結局俺は、屈服した。あっさりと。
中学生だった俺には、それがストーカーだとか、警察に行けばいいだとか、そういう考えも浮かばず。
ただ怖かった。
自分を侵食してくる彼女が、怖かった。
今まで空白だった俺の余裕という隙間に、彼女が無理やり入り込んできた。
俺の日常生活に彼女という一つのエッセンスが混入した。
それだけじゃない。正反対の方向に位置するはずの彼女の家から、自転車でさえ大層時間がかかるというのに
彼女は、そんなことも気にせず朝の7時には俺の家に来る。
朝のHRは8時30分からだというのに。
自転車の後ろに彼女を乗せ、近場の公園で彼女の作った朝ごはんを食べる。
彼女が作るお弁当はいつも4つ。朝の2つと、昼の2つ。
給食があるにも関わらず、彼女は作ってくる。
俺の学校の給食はあまり多くない。いや、これは俺が単純に大喰らいだからなのだが・・・
その程度では足りないと知っていて持ってきているのか、彼女の作ってきた弁当をこっそり食べている。勿論、彼女と一緒に。
一度先生にバレそうになった時などは冷や汗ものだったが、今ではなんてことない日常になっている。
・・・そんな日常が怖かった。
あの後、猛さんは私と一緒になってくれた。
こんなに簡単に事が運ぶのなら、もっと早く行動に移していればよかった・・・
そんな後悔を持ちながらも、今を幸せに生きています。
今まで鬼籍だった・・・ 誰も入ったことがないけれど ・・・ 私の愛の矛先に、猛さんが入ってくれた。
私の空虚な生活に、彼という一つの媚薬が混入された。
毎日5時に起きて、お弁当を作る。私のお小遣いでは、バスを使う余裕も無いから徒歩。
だから、6時には家を出ないと7時の朝ごはんに間に合わない。
でも、嗚呼。猛さんと朝ごはんを食べるということがこんなに幸せだなんて!
猛さんのお姉様には悪いけれど、これだけは譲れません。
だって、いいでしょう?貴女様は晩御飯を作ってあげているのですから。
猛さんの家の近所で朝のお弁当を食べ、水筒に入れてきた味噌汁を一緒に飲むこの幸せ。
その後、私は猛さんの・・・ 校則違反ですが ・・・自転車で、途中のコンビニまで至福の時を過ごします。
だって、猛さんに抱きつけるんだもの。そのにおいを胸いっぱいに嗅いで、一日のエネルギーチャージを行ないます。
チャージしすぎて少し濡れてしまいそうになることもありましたが、今ではなんとか調節しています。
授業を受けている最中も、小型カメラで猛さんを監視します。
嗚呼、眠気眼を擦る猛さんも可愛い・・・
昼休みには、給食の後に足りない分を食べます。朝と比べて少し少なめのお弁当です。
美味しいよ、という言葉で私は身震いしてしまいます。これが、これこそが私の求めていたもの・・・
放課後では、うちの担任の先生がHRを早く終わらせてくれるという事に感謝しながら、猛さんのクラスに行きます。
HRが終わった瞬間、扉を開けて猛さんを呼びます。困惑した顔も素敵です・・・
ちなみにこれは悪い虫がつかないようにするための、いわば牽制です。
男女わけ隔てなく接する猛さんは人気者なのですから、そこは私がしっかりしないといけません。
そうして、猛さんは私の家に遊びに来るんです・・・
予想していたよりも、ずっと普通の家。
片親でお母さんと一緒に暮らしている先輩の家は一戸建てだった。
母さん仕事だから、この時間帯には私しかいないの、と言っていた通りに先輩と二人っきりになる。
部屋に通された俺は、違う意味で驚いた。あまりに、普通なのだ。その、部屋が。
いや、普通・・・ 違う これは普通じゃない。
アルミ製の本棚。質素な机、参考書が並ぶ戸棚。
この年頃だと女の子らしい化粧棚や化粧台があると思ったのだが、そういうものは一切無い。
ぬいぐるみの類も皆無だ。
そう、部屋が余りに質素すぎるのである。
これでは、あのボーイッシュでガサツな俺の姉達のほうが可愛らしい部屋をしているのではないか。
あまり部屋に入ったことはないが。
先輩はジュースを注ぎにリビングへと行った。
することもなく、なんとなしに参考書の戸棚を開けて、どんなものかと見てみる。
わけのわからない記号ばかりだ。なにこれ。
表紙を見てみると、大学生用の問題集だった。もらいものかな、と思い戸棚に戻そうとする。
きらり、と輝く物が戸棚の奥にあった。なんだろう、と手を伸ばすと、指に鋭い痛みが走った。
慎重にそれを取り出してみると。
真っ赤に濡れ錆びた、カミソリだった。
見つけちゃった・・・
ダメだよ、猛さん。女の子の部屋を漁ったりしたら・・・ 罰が当たるよ?
もちろん、私からの罰だけれど・・・ くすくす。
自分の部屋に設置した監視カメラが、猛さんの動揺する姿を映し出す。
そうよね・・・ 驚くわよね・・・ 精神が不安定だった頃に、私が一度だけ首筋を切ったカミソリ。
その時は、傷は浅く頚動脈も切れていなかったから大事に至らなかったけれど、血が沢山出て怖かった。
死ぬほどじゃなかったけれど・・・ ね。
乙女の秘密。真っ赤に血錆びたカミソリ。
私はそれを戒めとして持っている。
何度か捨てようと思ったけれど、何故か捨てれなかった。
そんなカミソリを戒めにしようと思ったのも、全て猛さんが入学した時から・・・
あの入学の時、新入生に花道を作ったとき、私はみつけてしまった。
猛さん・・・ たけしさん・・・ タケシさん・・・ 猛さん!
それ以来、私は彼のために、猛さんのために生きようと戒めた。
もう自殺未遂なんてしない・・・ そう誓った。あの、カミソリに。
そう、そうよ。戸棚にしまって・・・ それでいいの、猛さん。
それじゃ、ジュースを持っていきましょう・・・ 真っ赤なトマトジュースを、ね。
「指・・・ 大丈夫ですか?血が出てますよ?」
「ああ、そこの本棚で切っちゃって」
冷や汗が伝う。滲む血は隠せなかったのか、手を取られた。
あの参考書の奥にあったもので、切ってしまったのだ。
思い出したくも無い、あの血錆びたカミソリ。あれは一体なんなのか。
「んちゅ」
「うわ」
指を吸われた。いや、確かに昔から傷には唾とか言われてるし、それなりの殺菌効果はあるんだけれど・・・
「んっ、んちゅる、ちゅぅ、れぅ・・」
この吸い方は尋常じゃないだろう・・・
なんか、なんていうか、エロい。えっちすぎだ。
「も、もう大丈夫だよ」
なんだか色々大変な事になる前に、俺は指を引っ込めた。
ああ、と名残惜しいような眼差しを向けてくるが、トマトジュースを飲む事でその雰囲気を回避した。
「美味しいね、このジュース」
「そうですか、うれしいです。フルーツトマトを使った新作ジュースなんですよ」
真っ赤な血のようなジュースを飲み干す。美味い、が、先ほどのカミソリが頭に浮かぶ。
こびりついた血は、誰のものなのか。先輩か、それとも他の誰かか。
そんな事を考えていると、寄り添うように先輩が肩を寄せてくる。
凄く幸せそうな顔で、濁った瞳を俺に向けてくる。
「私、今凄く幸せです・・・」
いい雰囲気、とはまさに今このこと。
嗚呼、このまま猛さんに押し倒されないかしら・・・
それとも、私が猛さんを押し倒そうかしら・・・
一線を越えてしまえば、あとは男と女。貪るような熱く黒く甘い愛の契りが待っているでしょう。
けれど、そうは問屋が卸しません。
時間は刻一刻と過ぎてゆきます。
今日は、ここまで・・・ そう言いたいのか、私のお気に入りの時計が鳴り響きます。
夕方6時を指して。
「あ・・・ もうこんな時間。家に帰らなくてもいいんですか?猛さん」
「え・・・ ああ、そうだ。帰らないと」
「それでは、また明日の朝・・・ 朝ご飯、作ってきますね」
押すだけが、技じゃないです。時には引くのも技の一つ。
それに、今私が押し倒してしまえば、あのカミソリが脳裏に浮かんで猛さんは私を拒絶するでしょう。
かなり高い確率で、というより間違いなく。
そうならないよう、私は彼をコントロールしないといけないんです。
そう、彼自身が私を好きになるようにコントロールしないといけないんです。
彼自身から求めるようにならないといけないんです・・・ 悔しいけれど、私。
ストーカーですもの。
春が過ぎ、夏が来て、秋を過ごし、冬に至る。
春夏秋冬を感じながら、俺は狂気も感じていた。
休みの日。長女から手渡された子機から、先輩の声が響いた。
「はやくきて」 と。
俺は自転車を必死でこぎ、転がり込むように先輩の家へとあがりこんだ。
先輩はなにをするでもなく笑顔で俺を迎え、朝の十時から夕方の五時まで俺に勉強を教えてくれた。
後ろから寄りかかってくる先輩を背中に感じながら、だ。
学校の日。いつもの様に先輩と朝ご飯を食べ、学校へと向かう。
クラスメイトの女の子に「おはよう」と声をかけられ、俺も「おはよう」と挨拶を返す。
そんな日常も、先輩は許せないようで。
きりきりと鳴る歯軋りを耳に聞きながら、ああ、今日は昼休み中抱きしめ続けないといけないな、と思った。
先輩のストーカー行為は、付き合い始めてからも続いた。
俺が漫画を買うために漫画を選んでレジに並んだ時等は背筋が凍った。
背後から先輩の声が聞こえたのだ。
「その漫画、面白いの・・・?」 と。
俺は明らかに動揺した声を出しながら答え、その後先輩の家に連れて行かれたり。
他にも数え切れない。
付き合っていると、それはただの束縛になるのだろうか?
付き合っていると、それはストーカーと呼ばないのだろうか?
そんな事を感じながらも、恐らく、いや、ああ。これは絶対だ。
俺はマゾヒストの素質があるらしく。
先輩の束縛が密かに心地よかった。
先輩が絡めてくるトゲがある蔦が心地よかった。
一線を越えぬまま、ずるずると俺の精神と肉体が疲弊してゆく毎日。
人間、慣れればなんとかなるもので、俺自身その日常に幸せを感じるようになっていった。
先輩が好きになっていた・・・ と、思う。
そして、俺が三年生に上がる頃。
つまり先輩の卒業の時だ。
なんの前触れもなく、先輩は去った。
それは呆気なく、さっぱりと、まるで雪崩の起こったゲレンデのように。
消え去った。
それからの俺の生活は、昔の日常に戻っていた。
初めの頃は先輩を想って胸が熱くなることもあったが、それもなくなっていった。
高校受験。
俺のような凡人にはそれは辛く映り、先輩の事を考える暇も無くなったのだ。
そして、自分の実力では役不足な、レベルの低い公立高校を選んだ。
学校が近いから、という理由もそれには含まれていたのだが、俺はそこに入学した。
風の便りで、先輩は天才の名を欲しいままにしている、とも聞いたが感慨はわかなかった。
もう俺は、常人に戻っていた。普通の、ただ普通の人間に。
高校に入学してからは、色恋沙汰もまったくなく興味を引かれる女性も居ず。
俺は三年間、無為に、とは言わないがそれなりの、常人のような生活を続けた。
あの中学生三年生の一年間、もし俺が狂気にとらわれ続けていたのなら、気づいていたのかもしれない。
くすぶりつづける狂気の炎は、未だに俺を焦がし続けているということに。
高校の頃、作文で賞を取った。
勢いづいた若かりし頃の俺は、そのまま勢いで小説を書いて、出版社に応募した。
編集長はいたく俺を気に入ったらしく、高校を卒業したらそのまま出版社と契約を行なった。
ささやかながら、俺は夢を掴んだ。さらに上へ、上へという気持ちを持ちながら俺は毎日を過ごしていた。
「ひっ、ひひ」
日増しに増える彼女の手紙。
「くっう、ふ」
留守電にたまる彼女の声。
「は、ははは、はははは」
毎日手紙を投函し、一言声をかけてゆく彼女。
「あはははは、ははっ、は、は」
精神が崩壊するのがわかる。客観的に自分を見ると、いかにこっけいかがわかった。
「くくく、くっふうははは、ははははは、く・・・はは」
苦しむ自分、笑う自分、泣く自分。自分が自分でなくなってゆく自分。
俺は死ねないとわかっていながらもアパートの二階から飛び降りた。
らくになりたかった。
頑丈に出来ていた身体のおかげで、多少の痣が出来た程度で済んだ。
編集長には事情を話し、休載を申し出た。
あまりにあっけない、日常の崩壊だった。
結局実家に戻り、自分の部屋に引き篭もった。
今までどおりに書き、溜めるという行為だけはしていたがペースがガタ落ちした。
もうだめだ、と思った。
朝起きると、俺は立てなくなっていた。
病院に行くと、精神からくる疾患らしいとわかった。
治療を進めてみると、どうやら俺の心の中に「外に出たくない」という気持ちが生まれているらしい。
それが、歩く、立つ行為を阻害しているというのだ。
俺はもう、本当にだめだな、と思った。
部屋で自嘲気味に笑っていると、呼び鈴の音が聞こえてきた。
「あら・・・ ・・・ 久しぶり・・・」
「ええ・・・ 猛さん・・・ ・・・ですか・・・」
足音が聞こえてくる。
スリッパの音だ。
足音とは不思議なもので、誰かわかってしまうのだ。
俺は笑いながらその足音の主に、挨拶をした。
結局、嗚呼。俺は。
もうこの人から逃れられないのだと。
元来からの、この相手を思いやる気持ちが災いしたのだろうか?
そんな事はもうどうでもいい。
もう、どうでもいい。
「こんにちは。お久しぶりね、猛さん・・・」
Happy End...?