相談したかったのだ。 
ぼくと一緒にいると変わったところがないように見える小雪は、久しぶりに合う市武さんの子どもたちと遊び始め、 
ぼくはそれを見ながら話を切り出した。 
情緒不安定とも見える、最近の小雪について。 
市武さんと初音は黙って話を聞き、少し考えてから初音が言った。 
「やはり、マリッジブルーの一種なのだと思います」 
でも、メイドはぼくがいない間は小雪はなにもおかしな様子がないと言うのに。 
「小雪さんは、今までメイドとしてお忙しくしてらっしゃいましたでしょう。それが、今度はまわりのメイドが自分のために 
忙しくしております。メイドはメイド同士でおしゃべりをしたりもいたしますが、そこに加わることもできません。 
今まで直之さまのお仕度をして送り出していたのに、自分が仕度をしてもらって出かけなければなりませんでしょう」 
確かに、ぼくの婚約者という立場で、小雪はあちこちの家に呼ばれたり、誘われたりすることがある。 
立ち居振る舞いは問題ないとは思うけど、好奇心いっぱいの有閑マダムたちに囲まれては気苦労もあるだろうな。 
「わたくしも、お客様に気を利かせたつもりが、さすが元メイドと褒められたことが何度もございますの」 
「え?」 
ふふ、と初音が口元を隠して笑う。 
今ではどこからどう見ても、三条の若奥さまになっている初音も、最初はやはり辛い思いもしたのか。 
「皆さま、ご不自由なくお育ちになりました方たちでございましょう、悪意はございませんの。思ったままを口になさる 
だけですけれど」 
「……でも小雪はきっと、傷つく」 
自分が、ぼくの家にふさわしくない嫁なんじゃないかって、ぼくの足を引っ張るんじゃないかって、いつかぼくが小雪を 
嫌いになるんじゃないかって。 
「どうしたらいいんだろう……」 
奥さまたちの誘いを全部断って、小雪を家に閉じ込めて、公の席に出さないようにして、そんなことがずっとできるはずはない。 
社交は、小雪の新しい仕事なんだ。 
初音の子どもたちが、小雪の背中に乗って遊びだした。 
家柄とか出自とか、そんなものがなにかも知らない子どもたちは、純粋に小雪に懐いている。 
小雪が、久しぶりに声を立てて笑っている。 
こら、小雪にしがみつくな。どさくさにまぎれて胸に触るな。それは、全部ぼくのものだ。 
「小雪さんが、なにを心配してらっしゃるのかお尋ねになったらいかがでございましょう。具体的に直之さまがなにか 
してさしあげられないとしても、ご理解してくださっているというだけで随分お気持ちが違うと思いますわ」 
子どもと遊んでいる小雪を見て、初音も微笑む。 
「……そうかな」 
「大好きな方が、わかっていてくださると思えばがんばれると思いますのよ。いずれ慣れることでございますし」 
初音の隣で市武さんもにっこりしていた。 
「奥さまも、そうでしたか」 
聞くと、初音は少し頬を染めて市武さんを見上げる。 
「ええ、そうでございましたね、あなた」 
わかっていたつもりだけど、この結婚ではぼくなんかよりずっと小雪のほうが大変なんだ。 
小雪を守ってやるのは、ぼくしかいない。 
 
「三条さんのお坊ちゃんたちに、すっかり懐かれたね」 
家に帰ってそう言うと、小雪はぼくの上着にブラシをかけながらちょっと首をかしげた。 
「それはあの、小雪が子どもだからでございましょうか」 
「そうだね。小雪はちっちゃいから」 
まあっ、と小雪が膨れた。 
三条さんの家で子どもたちと遊んで気分が引き立てられたらしく、表情が豊かだ。 
「こっ、小雪は、お坊ちゃまたちよりは、大きゅうございましょう?」 
大真面目で、訴えるようにぼくに言う。 
思わず、小雪を抱きしめた。 
「……直之さま?」 
「ごめんね」 
「は、はい…?」 
ぎゅうっとした。 
「……む、きゅっ…」 
もっともっと、小雪を大事にするから。 
 
週末、ぼくは予定をキャンセルして小雪を連れ出した。 
行き先を告げなかったので、小雪は慌しく七緒に手伝われて仕度をした。 
「どちらに参りますのですか?」 
不思議そうにしていた小雪も、車の中からぼくが指差した先にシンデレラ城を見て、目を丸くした。 
「ディズニーランドでございますか?今日は小雪を、ディズニーランドにお連れくださるのですか?」 
運転席の康介が聞いたことがないほど、小雪は大きな声で言った。 
初めて小雪をディズニーランドに連れて行ったのは、もう何年前だろう。 
その後も何度か一緒に行ったけれど、ぼくが仕事をするようになってからはなかなか時間が取れなくて、久しぶりの 
ディズニーランドだ。 
「ほんとうでございますか?このまま通り過ぎたりは……」 
車が駐車場に入って、小雪は両手で自分の頬を包む。 
「ど、どういたしましょう……」 
小雪は、ディズニーランドが大好きなのだ。 
ずっとずっと憧れていて、でも行く機会がなくて、行きたくて行きたくて。 
ぼくが誕生日にディズニーランドに行こうと言ったとき、小雪は眠れないほどだったのだ。 
最初の一回を最後だと思って、一生の思い出にすると言ったのがいじらしくて、ぼくはその後も季節ごとに小雪を連れ出した。 
シーにも行ったけど、小雪はやっぱりディズニーランドが好きだという。 
「今日は、ミッキーと写真が撮れるかな」 
そう言うと、窓の外を夢中で見つめていた小雪が振り返る。 
今まではドナルドやグーフィーと写真を撮ったことはあったけれど、ミッキーとミニーはいつも混んでいたり見つから 
なかったりで一緒に写真が撮れなかったのだ。 
「撮れます。あの、今日はきっと、ミッキーに会えると思いますのです」 
車が止まれば飛び出していきかねない小雪の手を握って、ぼくは言い聞かせた。 
「あんまり走り回っちゃいけないよ、小雪はちっちゃいから迷子になったら見つからない」 
運転席で康介がまた笑いをかみ殺している。 
「だいじょうぶでございます、小雪は携帯電話を持っております」 
だからっていなくなられては困る。 
ぼくは最初のときに小雪が買ってくれた、飴色になった革のストラップのついた携帯をポケットの上から叩いた。 
「でも、電源を切っておくからつながらないよ」 
「……え、え、え?」 
急だったのでチケットの用意がなく、康介が買ってまいります、と車を降りた。 
「で、電源を切ってしまわれますのですか?あの、あの」 
二人きりになった車の中で、ぼくは小雪の耳もとでささやいた。 
「誰かから電話がきたら邪魔だろ?だから、小雪はぼくの手を離さないんだよ」 
ディズニーランドに舞い上がっていた小雪が、ぼくをじっと見上げる。 
「……はい」 
この笑顔が、見たかったんだ。 
この笑顔を、大事にしたいんだ。 
何度も咳払いをしてから、遠慮がちに康介が車のドアを開けた。 
「閉園の時間に迎えに来てくれ」 
ぼくが言うと、最後のパレードまで見ていけると知って、小雪がぼくの手を握る。 
「時間までは、実家にでも行っているといいよ」 
康介が困ったように笑った。 
「お気遣い、恐れ入ります」 
 
「結婚したら、年間パスポートを買おうか」 
ゲートをくぐりながら、小雪に言う。 
「え、え?」 
「そうしたら、ぼくだって小雪をディズニーランドに連れてくるのを忘れたりしないだろ。毎月だって通わないと、 
って思えるんじゃないかな」 
アトラクションに向かって走るカップルから守るように、小雪の手を引き寄せた。 
「で、でも、直之さまはお忙しゅうございますし…、あの」 
ぼくは、園内がよく見渡せるベンチに腰を下ろした。 
「ね、小雪はぼくのお嫁さんになるのがいやになっちゃったりしてないよね?」 
隣に座ってちょっとくっつくように動いた小雪が、ぼくを見上げる。 
「そ、それは、あの、な、直之さまが、小雪をお嫁さんにしてくださるのを、お、おいやに」 
「ならないよ」 
小雪にはもっと、自信をもってもらいたい。 
「小雪は、ぼくのお嫁さんになったら、奥さまとしていろいろしなくちゃならないこともある。三条さんの奥さまみたいにね」 
「……はい」 
「きっと小雪は、家の中にいてぼくの世話だけをしてくれてた時よりずっと忙しい。いずれ赤ちゃんだってできるだろうし、 
そうなったら小雪はもっと大忙しで、ぼくのことなんかほったらかしになるよ」 
「そ、そのような、小雪が直之さまのことを、そんな」 
「うん、それはぼくも困るんだ。他のメイドに仕度をしてもらうのはいやだからね」 
「小雪は、ちゃんといたします、直之さまのお世話も、あの、お付き合いも」 
「……うん。そうしてもらわないと、困る」 
近くで、歓声が上がる。 
「今までぼくが勉強や仕事で忙しかったとき、小雪は助けてくれたよね。ぼくが余計なことに煩わされずに済むように、 
手伝ってくれたろ」 
「…そ、それは、小雪はメイドでございましたし……」 
「うん。だから、今は小雪にも七緒がいるじゃないか」 
少しずつうつむいてしまっていた小雪が、また顔を上げた。 
「お出かけのときに、着ていくものを選んでもらったり、今日は誰が来るのか、どんな集まりなのか、どういう風に振舞って、 
誰にどう挨拶したらいいのか、どんなお話をしたらいいか、七緒や康介に聞いてごらん」 
「そ、そんな、そのようなことまで……」 
「だって、それがメイドや執事の仕事なんだよ。忙しい主人に代わって、そういうことを準備してくれるのが七緒や康介なんだ。小雪は自分でなんでもするんじゃなくて、使用人が働きやすいようにしてあげないと」 
「あ、あの、あの、こ、小雪は、直之さまのメイドで、とても働きやすうございました」 
「じゃあ、小雪は七緒がどうしてほしいかよくわかってるじゃないか。いい女主人になれるよ」 
園内の賑わいの中で、ぼくは小雪と並んでベンチに座り、楽しそうな客たちやアトラクションやパレードの音を遠くに 
聞いていた。 
「そ、そうでございましょうか……」 
「それでも困ったことがあったり、いやなことがあったりしたら、ぼくに話してくれればいいよ。今日は七緒の仕度が遅くて 
いらいらしちゃった、とか、お茶会でどこかの奥さまが全部の指に指輪してたとか、しゃべりすぎてうるさかったとかね」 
小雪が、ちょっと笑う。 
「まあ、そのような……」 
「いいじゃないか。それを聞いてぼくがどうする、とかじゃなくて、ただおしゃべりしてくれればいいんだよ。そしたらぼくも、 
その奥さまはご主人もファッションの趣味が悪いんだよとか言ったりさ。それでいいんじゃないかな」 
小雪が、少し考える。 
「あ、あの。先だって、三条さまの奥さまがお花をなさるのでございますけれども、その集まりに小雪もお連れくださいました」 
「うん」 
「その時に、あの、国林さまとおっしゃる奥さまが、黄色いお花のまわりに赤い小さいお花をあしらったコーディネートを 
なさいました」 
「うん」 
「あの、あの、国林さまは、お髪を少し赤く染めていらっしゃいまして、あの、小雪の隣にいらした奥さまが、そのお花がまるで、 
く、国林さまのお顔のようだと小雪に内緒話をなさいましたのです」 
その様子を思い浮かべて、ぼくもくすっと笑ってしまった。 
「へえ、ぼくも見たかったな」 
「あの、あの、そういたしましたら、小雪もそのお花が国林さまのお顔に見えてまいりまして、笑っては失礼だと思いましたの 
ですけれど、もうおかしゅうございまして……、腕などつねったりいたしますのですけれど、そうしましたら今度はお隣の奥さまが 
小雪を見てくすくすお笑いになりまして、あの、……大変でございました」 
その時のことを思い出したのか、小雪が笑った。 
「うん、よく我慢したね。ぼくだったら笑っちゃったかもしれない」 
「は、はい、あの……」 
ぼくたちの目の前を、家族連れが通っていった。 
いつか、ぼくたちも子どもを連れてディズニーランドに来よう。 
あのポップコーンのバケツを買って、子どもたちの手を引いて。 
子どもはぼくと小雪の間じゃなくて、反対側を歩かせる。 
だって、小雪はぼくと手をつながないといけないんだ。迷子になるから。 
「あの。そのようなことでも、よろしいのでございましょうか」 
「……うん。いいんだ」 
少し離れたところで、人だかりができている。 
そろそろアトラクションに並ぼうか。 
それとも今日は、ゆっくりあちこちを眺めながらお散歩しようか。 
「なんでもいいんだ。小雪がなにを楽しいと思ったのか、なにをいやだと思って、なにに困っているのか、全部ぼくに話して 
もらいたいんだよ」 
「……ぜんぶ…」 
「全部だ。どんなことでも、全部だよ。そうだな、ぼくの嫌いなところとかもね」 
「嫌い……」 
「そう、小雪はぼくのどこが嫌い?」 
「そ、そんな、小雪が直之さまのどこかを嫌うなどとっ」 
「ほんとう?どこかない?ぼくが朝なかなか起きないこととか、サンドイッチのパセリを残すこととか、靴下を裏返しに脱いじゃう 
こととか」 
小雪がぷるぷるっと首を横に振った。 
「じゃあ、お風呂でくすぐったり、耳にばかりキスしたり、小雪がイっちゃったあとに」 
「なななななな、直之さまっ」 
通行人が振り返って、小雪がぼくに抱きつくようにして言葉をふさいだ。 
「あのあのあのあのっ!」 
「人がいるところで、こういうこと言っちゃうとことか?」 
小雪が湯気の立ちそうなほど真っ赤になって、ぼくの腕にしがみついた。 
「直之さまは、その、そうやって、こ、小雪に、い、いじわるなさいますのです……」 
「嫌い?」 
小雪がまた首を振った。 
「……あ」 
向こうの方でできていた人だかりが少し小さくなっていた。 
「直之さま!あちらに、ミッキーがおります!」 
興奮した声で、小雪がぼくの腕を引っ張った。 
よし。 
ぼくはカメラをつかむと、小雪の手を引いて駆け出した。 
ミッキーマウスが、ぼくたちの方を見た。 
 
ほら、小雪。 
ぼくたちはラッキーだ。 
ぼくらの前途も、洋々じゃないかい? 
 
 
ディズニーランドでミッキーと一緒に写真を撮った日以来、少しずつまた小雪が笑うようになってきた。 
仕事から帰ってきて、今日はどんな一日だった?と聞くと、一生懸命考えて、こんなことでもよろしゅうございますか、 
といろいろなことを話してくれる。 
夕食の後、ぼくが昼に食事をした店の話をしながら、小雪が出してくれた紅茶のカップを取り上げた。 
いつもと少し違う香り。 
飲んでみると、ふわっと口の中に広がる。 
小雪が心配そうに見ている。 
「いかがでございましょう……」 
もう一口、飲んでみる。 
「いい香りだね。ハーブティー?」 
「はい、あの」 
小雪がきれいなビンに入った茶葉を持ってきた。 
「実は、今日、小雪はお出かけをいたしましたのです」 
今朝、予定を聞いたときはなにも言っていなかったから、急な用事だったのだろうか。 
勝手に出かけて叱られるとでも思ったのか、小雪が小さくなっている。 
ぼくは、小雪の頭に手を乗せて撫でた。 
「どこに?」 
「あの、お昼の前に、三条さまの若奥さまがお電話をくださいまして、お茶にいらっしゃいませと」 
初音も小雪のことをいろいろ気遣ってくれているのだろう。 
仲のいい友達になれればいいんだけど。 
「へえ、よかったじゃないか。小雪も初音さんなら慣れてるし」 
「は、はい。それで、七緒さんがご用意くださいましたお菓子を持参いたしましたのですけれども」 
茶葉の入ったビンを、ぼくに見せる。 
「こちらが、その時いただきましたお茶で、ただいま直之さまにお出しいたしましたものでございます」 
三条さんちでもらってきたお茶なのか。 
「ふうん……?」 
「あの、三条さまは、お紅茶にお詳しいのでございます。小雪も紅茶の授業はございましたのですけれども、 
若奥さまはお嫁にいらしてからもいろいろお勉強なさって、外国からお取り寄せになったりしたものをご自分でブレンドなさる 
のですって」 
ぼくには、いつも小雪が入れてくれる紅茶も、ビンの中の茶葉も見た目はわからない。 
でも、確かに今日のお茶はいつもと全然違う。 
「そ、それで、あの、お土産にこのお茶をいただきまして、あの、こ、小雪に」 
「ん?」 
「もし、直之さまがよろしかったら、時々お尋ねして、お茶を教えていただけるということでございました……」 
小雪が手の中のビンを撫でる。 
定期的に三条さんの屋敷を訪ねて、紅茶のブレンドを教えてもらうくらいぼくが反対するわけがない。 
むしろ、そういうところからご夫人たちとの交流に慣れてくれたら、願ったりではないか。 
「いいじゃないか、ちょくちょくお邪魔して教えていただこうよ。ぼくもおいしいお茶が飲めるしね」 
「は、はい……。あの。よろしいのでしょうか」 
「もちろん。そうだ、小雪は千里にお菓子を教わって、随分上手に作れるようになったんだし、今度は何か手作りのものでも 
お持ちしたらいいよ。あちらはそういうものも喜んでくださるんじゃないかな」 
ぼくの知っているお嬢さまたちの中には、どこそこで修行したなんとかというパティシエの作った、というお菓子でなければ 
興味を示さない人もいるけど。 
「でも、あ、あの、小雪は、メイドでございましたし……、あまり、三条さまと」 
ビンを抱いて、小雪がうつむく。 
なんだ? 
「あの……、あちら様にも、ご迷惑では」 
小雪が何を言っているのか、ちょっと考える。 
「それは、初音さんが昔メイドをしていて、小雪もメイドをしていたから、ってことかな」 
「……あ、の」 
「ああ、そうか。意地の悪い人なら、メイドはメイド同士が気が合いますねとか言うかもしれないね」 
「……」 
もしかして、もう言われたことがあるのかもしれない。 
「それで、小雪はそんなことを言われるから三条さんのところには行きたくない?」 
「い、いえいえ、そのようなことは。小雪は、あの、三条さまがとても」 
そうだ。 
小雪は、そんなことで誰かを嫌ったり避けたりするようなことはない。 
ぼくは茶葉のビンを撫でる小雪の手に、自分の手を重ねた。 
「うん、だから、小雪は三条さんのところに行くといいよ。お茶を教わったり、ただおしゃべりしたり、こちらにもお招きしたりね。 
あちらだって、なにか気にしたりはなさらないだろ」 
ほっとしたように、小雪が笑った。 
小雪が、少しずつぼくの奥さんにふさわしく振舞えるようになっていく。 
メイドの頃から、小雪はとても頑張り屋さんなのだ。 
 
 
仕事の合間を縫って打ち合わせを重ねるたびに、結婚式の予定がどんどん決まっていった。 
「なんだかいろいろなことが多うございまして、小雪はもう目が回りそうでございます」 
最終的な確認のひとつを取りにきた康介が差し出した席次の決定稿を手にして、小雪が言った。 
「どれどれ?」 
隣に腰を下ろして、顔を覗き込む。 
「あ、ほんとだ。目がくるんってなってる」 
「え、え、え、ほんとうでございますか?」 
小雪が慌てて目を押さえた。 
康介がいつものように笑いをかみ殺し、ぼくも笑った。 
「嘘だよ、いつもどおりだよ」 
小雪の頬がぷくっとなった。 
「びっくりいたしました……」 
ぼくたちがあまりにいちゃいちゃしすぎたのか、康介が軽く咳払いする。 
「あの、ひとつよろしいでしょうか…」 
「ん、なに」 
聞くと、康介がちょっと言いにくそうに切り出した。 
「……近々、私を通いの勤務にしていただくわけにはならないでしょうか」 
小雪が今度こそびっくりしたようにぼくと康介を交互に見た。 
「また、どうして?」 
「実は、少し前に祖母が亡くなりました」 
聞いてなかったので驚いた。 
母屋の葛城にとっては親だけど、康介には祖母だということもあって報告しなかったんだろうか。 
「それは、大変だったね…」 
康介の祖母の病気療養中、菜摘が介護や家事手伝いをしていたけど、どうしているんだろう。 
「それで、私ですが、祖母の喪が明けましたら結婚いたしまして実家を出たいと思っております」 
「ふうん……、え?」 
「まあ!」 
ぼくより、小雪のほうが反応が早かった。 
「ついに?」 
ぼくが聞くと、康介が申し訳なさそうに頭を下げる。 
「主家の慶事の前に、出すぎたこととは存じますが」 
「いやいや、そうか……。うん、よかった」 
ついに、菜摘が康介の気持ちに応えたんだ。 
「でも、筆頭執事が住み込んでくれないのは心細いな」 
半分本音で、半分からかって言うと、康介が眉を上げた。 
「お許しくださいませ。……ご自分だけお幸せにならずに」 
それはそうだ。 
ぼくは笑いながら、康介を祝福した。 
やれやれ、主人が主人なら、使用人も我慢強い。 
ぼくらは何年も待ったんだ。 
「でも、一時はどうなるかと思ったよ」 
「まあ……、『どうしたって若旦那さまには遠くかないませんのですから、せいぜい精進なさいませ』とは言われております」 
飲みかけた紅茶を噴出すところだった。 
「すごいな。康介、お前……」 
隣の小雪に聞こえないように、声を落とした。 
「Mだろ」 
小雪がきょとんと首をかしげ、康介が苦笑いになった。 
「下賎な言葉をご存知ですね」 
小雪に隠れて、人差し指を唇に当てる。 
紅茶のお代わりを入れてくれながら、小雪はぼくらの内緒話を不思議そうに見ている。 
「直之さまは、……Sでございますね」 
部屋を下がる康介に、むりやりウェディングドレスのカタログを押し付けて持たせてやった。 
 
 
その日は、晴れていた。 
いつか、小雪と二人で車を洗った、あの日のように。 
そして、その日以上に、ぼくらは幸せだった。 
 
ヴァージンロードの途中で、実父の手を離れた小雪が、ぼくの腕を取った。 
指輪の交換のとき、小雪の細い指が震えていた。 
披露宴では、父がいろいろな人に頭を下げながらテーブルを回る姿を見て、胸が熱くなった。 
友人代表スピーチの聡が、ぼくがいかに一途に小雪を想っていたかを力説して号泣し、ブーケトスでは今年還暦だという 
メイド学校の校長が飛び出してブーケをキャッチして拍手喝采を浴び、ぼくも小雪も涙が出るほど笑った。 
この日、小雪は最高に輝いていた。 
きらきらした大きなネックレスが細い首と胸元を飾っていたけれど、その上に、それらに埋まって見えないような小さな 
ネックレスを重ねている。 
この日に、羽のついた雪の結晶を身につけたいと小雪が言ったのだ。 
ほんとうは、ぼくの衣裳の着付けも自分でしたいと言っていたが、時間的にも難しく、小雪は披露宴会場のスタッフが 
ぼくに花婿衣裳を着せるのをしぶしぶ認めた。 
式も披露宴も、ぼくは小雪ばかり見ていたと後から父に苦笑いされ、聡に証拠写真を撮られた。 
たくさん来てくれたお客さまをお見送りして、家族にも挨拶をして、ようやくホテルの部屋でこの日初めて小雪と二人きりになる。 
「校長先生は最高だったね」 
ぼくが言うと、小雪も思い出したようにぷっと笑った。 
「あの、びっくりいたしました。学校の時は、とても怖い先生だと思っておりましたものですから」 
ウエディングドレスを脱いだ小雪は、今はクリーム色のワンピース姿だ。 
和装やお色直しはなしで、小雪は式と披露宴の間中、真っ白いドレスをずっと着ていた。 
カラードレスもたくさんたくさん試着して、どれもかわいくて、ぼくはピンクか薄紫、あとは黄色いドレスの2着を作ったら 
いいと思っていた。 
でも、最後の最後に、小雪はずっと白を着てはいけませんのでしょうかと言い出したのだ。 
純白のドレスで、式と披露宴の間中、ずっとぼくの隣にいたいと。 
小雪は、改めてそのことで、わがままをお許しくださいましたことありがとう存じますと頭を下げた。 
「おかげさまで、披露宴の全部を、小雪は自分で見ていることができました……」 
お色直しが多すぎて、花嫁がほとんど不在の披露宴なら、ぼくも出たことがある。 
「……うん。今日のことは、一生の思い出にしておくれね?」 
ディズニーランドは何度も行くけれど、結婚式は一度きりだから。 
スィートルームのリビングのソファで、小雪はぼくの肩に頭を乗せた。 
「……はい」 
ぼくも、この日を忘れない。 
一生に一度のこの日を。 
あのプロポーズの日から、長い時間がたち、ついにこの日を迎えたのだ。 
「ね。……ぼくのお嫁さんに、ちゅーしてもいい?」 
そう言うと、小雪は顔を上げてにっこりした。 
「…ちゅー、でございます」 
お嫁さんの唇は、柔らかかった。 
舌を入れて絡ませると、どんどん小雪が欲しくなる。 
「…ね、小雪」 
「は、はい……?」 
ぼくの腕に身体を預けた小雪が、潤んだ瞳でぼくを見る。 
「初夜、しようか」 
 
小雪が、ぼんっとなった。 
 
ホテルのバスルームで身体を洗いっこした。 
お湯を泡風呂にして、いい香りを楽しんで、小雪はお掃除なしでお風呂に入りましたと笑った。 
ふかふかのバスタオルで小雪を包んで、ベッドまで運んだ。 
「さ、どうぞ、奥さま」 
腰に巻いたタオルをつまんでそう言うと、小雪は顔を真っ赤にして両手を頬に当てる。 
「あ、あの、あの」 
小雪の隣に腰を下ろして、タオルの端っこをひらひらと動かしてみせる。 
「ね。初夜ができないよ?」 
「……ん、もうっ、なおゆきさまの……っ」 
「いじわる?」 
小雪が僕のタオルを外してくれないので、ぼくが小雪のバスタオルを外した。 
ぷるん、とおっぱいがこぼれ出た。 
お風呂上りでほんのりと桜色に染まった肌。 
耳の後ろに唇を押し当て、耳たぶを舐める。 
その間に両手でおっぱいを探る。 
手の中にすっぽりおさまり、力をこめると弾力が押し返してきた。 
ゆっくり揉みしだいていくと、小雪の手がぼくの背中に回った。 
そっと小雪をベッドに押し倒す。 
明るすぎると小雪が恥ずかしがり、ぼくは少し灯りを落とした。 
身体の滑らかな凹凸が影を作り、美しい。 
手で全身を撫で回し、舌を這わせていく。 
ずっとずっと触れていたい。 
胸の柔らかさも、すらりとした腕も脚も、きゅっとくびれた腰も、おへそのくぼみも。 
そして。 
膝に手をかけて、そっと開く。 
そこに顔をうずめると、小雪がぴくっと震えた。 
指をかけて、間に舌を入れる。 
「ん、あっ……」 
くちゅくちゅと、いやらしい音がする。 
小雪が一番感じるところをわざと外して触れると、腰がうねるように動いた。 
「あ、あの、あ、のっ、あ!」 
焦らすのもかわいそうかな。 
指を一本入れると、熱くからみついてきた。 
中で動かす。 
「あ、あっ!」 
水音が大きくなり、小雪は手でシーツを叩いた。 
指を二本にする。 
「ここ?」 
中を引っかくと、小雪が泣き声になった。 
「やんっ、あ、あん!」 
声を抑えようとして自分の手の甲を唇に押し付けている。 
その手を引き離すと、小雪はぼくの身体を探る。 
小雪が探り当てたペニスは、もう大きい。 
熱さに驚いたように一度手を引き、それからそっと握る。 
ぼくは小雪の隣に横になり、小雪の中をかき回し、小雪はぼくのペニスを弄ぶ。 
「……う」 
気持ちいい。 
「ん……!」 
小雪が反り返って、軽く達したようだ。 
ぼくはベッドサイドに手を伸ばした。 
個包装を取り出し、端を引き裂く。 
「あ、あの……」 
小雪がぼくに抱きついた。 
「ん?」 
ちょっと休みたいのだろうか。 
髪を撫でると、小雪はぼくの胸に顔を押し付けてきた。 
「あ、あの、そ、それを……」 
小雪の背中をさすってやる。 
「そ、それを、いたしますと、あの、で、できませんので、ございましょう……?」 
「……赤ちゃん?」 
確かに、そのための避妊具なんだけど。 
小雪はぼくにぎゅうっとした。 
「あ、あの。さ、三条さまのお屋敷で、あの、お子さまたちがいらして、とても賑やかで」 
「……うん」 
「か、かわいらしゅうございまして、あの、早百合さまも、晴之さまも、あの、あの」 
「小雪も、赤ちゃんが欲しくなったんだ?」 
「……」 
恥ずかしそうに、ぼくの赤ちゃんが欲しいという小雪が、とても愛しかった。 
そうだ。ぼくだって、小雪の赤ちゃんが欲しい。 
小雪にそっくりの女の子が、小雪と一緒にあたふたぱたぱたしているのは、とてもかわいいではないか。 
きっと、楽しい家庭になる。 
「ぼくも欲しい。たくさん欲しいよ。……でもね」 
ぼくは、ぼくのかわいいお嫁さんの手に、封を切った小袋を持たせた。 
 
「もう少し、二人きりで仲良くしていたんだけど。どうかな?」 
 
そう、もう少しだけ。 
そして、ぼくらはかわいい赤ちゃんを授かるんだ。 
賑やかで、楽しくて、幸せな家庭を作るんだ。 
 
ぼくの、小雪と一緒に。 
 

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