幼馴染が居た。
何時も僕を気に掛けて、困った時には心配してくれて、けれどその云う事を聞かないで時々独りで走る僕を心配する
余りに泣き出してしまうような女の子だった。幼かった僕はその幼馴染に対して淡い恋愛感情を持っていた。毎日一緒
に遊ぶ度に心が躍るようで、お互いに家に帰らなければならに時間になってしまった時には早く明日が来ないかと心待ち
にしていた。僕の幼少期にとって、幼馴染は最も僕の世界に彩りを与えてくれていた存在だった。
しかし、そんな僕にとって不可欠の存在だった彼女は小学校に入学してから三年、突然家庭の事情で遠くに引っ越す事に
なってしまった。僕などがどうにか出来る問題では無く、彼女は涙を流しながら、唇を噛み締めて飛行機に乗って行ってし
まった。余りにも早く感じられた時の流れの中で、僕は悲しみと云う感情ですら気付けず、暫くは茫然自失としながら
流れて行く毎日の彩りを眺めていた。僕が涙を流したのは彼女が手の届かない存在になってから一週間後の事だった。
――そんな幼馴染が、明日帰って来る。
別れも突然だったら、再会も突然らしい。僕への直接的な連絡はなかったが、僕の母親がそう云う旨が綴られた手紙
を受け取ったらしく、にやにやと笑みを含みながらそれを教えてくれた。僕は最初、それが嬉しい物なのか分からなかった。
漠然とした理解の中で、彼女が帰って来ると云う事がどう云ったものなのか分からなかったのだ。しかし、徐々に時計が
深夜の零時に迫るにつれて、僕の心臓は警鐘を打つように激しく脈打った。そうして確かな随喜が見て取れた。
――幼馴染が帰って来る。
それだけが今の僕に考えられる一つ事だった。
同じ事実を頭の中に延々と反芻しながら、僕は眠った。
次の日、彼女は朝早くにやってきた。
午前八時を時計が示した時、丁度玄関の呼び鈴が軽快な音色を響かせた。その途端に心臓が跳ね上がる心持ちになった
僕は到底応対に出る勇気を持つ事が出来ず、目配せで母親に応対に出てくれと頼んだ。母親は何処か困ったような笑みを
終始浮かべながら、しょうがないわね、と云って玄関の方に歩いて行った。僕の心臓は一向に落ち着きを取り戻せないでいる。
玄関の方から客人と楽しげな会話を交わす声が聞こえる。その中で一層若々しい声が誰も物なのか、僕の頭が出す答えには
彼女以外にその声を出す人を知らなかった。久闊を叙す会話が次第に終わりに向けて進行を始めた時、突然母親が声を張り上げて、
「ちょっと出かけて来るから、沙希ちゃんと待っててね」と云った内容だった。云うまでもなく、沙希≠ニは幼馴染の
名前だ。母親は急に僕らが二人きりになる状況を作り出して、何処かへ行ってしまったようだった。
「お邪魔しまーす」
軽快な声が家の中に響く。今日は土曜日だ。学校は無い。父親は元より海外に単身赴任の為、家には居ない。僕と生活を
共にする母親もついさっき去ってしまった。僕は朝食に作られたコーヒーの味を感じる暇もなく、玄関から僕の居るリビング
に向かってくる足音に耳を傾けていた。心臓はともすれば破裂しそうなくらいに熾烈な勢いを以て、脈を打っている。
そして、待ちかねたような、その逆のような、閉じられた扉が漸く開いた。
そこから顔を出した幼馴染は幼い頃の愛らしさを微塵も損なう事なく、むしろ可愛さを研磨して研ぎ澄ましたかのような
容貌をしていた。変わり過ぎた外見に圧倒されて、彼女の瞳を見詰めるばかりの僕は茫然としながらカップを手に、
黙っていた。僕の好きだった、優しくも涙もろい彼女は、やがてこう云った。
「久し振りね! あたしのコーヒーも早く用意しなさい! 今すぐに! でないと罰として殴るから!」
僕が思い浮かべた幼馴染の成長した姿は、音を立てて一気に崩れ、灰燼と化した。
――続……かない。