「お前なぁ、いい加減ここ埋めろって」
「やだ」
「何でだよ?」
「いいじゃん、別に今じゃなくっても」
女は、ぶっきらぼうにそう言い放ち、わざとらしく伸びをした。
「そういうわけにはいかないんだって」
「やだ。なんかもう、色々めんどくさいし」
「面倒くさいって…お前なぁ」
男は溜息をつき、女に非難がましい目をむける。
一方の女はふて腐れた表情で、男から目を逸らしている。
が、本心から面倒だと思っているわけではなさそうだ。
そっぽを向いた横顔の頬が、微かに緊張している。
そのくらいの変化に気づけるほどには、男は女を知っている。
「なぁ…どうしたんだよ、今になって」
ことさら優しい声音でそう問いかけると、女は案外素直に本音を漏らした。
「………この一年、楽しかったじゃない?」
「そうだなぁ…色々あったけど、まぁ大きな喧嘩もしなかったし、
いい一年だったよな」
「でも、ここ埋めちゃっても、これからまた楽しい保証なんてないし」
「そりゃそうだけど…」
「なんか…寂しいっていうか、不安ていうか………さ」
「お前…そんなこと心配してたのかよ」
「そんな事って!あたしには大事なことなの!!」
「………馬鹿」
女の真剣さがおかしくて、男は笑いながら言う。
「バカって言うな!」
「馬鹿じゃなきゃ阿呆だ!お前、新婚は人類の永遠の夢だぞ?
涸れることなき妄想力の泉だぞ?バージンロードでウエディングドレスで
新婦で神父で裸エプロンだぞ!?
なんか慣れてなくて炭水化物ばっかりの手料理だったり、部屋にAVがあったぐらいで
可愛く痴話喧嘩しちゃったりするんだぞ?!
たまには本格的な喧嘩したりもするけど結局モトザヤで夜は燃え上がったりとかだな、
あとは新婚じゃなくてもあれだ、娘とか息子が結婚する年頃になっても
「妹か弟作っちゃうぞ〜」とかだな!ビバ結婚!!!
次の1年どころか…あと50年はいける!!」
「鼻息荒くてキモイんですが…っていうか、50年は無理だろぉよ…」
今度は女が呆れて溜息をつく。
「いや、いけるね俺なら。とにかくそんな薔薇色ライフを送るためには、
ここ埋めてとっとと次に行くしかないだろ?
そんでまた、初夜とか初夜とか初夜とか熱い日々をだなぁ!」
スパーン、と小気味のいい音を立てて、男の頭が丸めた書類でしばかれる。
「ああっ!お前、これで殴るなよぉ!これ大事な…!!!」
「他に言うことないんかいっっ!!!」
重ねてげしげしげし、と3発ほど殴られ、男は床の上に平伏する。
「も、申し訳ありませんでした…」
「で?結局何が言いたいわけっっ?!」
刺々しい声音に、男は恐る恐る頭を上げ、
女の手に握られた書類をそっと取り上げて広げる。
そして再び、女の前に土下座した。
「一生、幸せにします…頼むから、ここ、埋めて下さい」
テーブルの上に広げられた婚姻届には、一箇所の空白。
「………………………もぉ、しょうがないなぁ!」
怒った表情のまま、頬だけを真っ赤に染めて、
女はペンを握り、自分の名前で、空白を埋めたのだった。