「えーと、実習室、実習室は……」  
四月の暖かい陽光の射す校舎の中、一人の少年が辺りを忙しなく見ながら歩いている。  
彼の名は、佐伯 晶と言った。  
華奢で小柄な体躯、中性的な顔、高めのテノールの声、そしてその名前のせいでしばしば女の子に間違えられたりするが、れっきとした男子の新入生だ。  
彼がトイレに行っている間に移動教室で皆が実習室に移動してしまい、おかげで未だ右も左も分らない彼はこのように迷っていた。  
「待っててくれないなんてみんな薄情だよなぁ……と、あの人に聞いてみるか」  
晶が周りを見渡していると、少し離れた所に一人の女性がいた。  
制服のタイの色を見るとおそらく先輩なのだろうが、次の授業に遅刻しかねない今はそんな事を構っている場合でもない。  
「あの、すいません」  
「む?」  
声をかけられた女性が振り向きその拍子にふわり、と腰まで届く長く艶やかな黒髪が舞う。  
まるで映画の1シーンのように美しい光景。  
だが、それ以上に晶の眼を引いたのは、彼女の容姿だった。  
(うわぁ、綺麗な人だ……)  
制服の上からでも分る、ファッションモデルのような美しい体型。  
陶磁器のように真っ白な肌。  
人形のように整った美貌。  
そして、強い意志を感じさせる瞳を宿した、切れ長の目。  
「美しい女性」という言葉を体現したらこうなるのではないか。  
そんな風にさえ思える美しさがそこにはあった。  
「…………ッ!」  
彼女の美しさに眼を取られていると、晶を見た女性が一瞬驚いたような様子を見せた。  
「あの……僕が何か……?」  
「あ、あぁ、すまぬの。と、突然声をかけられたので少し驚いただけよ。  
 ヌシの気にする事ではないから安心するがよい」  
晶が声をかけると、女性が一瞬少しうろたえた様子を見せる。  
「……それよりワシに何か用があったのではないか?」  
しかし、すぐに気を取り直したのかコホン、と小さくわざとらしい咳をしながらそう問い返してきた。  
その独特の古めかしい口調に一瞬驚いたものの、晶はすぐに本来の目的を思い出して答える。  
「あ、すいません。実は実習室の場所がわからなくて迷っていて……よければ教えてもらえませんか」  
「ふむ、左様か。実習室の場所はそこの階段を上がって……」  
丁寧でわかりやすいその女性の説明を聞き、晶は目的地を把握すると笑顔で礼を言った。  
「ありがとうございました。おかげで助かりました」  
「べ、別に礼を言われるほどの事はしておらぬがの」  
照れているのか、女性は晶から視線を外して少し顔を紅潮させる。  
彼女のそんな反応を一瞬不思議に思ったが、すぐに気を取り直し再び礼を述べて実習室に向かおうとする晶に女性が後から声をかけた。  
「あ、その……ヌシ、名はなんと申す?」  
隠すような事でもないので、晶は笑みを浮かべて答える。  
「佐伯……佐伯 晶です」  
「そ、そうか。では晶、達者での。遅刻するでないぞ」  
女性の奇妙な反応に小首を傾げつつも、時間に追われている晶は実習室に向かった。  
──この出会いが、すぐに大きな波乱を生む事も知らずに。  
 
 
その事件が起こったのは、昼休みだった。  
「このクラスに佐伯 晶と言う名の学生は居るかの?」  
扉が開け放たれるなり、落ち着いたアルトの声が響く。  
「えーと……あそこにいるのがそうですけど」  
クラスメートの一人が、昼飯を食べ終えまったりと駄弁っていた晶を指差す。  
その瞬間にクラス内の視線が一気に集まって妙に恥ずかしい。  
(あれ、あの人さっきの……)  
指差された晶が思わず声のした方を振り向くと、そこに立っていたのは先ほど彼に実習室の場所を教えてくれた女性だった。  
何の用なのだろう、と驚いて彼女を見ていた見ていた晶の目線が彼女の目線とふいに絡み合う。  
晶がその照れくささで赤面していると、不意に彼女が微笑を浮かべながら口を開いた。  
「ふむ、先ほどと同じこのドキドキする気持ち……本人のようじゃの」  
明日の天気の話しでもするような、自然な調子で。  
彼女はそんなとんでもない事を口にした。  
 
今、この人、なんて、言った?  
 
クラス中の人間が一様に耳を疑うが、彼らがその言葉を聞きなおす暇はない。  
彼女は堂々とクラスの中央に向かって行き教壇の上へと登ると、その場から教室全体を見渡し語りかけ始めた。  
「クラスの諸君。今より発表すべき事がある」  
突然の出来事に教室全体がざわつく。だが、彼女はそれを意に介した様子もなく、宣言する。  
──そう、それはまさに「宣言」であった。  
「このワシ、九条院 瑠璃は佐伯 晶を愛する事に決めた。  
 以後、周りの者達も心に留めておくがよい」  
瑠璃の宣言は教室中の全ての人間から言葉を奪う。  
そして、その一瞬の沈黙の後。  
学校全体を揺らすほどの驚愕の叫び声が響きわたった  
 
 
「さて、どういうことだか教えてもらおうじゃないか」  
その日の授業が終わるなり、クラスメイトの一人がそう言って晶に声をかけてきた。  
「な、なんの話……」  
「もちろん九条院先輩との事だ」  
とぼけて逃げようとする晶に答えながら、その他の男子のクラスメイトも立ち上がった。  
そして、声をかけてきたクラスメイトと共に壁を作るようにして晶の退路を塞ぐ。  
その異様な雰囲気に思わず一歩後ずさった。  
「事と次第によっては……」  
クラスメイトの一人はそこまで言うと、拳に親指を立ててその指を下に向ける。  
そしてその仕草に合わせるようにして、周りのクラスメイトたちも海外の「帰れコール」よろしく無言の足踏みを始める。  
……正直言って、無茶苦茶怖かった。  
「さて、佐伯くん。何があったのか教えてくれないか?」  
あくまで、頼むような口調でそう聞いてくるクラスメイト。  
だが、その眼は雄弁にこう語っていた。  
──断った日には生きて明日の朝日を拝めると思うな、と。  
「何があったもなにも……移動教室ではぐれた時に道を聞いただけ……」  
「嘘をつくな」  
晶の弁解はみなまで言う前に即座に断定口調で否定される。  
「う、嘘じゃないって! 信じてくれよ!」  
「……そうか、そうまで言いはるのならば仕方ない」  
理不尽な誤解を受ける謂れはない晶は、半ば悲鳴混じりにそう叫ぶ。  
だが、その言葉は決して聞き入れられない。  
当然だ。彼等にとってこれは晶の言い分を聞く場ではない。  
これは晶を断罪するための「宗教裁判」なのだ。  
無言で一歩、また一歩と方位を狭めるクラスメイトたちに、晶は言い知れぬ恐怖を感じた。  
だが、救いは思わぬところからもたらされた。  
「ふふ、ヌシら、男の嫉妬は見苦しいぞ?」  
からかうような声音がクラスメイトたちの後ろから響く。  
彼らが声のした方向を向くと、そこには鞄を持った瑠璃が楽しそうな微笑を浮かべて立っていた。  
殺気立った雰囲気を全く気にせず晶のいる方向に向かう瑠璃に、クラスメイトたちが呑まれたように道を開けていく。  
「あ、九条院先輩……」  
「瑠璃と呼んでくれんとは寂しいのう。ワシと晶の仲ではないか」  
瑠璃の言葉を聴いて、周りのクラスメイトたちの殺意が質量すら持った気がした。  
……わざとやっているのではないか、などと晶は思わず邪推せずにはいられない。  
「あ、そ、それで、その、うちの教室に何かご様ですか、先輩」  
晶が誤魔化すように焦って問いを発すると、瑠璃は少し拗ねたように答えた。  
「ヌシと逢瀬を楽しもうと誘いに来たのよ」  
倍増した殺意と、非常に返答に困るその言葉に思わず言葉を詰まらせる晶。  
すると、瑠璃はその沈黙をどのように解釈したのか、言葉を続けた。  
「まぁ、ヌシが見られる方が好きと言うのならワシも……」  
殺意の倍率ドン、さらに倍。  
「と、とりあえず出ましょう、先輩!」  
晶は瑠璃の言葉を途中で遮ると、片手に自分の鞄、もう片方の手に瑠璃の手を掴む。  
そして、道を塞ぐクラスメイトをはねのけて、色々な意味で居づらい展開になってきた教室から逃げ出した。  
瑠璃は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに晶の歩調に合わせて走り始める。  
逃げ出した教室から、クラスメイトたちの凄まじいまでの怒号が背中に響く。  
「ふふ、中々に積極的よの、晶」  
そんな状況だというのに、微笑を浮かべてそんな言葉を発する瑠璃を見て。  
(この人、絶対分かってやってる!!)  
晶は思わずそんな風に思わずにはいられないのだった……  
 
 
教室での騒動から少し経って。  
晶たちは駅前の小洒落た喫茶店にいた。  
「…………」  
「晶。いつまでもそうむくれておるものではないぞ?」  
テーブルを挟んだ向かいで紅茶とケーキを悠然と楽しむ瑠璃をジト目で見ていた晶がそうたしなめられる。  
「ほれ、なんならワシの分も少しやるぞ?」  
瑠璃はそんなことを言いながら、ケーキの切れ端をフォークに刺して晶に突きつける。  
「ケーキで機嫌とるって小学生かなんかですか、僕は……」  
思わず、疲れた溜息を吐く晶。  
とはいえ、瑠璃の言うとおりいつまでも怒り続けていたところで事態が好転するわけでもない。  
そもそもにおいて、この騒動の「原因」を解き明かさない限りは似たような騒動が続くに決まっているのだ。  
だから、晶は一番大きな疑問を彼女にぶつける事にした。  
「なんで、僕なんですか?」  
「む……?」  
質問の意味が掴めなかったのか、紅茶を飲んでいた瑠璃が小首を傾げる。  
「先輩が僕を選んだ理由が、分かりません」  
しっかりと瑠璃の眼を見据え。晶が瑠璃に問う。  
瑠璃の様な美人が出会ったばかりの晶を好きになる理由などな以上、晶の疑問は当然と言える。  
更に言えば瑠璃が何がしかのよんどころのない事情であのような行為に及んだのではないか、そうとさえ晶は考えていた。  
「ふうむ、正直に言えばの、ワシにも分からん」  
だが、瑠璃から返ってきたのはそんな答えだった。  
瑠璃は唖然とする晶を尻目に、優雅な仕草で紅茶のカップを置きながら続ける。  
「晶の笑顔が美しかった、柔和な雰囲気に癒された、理由を探せばいくらでも出てくるがの、どれも確たる理由ではない。つまるところ──」  
瑠璃はそこで言葉を切ると、満面の笑みを浮かべて、言った。  
「一目惚れ、と言うやつよ。  
 或いは、こうも言い変えれるかの。ワシはヌシの全てを選んだ、とな」  
「────────ッ!」  
無邪気とさえ言える純粋な笑顔を浮かべて放たれた言葉に、晶は思わず顔を火照らせる。  
「どうじゃ、晶。ワシと正式につきあう気は、無いかの?」  
「あ、いえ、その……」  
追い討ちをかけるような瑠璃の問いに、思わずしどろもどろになる晶。  
流されるまま、思わず首を縦に振ってしまおうとした瞬間。  
唐突に後ろから、低いベースの声が響いた。  
「瑠璃お嬢様。お取り込み中のところ申し訳ありません」  
晶が声のした方向を向くと、そこには壮年の大男が立っていた。  
「……金剛。いかにヌシでも、事の次第ではただでは済まさんぞ」  
「私としても、お嬢様を応援したくはあるのですが……お父上がお呼びです。火急の用との事で」  
その言葉を聞くなり、先ほどまでのからかうような、それでいて弾んだ声とはうってかわっって、疲れたように瑠璃が大きく一つ溜息をつく。  
「ふぅ……『また』か……、あの方も困ったものだの。ヌシもそう思わぬか、金剛」  
「私からは何とも申し上げられません。私は一介の従者に過ぎませぬ故」  
「意地の悪い質問だったかの。まぁよい。すぐ行くと父上には連絡を入れておくがよい」  
金剛と呼ばれた壮年の男性は「了解しました」と一言答えると、颯爽と店の外に消えていく。  
晶は、と言うとあまりの展開についていく事ができなかった。  
それを知ってか知らずか、瑠璃は心底残念そうな口調で言った。  
「まことに残念じゃが、今日はここでお開きという事になりそうだの。  
 だが、最後の質問の答えは待っておるぞ。  
 ……できればよい答えの方を、の」  
一人店に残された晶は、仕方なく残った紅茶を啜る。……完璧に入れられた筈の紅茶なのに、妙に苦く感じられた。  
 

Gポイントポイ活 Amazon Yahoo 楽天

無料ホームページ 楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] 海外格安航空券 海外旅行保険が無料!