「ダメダメね〜」
最後の音を鳴らし終えた瞬間掛けられた言葉に、肩を竦める。
「いや、俺声楽科だし」
「何言ってんのよ、高瀬が言ってたわよ。あんた昔はピアノコンクールで大抵入選してたらしいじゃない」
にんまりと笑う彼女に、苦笑を浮かべた。
確かに、子供の頃は幾度か挑戦したピアノコンクールで入選してたのは事実だけど、あれは嫌々やらされていた。
「高瀬教授も、俺のこと引き合いに出すのはいい加減止めてほしいな」
「そりゃ、無理でしょ。小学校のころからピアノのカテキョしてもらってたんでしょ? 期待の弟子がピアノやめて声楽に行ったって、いつも泣いてるわよ」
当の高瀬教授に、希望の星と言われている彼女に言われても、ただ苦笑を返すことしかできなくて。
「でもまあ、楽器はしばらく触らなかった衰えるものだし、しょうがないさ」
俺は天才じゃないから。その言葉は彼女に聞こえないように飲み込んだ。
周囲から天才呼ばわりされていて、実際才能としか言い様のない技術を見せつけられることはしばしば有るけれど、彼女が思いもつかないほど努力をしていることは知っているから。
「そりゃ言えてるわ。今日は、ってか今日もあんたの負けだもんね。さーて、何をしてもらおうかな」
にかっと笑う彼女。
その笑顔がほんの少しだけこちらからずれてるのは、しょうがないことだと解っている。
だけど、やっぱり少し心苦しい。
「でもさ。負けは認めるけど、そっちの得意技ばっかりじゃなくて、こっちの得意技でもやらせて欲しいところだな」
「ん? カルーソーでいく、それともオ・ソレ・ミオ? 生憎声楽系の曲のレパートリーなんてあんまり持ってないのよね」
そう言いながら自信満々と言った様子で笑う彼女は、相変わらず綺麗だった。
……恥ずかしいから面と向かって言う気はないのだが。
「ま、レパートリーがそんなたくさん有る方がおかしいしな」
「まあね。あたしも基本ベートーベンだもん」
「リストやショパンって気は無いのか?」
ピアノ系で行くならその二人は避けられないと思うのだが、彼女は逆にそちらには全く触れようとしない。
それが前から不思議だった。
「だってさ。その二人って、もろフジ子・ヘミングの持ち曲でしょ。あたしゃ障害者ピアニストだからね。第二のフジ子・ヘミングとかって持ち上げられるなんてことになった虫唾が走るわよ」
「ああ、なるほど。らしい発想だな」
一度は聴力を失い、それでもピアニストとして成功したフジ子・ヘミング。
そんな有名すぎる人物がいれば、ただ障害者という繋がりだけで直ぐ第二のフジ子・ヘミングなどとマスコミは言い出すもの。
そんな風に誰かに擬されるのを良しとするほど彼女のプライドは低くないこと見せつけられた。
「へへん、そりゃあんただって同じでしょうが」
彼女の言葉に、苦笑を浮かべるだけで応えない。
「知ってるわよ、あんたが声楽に行ったホントの理由」
「ん? なんのことだよ」
「男声なのにアルトなんて普通に出るからでしょ、声楽行ったの」
それは確かに事実。というよりは、事実の一部。
そのことを指摘しようかどうか迷いが浮かび、そんなこちらを無視して彼女が椅子から立ち上がった。
そのまま、椅子に立てかけていた白杖を取り上げて、周囲を探りながらこちらに近づいてくる。
それを助けることなく、彼女が近づいてくるのを待つ。
あくまで彼女とは対等の関係だから、彼女が助けを求めない限りはこちらも一切助けないのだ。
彼女が、すぐそばに来て抱きついてきた。
「で、競争者が少ない方を選んだだけなんしょ。あんた、他人を蹴落とすのきらいだしさ」
……全部読まれている事実にただ笑うことしかできない。
「ま、そんなあんただから、あたしは目を掛けてるんだけどね。目はみえないんだけどさ」
あははとわらう彼女をきゅっと抱きしめた。
「お? いきなりどうしたわけ?」
胸元にいる彼女が顔を上げてこちらを見つめてくる。
さすがに抱き締めた状態だと、目がずれることもなくしっかりと視線が合った。
「んー、何となくシタくなった」
「あはは、いーわよ。どうせ、この時間にここに来る酔狂なのなんてあたし達以外にいないんだしさ」
窓から見える空はどこまでも青くて、夏を強く感じさせる。
だから、抱き締めたままの彼女と唇を重ねた。
……そのまま胸元に手を入れると同時に、彼女がこちらの股間をさすってくる。
互いに服を脱がしあいながら笑顔を向け合う、盛り上がりの時間は蝉時雨だけが知っていた。
そんな、夏の盛りの保守。