加茂英志はごく普通の古本屋の店員だった。  
 
彼は大学を出て就職し、その会社を二年で辞めてから  
「自分の本当にやりたいことを探す」と言いながら  
フリーターを続けている、どこにでもいる二十代の若者だった。  
 
その日も彼は古本屋のレジに立ち、  
時には本を並べ替え、時には床を掃除しながら生活費を稼いでいた。  
 
客はそれほど多くない。  
退屈、とまではいわないが、すっかり慣れきった作業を淡々とこなしつつ  
彼は一時間に五回は腕時計で残り時間を確認した。  
何度見ても、凍りついたように短針は動かない。  
 
仕事終わりは夕方、午後六時である。  
 
「また来たよ」と彼は思った。  
この時間になると、必ず同じ客が来る。  
その客は、外見も行動パターンも用事も特徴的だったから  
英志の印象に強く残っていた。  
 
その客は女で、身長が175センチの英志と顔の高さがほとんど同じだった。  
ブーツのかかとの高さを考慮しても、かなりの長身だろう。  
西武警察を思い出すような、派手なサングラスを外しもせずに  
無言で彼女はCDを数十枚レジにばらまく。  
英志はそのCDを一枚一枚確認して、買取金額を彼女に支払った。  
 
女は大して興味も無さそうに数千円の金を受け取り、  
あっという間に帰ってしまう。  
「ありがとうございましたー」と言う英志はいつも  
ミニスカートから伸びる彼女の脚に眼を奪われる。  
 
暗くなりはじめた街に、真っ白なふくらはぎが輝いていた。  
 
最初に英志が彼女について調べてみよう、と思ったのは  
深い考えや動機があってのことではない。  
単純な興味と好奇心が、時間と行動力を持て余す彼に出来心を起こさせただけだ。  
ストーカーや変態になるつもりも無かった。  
 
ただ、長いフリーター生活によって積み重なった鬱屈と、  
毎日出会う女に対して抱いている劣等感混じりの小さな欲望が、  
混淆し化膿し始めていることに、この時点で本人は気付いていない。  
 
彼女に対して自分は圧倒的に優位な立場にあることを英志は自覚していた。  
 
なにしろCD売却時に免許証をコピーする義務がある。  
つまり、英志は女の免許証を表裏ともに何度も見ている。  
当然ながら免許証には氏名と住所、生年月日が記載されており、  
英志は意識せずとも女の個人情報を記憶していた。  
情報戦という意味では、孫子にお墨付きをもらえるだろう優勢ぶりである。  
 
英志が彼女について知りえた情報は、  
田丸愛美――たまるあみ――という氏名、1986年5月9日という生年月日(及び年齢)、  
彼女の住むマンションの場所、部屋番号。  
 
そして、背がかなり高く、体がやけに細く、脚が長く、  
細面で下唇がやや厚く、鼻が高く、肌が白く、きめ細かいこと。  
 
彼はまず、ある広告をプリントアウトすることから始めた。  
 
その日も、日課のように女はやってきた。  
相変わらず露出の多いファッションだったが、珍しくサングラスをしていない。  
英志は初めて、女の瞳を見ることができた。  
 
マスカラを大量につけた、けばけばしいメイクを想像していたが、  
意外と眼の周りには装飾が無かった。  
しかし長い睫毛と二重まぶたは、くっきりと形を際立たせており  
それは欧米人じみた美しさを醸している。  
 
だが、店員の彼にはまじまじと女の顔を見る権利が無い。  
 
そそくさとCDを受け取り、金額を確認する。  
心拍が高まっていることを英志は自覚した。  
彼は何気ない素振りで、引き出しに隠していた紙を取り出し女の前に置く。  
 
「ただ今、買取金額倍増キャンペーンを行っておりまして」  
言いながら、こめかみから汗が吹き出ていることを彼は自覚した。  
 
ここで最初に「倍増」という言葉を出しておくことで、  
女の気を少しでも惹かなくてはならない。  
そうでないと「別にいい」と一蹴されてしまう可能性が高い。  
「ポイントカード作りますか?」と言って即座に断られた記憶がよみがえる。  
 
「こちらのアドレスに空メールを送っていただくと、  
 買取価格を三倍にするサービスを今行っておりまして」  
口の中が乾燥しきっていて、言葉を噛みそうになる。  
言いながら、嘘を見破られないかと緊張していた。  
常識的に考えれば、こんなサービスをしていたら店が潰れることくらい分かるだろう。  
 
レジの横にあるパソコンのキーボードを叩きながら、  
英志は「メール、確認いたしました」と言った。  
声が弾まないように気をつける必要があった。  
 
女は英志から三倍の金額を受け取ると、こんなところに長居は無用とばかり  
すたすたと自動ドアを開けて外に出て行く。  
英志はいつものように、彼女の後ろ姿をながめた。  
 
余程自信があるのか、或いは見せたい相手が居るのか、  
まだ肌寒い季節だというのに長い脚を生のまま晒している。  
膝の裏からゆったりと膨らみ、足首で締まるラインには、  
つい触れたくなるような彫像めいた美しさがあった。  
 
無闇に高い靴のかかとがタイルを叩く足音。  
 
女の美しさはいつもと同じだったが、それを見つめる英志の状態は平時と異なっていた。  
いつもなら、安っぽい劣情がわずかに表面に浮かんでくるだけで、数分で元に戻るのに、  
この日の英志の肉欲ははっきりと形を成して、鎌首をもたげていた。  
心臓の鼓動が早く、膨張した性器が柔らかくなりそうもない。  
そのまま下着を汚してしまわないよう、彼は二度深呼吸をした。  
 
これは、単なる性欲などではないことを、英志は自覚する。  
 
子供の頃、公園でポルノ雑誌を生まれて初めて見たときのような原初の感覚。  
罪悪感と性欲が交じり合い、睾丸の中で荒れ狂うような暴力的衝動。  
 
「自分は今、犯罪行為をしているのだ」という心理には  
捕まるのではないかという恐怖と、こんなことをしていいのかという後ろめたさと共に  
性欲を暴力的に掻き立てる何かがあるのだと英志は知った。  
頭の中で、女の後ろ姿を反芻する。  
うまくすれば、あの女に――。  
 
次の客が来たので、英志は思考を切り替えて「いらっしゃいませー」と愛想よく大声を出した。  
 
田丸愛美のアドレスにメールを送ったのは、それから三ヶ月後だった。  
 
たとえ本職の探偵に身辺調査を依頼したところで、三ヶ月で何か分かるはずもない。  
まして英志は素人であり何の技術も道具も持っていない。  
おまけに、アルバイトの合間を縫ってのいわば片手間の調査しか彼は出来なかった。  
 
この状況下で、彼が田丸愛美の「アキレス腱」を掴むことができたのは、  
ある一つの手がかりから刑事のように事実を手繰っていった英志の  
能力や執念も勿論重要ではあったが、なにより幸運に拠るところが大きい。  
 
切り口は、彼女の持ってくるCDにあった。  
 
毎日のように、愛美は新品同様の音楽CDを十枚も二十枚も持ってくる。  
しかもJ-POPでもドラマのサントラでもなく、レアな洋楽CDだった。  
父親か彼氏のコレクションを放出しているのかとも思ったが、  
それにしては毎日小出しにする意味が分からないし、  
家に店員が取りに行くサービスだってある。  
 
何より英志にとって不可解だったのは、CDを売って得た金に、  
彼女が興味を持っていないように見えることだった。  
金額の多寡どころか、渡す紙幣そのものにすら彼女は無頓着で、  
CDを売りたいというより、捨てたいだけのようだった。  
 
まず英志が疑ったのは、万引きの可能性だ。  
だが、万引きをしてまで得たCDを売り払い、なおかつ金にも興味が無いというのは、  
どうにも理に落ちない。  
 
英志は田丸愛美の自宅を見張り、場合によっては尾行をして彼女の情報を集め続けた。  
自分のしていることが犯罪者の領域に差し掛かってきていると、薄々自覚はしていたが  
他人の――それも自分好みの女性のだ――プライベートを覗き見る楽しさが、  
良心の呵責を軽々と踏みにじった。  
 
一度ブレーキが外れた悪意は、ただ加速し続けるのみである。  
それは車と同じく「事故」にあって「痛い目」をみるまでは続く。  
 
買ったばかりの携帯電話を片手に、加茂英志は沈思していた。  
 
無邪気なほどに黄色いそれは、形状も含め明らかにデザイン性に欠けていた。  
それは英志自身も自覚していたが、メール送受信機能が付いている  
プリペイド式携帯電話がこれしか売っていなかったため、  
止むを得ない措置だったと云える。  
 
彼は慣れないキー入力に手こずりながらも、メールを打ち始めた。  
 
本当はもっとじっくり調べるべきなのだろうが、メールアドレスはいつ変えられるか分からない。  
余り時間を空けすぎても良くない、と英志は判断した。  
 
だが、その「判断」は飽くまで口実に過ぎない。  
英志はもう、田丸愛美を放置しておけなかった。  
 
この三ヶ月間、彼は以前とは比べものにならないほど高い頻度で自涜に耽り、  
その際にはいつも同じ顔を思い浮かべた。  
愛する者以外の全ての男を見下しているような取り澄ました顔と、  
その顔が憤怒と羞恥と屈辱に歪むところを思い浮かべた。  
 
妄想の中で、夢の中で、何度も何度も苛め抜いた女が  
現実に於いては自分のことを認識すらしていない、  
ということに英志はもう耐えられなかった。  
 
そしてこの日、加茂英志の心は、二つある扉のうち一つを開いてしまった。  
 
誰の心にも存在する「欲望」と「恐怖」という二つの扉。  
開錠に必要な鍵はどちらも、人間の「弱さ」である。  
 
考えた結果、メールのタイトルは「subject:田丸愛美へ」とした。  
 
中途半端に思わせぶりなタイトルだと、  
迷惑メールと思われて即座に消されてしまうかも知れない。  
知人や友人からならメールのタイトルに名前など入れないだろう。  
また、業者からのメールなら名前を呼び捨てにしたりはしない。  
 
何だか分からないながらも、不安と苛立ちを誘うタイトル。  
脅迫状の額面としては最適だろう。  
本文には「逆恨み女」とだけ記入して、画像ファイルを添付した。  
 
英志は目を閉じた。心臓がどくどくと脈打っている。  
なだめるように深呼吸をした。  
背負い投げをするように気合をこめて、送信ボタンを押し込む。  
 
「送信が完了しました」  
モニターにそう表示されるのを見て、口から大きく息をはいた。  
 
まるで告白をして返事を貰うのを待っているように、  
落ち着かない気分で英志は部屋の中をうろうろと歩き回った。  
ベッドに仰向けになってみたりもしたが、心臓の音がうるさくてまた立ち上がった。  
 
ふと尿意を感じ、トイレに行こうとした瞬間、携帯電話が震えだした。  
驚きで彼の両肩が、びくんと跳ねた。  
引っつかむようにして電話を取ると、送られてきた返信メールの内容を読む。  
 
『なにこれ? 誰?』  
 
返信メールには、それだけが書かれていた。  
 
拍子抜けしたような、落胆したような、安心したような、  
不思議な感覚に英志は包まれた。  
まあ確かに、見知らぬアドレスから名指しでメールが届いたらこんな反応だろう。  
 
こちらの優位性を保ったまま交渉を続けるため、  
あえて英志は、彼女の誰何を無視して返信した。  
 
「動機が逆恨みで、さらに被害金額と被害者感情を考慮すると、  
 書類送検の後、起訴されて、執行猶予無しの刑罰が下る可能性が高いです」  
そう書き綴って、別の画像を添付する。  
 
画像は英志が携帯のカメラで撮ったもので、ここ三ヶ月で四十枚近くになっていた。  
その全てが隠し撮りである。苦労の結晶と云えた。  
万一にも失くさぬように、SDカードやHDDに分散して保管している。  
 
メール本文で書いたことはほとんどが出鱈目である。  
いかに悪質で金額が大きかろうと、初犯で実刑判決は普通に考えてありえない。  
単に、難しい言葉を並べ立てて相手を不安にしようという狙いである。  
効果と目的を考えると、それは呪術に近かった。  
 
二十歳そこそこの学生である彼女には、失うものや守るものがほとんど無い。  
仮に犯罪で捕まったとしても、やり直しはいくらでも効くだろう。  
「警察に言うなら言えば?」と開き直られたら、英志の負けである。  
 
だからこそ、彼女を精神的に追い込むための駆け引きが必要だった。  
 
『ふざけないで』とだけ書かれたメールが返ってきたのは、三十分後だった。  
 
自分が脅迫されていることを自覚したのだろう。  
そこには怒りとともに、脅えと不安が滲んでいた。  
舌なめずりをしたい気分になる。  
 
だが、ここで軽々に動くのは命取りだ。  
手持ちのカードは残り少ない。  
ワンペアを、言葉だけでストレートに見せかけなくてはならない。  
 
英志はあえて、返信をしなかった。  
彼女の心の中に、不安と恐怖が増殖するのを待った。  
 
田丸愛美はどう動くだろう。  
彼氏や友人に相談するだろうか。警察に通報するだろうか。  
 
「犯罪者になったら、全部なくなる」と書いて、また画像を添付して送信。  
間を開けずにもう一通。  
「彼氏も。学校も。働くところも。家族の仕事も。大事なもの全部」  
 
メールを打ちながら、英志は想像する。  
彼女がこの中で一番怖れるのは、彼氏を失うことだろうと。  
田丸愛美が唯一、心からの笑顔を見せる自称ミュージシャンのあの男を。  
 
「彼氏にも同じメールを送るよ。逆恨み女」というメールを送ったとき、  
ようやく三通目のメールが返って来た。  
 
 
翌日、英志は古本屋のレジに7時間ほど立っていたが  
田丸愛美が姿を現すことはなかった。  
当然といえば当然だろう。  
 
英志は少しほっとした。  
正直なところ、彼女が目の前に現れたら平静を装う自信がまるで無い。  
 
アルバイトの時間が終わると、彼は散歩がてら近所のCDショップへ赴いた。  
雑居ビルのわきから細道に入ったところに立つ、小さいが妙に洒落た店だ。  
 
聴いたことのない洋楽CDばかりが置いてあるが、客はそれほど少なくない。  
むしろ熱心なファンが多いのか、店長と客が雑談を交わしているところをたまに見かけた。  
 
いい店だな、と英志は思う。  
向かいのビルの非常階段から、店内が丸見えだというところが、特に。  
おかげで、英志は田丸愛美が窃盗を行うところを好きなだけ盗撮できた。  
 
彼女はこの店から毎日のようにCDを持ち去っていた。  
だが、店長が監視カメラなどの窃盗対策をする様子は全くない。  
品物の棚卸しはしないのだろうか、と英志はいぶかしんだ。  
 
英志にとって最大の幸運は二つあった。  
一つは犯罪の明らかな証拠を得られたこと。  
 
もう一つは、その犯罪の動機らしきものをつかめたことである。  
 
夜の九時を越えると、駅前広場にギターをかついだ男が現れる。  
疲れたサラリーマンやOLに向けて、彼は毎日のように弾き語りを聞かせた。  
 
演奏そのものは普通だったが、ナルシスティックなファルセットが  
人によっては耳障りに感じるだろうし、気取った英詩が癇にさわる者もいるはずだ。  
英志も何度か耳にしたが、どちらかというと苛立ちを感じる歌声だった。  
 
だが、女受けはいいようで、十人近い女性がベンチに座って聴き入っていた。  
 
田丸愛美は、彼が歌い終わる十一時半までそこで待ち  
ギターを背負った彼のそばに駆け寄る。  
繊細な動きで弦を弾いていた指先に、自分の細い指を絡ませて笑った。  
 
その笑顔を遠巻きに見た英志は、衝撃に近いものを感じていた。  
 
――あんな顔も出来るのか。  
 
幸せそうな二人とすれ違ってから、英志は小さく溜め息をついた。  
だがそれは、自省や自戒に基づくものではない。  
むしろ、自分の中にある何かが活気付いたのを感じている。  
 
その夜、家に戻ると彼はまた妄想の中で愛美を組み伏せた。  
四つん這いになった彼女の尻を、もみじの跡がつくほど平手打ちをしてから  
何度も何度も彼女の中に陰茎を押し込んだ。  
 
あのミュージシャン気取りの男が、自分のCDを置いてもらいたいと  
くだんのCD屋の店長に何度も言い寄っていたことを知るのは、その二日後になる。  
当然ながら、この非常識な行動に対し、店長は拒絶した。  
そのことを伝え聞いた田丸愛美は「彼氏をぞんざいに扱われた」と認識したことだろう。  
 
それが発端だったのだ……と英志は断定した。  
 
その次の日も、メールを送った。  
 
「彼氏に同じメールを送る」という脅しに対し、  
愛美は過剰なまでの反応を見せた。  
 
実際は彼氏のメールアドレスなど英志は知らないし、  
そもそも万引き自体が彼氏の指示だったら意味が無い。  
完全なブラフである。  
 
だが、それに対し愛美は「彼氏には言わないで欲しい」という  
自分の弱点を曝け出してしまった。  
 
ツーペアをフルハウスだと見せかけて相手を降りさせたら、こんな気分かな。  
英志はそう思った。その表情はポーカーフェイスとは程遠かったが。  
 
彼はまだ、自分の目的を愛美に伝えていなかった。  
まだそれを伝える段階ではないだろうと考えていた。  
もっともっと精神的に追い込まなくてはならない。  
 
そのまま二日ほど、メールのやり取りを続けた。  
 
ヒステリックな怒りや興奮の滲んだ文章を受け取るたびに、含み笑いがこみ上げる。  
そこに冷や水をかけるような返信を返してやる。  
そうするとまた二十分ほど返って来なくなる。  
 
すでにメールのやり取りだけで、彼は達しそうなほどの悦を覚えていた。  
精神的になぶる行為が、肉体的になぶるのと同じくらい愉悦に満ちていることを彼は初めて知った。  
同時になぶれば、どれほどの快楽が得られるものだろうか、と英志は下卑た行為に想いを馳せた。  
 
非常階段の手すりに身を押し付けながら、英志はビルの谷間に沈む夕陽を見ていた。  
日が長くなったなあ、などとのどかなことを考えている。  
雲の無い空と乾燥した空気が黄昏に染まっていく。  
 
彼は携帯電話を手に取り、初めて田丸愛美に電話を掛けた。  
 
耳に当てた携帯電話からHIPHOPが流れ出し、少し驚いた。  
呼び出し音を音楽に変えるサービスなのだろう。  
七秒ほど流れたあと、唐突に音楽は止まった。  
 
「……はい」  
代わりに、警戒心に満ち溢れた女性の声が聞こえた。  
 
「もしもし、はじめまして」  
彼は脅迫者としての第一声を口にした。  
 
「……はい」  
返事はやはり硬い。当然といえば当然のことだった。  
 
「西口の改札、出たら、左に真っ直ぐ進んで。三崎屋の看板が見えるほう。  
 金網沿いに進んで。で、公衆トイレのとこでまた左に曲がって。  
 着くか、迷ったらこの番号にかけて」  
一方的にそう言って、英志は電話を切る。  
 
よく考えると、田丸愛美とまともに口を利いたのはこれが初めてである。  
不思議な感覚だった。  
 
一週間以上、自慰を禁じていたせいか、硬度を増した性器がジーンズの前を押し上げている。  
陰嚢がわずかに重たく、陰茎の先端が痺れるような感覚がしていた。  
彼は鼻から大きく息を吸い込み、口から吐き出した。  
 
夕陽が完全に沈み、外灯が暗闇を切り取り始める。  
英志の視界に、脚の長い女の姿が入り込んだ。  
 
「きたきた」  
思わず独り言を言ってしまう。  
 
同時にさっと頭を隠した。  
別に見つかることに問題があるわけではない。  
というより、これから直に話をするつもりなのだが、  
相手に「見つけられる」ことで心理的に下手に置かれるのが嫌だった。  
 
すぐに電話が鳴る。  
マナーモードにし忘れていたため、音が出てしまい英志はかなり慌てた。  
 
「……着いたけど」  
愛美の口数は少ない。  
 
「左にある、ラ・フォール、見える? そこに入って」  
「ラ……何? 早口で聞こえないんだけど」  
「ラ・フォール。その辺に無い?」  
「……あ、あっ……た」  
 
そこで、愛美は不自然なタイミングで黙り込んだ。  
ラ・フォールを見つけたことを後悔するような響きがある。  
その理由を、英志はすぐに理解した。  
彼女はラ・フォールを見つけた瞬間、脅迫者の狙いが自分の肉体にあることを  
確信したことだろう。そういったことのためにある建物だからだ。  
 
「そこに入って、好きな部屋に入って、それから部屋番号をメールで送って」  
そう言って、彼は電話を切った。  
 
田丸愛美は、しばらくの間、周囲を見回していた。  
英志は慎重に、見つからないように彼女の姿を観察する。  
 
数分、逡巡したのち、彼女はラブホテルの自動ドアを開けて中に入った。  
 
ややあって、メールが届く。  
「3003」とだけ書かれていた。  
無意識に上唇を舐める。  
 
英志はすぐに動かなかった。  
相変わらず身を隠し、ホテルの入り口を見張っていた。  
 
愛美が誰かを連れてきている可能性を怖れたのである。  
 
彼氏や男友達に周囲を張らせていたとしたら、  
捕まえられて暴行を受ける可能性だってある。  
保険は幾つかあるにせよ、リスクは避けたかった。  
 
結局、メールから十分間、彼はその場に待機していた。  
だが、耐え切れなくなったように立ち上がる。  
鞄を持って、静かに非常階段を降りる。  
 
何故か身体がぶるん、と震えた。  
いつの間にか、硬くなっていたはずの性器が大人しくなっている。  
自分はひょっとして緊張しているのだろうか。英志はおかしくなった。  
 
まるで戦いに赴くかのような気分で、彼は階段を降り、向かいのホテルへ足を運んだ。  
 
 

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