蓉子は、毛布をかぶった。  
 普段、長距離走で鍛えた体は細身で、むしろ女らしい丸みに欠けるかもしれない。  
 だが、その瞳に灯る光は濁った鈍い色を放ち、彼女が既に女の悦びの一端を垣間見ていることを雄弁に物語っていた。  
 ――タダシさん……。  
 フリースのトレーナーを羽織っただけのだらしない姿で、彼女はぼんやりと考える。  
 ――タダシさん。  
 実は、蓉子は彼の苗字も名前の漢字表記すらも知らない。  
 彼は応援団に所属する二年生だった。  
 どうあがいても男臭くなる応援団の中で、心持ちなよっとした彼は目立つ。  
 何となく線も丸みを帯びていて。  
 髪の毛も伸ばし気味のストレート。  
 時々、傍目には寝癖が気になるかもしれない。  
 でも、声は朗々とよく響き、  
 耳にするだけで胸が熱くなる。  
 きっかけは、壮行会だった。  
 地区予選突破を賭けた前日。  
 応援団は、全校生徒を招集した。  
 だが、この時代そんな面倒くさい集会に誰が出るものか。  
 出席する生徒もまばらな中で、見送られる陸上部はどうあっても出席せざるを得なかった。  
 面倒くさい。  
 ああ、面倒くさい。  
 蓉子は嫌がる素振りも露に、放課後の体育館に向かった。  
 こんなことに時間を割くなら、ストレッチなりランニングなり、とにかく体を動かしていたほうが気が楽だ。  
 だが。三年の先輩がそれを許さなかった。  
 ――出れば、判る。……見送ってくれる人がいるってことが、励ましになるってな。  
 いかにもそれを楽しみにしているかのように、三年生は嬉々としていた。  
 思えば昨年、主力の不調で地区予選出場の切符は全滅だった。  
 一昨年、四種目で全国大会まで進んだ栄光を思えば、屈辱以外の何物でもなかろう。  
 だが、一年の蓉子にとっては、まるで実感がなかった。  
 だから、体育館で、彼女は雷鳴に打たれたかのような衝撃を感じた。  
「地区――ゥ予選に――ィ望む――ゥ、栄誉を――ォ讃え――ッ、」  
 
 無骨な濁声を想像していた彼女は、合唱のように調和するその響きに圧倒された。  
 質朴な響きが、腹の底にずんずん突き刺さる。  
 男どもの決死の表情を見れば、自分が否応なく晴れ舞台に向かうのだと実感させられ、恐怖に膝が笑う。  
 ああ、今ようやくわかった。  
 全校の期待を担う感覚。  
 友人先輩後輩の多数は、まったく自覚していないだろう。  
 だが、それでも、――  
 ――晴れの舞台に、私は向かうのだ。孤影を踏んで、我が校の誇りを背にして。  
 先輩はよかろう。  
 この重すぎる荷物が、不退転の決意となる。  
 だが、一年生の蓉子には――  
 悪夢の重荷でしかない。  
 だが。  
 その中に、笑顔の男が独り混じっていた。  
 笑顔と言っても、にやけていたわけではない。  
 雰囲気がものすごく自然体なのだ。  
 水に餓えた人が甘露の一滴を得たように、  
 ――蓉子はものすごく幸せな気分になった。  
 ああ、あの人が見てくれている。  
 私は、頑張れる。  
 未だ補欠の蓉子には出場する競技はないのだが、それでも安堵する思いだった。  
 後で先輩に尋ねたところ、彼はタダシさんという名前らしい。  
 とてもではないが、それ以上聞けなかった。  
 その先輩も、密かに彼を好きらしかったから。  
 そして、蓉子は――  
 指を股間に這わす。  
「タダシ、さん……」  
 その名を言葉に出すだけで、耳が火照る。  
 かっと燃える耳朶の熱は奥深く染み込み、彼女をくらくらさせる。  
 その眩暈をごまかすために、  
 
 彼女は下着の下を指でまさぐる。  
 くちゅ。  
 くちゅ。  
 音が響く。  
 実際は、隣室にすら響かない小さな音だとしても、  
 卑猥な音楽は彼女の感じる全世界に響き渡る。  
 世界がいやらしい音で満たされる。  
 はしたない匂いが、  
 あさましい声音が、  
 彼女のうちからとめどもなく迸る。  
 明日は。  
 明日こそは、  
 ――彼に告白する勇気が欲しい。  
 今は、いい。今はいいのだ。  
 私は私を慰める。それで充分だ。  
 だけど。  
 けれど。  
 明日こそは。  
 だが、彼女にはコンプレックスがあった。  
 まだ未発達の乳房の、半ば以上が乳輪なのである。  
 それは胸のふくらみの未だ及ばざるを強調し嘲笑うかのように、そこに佇んでいた。  
 他の事ならよかろう。  
 だが……男の人が、はたしてこの胸を好きになってくれるか。  
 笑われるならまだいい。  
 もし……もし、彼が厭がったりしたら。  
 はたして正気でいられるのか。  
 むしろ、無謀な賭けに全てを注ぐより、……。  
 そんな理性の言葉から全てをごまかすかのように。  
 彼女は、毎晩指に悶える。  
 指に溺れながら、毛布の陰に隠れ怯えて、蓉子は声にならない叫びを上げていた。  
 ――好きです、タダシさん。  
 
 ともすれば涙ぐむ目を拭いながら、彼女は己の指遣いに没頭する。  
 明日こそは。  
 明日こそは。  
 小心者のなけなしの勇気を絞り出そうと思いながら。  
 

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