ラヴレターな話
三年になって、岡野達則は、入学以来密かに憧れていた美少女の大崎千尋と、
はじめて同じクラスになった。
一学期の席順は出席番号で決まるため、なんと彼の席は彼女の真後ろだ。
なんて幸先がいいことだろう。
教室の一番左の窓際の列、その後の方に彼らの席はある。
長い髪を茶色のヘアバンドで留めて、
「岡野君は同じクラス初めてだよね? 一年間よろしくね」
そうやって、初対面と言っていい相手にも天使のような微笑みを見せる。
こんな笑顔を向けられたら誰でものぼせ上がってしまうだろう。
そんな彼女だが、浮いた話はなぜか聞かなかった。
「よ、よろしく」
言葉少なになんとか返すものの、まだ何といって話をすればいいのか、
彼にはわからなかった。
およそ女の子とつきあったり、遊びにいったりといった事をした経験がないからだ。
成績も、体育も芸術も、見た目も家柄も、
彼自身で判断できる範囲では、ことごとく彼の人生は上の下だ。
つまりそんなに目立つ程でもないが、
それなりに人望があって、サッカーやバスケがうまくて。
それが異性関係となると下の下に成り下がるのは、
中学を男子校で過ごしてきた事と関係があるかも知れない。
だから、これが男同士の事となると、彼はたちまち体育系の本領を発揮して
盛り上げたり仕切ったりできるのだが。
(でもその気になれば俺だって、とか思っていたりはする。年頃の男だから)
授業中の彼は毎日上の空。
元々それほど勉強しなくてもある程度の成績は取れる。
だから、彼女の背中ばかりを見ていた。
後ろからは、人並みに脹らんだ(と達則は踏んでいる)胸こそ見えない。
しかし、くびれたウエストから丸いお尻にかけてのなだらかなライン、
背中に透けるかすかな下着の線、ノートにペンを走らせるたびに動く細い腕。
教科書に目を落とすたびに流れる髪、その隙間から覗く白い首筋。
前を向けば視界一杯に夢のような世界が拡がる。
そして、春のさわやかな風が窓から入ってくると、
彼女の香りもそれに乗って達則の鼻をくすぐるのだ。
一度彼女が、(おそらく無意識のうちに)背中を指で掻いた事があった。
達則はその時だらしなく頬杖をついていた。
目の前に突然現れた彼女の左手に、一瞬ぎょっとする。
純粋な驚きと、まさかのよこしまな期待。
もちろん彼女が彼に差しのべたわけではない。
それでも達則は、その手が下着の線のあたりを悩ましく動いて、
また突然消えていくその一部始終を、まばたきもせずに見つめていた。
口は半開きで。
なんて小さく細く綺麗な手だろう。
そして、なんて細やかに動くのだろう。
その日の彼は木偶人形だった。
そのうち彼女についてはいろんな事が解ってきた。
基本的には優等生。
身体のバランス的に得意そうに見える運動があまり得意ではなく、
抜けているというか、ちょっと天然っぽいところがある。
しょっちゅう消しゴムを失くすか忘れるかしてくる。
なぜかいつも、どうしても消しゴム。
宿題をやってくる所を間違える。
そういう時にきょろきょろしているのがやたらかわいい。
また、うたたねをすることもある。
ペンでつついて起こしてやった時には、授業が終わった後で
真っ赤になりながらお礼を言ってきた。
そこまで恥ずかしがる事もないと思うくらいに。
背中をつついて感謝される女の子は彼女だけ。
そういう彼女がそこにいるだけで、達則の一日は上出来だ。
運命の日は突然訪れる。
ある放課後、彼の下駄箱の中に二通のかわいらしい封筒が鎮座していた。
軽く数分は固まっていた彼に、悪友たちが気付かなかったのは奇跡といっていい。
ひとつは、真白の上に淡い緑のシールのあしらわれたシンプルなもの。
もうひとつは、
ピンク地に濃いピンクのポイントの入ったとてもわかりやすいものだった。
(二通?)
生まれて初めてのそれが、一度にふたつというのが彼には解せない。
最初は一通であるべきだ。
いや、それよりも、どっちが先に入れられたのだろう?
下にあったからピンクのほうか?
後から入れた緑の方が勇者という事か?
いや、後から入れたから上に乗っているとは限らない。
動揺した彼はどうでもいいことを考え続ける。
我に返った達則は、慌てて周りを見渡し、目撃者のいないことを確認する。
まずはこの危険なものを早く隠してしまわないと。
差出人の確認もせずカバンに放り込み、靴を履き替えると、
一目散に校舎を飛び出していく。
そのままダッシュを繰り返して記録的な速さで彼は自宅にたどり着き、
自室に飛び込んでカギをかけた。
これで安心。
「まあ落ち着け、悪戯かもしれんしな、うん。検分しよう。まずは筆跡だ」
ぶつぶつ言って気を紛らわしながら、
「表の名前は……」
どちらも「岡野達則 様」だった。
「裏に名前は……」
どちらもアルファベットの様だ。怖くてまだ見られないので速攻で目を逸らす。
そんなことをしていてもしかたがないので、読んでみる事にする。
緑のシールの方から封を開ける。
女の子らしい文字と、文面にどきどきする。
書き並べられた言葉があり得ない程頭に入ってきた。
クラスが離れてしまってとても寂しい?
なんだかくらくらする。
いや待て、それは相手の正体がわかってからだ。例えばマッチョな女はかんべんだ。
押し流されるように読んでいく。
一週間後に返事を欲しいという。
放課後体育館の裏で、待っているという。
思いもよらない名前が、その最後に添えられていた。
塚森奈津子。
最初の感想は、
「は?」
である。
塚森奈津子は、二年の時同じクラスだった。
短髪でスポーティだが外見的にはごく平均的な、でも危険な女。
いや、胸は確か大きかった。
なんか揺れているのを見て感動した憶えがあるし。
塚森奈津子は達則をケツ蹴りした人生唯一の人間だ。
陸上部だからというわけでもないだろうが、口より速く足が出る。
(あれはとても痛かった)
また、塚森奈津子は達則の弁当を午前の授業中に食べた人生唯一の人間だ。
まさかというか、達則は昼休みまでまったく気付かなかった。
(あれはとても悲しかった)
次に、塚森奈津子は二年の時達則の英語の教科書を、
自分の濡れたごわごわの奴とこっそり取り換えた人生唯一の人間だ。
なんで濡らしたんだろうと思いつつ、
年度が終わりかけた頃に隅っこにとても小さな塚森という字を発見した。
(あれはとても悔しかった)
さらに、塚森奈津子は達則が自慰行為を見られてしまった人生唯一の人間だ。
仮病で休んだものの、親の留守に暇になってしまって、ちょっとやっていたら、
突然部屋に入ってきた彼女に、あやうくひっかけてしまいそうになった。
(あれはめちゃくちゃ気まずかった。
というか、なんであいつはウチにやってきたのか)
こうして思いかえすと、二年の頃はやたら酷い目にあわされたものだ。
(あいつは煙草を吸ったり、少し不良の面もあった。
そうじゃなかったら、十分ストライクゾーンだったのに。
その「あいつ」が?)
少し遠い目。
気を取り直し、達則はもう一通を開く。
ピンクに統一するというメッセージ性そのままに、
乙女心を切々と綴った綺麗な文章に気持ちが動かされる。
こういうものを書くのは、
すごく女の子らしい女の子なんだろうな、と想像してみる。
しばし読みふける。
入学してからずっと好きだった?
なんともったいない話だ。いや、下級生だろうか?
一年生だとしたら、ほとんど一目惚れ同然だが。
こちらも、一週間後という返事の期限が書かれていた。
放課後、新校舎の屋上。
やはり、一週間というのがきりのいいところなのだろう。
ふたつ同時に届いたラブレターだから、
無難な期限の「一週間」が過ぎるのも同時。
ただし、待ち合わせ場所は違う場所だ。
便箋の上には名前は記されていなかった。
でも。
封筒を取りあげて裏を見る。
CHIHIRO
と、それだけ書かれていた。
(まさか、前の席の、愛しの千尋ちゃん? なわけないよな。
いや、でも読みしかわからないし、字はなんか……似てる。
そうだとしてもそうじゃないとしても、なんかありえる……のか?)
そのまま、名状しがたい難しい顔をして。
達則は風呂に入ろうと思い付くまでずっと固まっていた。
そして一週間が過ぎようとしていた。
達則はこうなってしまってからの自分の気持ちがわからない。
それに加えて、達則にはちょっと気になる事があった……
当日の放課後。
達則は、
A 塚森奈津子の待つ体育館の裏へ
B 大崎千尋(推定)の待つ屋上へ
C 第三のポイントへ