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『メイド・小雪』
あわてて食堂に飛び込むと、すでに全員が朝食の席に付いていた。
「おはようございます、お父さま、お母さま、お兄さま」
テーブルの横で頭を下げ、コックが引いた椅子に座る。
待っていたように父が箸を取った。
うちの朝食は和食と洋食が交互に出る。
忙しくてなかなか家族がそろうことがないので、平日の朝食だけは全員で、というのがきまりになっている。
末っ子で下っ端のぼくが、その席に遅れるなんてもってのほかなのに。
「直之さんも二十歳におなりになって、もう大人かと思いましたら。ねえ、正之さん」
兄びいきの母が、味噌汁の碗を取り上げて兄に言う。
「…すみません」
まさか、メイドが起こしてくれなかったので、などという言い訳は出来ない。
初音がなつかしかった。
小雪がぼくの担当メイドになって、5日目。
メイド学校の特別コースを主席で卒業し、半年ほどこの家で働いてしきたりを覚えただけだが、小雪は新人メイドのわりによく仕えてくれる。
ただ、ぼくは週末が近づくにつれて寝起きが悪くなる。
大学やサークルやつきあい、自宅での勉強や家族ぐるみ会社ぐるみの交際なんかが、そんなに疲れるわけではないけど、もとから低血圧ぎみなせいかもしれない。
だから、初音は木曜と金曜はいつもより30分早く起こしてくれた。
ま、小雪はそれを知らないんだから、ぼくがそうしろと言わなければいけなかったんだ。
それが、「メイドを育てる」ということで、二十歳になったぼくの最初の仕事だから。
朝食を終えて食堂を出てくると、廊下で小雪が待っていた。
「あの、申し訳ございませんでしたっ」
頭を下げる。
その横を、ぼくは速度を落とさずに通り抜けた。
「小雪のいたらない点は、なんでもおっしゃってくださいませ、ご主人さま」
小柄な小雪は、小走りになってぼくに付いてくる。
「どんなお叱りでも、お受けしますからっ」
ため息が出る。
これじゃまるで、ぼくがメイドをいじめているみたいに聞こえるじゃないか。
見ると、うっすら涙ぐんでさえいる。
初音はこうじゃなかった。
かゆいところに手が届く、という言葉がぴったりくるくらい、ぼくの考えていることを察して先回りしてくれた。
万一、それが食い違ったとしても、他の使用人もいるこんなところで、半べそかいて追いかけてくるような、ぼくの品格を下げるような真似はしなかった。
もっとも、夜になってからぼくの部屋でみっちりお仕置きをしてやることはあったけど。
あれは、楽しかったな。
玄関で振り返り、小雪からカバンを受け取った。
「いってくる」
「いってらっしゃいませ」
次男坊のぼくには、出かける時も帰ってきた時も、父や兄のように使用人が総出で見送ったり出迎えたりすることはない。
担当メイドだけが、そうしてくれる。
大勢でかしずくように仕える兄の担当メイドより、ぼくの担当メイドのほうが負担が大きいとも言える。
二十歳になって、ようやく自家用車での通学が許され、ぼくは自分でハンドルを握るようになった。
免許は大学に入ってすぐに取ったけど、友人たちと出かけるときには運転しない、という初音の規則があったので、もっぱら運転の練習のための運転で、日曜日に初音を隣に乗せてぐるぐる走り回ることが多かった。
初音が膝の上に地図を広げてナビと比べながら、信号や対向車、車線変更のタイミングなどを指示してくれた。
夏にはキャミソールにホットパンツの私服で、初音は日焼け止めを何度も塗りなおしていたっけ。
エアコンが寒いと、膝にショールをかけて脚を隠してしまうから、ぼくは少し暑いのをガマンして、その代わりサービスエリアでソフトクリームを食べた。
ほっぺたについたクリームを、初音が指で取ってくれた。
その指をそのまま含んだ唇に、車の中でキスした・・・。
ああ、大学の入学祝いにこの車を買ってもらったときも、ぼくはもうひとつグレードの高いのを欲しがったんだっけ。
だけど、初音が分相応なものになさいませ、と言ったんだ。
それから、こっそりとカタログを広げたぼくの耳元でささやいた。
若葉マークのうちは、助手席に乗せるのは初音だけにしてくださいませね。
結局、いまだに助手席には初音以外に誰も乗せていない。
週末だというのに、友人たちと食事をしてもひとりだけ盛り上がれず、店を変えるときに別れて帰宅した。
小雪が出迎えてくれ、鞄を預ける。
部屋に戻ったところで、軽くシャワーを使うことにした。
初音と一緒でないのに、風呂につかるのも面倒くさい。
脱いだシャツを丸めてカゴに放り込んだところで、小雪が立っているのに気づいた。
用を言いつけられるまでそこにいるのだろう。
別に、問題はない。
それが、メイドとして正しい。
初音だったら、ぼくがシャツを脱いだら受け取ってくれて、先にシャワー室にお湯を出してあたためてくれて。
「…小雪」
「はい!」
小雪は、嬉しそうに返事をした。
主人から用を言いつけられないメイドというのは、居心地が悪いものなんだろう。
「今日は、もういいよ。ご苦労さま」
ただそこに立っているのもかわいそうだ、と思ったのだ。
すると、小雪はみるみるうちにしおれたようにうつむいた。
「・・・あの、ご、ご主人さま」
「なに」
「なにが、お気に召さないのでしょう。あの、もちろんいたらないのは存じておりますけど」
チノパンのボタンに手をかけたまま、ぼくは小雪を見た。
「ん?いや、べつに。小雪はちゃんとやってるよ」
確かに、一般的なメイドとして小雪に落ち度はない。
部屋もきれいに掃除されてるし、頼んだことはしておいてくれる。
「…そうですか」
メイド服の前で、小雪は組んだ両手をぎゅっと握り締めた。
「お疲れ様でございました。おやすみなさいませ」
ひとりになって、ちょっとだけほっとした。
バスルームから出て、テレビをつける。
チャンネルをいくつか変えて、バラエティー番組くらいが頭を使わなくてよさそうだと決める。
髪から水がしたたるのでタオルを首に巻いて、ソファに座る。
黙っていても出されていた飲み物が、テーブルにない。
小雪を呼んで言いつけるのも面倒で、ぼくは小型冷蔵庫を横目で見たまま背もたれに寄りかかった。
「直之さま。よろしゅうございますか」
ノックと同時にドアの向こうから聞き覚えのある声がして、ぼくは立ち上がった。
「どうぞ」
二呼吸おいて、ドアが開く。
入ってきたのは、もううちで20年近く働いているメイド。
少し長めのスカートは、ベテランメイドの証だ。
部屋の中に入ってドアを閉め、ウエストの位置で両手を組んで、腰を折る。
「おくつろぎのところ、失礼いたします」
「う、うん。なんだい、久しぶりだね、千里」
千里は、パジャマの下だけはいて、タオルを首に巻いた状態で、あたふたとテレビのボリュームを下げようとリモコンを取り上げたぼくを見て、つつましく笑う。
さすがベテランメイド。
当主の息子に対する礼を尽くしながらも、余裕のある態度。
「もう、外は涼しゅうございますよ。お風邪を召しませぬように」
近づいて、背伸びをするようにしてタオルを取り、髪を拭く。
「うん。ありがとう」
なつかしい匂いがした。
千里の匂い。
千里は、ぼくが小学から中学までの間の担当メイドだった。
ぼくは兄に比べて落ち着きがなく、いたずら好きだったから、相当苦労したはずだ。
担当を初音に引き継いだあとも、初音のような縁がなかったせいもあって、ずっとここで働いている。
千里は、ぼくにパジャマの上を着せ掛けた。
どうも、千里にとってぼくはまだまだ小学生の男の子らしい。
かいがいしくアイスティーを出してくれ、それからぼくを座らせて隣に立った。
「少し、よろしゅうございますか?」
なんだろう。
というか、なにか用があるから来たんだろうな。
「うん」
座って、というとソファの端に静かに腰を下ろして、ぼくのほうに体を向ける。
「小雪が、泣いておりました」
いきなり、言われた。
「え?!」
「小雪がお気に召しませんか。それとも」
ぽかんと口を開けたぼくに、千里は厳しい顔で言った。
「初音と、比べておしまいですか」
「……う」
千里に言われて、気づいた。
確かに、小雪の仕事ぶりには問題はない。
それなのに、なんとなくよそよそしい気がする。
それは、小雪が気に入らないとか、いたらないとか、そういうことではない。
小雪がなにかするたび、ぼくが心の中で初音と比べているからだ。
初音なら、こうしてくれる。
初音なら、こう言う。
初音なら。
「それは仕方のないことでございますよ。初音は4年間も直之さまにお仕えしたのですからね。あうんの呼吸というものもできておりましょう」
「・・・・・・いや、ぼくだって、わかってるよ。最初から、小雪が初音と同じようには」
「ほら、もう比べておいでですよ」
千里の手が、ぼくの前髪を整える。
「・・・あ」
「初音をお忘れくださいませ、とは申しません。でも、もう少し小雪のことも見てやってくださいませ」
「・・・見てるよ。小雪はちゃんと言ったことをやってくれる。一度言ったら、次もやってくれる。時間さえかければ、いいメイドになってくれると思ってるさ」
「そうでございましょうか」
千里は、背筋を伸ばしたままちょっと肩をすくめた。
「失礼いたします」
そう断ってから立ち上がり、ぼくの手を取って立たせる。
「大きくなられましたね」
確かに、背はまだ伸びているらしい。
兄などは、とっくに追い越したぼくを見上げて、「お前はストレスがないから、栄養が頭より身体に行くんだな」と笑うくらいだ。
小さい頃は見上げていたはずの千里が、ぼくの胸くらいまでしかない。
「では、お尋ねいたします。初音は、背がどのくらいございましたか」
質問の真意がわからないまま、ぼくは千里の頭の上、自分の肩の辺りに手をかざした。
「このくらいだよ」
抱きしめた時、顎を上げさせるとちょうどいい具合にキスできる。
「では、小雪はどのくらいでございましょう」
うっ、と返事につまる。
もちろん、小雪を抱きしめたこともキスしたこともない。
ぼくは曖昧に手を上げ下げした。
「こ、このくらいじゃないか?」
千里が眉を上げた。
子供の頃は、この千里のくせが怖かったものだ。
千里が眉を上げたときは、必ずなにかぼくが失敗をした時で、その後は叱られることが多かった。
「では、小雪の利き手はどちらか、ご存知でございますか」
もう一度、言葉に詰まる。
特に違和感を感じたことはないから、右利きじゃないだろうか。
小雪がぼくの頼んだ買い物をメモしたり、荷物を受けとったりするのは、どっちだったかなんて覚えていない。
「小雪の今日のリボンは、何色でございましたか」
リボン?リボンなんかついてたっけ?
「小雪の腕時計のベルトの色は、黒でございますか、赤でございますか」
千里の質問が無茶になってきた。
「メイドの腕時計なんか、気にしたことないよ」
「では、初音の腕時計もご存知なかったのでございますね」
・・・ご存知、だ。
初音は、細くて茶色い革ベルトの、スクエア型の金縁の小さな腕時計をしていた。文字盤は、ローマ数字だった。
「そ、そりゃ、初音は4年も一緒だったんだから。だけど、ぼくだって4、5日めの時は初音の腕時計なんか知らなかったよ」
「直之さま」
千里が、両手でぼくのパジャマの襟をひっぱった。
「もちろんでございます。ただ、わたくしが申し上げたいのは」
千里の顔が、そばにある。
ちょっぴり、齢を取ったな。
ものすごく怖いメイドだったけど、ぼくの担当になった頃の千里は、まだ二十歳そこそこだったんだ。
メイドというより、母のようにぼくの世話をしてくれて、小学生の頃なんかは、千里がいなきゃ夜も昼もあけなかった。
いつまでも変わらないと思ってたけど、間近で見ると、少しだけ小じわがある。
千里は、若くて楽しいはずの20代を、ぼくのために費やしてくれたんだ。
ぼくは、千里を大事にしないといけないのに、まだこうして心配をかけている。
「とにかく、小雪を見てくださいませ。ああ、やってるなー、ではなく、初音ならこうなのに、ではなく、もっと小雪を注意して見てやってくださいませ」
「…千里」
「はい」
「齢とったね、おまえ」
千里が、にっこりした。
「そのくらい、小雪のことを観察なさいませ。小雪は一生懸命でございます。あの子は、いい子ですよ」
「・・・うん」
「それが、直之さまのお仕事でございます。今までは、直之さまの素行が悪ければ初音が非難されましたが、これからは小雪の働き振りが悪ければ、直之さまが非難されるのでございますよ」
「・・・うん」
「ご主人さまと担当メイドとの仲がギクシャクしていれば、使用人たちにはそれがわかります。担当メイドでさえ信頼できないような方を、どうして他の使用人が信頼できましょう」
「・・・うん」
「小雪の良いところを、探してやってくださいませ。小雪を理解してやってくださいませ」
「・・・うん」
二十歳になって、メイドが変わって、車で学校に行けるようになって、いろいろな規則から解放されて、ぼくは大人になったような気がしていた。
なのに、一番身近にいるメイドさえ、泣かせてしまったんだ。
すっかりうつむいてしまったぼくを、千里は昔どおり抱き寄せて、ポンポンと背中をたたいた。
ぼくも昔のように千里の身体に腕を回して、抱きつこうとした。
でも、そうするには千里はもう、ぼくより小さすぎた。
「・・・ぼくには、まだまだお説教をしてくれるメイドが必要だよ、千里」
「なにをおっしゃいますやら。でしたら、必要な時に小言のひとつも言えるように、小雪を教育なさいませ」
ぼくをソファに座らせて、千里はぼくの頭のてっぺんにそっとキスしてくれた。
子供の頃に、してくれたように。
よくできましたね、と言うかわりに、いつも千里はそうしてくれた。
「わたくしに小言を言わせるのは、これを最後にしてくださいませね。担当でもないメイドがこんなことを申し上げるのは、本当はいけないことなのでございますから」
千里の小さな手が、ぼくの肩に置かれ、そして離れた。
「すっかりお邪魔をしてしまいました。おやすみなさいませ」
ぼくは、立ち上がったりせずに、出て行く千里を目で追った。
千里は、ドアのところで振り返った。
「もうひとつ、お尋ねしてもようございますか」
「なんだい?」
「直之さまは、担当がわたくしから初音になった時も、わたくしを懐かしんでくださいましたでしょうか」
ちょっとだけ頬を赤らめてそう言う千里が、かわいらしかった。
「うん。千里が恋しかったよ」
千里は、今まで見たことがないほど嬉しそうに、そして少し寂しそうに笑い、その笑顔がなぜかぼくの胸を締め付けた。
千里が出て行ってから、ぼくは担当メイド直通のインターホンを取った。
「なにか、夜食が欲しいんだけど」
小雪が、肩で息をしながら夜食の乗った重いワゴンを押してきたのは、10分後だった。
見ると、サンドイッチに焼きおにぎり、グラタンにピザ、甘いもので鯛焼きやケーキまである。
「・・・小雪。ぼくはそんなに大食漢に見えるのかい」
じゅうたんに膝をついて、ワゴンから数々の料理を取り出しながら、小雪は首をかしげた。
「でも、ご主人さまがなにを召し上がるかが、わからなかったものですから」
「それにしては、短い時間によくこんなに準備できたね」
熱々のグラタンをそうっとテーブルに置く。
「はい。もしかしてお夜食を召し上がるとおっしゃったら、すぐにお出しできるようにしておきました」
夜食なんて、小雪に頼むのは初めてだ。
「もしかして、毎日準備してたのかい?」
「はい。あの、なにをお召し上がりになりますでしょうか?」
手を止めて、ぼくを見上げる。
うん。腕時計のベルトは、赤だ。
リボンは、ああ、制服の胸についてるのか。これも、赤。
「いい匂いだね。グラタンをもらうよ」
小雪が置いたグラタン皿の前に、腰を下ろす。
「はい、かしこまりましたっ」
ぼくの足元に、小雪がぺたんと座る。
スプーンでグラタンをすくうと、ふうふうと息を吹きかける。
なにをしてるんだ?
「はい、ご主人さま、あーんしてくださいませ」
ぼくは、大げさでなく頭を抱えた。
「ご主人さま?」
「いや、小雪。自分で食べるから」
「え?でも、熱うございますから」
「うん、でもだいじょうぶだよ」
小雪が肩を落とした。
「そうでございますか・・・。申し訳ございませんでした」
そっとスプーンを置く。
そんなに落ち込まれても困る。
膝立ちのまま下がっていく。
小雪の置いたスプーンを取り上げて、ぼくはうつむいている小雪を見た。
――小雪を、見てやってくださいませ。理解してやってくださいませ。
千里の言葉を思い出す。
「小雪」
「はいっ」
ぴょこん、と立ち上がる。
「あのさ。なんで今、小雪はグラタンをふうふうして食べさせようとしてくれたわけ?」
「え、あの、だって、熱うございましたから」
「でも、ぼくだって子供じゃないんだし、熱くたって自分で冷まして食べるとは思わなかった?」
「・・・でも」
とまどったように、小雪は両手をもじもじと動かす。
「ご主人さまがご自分で出来ることをみんなご自分でなさったら、メイドの仕事なんてなくなってしまいますし、それに」
「それに?」
「ふうふうして、差し上げたかったのですもの」
小雪が、耳まで真っ赤にして、そう言った。
「ぼくに?」
「はい」
「もう二十歳の、ぼくに?」
「も、もうしわけありません。でも、あの」
だんだん、小雪を困らせるのが楽しくなってきた。
「そうか、小雪はぼくなんかまだ子供だと思ってるんだね。担当メイドの仕事なんか、子守だと思ってるんだろ」
「そんなことございません!」
「どうだかね。悪かったね、同期の中でも貧乏くじを引かせて」
「ちがいますっ!」
小雪は、主人の話を途中で遮るという過ちを犯したことに気づいていなかった。
「小雪は、小雪は、このお屋敷にお勤めすることになって、初めてご主人さまを拝見しました時から、ずっと、ずっと、こんな方の担当メイドになってずっとお仕え出来たらと」
「・・・・・・」
「でも、ご主人さまには初音さんが担当でいらして、ほんとにすばらしいメイドで、あんなふうになりたいって、そうしたら今度は初音さんがお辞めになって担当が新人から選ばれるっておっしゃって、どきどきして」
小雪の両目に涙が盛り上がってきた。それをこぼすまいと必死で目をしばたいている。
「もう、ご主人さまをお廊下でお見かけしても逃げ出してしまうくらいどきどきして、そうしたらほんとうにほんとうに担当メイドを拝命して、夢みたいで、ご主人様に気に入っていただきたくて」
ついに、ぽろっと涙が一粒落ちた。
「初音さんにいろいろお聞きしたかったのに、全部直接ご主人さまに教えていただきなさいとしか言ってくださらなくて、でもご主人さまは小雪にはなんのご用もなくて、それで、それで、初めてお言いつけ下さったお夜食なのに、小雪は失敗を」
「もういいよ」
これ以上は、罪悪感に勝てそうにない。
ぼくは、座っていたソファの隣をポン、と叩いた。
「ここにお座り」
小雪は、驚いたような顔をして、それからおずおずと近づいてぼくの隣に腰を下ろした。
手をとって、スプーンを握らせる。
「やっぱり、まだ熱いよ。ふうふうしてくれるかい」
小雪が、まだ涙の残る目をぱっと見開いて、それから初めて見る笑顔で言った。
「はいっ!」
とっくに食べやすい温度になっているグラタンを、ふうふうする。
差し出されたスプーンをぱくっと咥えると、それだけで小雪は頬を染めた。
なんだ、けっこうかわいい顔をしてるじゃないか。
初音は美人系だけど、小雪はかわいい系だな。
・・・いけない、また初音と比べてる。
ぼくがグラタンを飲み込むのを待って、また小雪がふうふうする。
「はい、どうぞ、ご主人さま」
差し出されたスプーンを持っているのは、右手だった。
あとで小雪を立たせて、背の高さを測ってみよう。
それから、そのちょっと仰々しい呼び方を変えさせよう。
担当メイドは、担当メイドにだけ許された主人の呼び方があるではないか。
きっと、小雪はぼくのいいメイドになる。
そんな気がした。
――――了――――