「はー…きっつ、」
思わず溜め息をつく。
泥だらけの膝を軽くはたくと、ていていた土が冷たかった。これから寒くなっぞ、なんて思いながら顔を上げると、誰かにお尻を叩かれる。
やっべぇ、今の先輩に聞かれてたのかも、と思い恐る恐る後ろを振り返ると、セカンドの鈴木先輩だった。しかし先輩はニタニタと笑った口をミットで隠して、グラウンドの外を指差している。
「由紀ちゃん、来てるぞ」
制服に着替えた後、自転車を押しつつグラウンドの外へと出た。田中はマフラーに手袋と、防寒対策バッチリで電柱にもたれかかっている。それでも寒そうに、膝を擦り合わせていた。
「あ、カズくん」
田中は俺に気付くと、小走りでこちらへ寄ってくる。電灯に照らされて、白い肌に赤い鼻が目立っていた。
「あのなあ田中…、部活来んなって言っただろ!お陰で先輩達にからかわれたんだからな、アホ」
「ごめんごめん!今日はたまたま部活が早く終わったから、ね。」
そう言って、田中は困ったように笑む。その顔につられて笑ってしまった後、思わず田中の胸元にある校章に目が行った。
甲子園出場経験も多い私立の強豪校――そこで野球部のマネージャーをしているのが俺の幼馴染み、この田中由紀だ。中堅公立に通う俺にとって、そこは憧れの高校でもある。
それに、今年は中村も一度甲子園のベンチに座っているのだ。勝ち試合の後にスタンドへ、表情を緩ませながら深々とお辞儀する姿は、テレビ越しに見ていた俺の目に今でも深く焼き付いている。
あのチビッコ由紀がなあ、なんて小さい声で呟いて、家へと歩き出した。
「…カズくん、今私のおっぱい見てたでしょ」
田中はからかうように笑い、手で胸を隠す。俺は慌てて目をそらした。
「…はあ?勘違いも程々にしろよ」
「あはは、冗談よバカ!」
別にやましい気持ちは無かったにしろ、幼馴染みの胸元をこんなにまじまじと見たのは久しぶりだった。
昔はぺったんこのまな板だった胸の膨らみも、今では小さいながらちゃんと存在を主張している。
…そういえば。くすくすと笑い声を漏らす唇も赤く熟れていてだいぶ大人っぽくなったし、スカートからすっと下りる太股も白くてふっくらとしていた。
「そういやカズくんさー…いきなり私の事名字で呼ぶようになったよね。」
「…普通じゃね?高校にもなっておかしいだろ、中坊とは違うんだぞ」
「なーんで、そんなん意識するんですかねぇ。」
「女子に名前呼びとか恥ずいし」
「へえ、じゃあカズくんは私の事、ちゃーんと女の子として見くれてるんだ!」
また出たな勘違い、なんて言おうとして、手が首に回され強引に引き寄せられる。
口を塞がれた。
ガシャン、と派手な音がする。ああ、自転車倒しちゃったんだ。こないだ買ったばっかりの赤い自転車―――生暖かくて小さい舌に口内をなぞられているというのに、頭は妙にさえていた。
「…ん、んっ…!」
しかし、最初に声を上げたのはむこうだった。背中を遠慮無しにバシバシと叩いてくる。暫くそれを無視していると、胸を押されて無理矢理離された。
「バカ、人が来るっ…」
「なんだよ、そっちから始めたくせに」
「そ、そーだけど…」
田中は辺りを見回して誰も居ない事を確認すると、控え目に抱きついてきた。今の時間帯は冬場だと真っ暗だし、この道は車の通りも少ない。
でもなあ、と思い苦笑いしつつも、一応軽く抱き締め返した。石鹸の香りが、なんだか懐かしい。
「…カズくんさぁー…鈍すぎるよ、今まで私がどんなにアピールしても気付かないし、」
ぐじゅり、と鼻をすする音がした。
昔も良く泣かせてしまっていた様な記憶がある。女のくせに野球やんなよ、なんて言って、空き地に入れてやらなかったり。その度、俺は母さんに怒られたものだ。「また由紀ちゃん泣かせたの!」って。
今思えば、馬鹿馬鹿しい意地だったと笑うことが出来るのに。
「…鼻水」
「あ、ごめ…」
じゅる、とまた鼻をすすった後、田中はすっと離れた。泣き顔を見られたくないらしい。俺に背を向けて、すたすたと歩き出した。
「…田中、待てって!」
「由紀!」
「…ゆき、」
慌てて自転車を起こす。急いで追い付くと、由紀は俺の制服を引っ張った。
「後ろ乗せて!」
「おう」
息を吐くと、空気中で真っ白くなる。日が沈むとそれは更に良くわかった。それに対して、背中に感じる暖かさは心地良い。
遠慮がちに背中を掴む力をむず痒く感じながら、好き、と冗談めかして呟く。
即座に、遅すぎる!なんて返事が笑い声と共に返ってきた。
おわり