金持ちの坊ちゃん専属の召し使い、もの心つく前からその役目を与えられていた。
女である自分が選ばれたのは器量と在る程度成長してからの事を考えてだろう。
質の悪い遊女にいれこむより自分の所で賄った方がましだと考えたのかも知れない。
粗相をしてもかなり優遇された甘い罰しかうけていないのも分かっている。
問題は、未だにシタ事が無い。
立場もあるだろうが皆10かそこらで経験済みだとこの間知った。
「なぁ」
いつもと同じ、机に向かい自分に背を向けている彼に声をかけた。
「どうしたんです? また何か壊したんですか?」
彼は罪を告白させる神父のように優しく答えた。
その言動を見ると自分と2つしか違わないとはとても思えない。
「いや、そうじゃ無くて……」
「お腹が空いたんですか? そこにあるの食べて良いですよ」
傍らにある台を指差して振り返りすらせず返す。台の上には熟した果物が甘い香りを放っていた。
今までそんな事しか彼に言って無かった自分が哀しくもある。
「別に腹が空いてる訳でも無いんだけど……」
「では、何ですか? 貴方が自分の腹具合と物を壊した事以外で話があるなんて、珍しいですね」
彼がやっと振り返った。
「いや……」
顔を合わせると改めて自分の聞こうとしていた事に対し恥ずかしさが先立つ。
「なにがあったんです? 貴方らしくも無い、熱でもあるんですか」
と、彼は手を額に当て様とする。
「ひぇ!!」
思わずその手を叩き、身を引いた。自分の顔が紅潮している事が判る。
「え?」
二人の声がハモった。
唖然とした顔。自分も変な顔をしているだろう。益々顔に熱が集まる。
「な、何でもない!」
叫んで部屋から飛び出した。
何がしたかったんだ?
足早に廊下を歩きつつ自分に聞き返してみる。自分の事をどう思っているのか問いたかった。
簡単な答えだ。
妹、もしくは只のステイタスバロメーター。見せびらかすには申し分ない。ブラボー自惚れ!
言葉遣いさえきちんとしていればそれなりになるだろう。
彼が言葉遣い以外の全ての事は教えてくれたからだ。
ダンスのステップ。礼儀作法。ミサの賛美歌。歌に関しては褒めてくれさえした。
音楽だって2,3曲だが弾く事も出来る。
バイオリンとか言う楽器だけは残念ながら受け付ず、上達しないものだから彼ももう諦めている。
ひょうたん型以外の弦楽器は正式に習った事すら無いため、自己流で適当に弾いているが、
たまに彼から弾いてくれと頼まれる位だから下手では無いのだろう。
自分で弾く方が巧いくせに気紛れに弾かせる。
「だからなんなんだ。簡単だろ? 聞くだけ、だ。何で一々赤くなったり、逃げ出さなきゃならない?」
結局、その日は彼とまともに顔をあわせられず気まずい雰囲気のまま夕食を済ませた。
なんでだろうな。思考がまた堂々回りを始める。
いやだからだろう? 今の関係を壊すのが。
知っているからだ。それを口にすれば、居心地の良い現在を失うことを。
恐ろしいからだろう? 彼から軽蔑されるのが。
自分に手を出さないのが当然だと思っている。子供のように永遠に同じ関係が続くと信じてるからだ。
どこかのお節介な自分が答えてくれる。そうだ。お節介な自分に同意する。当然だ。
厭で恐ろしくて堪らない。彼の傍に居られなくなるのも、ましてや軽蔑されるだなんて。
考えただけでもゾッとしない。
でも、一番恐ろしいのは自分が女に成り下がってしまう事。
思いもよらない言葉に、思わず息を呑んだ。落ち着いてもう一度考える。自分は何を考えている?
彼の特別な存在から只の女になってしまう事。
違う!
違わない。自分が彼の特別である事を捨てられないから、逃げ出した。
それから逃げたんじゃ無い!
他の事なら何でも言えるのに、この感情だけは言えない。
それは、自分が自分である為だ。恥じる事では無いさ。
「違う、違う、違う!」
自分の声で目を覚ました。全身がじっとりと汗ばんでいる。
夜の風がひんやりとして肌に心地良い。広い部屋の中は一言で言えば薄暗かった。
窓から射す月の光だけでは物はその輪郭しか見えない。
「どうしたんです? 怖い夢でも見たんですか?」
影が一つ起き上がり、自分に問いかける。彼には悩みなど無いのだろうか。
無い、と言われれば納得してしまいそうだ。自分が悩んでいるのが馬鹿馬鹿しく思える。
「ん、そんなとこ」
できる限り動悸を抑えいつもと同じように変わり無く答える。暫しの沈黙。
答えを待っているのだろうか。それを知っているのは自分だけだが、答えられるはずも無い。
「ごめん、寝ぼけたんだ」
また暫しの沈黙。もしかしたら殆ど寝ているのかも知れない。
「あー、そうですか? それは痛み入ります……」
さっきより寝ぼけた感じの彼の声は昼の演じているものと違って、とても自然な声に聞こえた。
「そっちの布団、入って良い?」
笑いを堪えながら聞いてみる。
「んー? 構いませんよー。御自由に」
子供の頃と同じように自分の布団を少し持ち上げ、自分を招き入れる。
その仕種は昔と何も変わっていない。
彼の布団に潜り込み、彼の腕の中で安心する。彼が自分をどう思っていようとも、構いはしない。
今は彼の特別で、彼の体温を感じられる距離にいる。
それだけで充分、幸せだとぼんやり感じる事が出来る。
きっと、もう暫くはこのままで居られる。それが幸せ。きっと幸せなんだ。
(終了)