――1――  
 
「もし、そこのお若いの…」  
「んあ?」  
 世の中には、カクテルパーティ効果というものがある。カクテルパーティのようなざわめきに満ちた雑踏の中でも自分の名前などは自然と聞き取る事が出来る、というヤツだ。  
 だが今は、雑踏どころか、通りは寒々しいまでに閑散としており動く気配は一つっきり。名を呼ばれてもいない。  
 しかし、その声にはまるで魔力でも含まれているかのようで、ざわめき以上に思考を分厚く包み込んでいた霞みをするりと潜り抜けて、呼びかけは青年の意識を揺さぶった。  
 青年はよたつく足を止め、シャックリでもするかのように危なっかしげにぐるりと辺りを見回す。頭の旋回速度は大分遅い。  
 が、何も見つからない。  
 煌びやかに夜を飾っていたネオンも、そのあらかたが落ちた街。所々で落ち着いた雰囲気を纏って光るのは、青年からすれば高嶺の花ばかり。  
 最終電車は当の昔に終点へ辿り着き、バスは勿論、タクシーさえもほとんど走っていないような時刻。  
 しばらくの空白の後、青年の頭の中にようやっと戸惑いと疑問が浮かんでくる。  
 友人知人とも分かれ、あてどなく暗い街を歩いていた青年はこんな町中で自分が呼びかけられるなんて思ってもみなかった。  
 カタツムリ張りに遅くなった脳でも疑問点までは行くものの、誰に呼ばれたのかと言う答えには一向に辿り着かない。  
 トロンと澱んだ目は青年の頭が鈍りきっている事を物語っている。  
 それだけでなく、阿呆のように半開きになった口から漏れる匂いからも、青年がたっぷりと酒を飲んだ後だと言う事は明白だった。  
「こっちじゃよ、お若いの…」  
 再び彼を呼ぶ声がして、そこでようやく青年は声の主の居場所に気付いた。  
 声の主は、青年を名前で呼んではいない。けして大きな声でもない。せいぜい隣に聞こえる程度の、独り言と勘違いしそうなほどの声量だ。だのに、何故だか青年は自分が呼ばれていると分かった。  
「お〜?なんら、婆さん、占い師かあ〜?」  
 安い居酒屋でしこたま飲んだ後遺症は抜けかけているとは言え、まだまだその足は酔いから抜け出せていない。時々危なっかしくふら付きながらも、青年は老婆へと足を向けた。  
 互いに寄りかかるようにして建つ細い雑居ビルとビルの境界。  
 その僅かに出来た間隙にすっぽりと嵌まるようにして、一人の老婆が小さな卓を広げ、その後ろに腰掛けていた。  
 老婆の顔の上半分はフードが作る影に隠れ、他も暗がりに溶け込むようにして見え辛いが、高く突き出した鼻から日本人ではないと分かる顔立ちだ。  
 確かに彼の言葉通り、老婆は一見すれば辻占いにも見える。  
 暗い隙間に陣取り、およそ現代の日本には似つかわしくないたっぷりとしたローブを纏い、すっぽりとフードを被っている。老婆は、占い師と言う言葉のイメージ、そして夜と言う時間の魔力も相まってこれ以上ないと言うくらいに妖しげな雰囲気をかもし出していた。  
 もしも彼の脳がアルコール漬けで無ければ、きっと彼は違和感を覚えたかもしれない。  
 
 辻占いと言えども客商売には違いない。街が賑わいを見せていた時とは違い、時刻が時刻だ。人気も消え失せた街角で、来る宛もない客を待とうとする者はそうそういないだろう。  
 実際、老婆は姿格好こそそれらしいが、占い師には見えなかった。  
 それらしい卓こそ広げられてはいるが、卓には筮竹やタロットや水晶球にその他諸々、一般的に占いに使われそうな道具が何一つとして置かれていないからだ。  
「んん〜?婆さん、俺の事、占ってくれるってのか?」  
 そんな事すらもピントのぼやけ切った頭では気付けない。  
 卓上には占い道具に代わって、別の物が置いてあると言うのに。  
 老婆の前にある折り畳み式の小さな卓の上には、小さな鳥籠のような物がいくつか鎮座していた。  
 卓全体を足元まで被うように広げられた灰色のテーブルクロスの上にあるのは、絡み合う蔓草をモチーフにしたと思われる小さな鳥籠。  
 それは、生きた樹が意思を持って自ら絡まりあい籠になった、と言われれば信じてしまいそうなほど精巧な品だった。  
 細い蔓が寄り集まり、時には解けて半ば球形をした籠を形作るフレームになっている。フレームには切ったり継いだりした跡も見当たらず、まるで本当に一本の樹から出来ているかのようだ。  
 蔓のあちこちからは大小さまざまなサイズの葡萄のような葉が、青々とした姿でぶら下がっている。  
 この籠の製作者の趣味は徹底しているようで、持ちにくさを許容してなお造形に凝っていた。  
 籠の天辺のリング状の持ち手すらも撚った蔦で出来ている。実用性はともかくとして、創作物や美術品として見ればそれだけでも見事な物だ。  
 しかし、それ以上に見事なのは籠の中にいるモノだった。  
 籠の高さはせいぜいが二十センチをちょっと超える程度。さほど大きくはない。また蔓草のフレームが形作る網の目も粗い。その寸法からすると入れるとすれば、小鳥かハムスターのような小さな愛玩動物くらいなものだ。だが、それらは粗い網目の隙間から逃げ出してしまう。  
 籠の中にいるモノは小鳥でも、ましてやネズミの類いでもなかった。  
 そのいずれかでも、否、この世界には存在すらしない筈の物だった。  
 ソレを一匹と呼ぶべきか、はたまた一体と数えるべきか。少なくとも人ではないのだから、『一人』は妥当でないのは確実だ。  
 人間、それも見目麗しい異国の少女を十分の一に縮めた上で背中に翅を生やせば、籠の中にいるモノになるだろうか。  
 鳥籠の底の小さな円形の床の上、膝を抱えて丸くなりピクリとも動かないのは、一体の妖精だった。  
(最近のフィギュアってのはすげーなー)  
 目を丸くしながら籠の中を見詰める青年の、それが最初に浮かんだ感想だった。  
 青年の目がそちらに集中し、鈍った頭でもソレが何かを把握した頃合を見計らう。もっと違う角度から良く見ようと青年が体を動かし始めた頃、老婆は口を開いた。  
 老婆は先ほどの青年の質問には答えず、にやりと大きく笑って見せる。  
 お伽噺に出てくる魔女みたいな笑いを見せながら、老婆は青年に話しかけた。  
「どうかね?お若いの。見事なもんだろう」  
 人間誰しも自分のとっておきを自慢するとなれば、顔の一つも緩むものだ。  
 
 肌はくすみ、皺だらけだが不思議と気力溢れる老婆の顔には、お客への愛想笑いと得意げな笑みが同居していた。  
 この時点になって、開店休業状態だった青年の脳味噌もようやく仕事をし始める。  
 いくつかの事柄を結びつけて、回答を出す。  
「あー分かったぞー。婆さん、俺にコイツを売りつけようってんだろ?金なんかねーぞぉ?」  
 全部飲んじまったからな。  
 青年はそう言うや、げふぅっとアルコール臭を盛大に撒き散らしながらケラケラと笑った。  
 うざったい売り込みが始まる前にとっとと帰るか。  
 脳がアルコール漬けで働かないと言っても、その程度の感想は出てくる。が、青年が踵を返すよりも早く、老婆の言葉が彼の足を縛りつけた。  
 ほんの一瞬前まで思っていた事は、老婆の一言によってあっさり引っくり返された。  
「いやいやいや、お代なんか頂戴しないさ。お若いの、アンタが欲しいと言うのなら差し上げるよ」  
 随分とおどけた口調の老婆。  
 両の掌が否定の形にヒラヒラ振られ、ついで青年に向かって差し出すようなジェスチャーをする。  
 ただでくれる、と言う。青年の側から無理に「ただでよこせ」と頼んだ訳でもない。  
 ならば断る道理はない。  
「ふーん。くれるっつーなら貰わないでもないんらが……そいつぁ、販促かあにかか?」  
 隠そうとして隠れていない欲望丸出しの青年の問いにも、老婆は口元を歪め、曖昧な笑みを浮かべるだけ。  
 青年には老婆の意図がまるで読めなかった。  
 頭を捻ったものの、身体中に残るアルコールのお陰で物を考えるのがひどく鬱陶しく思える。頭の周りにまとわりつく小蝿を追い払うように、青年は考える事をあっさりと放棄した。  
 仮に青年が正常でも、彼は正解を言い当てる事は出来なかったろう。彼が取り立てて愚鈍だから、と言う訳ではない。それが誰であったとしても、老婆の思惑を見抜ける人物など人の世には存在しない。  
「婆さん、それ、ほんろにくれるのか?」  
 数秒前まで感じていた薄気味悪さは、物欲の前に霞のようにすっかり消えていた。  
「ああ、本当だともさ。可愛がってやっとくれ」  
 さあ、どうぞ。  
 どれか一つを選べ、と深い皺が刻まれ節くれ立った手が籠を指し示す。  
 老婆の手に促されて、青年は籠の一つを手に取ろうとする。しかし、籠の上空を青年の手は行きつ戻りつ。たっぷり数分も悩んだ末にようやく一つの籠に手をかけた。  
 老婆が肩を小刻みに揺らした。笑ったのだ。満足そうに仕草のみで笑いながら青年に語りかける。  
 
「確かに彼女をただで差し上げるがの、その妖精にはいくつか守るべき事柄がある。  
 それさえきっちり守れば、妖精はきっとアンタに幸運を授けてくれるだろうよ」  
 老婆の顔と声から笑みが消えた。  
 商売人の顔から一転、厳かに言いながら老婆は親指と小指を畳んだ右手を示して見せた。  
 立っている指は三本。つまり、守るべき事柄は三つ。  
「一つ。妖精だって飯を食う。  
 毎日、指貫一杯分の牛乳と蜂蜜を与えてやる事。ちゃんと新鮮なやつをじゃぞ?」  
 老婆が薬指を折る。  
 お前さんだって飢えるのは嫌いじゃろう?、と老婆は青年を見上げる視線で語る。  
 青年は納得したのかしてないのか判断しかねる微妙な顔で、曖昧に頷いた。  
 フィギュア、それはつまり樹脂や粘土の塊に過ぎない。  
 模型が飯を食ってたまるか。  
 この老婆は人とは違う物が見える可哀想な人物なのか、それともそういう設定なのか。文句を言って返せと言われるのも嫌なので、青年は黙って聞く。  
「二つ。彼女は飯を食うだけじゃ生きてはいけん。腹と同様に心も満たしてやらねばならん。  
 そうせんと、いずれ心が飢え死んじまうからの。そこらへんは人も妖精も似たようなもんじゃな。  
 その娘は風属の妖精、流れる空気の中でこそ輝く娘。だから、毎日一回は自然の風に当ててやる事」  
 中指がゆっくりと折りたたまれる。  
 青年の思案を置いて、老婆は淡々と先へ進む。  
「最後に三つめ。こいつが一番大切な事さね。  
 彼女はまだまだ若い。無垢な心を鎧う術は未熟じゃ。妖精は人の世にあってはか弱い存在にすぎんのじゃよ。  
 ……故に、絶対に怖がらせたりしない事」  
 ゆっくりと、それこそ幼児に聞かせるように噛んで含めるような口調で言う。  
 教えられている当の青年はと見れば、アルコールの後押しする無礼さで老婆の言葉なんかほとんど聞いちゃいなかったが。  
 籠を引っくり返す暴挙にこそ出ていないが、青年は籠を上から下から、試すがめつ眺めていた。  
 怖がる?フィギュアが?  
 
 彼としては、籠の中で妖精が本物で老婆の言葉が事実だ、なんて欠片も信じてはいなかった。  
 彼がそれなりに丁寧に扱っているのは、ただ単に下手に動かして中の良く出来たフィギュアが壊れると困ると言うだけだ。話を聞いているのだって、老婆が機嫌を損ねて折角くれると言っている物を「返せ」と言われるのが嫌で、最後まで付き合っているに過ぎない。  
 そんな青年の無作法にも、老婆は気を悪くした風でもない。  
「ただし、気をつける事だね……お若いの」  
 囁くような声で老婆がボソリと呟く。  
 妖精に見入っていた青年が、ぞくり、と身を震わせた。  
 若いのか年老いているのか、男なのか女なのかすらもあやふやな不思議な声音。それもごくごく小さい。それは、どこからか緩く吹き始めた風音にさえ吹き消されてしまいそうな程だ。  
 だと言うのに。  
 青年には老婆の言葉が聞こえた。  
 老婆の口元がもごもごと動いて何事かを喋っているという認識しか出来ないのに、その癖、老婆が何と口にしているかはしっかりと理解できる。まるで耳を通りこして、脳に直接話し掛けられているような感覚。  
 知覚と認識の差がズレを産み、目眩となって青年を襲う。  
 はじめは真綿で絞められるようだった違和感は、あっという間に恐ろしいほど強烈になって精神を蝕む。  
 目に映る全てから急速に現実感が失われていく。  
 胃から何かがせり上がる。地面が頼り無く波打ち始める。  
 老婆の言葉は続く。  
「約束を違えて妖精を裏切った時、アンタはとてもとても大きな代償を支払うことになるだろうよ」  
「ば、ばーさん、あんら、らに言って…」  
 それ以上は言葉にならなかった。  
 鈍痛と眩暈が青年の意識を掻き混ぜてクラムチャウダーみたいに変えていく。  
 老婆の背後にわだかまる暗闇が、じわじわと領土を広げ、街灯の光を侵蝕し始める。  
「その事を、ゆめゆめ、忘れんことだね」  
 ぐらりと一際大きく視界が傾いだ。  
 加速度的に広がり続ける暗闇は既に老婆を飲み込んでおり、ついで大波のように膨れあがり、青年に圧し掛かってくる。  
 老婆の言葉が終わるか終わらないかの辺り。  
 そこで青年の意識は闇に飲み込まれ、途絶えた。  
 
――2――  
 
 音楽が鳴っている。  
 携帯電話の安っぽいスピーカーから流れる音楽。好みの問題よりも、流行っているから、と言うだけの理由でダウンロードした曲だ。  
 いつもと同じ、どうと言うことのないアラーム。  
 だが今の二日酔いの頭には、地平線の果てまで鳴り響く割れ鐘のようにも思える。  
「ぐっ……つーっ。あたま、が、いてぇ」  
 そんな青年の苦しみなど機械の知った事ではない。  
 青年の携帯電話は、事前に与えられていた任務をただただ淡々とこなす。血の通わぬ冷徹な機械は、青年の体調など気にかけずに彼を叩き起こそうとする。  
 無理やりに覚醒させられた青年が布団の中から身を起こした。墓場から蘇ろうとするゾンビのような動き。  
 動く死体のような青年の耳に、携帯電話の音楽に合わせて、もう一つの音が聞こえる。  
 突き刺さるような電子音とは全く異なる、心地良い鳥の囀りが聞こえる。  
 だが、スピーカーからの流行のポップスに合わせて歌う鳥なんかがいるものだろうか?  
 それに、なんか妙に女っぽい声色の鳥だ。  
 そんな事を体と同じくゾンビ同然の頭で考えながらも、携帯電話を捜し求めて動く。  
 昨晩はどうやって家まで帰ってきたのか、青年にはさっぱり記憶がなかった。記憶同様に放り出してしまったようで、彼の携帯電話もどこに置いてあるのかよく分からない。  
 記憶がない間に何かをやらかしてはいないか、と不安が青年の頭をよぎる。記憶を引っ張り出して確認したかったが、今はとにかく、二日酔いの頭の中に鈍痛を引き起こす音を止めたかった。  
 無造作に放り投げられたと見えて、部屋の隅にようやく求める騒音源を探し当てた。  
 拾い上げる。  
 ピッと言う短い電子音と共に延々とループしていた曲が止まった。  
「Pyu?」  
 鳥の囀りは止まなかった。  
 気持ちよく歌っていた最中なのに不意に演奏を止められて、少し不満げな音を可愛らしい唇から漏らしながら伴奏相手を見やる。  
 伴奏者、つまりは青年の携帯電話を。  
 鳥籠の中から一対の視線が、青年の方向に向けられていた。  
 そこには文字通りの意味で小さな少女がいた。  
 小さく可憐で、無邪気そうな雰囲気をまとった、青年がフィギュアだとばかり思っていた小さな少女が。  
 まだアルコールに漬かった酔夢から抜けきっていないのか。そう自問する青年の顔が、少女が存在する事自体が信じられない、と如実に物語っている。  
 その視線の先、青年の心中を分かっているのかいないか。おそらくは何も考えていない態で、長く薄青い髪の毛の先端をくるくると指に巻きつけて弄びながら、少女は歌い続けている。  
 薄手のワンピースドレスから伸びる四肢は伸びやかで、若いが幼さを感じさせるほどふっくらとはしてない。かと言って成熟とも縁遠いようで、まだまだ熟しきっていない胸も腰も腕も太股も細い。  
 細いが脆そうな感じはせず、嵐が来れば柳のように柔軟に撓って彼女を攫おうとするあらゆる魔の手を受け流すだろう。  
 肌は白い。不健康な絵の具のような白さではなく、夏の午後の晴れ空に浮かぶ白雲さならがに透明感に溢れていた。  
 青年と止まった彼の携帯電話を見詰める瞳は、形の良いアーモンド型で、ほとんど白目の部分がなかった。眼孔ほぼ全てが薄青に染まり、そこだけ一際濃い青の瞳孔が、愉快そうな雰囲気を湛えて携帯電話を見ている。  
 少女のシンプルなワンピースは背中が大きく開かれて、やや露出度が高めになっていた。それは見る者にエロティシズムを掻き立たせる為のデザインではない。  
 純粋に物理的な理由であり――彼女が物理法則に拘束される存在なのか否かは置いておくとして――その背中の肩胛骨の辺りからはトンボのような翅が、二対四枚、伸びているからだ。  
 
 ジョン・アンスター・フィッツジェラルドを初めとする幾多の画家がモチーフとし、彼らの描いた妖精絵画の中から抜け出してきたかのような存在。  
 絵の中にいるのが飽きたから抜け出して来た、と言われれば信じてしまいそうな存在。  
 そう、まさしく少女は妖精としか呼べない存在だった。  
 その御伽噺や幻想文学の世界の住人である妖精が、青年の部屋にいて、鳥籠の中で楽しそうにハミングしている。  
 さすがに全ては覚え切れなかったと見えて、ところどころ誤魔化すような途切れ途切れのメロディラインは、ついさっきまで青年の携帯電話から流れていた曲に間違いない。  
 歌う妖精を視界の端に収め、青年は顔を顰めた。  
 アルコールの所為でだいぶ途切れがちの昨晩の記憶を、疼く頭痛を押し退けて何とかサルベージする。ようやく、夜更けに交わした老婆とのやり取りがぼんやりではあるが浮かび上がってきた。  
 会話の一端を思い出せば、それに引きずられるようにズルズルと幾つもの記憶がぶら下がって這い上がってくる。  
 エア。  
 澄み切った大気の名。  
 それが彼女の名。  
 その内心の呟きは口から漏れていた。  
「Lyuuu!」  
 自らの名を呼ばれた、と思ったのだろう。  
 破顔一笑。  
 美しい可愛らしい、などのおよそ考えつくポジティブな要素のみを切り出してきて、そのままギュッと人型に凝固させたかのような笑顔。  
 幻想の中でのみ咲く花が顕れた。  
 そう青年に錯覚させるほどの可憐な笑顔である。  
 その浮世離れした笑顔を前にしても、青年にできることはと言えば、ぽっかりと口をOの字に開けて間抜け面を晒す事だけだった。  
 青年は彼女がロボットなのかとも思った。  
 が、それを瞬時に自分で否定する。こんな精巧なロボットが実用化されているなんて聞いたことがない。よしんば実用化されていたとしても、タダで貰えるほど安くは無いだろう。  
 自分が幻覚を見ていたり、頭がおかしくなったのかとも思った。  
 思わず、拳固でごすごすと側頭部を叩いてみる。極めて古典的かつ原始的だが、少なくともこれ以上の確認手段は青年にはなかった。  
 ただでさえ二日酔いで痛いのに、さらに痛かった。  
「Pyuluu?」  
 自傷に走る青年の様子を、鳥籠の中の少女が小首を捻って不思議そうな顔で見つめていた。  
 痛みに青年の精神が正気に戻って、鳥篭もろとも少女が煙のように消える気配はないようだ。  
 選択肢は次々と消去されいく。  
 残る可能性は一つだけ。あまりと言えば、あまりの事実。青年がそれを認めるには結構な勇気がいった。  
「こいつは、本物の、妖精…だってのか……?」  
 ただ呆然と呟くのが青年の限界だった。  
 日常会話で口に出すにはちょっと恥ずかしい単語だったが、そんなことは気にならず、認めがたい事実を自分に言い聞かせるように青年はそれを呟いていた。遭遇した事態があまりに突飛だと、人間の感情は上手く働かなくなるらしい。  
 にわかには信じがたい事ではあるが、彼女が妖精であると、そして妖精は実在すると信じる他ない。  
 ただ淡々と事実を受け入れていた青年に、他の事実が襲い掛かる。  
 
 時の神は誰に対しても公平だ。それが、およそ現実離れした状況に放り込まれて茫然自失状態の青年であろうとも。  
 携帯電話の時刻表示が瞬いて、青年に時を告げていた。  
 それは本来のアラームの時刻よりも、ずっと遅い時間を示している。青年が起きる切っ掛けとなったアラームは元々のアラーム時刻ではなく、延々とスヌーズ機能が働いて鳴り続けていたものだったのだ。  
「って、うおぉ、やべぇ!もうこんな時間かよ!」  
「Pyuii?」  
 そんな青年の突然の慌てっぷりを、籠の中の妖精は不思議そうな顔で見詰める。  
 この青年は大学生の身である。  
 そして今は長期休暇中ではない。無論、授業がある。それも、並み居る教授陣の中でも取り分け厳しい事で知られる教授の担当する授業が。  
 そんなに厳しい筈がないと高を括って遅刻や無断欠席をした連中は残らず泣く羽目になった。  
 その授業開始まで、あと僅か。  
 大学生活を、苦労した受験戦争の末に勝ち取った遊びの時間と考えている青年にとっても、こればかりはすっぽかす事は出来なかった。  
 件の教授の一存で留年した生徒の数は、先輩達から聞き及んでいた。数えるには一人分の両手足の指では足りないぐらいなのだ。  
 彼とて空気は人並みに読める。当の教授が、彼のような学生を眼の敵にしているのは気づいていた。遅刻程度でもやらかせば嬉々として理不尽な――世間的には至極まっとうな――ペナルティを突きつけてくるのは目に見えている。  
「やっべーぜ!マジやっべえっつーの!」  
 奇声を上げて洗面台に突撃する。  
「Kyuri?」  
 エアの訝しげな声が青年の背中に投げかけられるが、今の彼に相手にしていられる余裕はない。  
 ざばざばっと顔を乱暴に洗う。  
 壁にかかる半ば汚れたタオルで水気を拭いながら自分の服を確認する。  
 昨日と同じ服、着の身着のままだ。どうやら昨日帰ってきてそのまま倒れるように寝たらしく、服は皺だらけだが気になんてしていられない。  
 半分外した辺りで気力が尽きたようで、テーブルの上に乱雑に置かれたアクセサリをじゃらつかせて慌しく身に付ける。財布と携帯電話をポケットにねじ込んで、そのまま転がるようにして外へと飛び出していった。  
 ドアの乱暴に閉まる音。鍵がかかる金属音。  
 足音が次第に遠ざかっていく。  
 唐突に訪れた静寂の中。  
「Pyuu?」  
 残された妖精が小首を傾げていた。  
 腕組みをし、くりっくりっと首を捻るその度、艶やかな髪がさらさらと左右に流れる。  
 如何にも『アタシ悩んでます』と言う感じで眉間に皺を寄せ、彼女の小さな頭の周りにクエスチョンマークが飛び回っているのが見えそうなほどの悩みっぷりだ。  
 そうして、彼女は彼女なりの結論へと至ったのだろう。  
 再び破顔一笑。  
「Pyuruieeee!」  
 四枚の透き通った翅をピンと立て、妖精が可愛らしい囀りを立てる。  
 それはどことなく得意そうな雰囲気を持って、静かになった室内に響いた。  
 
――3――  
 
 大学構内に辿り着いた所で、始業のチャイムはとうの昔に鳴り終っていた。  
 どれだけ急いだとしても既に無駄な足掻きに過ぎない。むしろ、この勢いで教室に突撃でもしようものなら、当の教授のさらなる反感を煽るだけだろう。  
 それでも走った。  
 それが己のしでかした不始末のペナルティとは言え、この青年は座して沙汰を待つほど、潔くなかった。  
 構内をすごい速度で走る青年を、周囲の人間が不思議そうに、または焦った様子を対岸の火事とばかりに面白そうに見やる。  
「あれー、健二じゃん。ナニ走ってんの?」  
「う、お?」  
 息せき切って走る青年、健二を横合いから不意に飛んできた声が捕まえた。  
「え……?!あれ、オマエ、授業は?」  
 いる筈の無い人物から声をかけられ、健二は急ブレーキをかけて停止する。  
 ぐるぐると最悪の予想がループする思考は狭窄し、目の前しか見えなくなっていて健二には、すれ違った学生が彼の友人の一人だとは気付けなかったのだ。  
 友人は彼と同じ講義を取っている。そいつがココにいると言う事は、友人も何かを諦めたと言うのだろうか。  
 戸惑いと、道連れが出来たという嫌な喜びを、友人の言葉が打ち消した。  
「あぁ、カマタの授業な、今日は休講だってさ」  
「き、休講?」  
 まさしく降って沸いた幸運。  
 急展開する事態に、青年は友人の言葉にただオウム返しに尋ね返すのが精一杯だった。  
「なんでも通勤途中で車がパンクしたとか?そんでもってJAF呼んでも全然こねーから大学これねー、とか助手が言ってたぜ?」  
 無駄に急いで損したな。  
 焦りの表情から一転、ぽかんとした表情を浮かべる健二に、そう言わんばかりの軽薄そうなニヤニヤ笑いが投げかけられた。  
「は……ははっ!なんだよ、休講かよ!ったく、急いで損したぜ」  
 安堵のせいで意味もなく発せられる乾いた笑い。  
 今更ながら額から頬から顔中をダラダラと伝う汗にようやっと気付き、それを拭い、照れたような仕草で頭を掻き、  
「いやーラッキーラッキ……」  
 そこで凍りついた。  
 
 健二が口にしたある単語が、彼の記憶を強く喚起する。それは彼の思考を凍りつかせるのに十分な威力を持っていた。  
 自分の発した言葉の意味と、自分の部屋にいる小さな妖精の姿の間に連想の糸が繋がる。  
 ついで可憐な妖精と老婆の姿が脳裏に繋がる。  
 そこまで来れば、後はすぐだ。  
 老婆の言葉が蘇る。  
「……妖精は幸運をもたらしてくれる。あれはマジだったのか…?」  
 おっかなびっくりと言った様子で小さく呟く。  
「ん?なんか言ったか?」  
 いきなり様子の変わった健二に友人が尋ねるが、健二は応えない。今の彼に、応える余裕は無い。  
 先ほどとは違った汗が一筋、たらりと顎を伝う。  
 信じる以外に現実と折り合いがつくような選択肢は無いのだが、口に出して確認でもしなければ信じられそうもない。  
 老婆と出会ったのが今日未明。エアと会ったのが今朝方。命拾いしたのが、ついさっき。  
 起こった事は常識ではいかにも考えられない事だが、それをただの偶然と切って捨てるには、あまりに作為めいたタイミングであった。  
 途切れがちな記憶に残る老婆の言葉。部屋にあった鳥籠。その籠の中で歌う少女、妖精のエア。  
 それらを一つ一つ思い返していく。  
 馬鹿な。  
 それが最初に健二が抱いた感想だった。心中、それを鼻で笑い飛ばそうとし、出来ずに終わった。  
 教授が乗っているのは抜群の信頼性を世界に誇る日本車だ。年式も新しい部類に入る。定期的にメンテナンスを受けている限り、そうそう壊れはしない。ましてや教授には車を乗り回す趣味などまったく無く、主な用途は通勤がほとんどだった。簡単にパンクなどしない。  
 たまたまエアを貰った日に寝坊して、たまたま教授の車のタイヤがパンクし、ロードサービスも手一杯で、たまたま致命的な遅刻をしそうになる事態を避けえた。  
 こいつはいくらなんでも出来すぎじゃないか。  
「い、いや、なんでもない」  
 友人の言葉に、随分と遅れて健二は心ここにあらずといった感じで答えた。  
 じっとりと湧き出した汗で背中がやけに冷たい。  
「ふーん。ま、いいけど」  
 そんな健二の不審げな様子を気にも止めずに、  
「残りのコマはメンドっちい授業は入ってないし、どうよ?行かね?」  
 
 左手を差し出して腰程度の高さに留め、右手を後ろに引いて見えない棒を握ってシュッと前に突付く仕草をする。  
 ビリヤード。健二と彼の友人達がハマッている遊びだ。  
 バイトの無い夜に、時には授業を放り出し昼から缶ビールを呷り、大学生向けの安っぽいプールバーで夜通し騒ぐのが彼らの常だった。  
 無論、酒の入った大学生がお行儀良く勝敗のポイントだけを競い、お互いのプレイを紳士的に称えあうのみで済ます筈が無い。  
 彼らの間では恒常的に一万円札が行き交っていた。酒の入り具合と興の乗り方次第では、一人につき一万円札が数枚飛び交うのも稀ではなかった。それも一プレイで、だ。  
 そんな風に破目を外し過ぎたとしても、眉をひそめたり押し留めようと何か言う者はいなかった。  
 馬鹿騒ぎをした挙句、金が手に入ればいい。ただ、それだけ。  
 いちいち、そんな"ウザッたい"事を気にするヤツは健二の交友関係の中にはいなかった。  
「いや、俺は今日はいいわ…」  
 健二は、仲間内ではそこそこ強い部類に入るプレーヤーだ。  
 常ならば魅力的な誘いであるが、今の彼はとても球を突いて遊ぶ気にはなれなかった。健二にはもっと優先すべきことが出来ていた。  
 彼の胸を締め付けるのは、焦りにも似た、漠然とした不安感。  
 それを消したい。  
 だが、この不安感を消すには家に帰るほか、帰ってもう一度エアをこの目で見て、妖精の実在を確かめるしか術が無い。  
「あー、悪い。ちょっと用事思い出したんで、家に帰るよ」  
 適当な理由をでっち上げて誘いを断る。  
 少々不自然だったが、まさか本当の事を言う訳にもいかない。言ったところで信じてもらえる可能性は欠片もなかったが。どちらかと言えば、医者に連れていかれる可能性の方が高いだろう。  
「なんだよー、つきあいワリーなー」  
 友人は彼の理由を追求しなかった。  
 たわいない口先だけの悪態を少しこぼして、健二をあっさりと解放してくれた。  
「まぁ、用があるんならしゃーないか。んじゃ、またな」  
「お、おう…またな」  
 ぎくしゃくとした動きで手を振り、踵を返す。そのまま、何かに急かさせるように足早に立ち去った。友人からはもう見えなくなっていたが、その目には酷く真剣な光が浮かんでいた。  
 友人は去っていく健二を気遣う素振りも見せず、  
「お!トッシーじゃん。オマエ、今日は暇?暇っしょ?どうよ、突きに行かね?」  
 通りかかった他の友人に、さっきと同じように声をかけた。  
 
――4――  
 
 ごくり。  
 知らず知らずのうちに湧き出した生唾を飲み込んで、深呼吸を一つ。  
 そこは自分の部屋だというのに、何故だか健二はドアを開けるのに随分と勇気を要した。  
「Lyu?Pyaou hyapyaa?」  
 果たして、彼女はそこにいた。  
「夢じゃ……なかった」  
 抱えられるくらいのサイズをした鳥籠の中からは、エアがわくわくした表情で健二を見上げていた。  
 大粒のサファイアのような、白目部分が無い人にあらざる双眸がきらきらと煌いている。  
 エアは日本語を話せない。唇からは小鳥の囀りにも似た音しか紡いでいない。そもそも、その音の連なりが妖精の言語なのか否か、は健二の手には余る疑問だった。  
 それでも、  
(ねぇねぇ、どうだった?)  
 と、彼女が聞いているのくらいは分かった。そして、何について『どうだった?』のかが分からぬほど健二は愚鈍ではなかった。  
 小さな子供が自分で作った何かしらの出来栄えを見せて、それについての感想を求めている。  
 そんな様子を連想させる。  
 どの言語を使って、なんと返したものか。  
 とても難解な問題だったが、わずかに頭を捻りながらの思案の後、結局、健二は素直に慣れ親しんだ言葉で返した。  
「助かったよ。ありがとう」  
 途端、エアの顔がぱあっと明るくなった。  
 褒められた。  
 と、知ったのだろう。  
 彼女が微笑んだ。まさしく、野に咲く花のようなと形容するのがぴったりの可憐な笑顔だった。  
 それにつられて、健二の口元も綻ぶ。同時に彼の顔には安堵も浮かんでいた。エアは日本語は話せなくても、こっちの意思は通じるらしい。  
 正確に言えば、エアは健二の言葉は良く分かっていない。ただし、彼の感情ははっきりと感じ取れている。  
 妖精達、特にエアのような種族は高い共感能力を有する。  
 エンパシーと呼ばれ、誰かの感情をそれがまるで自分の感情であるように感じ取れる――感じ取ってしまう――力。  
 テレパシーとは違うので他人の思考そのものは分からないが、感情は的確に共感出来るので、その誰かが考えている事はある程度の推測は出来る。  
 完全に感情を殺せるような無機質な人間はそうそういないし、常人が何とか押し殺そうとしても無駄なくらいに妖精のエンパシー能力は高い。  
 人間でもごくごく稀にこの能力を持つ者も表れるが、妖精はそれとは比べ物にならないほど力が強く、他者の感情に敏感だ。  
 誰かの抱く喜び、楽しみ、愛しみは妖精へと伝わる。  
 それは人が言語や行動を介さねば想いを伝えられないのに対し、遥かにダイレクトで濃密なコミュニケーションだ。  
 感謝されるのは心地良い、とエアは思った。  
 事実、健二の感謝の気持ちはエンパシーによってエアへと伝わり、彼女の心をふわりと暖かくしていた。  
 でも、それだけじゃ足りない。  
 
 エアは、自分とは全く違う髪の色をした青年を見上げる。  
 早くくれないかな。  
 小さな妖精からすれば巨人にも等しい人間を見上げて、熱い眼差しを送る。  
 どうやって言語を介さずに自分の考えが伝わっているのか。具体的な事は何一つとして健二には分かりようも無かったが、僅かなやり取りでエアと意思の疎通が可能なのは理解できた。  
 そして、健二も彼女が何かを自分に期待しているのが分かった。目は口ほどにモノを言う、とはよく言ったものだ。  
 老婆も言っていたように、妖精の幸運とはけして一方通行な奉仕ではない。人間同士で交わすそれとは趣を異にするが、あくまで契約なのだ。契約の一方は既に成された。  
 ならば払われるべきは代価、報酬。それをエアは求めている。  
 エアのコケティッシュな容姿にあわせて、釣り合うように言葉を装うならば。  
 彼女はご褒美を求めている。  
「あー、なんだったっけ。エロ漫画的な意味での『ご褒美』じゃないよな……」  
 酔いのヴェールのかかった記憶はおぼろげだ。  
 そんなアホな事をちらりと呟きながら、健二は途切れがちな記憶から老婆の言葉を思い出す。  
「確か、蜂蜜と牛乳、だったかな」  
 今一つ不確かな自分の記憶を指差し確認するようにして、健二はわざと小さく口にした。  
「Lyes!」  
 途端、エアの表情が先ほどにもまして明るくなった。  
 さらには開いた花のような小さな掌を打ち合わせて、パチパチと拍手まで送っている。  
 その仕草は、良く出来ました、と言わんばかり。  
「ふぅ、良かった。当ってたか。で、だ。合ってたのはいいとして」  
 クイズ番組じゃないのだから答えだけ合っていても仕方が無い。  
 健二は、冷蔵庫と乾物などの食料品の入った棚の中身を脳内で再現しようとする。  
 彼は一人暮らしだ。その生活ぶりから外食で済ましてしまう事も多い。と言うか、確実に自炊する回数の方が少ない。  
「蜂蜜は……絶対にねぇな」  
 自炊したとしても、普段の食卓に蜂蜜を使うようなレシピは稀だ。甘党だったり、お菓子作りが趣味だったりしないと、あまり縁は無いだろう。それは健二も例外ではなかった。  
 彼の呟きを聞いた途端、春の太陽のように温かだったエアの表情が少し翳る。  
 すぅっと薄雲が日を遮るように彼女が暗くなるのを見て、慌てて健二は冷蔵庫に走りよる。  
 何かを誤魔化すようにバカに明るい声と共にドアを開けて、  
「えー、牛乳はっと」  
 あった。  
 冷蔵庫のドアポケットに刺さっていた牛乳の一リットルパックをひょいと取り出す。  
 牛乳パックに記載された消費期限の日付は、ちょうど昨日を示していた。  
「Pyo……」  
 誰が好き好んで痛みかけた牛乳のような危険物を飲みたがるだろうか。  
 花が萎れるようにエアの表情がさらに曇っていくのを見るや否や。  
 数時間前と同様、いや、それ以上の勢いで健二は部屋を飛び出していった。  
 
――5――  
 
 引っくり返したペットボトルの蓋を盃代わりに、エアがとびっきりの笑顔を浮かべている。  
 伝統的に妖精への報酬と言えばコップ一杯のミルクが相場と信じられているのだが、コップ一杯だとエアの場合は牛乳風呂になりかねない。なので、彼女への報酬は指貫サイズとなる。  
 しかし何故にペットボトルの蓋かと言えば。  
 現実問題として指貫が手に入らないので似たような品で我慢してもらった結果だった。  
 指貫は、針仕事全般に疎い男の家にホイと転がっているような品ではない。それなりに専門的な道具なので、手芸品店でも行かねばなかなか手に入らない。第一、健二は指貫という単語の意味を知らなかった。  
 スーパーの袋をぶら下げて帰ってくるなり必死の言い訳を始めた健二を、エアは笑顔で許した。  
 器が指貫でなくペットボトルの蓋なのも、同じく笑顔で許した。  
 この場合、道具は大して重要ではない。  
 誰かの為を想い行動しようとする、その心意気こそが大切なのだから。  
 誰かが心の底から信じてくれる限り。たとえ何があろうと想ってくれる限り、エアはこちらの世界に在り続けられるのだから。  
(ちょっと不安だけど……この人なら大丈夫かなぁ)  
 そして、こちらの世界に在り続ける事こそ彼女の望みなのだから。  
 指貫を手に入れるのが若干前後しても誤差の範囲と、母様も許してくださるだろう。  
 そう思いながら杯を傾ければ、トロリとした液体が喉を伝い落ちていく。  
 健二は良い品を買ってきてくれたようだ。  
 甘さはくどくなく、喉を落ちていく度に上品な香りはふわりとエアの鼻をくすぐる。  
 その甘さを堪能するかのように、エアは手中ならぬ懐中の杯に満たされた蜂蜜を舐めるように飲んでいる。  
 目は細められ、背の翅はリズミカルに震え、実に嬉しそう。もっとも、甘い物嫌いが見たらそれだけで胸焼けしそうな光景ではあったが。  
 蓋自体は小さいが身体のサイズの比率からすればエアには結構な量になりそうなものだが、人とは身体の構造が違うのか、エアが飲むのを止める気配は無い。  
 時折、杯を変えては、コクコクと喉を鳴らしてよく冷えた牛乳を飲む。  
 こちらも嬉しそうに目を細めて味わっている。  
 よほど美味いのか、可愛らしい鼻歌までこぼれる有り様。  
 そのあまりに嬉しそうな様子に、自然、健二の頬も緩む。  
 今は落ち着いている彼も、鳥籠に扉が無いと分かった時はどうやってコップ代わりの蓋を入れようかと焦りまくっていたのだが。フレームの網目は粗く隙間だらけで、それに気付くのに手間取った以外は別段、苦労せずに手渡せたけれど。  
「鳥とかと違って、中から受け取ってくれるっていうのは助かるな」  
 そんな取り止めの無い事がポカリと思考の端に浮かんでは、ふわりと消えていく。  
 ぼーっと気の抜けた風にエアの方に視線をやりながら、ペットボトルを一口あおる。  
「早めに指貫を買ってきてやらないとな〜」  
 彼女の為にも、自分の為にも。  
 蓋のためだけにペットボトル二本を毎度開けるのは、財布はともかく腹に辛い。  
 彼の独り言にも似た言葉に答える者はなく、呟きは宙に消える。  
 唯一、応えてくれそうなモノは他の事に夢中で聞いちゃいない。  
 控えめだった鼻歌は止み、いつしか心地良い声が弾むようなリズムを刻んでいた。  
 自分用のウーロン茶を片手に、幸せな様子で歌うエアの無邪気な歌声を聞きながら、健二はなんとはなしに幸せな心地に包まれていつまでも歌う妖精を眺めていた。  
 
――6――  
 
 エアが来てからと言うもの、健二の生活は大いに変わった。  
 とりあえず分かりやすい変化として、毎朝毎夜の食卓がにわかに華やかになった。  
 老婆の言葉ではエアの食事は一日に一回で良いのだが、  
「こっちが飯食ってる時に『一日一回だから』つって食わせないのはバツが悪いしなぁ。エアも一緒に食べたいか?」  
 この健二の提案にエアが反対する理由は無かった。  
 朝夕、共に食卓を囲む。  
 たったのそれだけの事で毎度の食事が随分と美味しくなった。一人、テレビを見ながらコンビニ弁当を胃に放り込むように食べるのとは比べるべくもない。  
 健二はたまに自分の分を小さく切り分けて、エアに取り分けてやったりもした。彼女専用の極小のカトラリーには、削った爪楊枝が活躍した。  
 エアは蜂蜜とミルクは必須だったが、別にそれ以外の人間の食べ物が毒になる、と言うことは無いらしい。  
 色々と食べたり飲んだりする割に、不思議とエアが垢じみる様子は無かった。  
 彼女の住処は1LDKバストイレ付き床暖房完備、な訳が無く、けして優雅ではない。あくまで鳥籠は鳥籠。トイレは無いし、シャワーも無い。  
 にも関わらずエアはトイレは必要としなかったし、腰ほどまである青い髪はいつ見ても瑞々しく滑らかだった。  
 さらにエア自身と同様、彼女の服も汚れとは縁が無かった。  
 不思議に思った健二が、服が本当に汚れていないか確かめようとしたほどだ。  
 彼に他意はなかった。籠の隙間から指を差し入れ、ワンピース裾を少し摘まんでみるだけ。そのつもりだったが、寸法の差が災いした。彼にしたらちょっとズレた程度の動きでも、見た目は大きく増幅されてエアを襲った。彼女のスカートを大きく捲り上げる形で。  
 当然ながら、滅茶苦茶怒られた。  
 形こそ小さいが、彼女は立派に女の子なのだ。  
 頬を膨らませて怒るエアを静める為に、彼は近くで売っている中で最高級の蜂蜜を買う羽目になった。  
 この世の中のあらゆる汚濁から隔絶されているかのようなエア。  
 それがどのような不可思議な力が働いている結果なのか、健二には想像すら及ばなかった。  
 まぁ、トイレで踏ん張ったり、鏡の前でキューティクルに悩んだり、洗濯したり物干ししたりと生活感に溢れた妖精と言うのも、これまた想像し辛い絵面ではあったが。  
 
 健二の生活に人外の音楽が彩りを添えた。  
 彼は老婆との約束を果たすべく、エアをきちんと風に当ててやろうとした。  
 ガラス窓を開けて籠を網戸の内側に置いたのだが、  
「Pyo!Kuie Kuie!」  
 もっと高く、もっともっと風を受けられる所が良い。  
 籠の中で両手を高く掲げ、ぴょんぴょんと飛び跳ねて、全身でそう表現した。エアは空気のわだかまる低い場所よりかは高い所が好きなのだ。  
「どこかにぶら下げろって事か。でもなぁ、落っこちそうで怖いんだよ」  
 僅かな逡巡の後、健二はエアの望み通りにしてやった。なにせ彼女の落胆の表情は結構な威力を誇るのだ。  
 結局、カーテンレールと籠のフックを適当な紐で結んであげた。  
 軒先に吊るのも考えたが、人目が恐いのでその案は止めた。『美少女フィギュアを籠に入れてベランダに吊るす男』としてご近所の皆さんに評判になるのは勘弁願いたい。  
 ほんの二メートル程度だが、床近くよりもはるかに風が通るようになる。  
 風の仔に挨拶をするように、伸びやかな四肢を緩やかな風がくすぐっていく。時折、悪戯っ気をだした風が短いスカートをふわりと持ち上げて、彼女の太股から尻にかけての絶妙な曲線を露わにしていった。  
 エアは満足げに笑った。ついで、すぅっと大きく息を吸う。  
 数瞬の間。  
 そこらの歌手が聞いた途端に裸足で逃げ出すような、およそ聞いたことの無いほど可憐で美しい歌声が紡ぎだされた。  
 心を満たす高揚の赴くままにエアは歌った。  
 異国ならぬ異界の旋律。聞いたことの無い言葉と、耳慣れないメロディ。  
 すぐにそこがエアの定位置になった。さすがに夜は窓を開けたままでは冷えるので、昼だけではあるが。  
 毎日毎日、エアは吹き抜ける風に合わせて歌った。  
 さらさらと吹くそよ風には、優しく静かな歌を。  
 びょうと巻くつむじ風には、明るく勇ましい歌を。  
 たまに突風が籠ごと彼女を転がしたりもしたが、慌てる健二とは対照的にエアは至って平気な顔でころころと笑っていた。  
 風属の妖精であるエアに、同胞たる風が悪事を成すものか。  
 健二が大学に通っている日中は窓を開けっ放しにしないといけないのが、難点ではあったが。  
 たまににわか雨にやられたが、それくらいは安い代償と健二も納得した。  
 エアにしても雨は不満の種では無いらしく、  
「Lyuuu!」  
 と楽しげな声を上げて、きらきらと雨粒を弾きながら鳥籠のステージで踊ったりしていた。  
 
――7――  
 
 共に生活するうち、次第にエアも日本語を覚え、徐々にではあるが話が通じるようになってきた。  
 楽しいと言い切れる日々が続いた。  
 今までの健二の生活に何かが欠けていた訳ではない。エアの存在自体が彼の時間にちょっとしたナニカを上乗せしてくれていた。  
 妖精のもたらす幸運になど頼らなくても十分だった。  
 妖精がいる以外に取り立てて以前と変わりのない日々。  
 エアがいる事。たったそれだけの、ほんの些細だが決定的な差。  
 それが生む、幸せと呼ぶに足る時間と空間。  
 あっという間に数ヶ月が過ぎた。  
 しかし、好事魔多し、とは良く言ったものである。  
 切っ掛けは健二自身も覚えていないようなごく詰まらない事だった。ふと、何かの拍子に健二の心の中である二つが繋がってしまった。  
 一つは、エアのもたらしてくれる幸運。  
 一つは、運不運が結果に覿面に直結するモノ。すなわちギャンブル。  
 たわいのない好奇心は、妖精の幸運をソレに使ったらどうなるのか、と疑問を呈した。  
 それは悪魔の囁きにも似ていた。人の心の片隅に巣食うモノ。  
 まさしく魔である。  
 妖精のエアさえいなければ、思いついたコンマ一秒後に笑い飛ばすであろう妄想の類いに過ぎない。しかし、実際にその力を行使できるエアがいるのだから話は違う。  
 思いついた当の健二自身、最初はその考えを飲み込んだ。  
 あれだけのエアの幸運の力だ。無闇に使えば、どんなしっぺ返しを喰らうか分からない。  
 本能的に察し、考えないようにした。  
 そうして考えないように自制はするのだが、自制しようとすればするほど逆に意識してしまう。  
 真っ白の布の一部にぽとりと墨が落ちたようであった。水で洗えば洗うほど布地は白く、墨の黒は落ちず、コントラストは鮮明になり黒だけが目立つようになっていく。  
 ほんの一回だけ。一回だけ、試してみるだけだから。  
 健二が、そう言いながらエアに頼むまであまり時間はかからなかった。  
「なあ?頼むよ、この通り!」  
 エアのもたらす幸運の威力を知っているだけに、この男も食い下がる。  
 卑屈な目ですがるように頼み、終いには両手を合わせ頭の上に捧げて拝み始めた。  
 いい年をした大の男が、鳥籠の中の少女に請うている。しかも理由はつまらない試みとさして大きくない金の為。あまりと言えばあまりに情けない健二の姿を、エアは見ていたくは無かった。  
 この神頼みならぬ、妖精頼みについにエアも折れた。  
 
 結果は、大当たりであった。  
 パチンコはギャンブルだ。客ははずれもすれば当たりもする。けれど大規模な賭け事である以上、胴元がいる。その胴元が損をしては商売として成り立たないのだから、必ず客が勝つ事はありえないのだ。  
 それを真っ向から、エアの幸運は覆した。  
 熟練した職人でさえ分からないような釘の傾きと、釘一本一本の均質性のずれ。  
 複雑に絡まり合う個々の歯車の磨耗具合と噛み合わせ。  
 回路を駆け巡る電圧の微小な揺らぎと、半導体チップの中を流れる0と1の羅列のわずかな誤差。  
 それら一つ一つは誤差の範囲内にぎりぎり収まるか収まらないか、と言った小さな揺らぎであった。  
 全てが巧妙に重なり合い、影響を及ぼし合い、ブラジルの蝶の羽ばたきがテキサスでトルネードを巻き起こすかの如く。  
 一見無関係に見える事象がドミノ倒しのようになって、健二に勝利をもたらした。  
 当たる筈の無い台で当て続ける男に、店側も不審に思って監視し続けたが、当然ながらイカサマの種も仕掛けも見つけられなかった。  
 
 帰ってきた健二のはしゃぎっぷりと言ったら大変なものだった。  
 彼の興奮はなかなか冷めず、自分の勝ちっぷりを一方的に喋りまくり、エアの幸運を褒めちぎる。  
 無論、その晩は祝杯となっていた。  
「なんだよ、エア。せっかく買ってきたのに嬉しくなさそうじゃん。気に入らないのか?贅沢だなぁ」  
 そんなんじゃないのに。  
 手中の指貫を見つめるエアの表情は暗い。  
 健二が買って来てくれた新しい指貫は蛍光灯の光を跳ね返し、キラキラと輝く。  
 彼女が手にしているのは、滑り止めのエンボス加工以外にも丁寧な彫金が施された本物の銀製品で、結構な値のついていた品である。  
(アタシが本当に欲しい物はこんなのじゃない。アタシが本当に欲しい物を、健二は無くし始めてる)  
 そんなエアの想いは健二には伝わらない。  
 妖精と違い、人間には他者の感情を読み取る術など無いから。  
 エアの想いも空しく、彼は一人浮かれ、一から十まで他人の力による自分の勝利に祝杯を上げている。  
 彼女に出来る事と言えば、杯を満たす琥珀色の液体を見つめるだけ。  
(お願い。気付いて)  
 切なるそれは祈りに等しい。  
(健二がそれを無くしちゃったら、アタシは……)  
 そして祈りは空しかった。  
 そこから先は、まさしく石ころが坂道を転がり落ちるようだった。  
 
――8――  
 
 人間の想像力というヤツは、果てが無いように見えて意外に限られているものらしい。  
 現に健二の場合もそうだった。遥か古代から今に至るまで、金や力を手に入れた人間が良くやるパターンを彼もまたなぞった。  
 飲む打つ買うと見事に揃った三拍子。  
 加えて『飲む』と『買う』には酒池肉林という単語がオプションでくっついてきそうな勢いだ。それはもう凄まじいまでの使いっぷり。  
 彼は若く体力に溢れ、体力の許すままに、欲望に身を委ねきった。  
 それが自分の稼ぎでやったのならば、誰も文句は言わないだろう。  
 だが、健二の場合、彼の稼ぎを支える力を持っているのはあくまでエアなのだ。正真正銘百パーセント、他人の褌で相撲を取っている状態である。  
 だと言うのに、「エアの力は俺のもの」とばかりにエアの幸運を湯水の如く使うようになっていった。  
 幸運をもたらしてくれる当の本人の気も知らず、不調に気づく事すらなく。  
 もとより力を使うのがタダであるわけが無い。  
 如何に異界の存在であっても、それは同じ。無から有を生む事が出来るのは神のみだ。  
 エンジンがガソリンを供給されて力強く鼓動するのと同様に、妖精だって力の源が無くてはその人外の能力を揮う事は適わない。  
 エアには、毎日、指貫一杯分の牛乳と蜂蜜。それが彼女の力の源であり、契約の一つでもある。  
 そして、契約の一つは破られていた。  
 健二はしばしば酔っ払って家へ帰らず彼女への食事を忘れ、あるいは目先の欲望の為に――たいていが肉欲の為だ――意図的に忘れた。  
 十分なエネルギーも得られない状態で、細い身体から絞り出すようにして力を使い、幸運を健二に授け続けた。  
 そんな境遇に置かれても、エアは蜘蛛の糸よりもなお細く見える希望を手放さなかった。  
(健二、お願いだから……気付いて。これで最後にするって言って。もうこんな事はしないって言って。  
 このままじゃダメになっちゃう。このままじゃダメにしなくちゃいけなくなっちゃう。  
 だから……気付いてよ)  
 手放せなかった、とも言える。彼女が他に頼る伝手は、この世のどこにもないのだ。  
 エアの前で分かれる道は三つ。そのうち一つはガラガラと崩れ去りつつあった。  
 
 暴走とも呼べる状態の健二を友人が諌める事はなかった。彼の友人達は、とうに健二の周囲から離れてしまっていた。  
 理由は簡単。彼が勝ち過ぎるのだ。  
 彼らの間のビリヤードはあくまで遊興の範囲を出ない。金も行き交うがそれはスリルを求めての味付けであり、プレイを楽しむのが第一目的である。  
 勝つだけの人間は、そのような場には不要だ。  
 勝利だけならばまだいいが、健二はついでに――彼にとってはそちらが主目的だったが――賭け金をふんだくっていく。その金で宴会を主催して、皆に還元するような事もしない。  
 賭け金は勝者の物。勝って手に入れた物を勝者が好きに使って何が悪い、と言う訳だ。  
 口にこそしていなかったが、悔しかったら勝ってみろと言う高慢極まりない態度が健二からは溢れていた。  
 エアの幸運を使って、周囲の目と雰囲気を鼻で笑い飛ばしながら勝ちまくる健二を、友人達が疎んじ避けるようになるのにそんなに時間はかからなかった。  
 健二としても、金ヅルにならないのであれば、そんな連中がいようがいまいがどうでも良かった。  
 
――9――  
 
 およそ手を出せる範囲のギャンブルを使い、小賢しくもなるべく目立たないようにして稼いだ金。  
 それを健二は車道楽や着道楽に金を注ぎ込んだりはしなかった。  
 格好良い車も着飾った一張羅も容易に他人の目を惹く。  
 同時に、褒め言葉と一緒に疑惑と不審の眼差しをも引き寄せるだろう。  
 どこで金を稼いだのか、と。どうやって金を手に入れたのか、と。彼は普通の大学生として周囲からは見られていた。尋常な手段では大金は入れられない地位と言える。  
 健二はそこを追及されるのを嫌った。  
 疑惑の果てに、誰かが妖精の力に辿り着く事を彼は極端に嫌がった。  
 いや、恐れたと言っていい。  
 一度得た特権が自分から離れていってしまう想像に、健二は強烈に脅えた。  
 故に、エアが他人の目に触れる機会を極端に減らそうとした。  
 大切な物品を金庫に入れようとする感覚が一番近いだろうか。  
 だが鳥籠は金庫に入れられない。エアの鳥籠が入るほど巨大な金庫は重すぎるし、銀行の貸金庫にいれるなど論外もいい所。  
 結果、鳥籠は中にいるエア諸共、常に部屋の奥、外から死角になる場所に安置された。  
 もう窓辺に吊るしてもらって、吹き渡る風を彼女がその翅に受ける機会は失われた。  
 契約の一つは破られた。  
 いつしか健二の記憶から、エアを託された時の老婆の言葉は忘れ去られていた。  
 部屋の隅では風は澱み、ついで引きずられるようにしてエアの心も澱んでいった。  
 エアコンの作る人工の風など、風属の妖精にとってはしごく詰まらない紛い物に過ぎない。そんな物では心は躍らない。  
 エアから持ち前の明るさが徐々に失われて、可愛らしい顔にはまったく似合わない暗い表情しか乗せないようになっていったが、健二は気にも留めなかった。  
 
――10――  
 
 それはいつもの如く、健二が出かけようとした時だった。  
 大学ではない。彼はとうに大学に通うのを止めていた。金を稼ぎに、だ。  
 ほんのちょっとした、近所までお遣いでも頼むような気軽さで彼女に幸運を頼んだ。いや、頼んだと言うのは正確ではない。言葉のみを切り出せば『お願い』ではあったろうが、その口調からはエアが幸運を自分に授けて当然と言う思考がありありと伺えた。  
 とうとう愛想が尽きたのか。それとも力が尽きかけたのか。  
 俯き加減で視線を逸らしながらも、エアはしっかりと首を振った。  
 健二の求めを拒んだ。  
「ん?どうした、エア?」  
 絵を張りつけたような、にこやかな笑顔。  
「おいお〜い、イヤだって言ったように見えちゃったよ。今日もお前の幸運、よろしく頼むぜ」  
 嘘っぱちの仮面の下、彼が本当はどんな感情を抱いているかなんてエアにはお見通しだ。否、彼女だって感じたくて感じている訳ではない。急速に膨れあがりつつある負の感情は、エアの脆い精神防壁を貫き、彼女に直に届いていた。  
 だがしかし、彼女はそれに屈しなかった。  
 脅えた様子を見せながらも、しかし再びはっきりと否定の形に頭を振った。  
 瞬間、  
「ああ?!ふざけんなっ!なに言ってやがる!!」  
 健二が爆発した。  
 がしっとエアの居る鳥籠を掴み、鼻先まで近づけて怒鳴る。  
「誰がオマエを拾ってやったと思ってんだ!  
 誰がオマエに毎日毎日餌ァやってると思ってんだ!ああ?!」  
 唾を盛大に飛ばしながら、あまりにも身勝手な台詞を喚き散らす。  
 眉間と鼻筋には凶暴そうな皺がより、口角泡を飛ばして罵り続ける。  
 それは控えめに言って狂犬のような有り様だった。  
 
 イヤ。  
 ヤメテ。  
 シナイデ。  
 そう言いたかった。けれども唇は戦慄くのみで意味のある音を紡がない。ひぅ、と喉から悲鳴にもなっていないような声を出すだけ。  
 心を閉ざしたくても、恐怖は身体だけでなく心まで縛り付けて動かせない。  
 精神防壁を築けず、無防備になったエアを容赦なく罵声と敵意が打ちのめす。  
 エンパシーは他者の情動を共有するものだ。エンパシーを持つ妖精は、そばにいる人の喜び、嬉しさ、幸せを感じる。  
 だがそれは逆に、他人の憤怒悲哀も我が事のように感じてしまう事を意味する。  
 暗い負の感情はとても鋭い。  
 吹き荒ぶ寒風のような、身を切るように冷たい感情の嵐に見舞われれば、妖精にとっては鋭く尖ったナイフで全身を刻まれるのと同義だ。  
 もしも強烈な悪意や敵意に曝され続ければ、心優しい妖精にとっては恐ろしい事態になるだろう。  
 そう、今のエアのように。  
 心を苛む恐怖に怯え、かたかたと全身を震わせる。  
 胎児のように体を丸め、両の腕で守るようにしてぎゅっと頭を抱える。  
 痛い。痛い。痛い。嫌な感情が雪崩れ込んで来て心が裂かれるみたいに痛い。心に引きずられて身体が痛い。何もかもが痛い。  
 ぎゅっと硬く閉じた瞳からは、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。  
 その姿さえも、もはや健二を踏み止まらせる事は出来なかった。  
「誰がお前を養ってると思ってんだ!食わせて貰ってる分くらい、しっかり俺に運を寄越しやがれ!!  
 それとも妖精ってのはそんなに恩知らずなのかぁ?!」  
 このままじゃ、本当に殺されちゃう。  
 最悪の事態の予想図が、慄くエアに辛うじて首を縦に振らさせた。  
「ふん、最初ッから素直にそう言えばいいんだよ。ったく!面倒かけさすんじゃねーよ」  
 がん、と乱暴にテーブルに叩きつけるような勢いで鳥籠を置く。  
「Kyau!」  
 手荒くシェイクされ籠の底に叩き付けられたエアが短く悲鳴をあげる。  
 エアの答えに満足したのだろう、健二が出かける気配を見せた。  
 幸運を得た彼が行く場所など概ね決まっている。  
 ドアをくぐる健二が、静かに泣きはらすエアに欠片ほどの慈悲の心でも見せる事は、遂になかった。  
 
 契約の一つは破られた。  
 
――11――  
 
 運と不運は天秤の両方に載った錘のような物だ。  
 普通はどちらも似たような重さで、天秤自体は行ったり来たりしてはいるが大きく傾く事は少ない。時には緩く時には早く、常にゆらゆらと揺れ動いている。振れの大小こそ差があるが、じっとしている事はない。  
 天秤の動きそれ自体は、目玉に入ってくる情報しか見えない人間の認識外の事で、人の目にそれと見える形で訪れる事は極めて稀だ。  
 例えば、たまたま電車が遅れて乗りたかったバスを乗り過ごした時、人はそれを不幸と認識するだろう。たとえ、そのバスがたまたまスリップした車に突っ込まれる交通事故を起こしたとしても。  
 どちらが不幸でどちらか幸運か、などはそう易々と決められる事柄ではないのだ。  
 そういう意味では、エアの幸運をもたらす腕前は傑出していた。  
 実際に財布の重さとして表れる幸運を健二に授けたのだから。  
 それにしたって妖精のもたらす幸運など些細な物だ。彼の財布が多少重くなっても、それ以上の効果は周囲に波及せず、大勢の運命を変えてしまうような事態は起きていない。  
 それでも天秤が常に一方に傾いている状態は自然ではない。  
 幸運は、不運があるからこそ幸運足りえるのだ。  
 運と不運は相反する概念ではない。二つで一つ。片方の皿の壊れた天秤を、果たして天秤と呼べるだろうか。  
 そうして天秤は常にバランスを取ってふらつくのが、自然界の全ての事物にとって当然である。  
 その当然であるべき理をほんのちょっとずらして、ふらつきを自分の為だけにコントロールしてくれて、たまさか天秤の傾きを幸運の側に留めてくれる。  
 妖精の恩恵に預かる事それ自体が、望外の幸運と言える。  
 まさに恩をもって感謝をし、礼をもって報いるべき天の恵みなのだ。  
 ならば恩恵に浴した人間は、自分に与えられた恩恵を当たり前と思わず、それを与えてくれる相手に対してきちんと礼節を尽くすべきなのが筋と言うものであろう。  
 他者による恩恵を当然の理と勘違いし、果たすべき義務を怠る事。  
 人、それを増長と呼ぶ。  
 そうして増長し、思い上がり、己を律しきれずに我欲に溺れ、彼女らへの礼儀を忘れた者の末路を綴った書物で図書館の童話コーナーは一杯だ。  
 そのような本の中では、大抵、無礼者の末路は決まっていた。  
 分をわきまえ礼を知り己を律する事が出来る者には、人外の幸運を。  
 不徳の限りを尽くす愚者には、とびっきりの不幸を。  
 人々の間では、古くからそう信じられてきたからだ。  
 だから、健二の末路も、千年単位で信じられてきた通りになるのだろう。  
 
 カーテンの隙間から差し込んだ陽光が、床に黄金の線を引く。  
 次第に線は長くなり、赤味を増していき、ついには輝きを失う。  
 いつの間にか、部屋には闇が訪れていた。  
 暗がりに沈んだ鳥籠の底、エアは膝を抱えて座り込んでいた。  
 今や、エアの前には二つの道しか残されていなかった。  
 一つは、このまま自分を維持出来なくなるまで力を使い続け、その挙句に一陣の風と消え去る事。  
 もう一つは、この鳥籠から出て妖精郷の母の許へと帰る事。  
 生死のあり方も価値観も人と妖精ではだいぶ違ったが、死を忌避する点については大差は無い。  
 前者は緩慢な自殺に過ぎない。  
「アタシだって死にたくない……けど……」  
 その後の呟きは音には成らず、口腔の内で立ち消える。  
 生き延びるには後者を選ぶ他に道は無い。  
 いまや、エアの能力に絶対の制限となっていた誓約は破られていた。同時に母により彼女に課せられた呪いとも言うべき枷も既に外れ、帰還の手段はエアの手の内にあった。  
 残るはエア自身の決断のみ。  
 その意味をエアは頭の中でずっと転がしていた。  
 こつん、と広めのオデコを膝頭に当てる。  
 ゆっくりと瞼を閉じる。  
 どれほどそうしていただろうか。  
 再びサファイアの瞳が姿を現した時、そこから迷いの色は消えていた。  
 音も無く首を上げる。小さな胸を精一杯張って立ち上がる。  
 瞳の奥に決別の意志を秘め、口を開き、エアは歌を紡ぎ始めた。  
 その歌声は、不思議な音を帯びていた。  
 時に耳元で囁くように、時に殷々と木霊するように。  
 高く低く、うねるように。  
 妖しき力を秘めた、さやけき歌声。  
 清冽な妖歌が現実を蝕む。  
 歌が一フレーズ進むたび、徐々に現実感が失われていく。  
 視界に入るあらゆる物の輪郭がぼやけ、のっぺりとした一枚の絵のように変じていく。  
 まるでナニカがゆっくりと奥に引っ込み、入れ替わりにナニカが奥底から浮き上がってくるよう。  
 ふと、唄が力強さを増す。倍ほどに強くなる。  
 ソロがデュオに。  
 デュオはトリオに。ついでカルテット。クインテット。  
 ぐわっと大波のように不可視の力がうねり、最後の枷が弾け飛んだ。  
 
――12――  
 
「ったく、人が行ってやりゃーアヤメちゃんにずっと指名入ってるとか、ツイてねー。  
 フザケンナっつーの。他の客くらい時間ずらさせるとかキャンセルさせろよな。いままでに幾ら使ったと思ってんだよ」  
 ぶつぶつと自分勝手極まりない文句を垂れながら、健二がドアを開ける。  
 そういう態度だからこそ、彼がどれだけ店に金を落としても良い待遇にならないのだが。  
「おい、エア!今日は全然ツイてなかっ……」  
 灯りのスイッチを点ける。  
 絶句した。  
 それを、爆発したような、と言っていいものか。  
 部屋の中は凄い有り様だった。  
 縦横高さを持つ三次元の物体から、無理矢理にどれかの概念を取り払ってやって、動かす方向に向けて押し潰す。  
 そうして、部屋の真ん中あたりにあった家具やら何やら一切合財が、積み重ねた紙のような状態になって四方の壁に向けて押し付けられていた。  
 やたらとだだっ広くなってしまった部屋の真ん中。  
 そこの床には、如何にも爆心地然とした様子で、同心円状に細かな波紋が刻まれていた。  
 爆発と思しき何がしかの、円状の効果範囲内にあった物だけが残らず平面になって押し潰されており、その外にあった物には微塵の変化もない。  
 唐突に訪れた静寂が、健二の耳に痛い。  
 何かが恐ろしく狂っているような、ずっと見ているとフラついてしまいそうな違和感に満ちた光景。  
 しかし異様でありながら整然とした有り様だった。  
 部屋の中には、爆発には付き物の破壊も、巻き起こる粉塵も無い。  
 壁や窓は彼が出かける前と全く同じであり、壁に張り付いた物体にしても、どれもこれも何一つ欠けたり砕けたりしていないのだ。  
 
「……なんだよ、これ」  
 ようよう、それだけの言葉が搾り出された。  
「そ、そうだ!エア!エアは?!」  
 幸運を授けてくれる彼女は無事だろうか。  
 まず最初に思ったのがそれだった。エア自身の安否より、エアの幸運が無くなってしまうことを危惧する方がこの男にとっては先であった。  
 ほんの数秒探しただけで見つかった。  
 鳥籠はころりと無造作に転がっていた。  
 果たして、中にエアはおらず、どこにも扉はなかった筈の鳥籠には大きな開口部が出来上がっていた。蔦を模したフレームは内側から爆発したようにめくれ上がり、熟したアケビさながらの様子を見せている。  
「い、いない?そんな、エア?!エァ……ぐげッ」  
 健二が言葉に詰まった。  
 オロオロと取り乱す動きが止まった。  
 今更ながら彼女自身の大切さに気付き、体を震わせるほどの後悔と別離の悲しみに襲われたとかではない。  
 彼が体を震わせているのは別の理由がある。  
(く、か。い、息が……出来ない!)  
 ひゅう、とか細い悲鳴のような息が漏れる。  
 パクパクと酸欠の金魚みたいに開閉を繰り返すけれど、口から喉に全く空気が入ってこない。  
 急速に意識が遠のいていく。  
 容赦なく意識を刈り取っていく闇に抗いきれず健二の体は、どぅ、と床に倒れた。  
 辛うじて受身を取る。  
 ぐでんと放り出された頭。僅かに残っている視界が部屋の隅を向く。  
 そこかしこに存在する影。  
 その薄暗がりの中、幾つものサファイアのような青い光が浮かぶ。  
 それらを視界に収めたまま、何か思考する暇もあればこそ、健二の意識は暗転した。  
 

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