『ある失恋話・前編』  
 
 
 
 学校の北校舎裏で、三原正志(みはらまさし)はひとり深いため息をついた。  
 時刻は五時過ぎ。元々日の当たらない場所がさらに陰の色を深めつつある。残暑の風は  
半袖にも関わらず生暖かい。  
 とりあえず帰ろう。正志は鞄を拾い上げると、とぼとぼと歩き出してその場を離れた。  
 
      ◇   ◇   ◇  
 
 生まれて初めて真剣に告白をした。  
 幼稚園に通っていた頃くらいには、拙い想いを誰かに無邪気にぶつけていたかもしれない。  
 しかし思春期を経て、正志にも明確な恋愛感情が芽生えた。  
 初めての告白の相手は、一学年下の女の子だった。  
 本が好きらしく、休み時間や放課後はよく図書館にいた。図書委員の正志はカウンター席から、  
本を選ぶ彼女の姿をちょくちょく見掛けていた。  
 毎日のように本を借りに来る彼女に、ある日正志は話し掛けてみた。彼女は少し驚いた  
ようだったが、存外はっきりした声で返してくれた。  
 少女の名前は田中亜季といった。  
 二人はすぐに親しくなった。カウンター越しにする会話の中身は本に関することばかり  
だったが、彼女は意外と話上手だった。  
 梅雨が過ぎ、夏休み前には下の名前で呼び合う程の仲になった。その頃にはもう、正志は  
亜季に完全に惚れてしまっていた。  
 彼女は人からの頼み事を断らない人間だった。  
 誰かの世話を焼くことが、誰かのためになることが、とても嬉しそうだった。年下なのに、  
まるで『お姉さん』のようだった。  
 正志にはそれが魅力的に映った。一見おとなしそうに見える彼女の内側を知って、正志は  
もっと亜季に近付きたいと思った。  
 そして正志は、夏休み明けに思い切って告白したのだ。  
 その結果は──  
 
      ◇   ◇   ◇  
 
「だめ、だったんだ」  
 正志の部屋で、ポニーテールの女性が小さく呟いた。  
 正志はベッドに座り込んだまま顔を伏せる。  
 ノースリーブにジーンズとラフな服装をした女性は、困ったように頬をかいた。  
 彼女、天川沙織(あまかわさおり)は近所に住む、正志より三つ上の女子大生だ。明るい  
性格は親しみやすく、正志は小さい頃から付き合いがあった。正志にとっては姉のような  
存在で、今は家庭教師も頼んでいる。  
 そんな彼女に、正志はここしばらく恋愛相談をしてもらっていた。  
 告白をしたのは、沙織の後押しがあったからだ。  
 気持ちを伝えてよかったかどうかはわからない。ただ、後悔はともかく、気落ちしてしまうのは  
仕方のないことだった。  
 沙織はそんな正志に優しく声をかける。  
「大丈夫だよ。すぐにまたいい子に出会えるって」  
「……どうだろう」  
 うつ向いたまま、正志は短く返す。  
 沙織に文句を言うつもりはない。相談に乗ってもらえたことはありがたかったし、勇気を  
出せたのは沙織のおかげだ。だが、今はそんな彼女にさえ、恨み言や愚痴をぶつけてしまいそうで、  
できればそっとしておいてほしかった。  
 しかし沙織は、そんな正志の思いなど介さないのか、止まらず話しかけてくる。  
「ほら、私は正志くんの先生なんだから、勉強を教えなきゃいけないの。辛い思い出は忘れて、  
勉学に励もう?」  
「……」  
「じゃ、じゃあ、気分転換に散歩でもして」  
「沙織さん」  
 正志は一声で沙織の提案を抑えた。  
 うう、と唸って黙り込むのを見て、少しだけ罪悪感が湧いたが、正志は無視した。どうせ  
今日はまともに会話できる気分ではない。  
(ごめん、沙織さん。明日からはちゃんとする。だから今日だけは、)  
 ちら、と顔を上げて様子を窺うと、沙織は落ち込んでいるのか、正志と同じようにうつ向いていた。  
 罪悪感が増して、  
「決めた」  
「──え?」  
 不意に、強い調子で言われた。  
 何を、と問う前に沙織は立ち上がり、  
「今日は泊まっていくから」  
 と言った。  
「…………え、なんで!?」  
 正志にはわけがわからない。いきなり何を、  
「だって今日はおじさんもおばさんも帰ってこないんでしょ?」  
「そうだけど」  
「なら誰か他にいた方がいいよ。一人は寂しいもの」  
「……」  
 むしろ一人になりたいのだが、沙織はもうその気のようである。正志ににっこり微笑むと、  
「ご飯何がいい?」と訊いてきた。  
「いや、別にいいよ」  
「よくない! 落ち込んでるときこそ、おいしいもの食べて元気つけなきゃ」  
「……確かに沙織さんの料理はおいしいけど」  
「じゃあ決まり! 和風パスタとかどうかな? あ、唐揚げも好きだったよね」  
「……」  
 迂濶な発言だったかもしれない。実際沙織の料理はおいしいのだが、今のタイミングは  
正志にとってよろしくない。  
「じゃあ準備するから。正志くんはお風呂にでも入ってきて」  
 うきうきと指示する沙織に、正志はうまく言い返せない。さっきの罪悪感もある。  
「……うん」  
 仕方なく、正志は頷いた。  
 
      ◇   ◇   ◇  
 
 風呂から上がると、既に料理がテーブルに並んでいた。  
 和風パスタ、大根とごぼうのサラダ、鶏肉の竜田揚げ、けんちん汁にひじきの和え物と和風  
仕立てのメニューだ。パスタの上のきざみ海苔が綺麗に映える。  
「和風寄りにしたくて竜田揚げにしてみましたー」と、沙織ははにかむ。  
 どの料理もおいしかった。沙織は洋食の方が得意だと思っていたが、和もいけるようだ。  
若干ヘルシー色が見えるのは女性特有のものだろうか。  
 しかし、当の沙織は食事そっちのけでビールを飲んでいる。  
「あれ? 沙織さん、お酒呑めたっけ」  
「今日が初めて」  
「は?」  
 なんでこのタイミングで。  
「なんで?」  
「二十歳になったから」  
「……へ?」  
 沙織はテーブルの対面から正志を見るや、むっと眉を寄せた。  
「正志くんは幼馴染みのお姉ちゃんの誕生日も憶えてないの? 私の誕生日はいつ?」  
「…………あ」  
 ここ最近ずっと亜季に告白することばかり考えていたせいか、すっかり忘れていた。  
 今日は沙織の誕生日だ。  
「薄情な弟だねー正志くんは。そんなにお姉ちゃんは空気?」  
「ご、ごめんなさい!」  
「そう思うならきちんと祝いの品を献上なさい」  
 途端に慌てる。当然ながら正志はプレゼントすら用意していない。  
 沙織の視線がちくちく痛い。  
「あ、あの、ぼくその、うっかりしてて」  
「……許します!」  
「……え?」  
 正志が呆けたように固まると、沙織はおかしげにくすくす笑った。  
「冗談だよー。ちょっとからかっただけ。正志くんすぐ本気にするんだから」  
「……」  
「正志くんがいろいろ頑張ったのは知ってるし、大変だったのもわかってるもの。失恋って、  
辛いよね。だから許します。特別に」  
 沙織は小さくウインクしてみせた。  
「……本当にごめん」  
「だから本気にしないの。……意外とおいしいのね、ビールって」  
 沙織は料理そっちのけで、三本目の缶ビールを開ける。  
「あんまり呑み過ぎないようにね」  
「大丈夫大丈夫。私のお父さんもお母さんもお酒強いもの。これくらいたいしたことないよ」  
 沙織はにっこり笑ってアルミ缶を傾けた。  
 正志は自省する。確かに失恋は辛いことだが、それはきちんと自分なりに向き合った結果だ。  
いつまでも引きずるのはそうやって向き合った自分の行為さえ駄目にする。  
 まして、沙織にまで心配かけるなんて。  
 簡単に吹っ切るのは無理でも、他人に心配されない程度には気を張り直さないと。  
 
「沙織さん」  
「ん?」  
 沙織はいつもの優しい笑顔を向けてくる。  
 正志はそれがなんだか嬉しい。  
「今度の日曜、時間ある?」  
「特に予定はないけど、どうして?」  
「今日の埋め合わせ。誕生日プレゼント、沙織さんに直接選んでもらおうかな、って」  
「え?」  
 沙織は意表を突かれたのか、目を丸くした。  
「ダメかな」  
「さ、さっきのは本当に冗談だからね? 別に気にしなくても、」  
「ぼくがそうしたいんだ。沙織さんが嫌なら仕方ないけど」  
「……いいの?」  
「うん」  
 はっきり頷くと、沙織はなぜかうつ向いた。  
 しばらくして再び顔を上げる。  
「じゃあ、お姉ちゃんといっしょにデートしよっか」  
「デート?」  
「いっしょに遊ぼうってこと。映画観たり遊園地行ったり、一日私に付き合って」  
「そんなのでいいの?」  
「ん? 何十万もする服とか、何百万もする宝石とか正志くんに買えるの?」  
「……デートでお願いします」  
「うん。決まり!」  
 沙織は楽しそうに笑う。  
「日曜日はたっくさん楽しむからね。正志くんの慰安も兼ねてるんだから」  
「慰安?」  
「失恋で傷付いた心を私が癒してあげるってこと」  
「べ、別にいいよぼくは」  
「遠慮しないの。ナイーブな少年に失恋はダメージでかいからねー。特に正志くんは初失恋  
なんだから」  
「失恋失恋って何度も言わないでよ」  
「あははは! まあこれでも呑んで忘れなさいっ」  
「未成年にビール勧めるなー!」  
 正志は三つ上の幼馴染みにペースを握られっぱなしだ。  
 こうやって馬鹿話に置き換えることで、沙織はきっと正志の心を和らげようとしているのだろう。  
正志はその気遣いが嬉しかった。  
 少しアルコールが回ってきたのか、沙織の顔はほんのり赤い。  
 お酒もあるいはそのための小道具なのかもしれない。  
 かなわないな、と正志は内心で苦笑いした。  
「ほら、箸が止まってるよ。それともお腹いっぱい?」  
「ううん、食べるよ」  
「お姉ちゃんが食べさせてあげよっか」  
「遠慮しとく」  
「こらー、そんなことじゃ将来恋人ができたときに慌てふためいて後悔するぞー」  
「意味がわかんないよ」  
 恋人か、と正志は内心でため息をつく。  
 ふと思った。沙織も自分のように失恋をしたことがあるのだろうか。  
(あるんだろうな……)  
 対面でビールをぐいぐい呑んでいる彼女からは、そんな様子は伝わってこないが、さっき  
沙織ははっきりと言っていた。  
『失恋って、辛いよね』  
 きっと世の中では茶飯事なのだ。正志が味わった思いも、沙織が受けただろう辛さも、  
すべて些細なことにすぎない。  
 それが、少しだけ寂しかった。  
 
      ◇   ◇   ◇  
 
 小道具が効きすぎた。  
 沙織は十本目のビールを空にすると、テーブルに突っ伏してすやすやと眠ってしまった。  
 幸い料理の載った皿は既に片付けていたので、和風パスタやけんちん汁に顔面ダイブを  
決めることはなかったが、このまま放っておくわけにもいかない。正志は空き缶を片付けると、  
奥の和室に布団を敷いて沙織の寝床を準備した。それからダイニングに戻って、沙織を揺り  
起こした。  
「沙織さん起きて。こんなところで眠ったら風邪ひくよ」  
「ん……キリンさん、どこ……?」  
「まだ呑み足りないの? ほら、寝惚けてないで」  
「キリンさん、お空飛びたいの? 首を回すの首を……ヘリコプターみたいにお空を飛ぶのー」  
「いや、それ首の骨折れるから。じゃなくて沙織さん、早く起きて」  
「んー……?」  
 沙織が寝惚け眼を向けてくる。  
「あー、正志くんだ」  
「起きた? ほら、布団用意したからそっちに移ろう」  
 正志が助け起こすと、沙織は嬉しそうに体をくっつけてきた。  
 肩を貸して歩かせる。沙織は素直に歩いたが、どこか必要以上にもたれかかってきたため、  
正志はバランスを取るのに苦労した。ビールの臭いと体の柔らかさに少し困った。  
 なんとか和室まで連れてくると、正志は沙織を布団の上に横たえた。  
 沙織はにこにこ笑って正志を見ている。  
「正志くん」  
「うん?」  
「だっこー」  
 そう言うと、沙織は体を起こして正志に抱きついてきた。  
「うわあ!」  
 正志は驚きの声を上げた。  
「えへへー」  
「さ、沙織さん」  
 ノースリーブの薄い布地を隔てて、沙織の胸が当たる。  
「正志くん大好きー」  
「……」  
 どう反応したらいいのやら。正志は困り果てた。  
 
 と思えば、今度はどこか憂いを帯びた表情で見つめてきた。  
「正志くん……」  
「な、何?」  
 正志は少したじろぐ。  
「慰めてあげる」  
「え?」  
 次の瞬間、正志は沙織に無理やり押し倒された。  
 そして有無を言わさぬ速さで唇を奪われた。  
「──」  
 正志は突然の事態に目を白黒させた。  
「ん……んむ……」  
 沙織は喋らせないかのように唇を押し付け、さらに己の舌で正志の口内をなぶった。  
 酒の臭いにどこか甘い香水の匂いが入り混じる。不思議と正志は不快に思わなかった。  
 沙織はゆっくり口を離すと、小さく微笑した。  
「沙織さん、どうして」  
 年上の彼女は答えない。代わりにノースリーブの服を脱ぎ、ジーンズを躊躇いもなく下ろす。  
 下着姿になった沙織は、さらに上のブラジャーも外した。  
 形の整った真っ白な乳房が目の前に現れ、正志は思わず顔を逸らした。  
「沙織さん、いくらなんでも酔いすぎだよ……」  
「あは、そうかな」  
「そうだよ、こんなの……沙織さんらしくない」  
「私は正志くんを慰めたいだけ」  
 頭がくるくると狂いそうになる。  
「そんなことしなくていいから」  
「……じゃあ、私を慰めて」  
「……え?」  
 言葉の意味がわからず、正志は沙織を見返す。  
 沙織はそんな正志の右手を取ると、自分の胸に押し付けた。  
「さ、沙織さん」  
 初めて触った異性の胸はありえないほど柔らかく、正志は息を呑んだ。  
「自慢のバスト88ぃー」  
「沙織さん!」  
 耐えられなくなって、正志はついに叫んだ。  
 沙織はその声に驚いたようだったが、ぶんぶんと首を振った。  
「失恋って、辛いんだよ……。男だけじゃ、正志くんだけじゃないんだから」  
「……」  
「私だって辛いの。悲しいの。耐えられないの。だから、お願い……正志くんだけなの……」  
「……沙織さんも、失恋したの?」  
 沙織は小さく頷く。  
 正志は閉口した。  
「正志くんは何もしなくていいから……私が勝手に正志くんを襲うだけ。悪いのは私」  
 酔っているのか、いないのか、沙織はタガが外れているようだった。  
 その分、より正直な気持ちを吐露しているように、正志には思えた。  
 そんな彼女を拒絶することなど、彼には──  
 
 沙織は正志の股間を愛しげに撫で回す。  
 すぐに反応してしまう男の性に正志は情けなく思ったが、沙織は嬉しそうだった。  
 ズボンを下ろされる。慣れない手つきを見ると、沙織も経験は少ないのかもしれない。  
対する正志は経験0だが。  
 トランクスごと強引に下ろされた。少年のものが露になると、沙織はにっこり笑う。  
「凄い……正志くんも成長してたんだね」  
 沙織は手を伸ばし、肉棒を優しく握り込んだ。その刺激に正志は微かに呼気を洩らす。  
「あの……ぼく、初めてで、その……」  
「大丈夫……お姉ちゃんに任せて」  
 沙織は性器をまじまじと見つめる。  
 やがて、その先端をおもむろにくわえた。  
 強烈な刺激だった。正志は腹に力を込めて、未知の快楽に耐える。  
 沙織の美しい口元から延びる赤い舌が、男根をぬるりと這った。当人以外にはグロテスクに  
映るだろう肉の竿を、嫌悪することもなく沙織は舐め尽くす。  
 感覚的にも視覚的にも正志には刺激が強かった。こんなことをずっと続けられたら、あっと  
いう間に達してしまう。  
 しかし沙織は、その様子を感じ取ったのか、突然舌での愛撫をやめた。  
「沙織さん……」  
「じっとしてて。私がしてあげるから」  
 沙織は残った下着を脱ぎ捨てると、正志のシャツを捲り、腹の上にまたがった。お尻の  
感触が柔らかい。  
 沙織は微笑とともに腰をずらし、秘部を肉棒に当てがう。  
 そして、そのまま腰を下ろして、正志のものをずぶずぶと呑み込んだ。  
「あああああぁぁぁ────っ!!」  
 一際高い叫声が上がり、正志は一瞬怯んだ。  
 沙織は荒い息を吐き、目に涙を浮かべていた。  
 正志は唖然とした。今の反応。気持ちよくは見えなかった。むしろ苦痛にしか、  
「沙織さん、まさか……」  
「ご、ごめんね。さすがにちょっと痛いよ」  
 沙織は涙を拭って無理やり笑ってみせた。  
 経験が少ないどころじゃない。沙織は経験がなかったのだ。  
 正志は知らないまま、彼女の処女を奪ったことになる。  
「沙織さん、どうしてこんな」  
 沙織は笑顔を浮かべたまま答えた。  
「だって、正志くんを慰めたかったから」  
「そんな……」  
 
 
「それに──初めては、好きな人にあげたかったから」  
 
 
 正志はその言葉に固まった。  
 好きな人。  
 それは──そんなことって。  
 沙織は少しずつ腰を動かしていく。  
 痛みに耐えながら、それでも懸命に刺激を送ろうとしてくる。  
 正志は何も考えられない。頭が混乱している。  
 正志の目の前では、年上の幼馴染みが必死に体を動かしている。  
「あっ……あんっ! あっ、んん、まさ……し、くん、あっ」  
 形のいい胸が喘ぎに合わせるように揺れている。  
 刺激が興奮を生み、正志の脳内は快感で弾けそうになる。  
 しかし心は、それとは逆に倒錯しそうだった。  
 それでも限界はやってくる。前戯の寸止めがそれを早めてもいた。  
「正志くん……私で、イッて。私を感じて。私を──」  
「くう──」  
 正志は溺れそうな快楽から理性の一部を取り戻すと、沙織の体を両手で持ち上げて、中から  
己を強引に引き抜いた。  
 その瞬間射精が訪れ、正志は自分の腹の上に精液を巻き散らした。  
「あは、すごいね……」  
 沙織は感嘆の声を洩らすと、正志の上に折り重なるように倒れ込んだ。  
 
      ◇   ◇   ◇  
 
 正志はぼう、と天井を眺めていた。  
 部屋はひたすらに無音で、ただ自身の息遣いだけが耳を打っていた。  
 沙織もまた動かない。  
 突っ伏したまま、微動だにしなかった。胸と胸とが重力に引かれて強く密着し、心臓の  
鼓動と肺の収縮を伝え合うだけだった。  
 しばらくして、耳元に小さな寝息が聞こえてきた。  
 恐る恐る顔を覗くと、沙織は静かに眠っていた。さっきまでとは違う穏やかな寝顔だった。  
 普段の沙織が帰ってきたように思い、ちょっとだけ安心した。  
「……」  
 正志は沙織が完全に眠ったのを確認すると、行為の後始末を始めた。  
 力尽きるように眠ってしまった沙織の体を拭いてやり、布団をかけて姿勢よく寝かせる。  
風邪をひくといけないので、不恰好ながら下着も着けてやった。  
 それから正志はもう一度風呂に入った。  
 腹にかかった自分の精液がべたついて、どうにも気持ち悪かったのだ。気持ちを落ち着かせる  
ためにも、体を洗い流す必要があった。  
 シャワーを浴び、アルコールと体液の臭いを石鹸で洗い流すと、少し冷めてしまった  
ぬるま湯に身を沈める。  
「……」  
 さっきまでのことは悪い夢なのではないか。正志はしかし、射精後の倦怠感が確かにあるのを  
自覚する。  
 夢ではないのだ。  
 それはつまり、沙織が洩らした言葉も現実ということで、  
『初めては、好きな人にあげたかったから』  
「──っ!」  
 沸騰した頭を湯船に勢いよく叩きつける。ざばん、と水柱が立ち上がり、後頭部を濡らした。  
 沙織の言葉が本当ならば、正志は想いを寄せていてくれた女の子に、脳天気にも恋愛相談を  
持ちかけていたことになる。  
 そんな愚かしいことをよくも自分はやれたものだ。知らなかったとはいえ、沙織は大いに  
傷ついたはずだ。  
 正志は無自覚に彼女を傷つけ、その上逆に気を遣わせてしまっていたのだ。  
 どうして気付いてやれなかったのだろう。ずっと自分のことばかり考えて、周りが少しも  
見えていなかった。  
「馬鹿だぼくは……」  
 後悔の念が胸を貫き、呼吸をするのがひどく苦しかった。  
 浴室に響くのは小さな鳴咽の声。  
 目から溢れる涙は一向に止まる気配を見せず、湯船に波紋を作り続けていた。  
 

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