教科書とノートにずらずらと踊っている数字に溜息をつきながら、俺はシャープペンをいじっていた。  
 別に勉強が好きなわけじゃないし、優等生になりたいのでもない。  
 それでも俺は、今日も勉強机に向かう。  
 殆どポーズに過ぎないその格好は我ながら間抜けだが、そうせずにはいられないのだ。  
 とんとんと軽やかに階段を駆け上がってくる足音を耳にして、俺はシャープペンをノックする手を止めた。  
 足音の主は、何の躊躇いもなくドアを開ける。  
「あー、また勉強してる」  
 ひょい、と無造作に部屋へ入ってくる一夏に仏頂面を作り、「ノックしろよ」と注意するのはいつものこと。  
 タンクトップにショートパンツという出で立ちの彼女は、セミロングの髪を揺らしながら、にひひと笑って  
「だって面倒臭かったんだもーん」  
 という一言で済ませる。  
 幼稚園の頃から一緒の幼なじみは今更そんなこと聞きっこない。  
 こっちが何をしてようが確認もせずに入って来られては、勉強でもしているしかない。  
   
 たまたま向かいの家に住んでいて、たまたま二人とも鍵っ子だった。  
 同い年の子供が親しくなる理由はそれで充分だろう。  
 下手をすると、そこいらの兄弟よりも一緒に居る時間は長いかもしれない。  
「だってクーラーあるし、部屋広いし、テレビおっきいし」  
 傍若無人な幼馴染みは、そんな理由で俺の家に入り浸っている。  
 
「それ今日の宿題?」  
 背後から乗り出してノートを覗き込まれ、思わず胸元に行きかけた目をどうにか戻しながら頷く。  
「後で見せて」  
「却下。質問なら受け付ける」  
「けちー」  
 がたがたと椅子を揺すってくる一夏のおでこをぺちりと叩き、  
「冷蔵庫にアイス入ってるから、それでも食べて大人しくしてろ」  
 そう言うと一夏も現金なもので、きゃーっと叫びながら部屋を出て行った。  
 階段を、転げ落ちてるんじゃないかと疑いたくなるような音を立てて降りていく一夏に溜息をついて、俺はシャープペンをくるりと回した。  
 
 全ての動作が唐突で、いつまでたっても幼い一夏。  
 一夏は多分、俺がどんな気持ちを抱えているかなんて気付いていない。  
 だから俺は、この気持ちには気が付かないフリをして、やっていくしかないんだ。  
 二人で居る時間が楽しいだけじゃなくなったのは、いつからだろう。  
 
 階下から持ってきたアイスを片手に、一夏はご満悦だった。  
 一夏が好きなのはラムネ味のアイスバー。  
 百円でおつりが来る割には大きくて、当たりが出たらもう一本貰えるというお得感がたまらないらしい。  
 俺の部屋にあるテレビの前に陣取り、いそいそとDVDをセットし始める。  
「俺、今勉強中なんですけど」  
「してればいいじゃない、あたしコレ見てるから」  
 お気に入りのビーズクッション、と言ってもそれも俺の物な筈なのだが、すっかり一夏の所有物になっている。  
 それの中にもそもそと埋もれながら、すっかり観る姿勢に入っている。  
「半額セールになってないのにそんなの借りてきて、豪勢だな」  
「綾が貸してくれたの、すっごく面白いんだって。明日感想聞かせてねって言われたから、ちゃんと見ないと」  
 こちらの事情を斟酌しない幼馴染みに観念してノートを閉じると、俺は椅子の向きを変え、テレビを見られるように座りなおした。  
   
 
 映画は「新人の女優が凄く可愛い」というのが見所の、良くある恋愛物だった。  
 時折二人で「ヒロイン可愛いね」「でも我が儘だ〜」とか、好き勝手なことを言う。  
 「映画を観る」と言うより、映画をネタに二人で話す感じだ。  
 ただ、時折挟まれるラブシーンの度に少し気まずい空気が流れる。  
 抱き合ったり、見つめ合ったり。  
 映画の中の二人は臆面もなく恋愛に没頭していて、恋人同士の愛情確認に余念がない。  
 
 うわ。  
 
 思わず画面から目をそらしてしまった。  
 画面いっぱいに大写しになるキスシーンに気まずさを覚えて、思わずあさっての方を見てしまう。  
 随分念入りにやっているらしく、音まで聞こえてくるのが更に気まずい。  
 ちらりと一夏に視線を落とすと、一夏も恥ずかしかったらしい。手に持ったアイスで目を隠していた。  
それでも映画の内容は気になるらしく、アイスが時々左右に揺れている。  
 心なしか一夏の頬が赤い事に気が付いて、俺は思わず息をのんだ。  
今更テレビに視線を戻すことも出来ず、そのまま一夏をじっと観察してしまう。  
 愛している、とか綺麗だ、とかブラウン管の中で男が囁く度に一夏は身じろぎをし、視線を泳がせている。  
 現実にこんな言葉を言われたら、こんな反応をするのだろうか。  
 ついそんな事を考えてしまって、余計に一夏から目が離せなくなる。  
 すらりと伸びた素足がビーズクッションから覗いているのが、やけに目についた。  
 もう二人の恋心だとか何だとかは頭に入ってこなかった。  
 わざとらしく席を外したり、停止ボタンを押すことすら出来ずにない。  
 二人とも、そのシーンが終わるまで微動だにも出来なかった。  
 場面が暗転してモノローグに入ったところで、二人同時に息を吐いた。  
「び、びっくりしちゃったね……」  
 一夏は気まずい空気を誤魔化すようにあはは、と笑ったが、相当動揺していたらしい。  
 目隠しに使っていたせいで食べることができずにいたアイスから、溶けた雫がぽたぽたと彼女の太腿に溢れ落ちた。  
「ごめんっ! クッション汚れちゃう!」  
 慌てて立ち上がった彼女の太腿を青い雫がつうと伝ってゆく様を見て、一瞬理性が消えかけた。  
「ねえっ! ティッシュ取って、早く!」  
 必死な一夏の声に我に返ると、俺はティッシュを箱ごと掴んで一夏の足下に跪いた。  
「ちょっ……いいよ、自分で拭く!!」  
 慌てた一夏の手元からアイスの雫が飛んで、俺の頬に掛かった。  
「やだ、ごめんっ!」  
「いいからじっとしてろ」  
 そう言うと、一夏はぴたりと大人しくなった。  
 そのまま、手に取ったティッシュで彼女の足を拭いていく。  
 溶けたアイスは僅かな粘り気をもって彼女の足を汚していて、軽くなぞっただけではなかなか落ちない。  
 足のすねから太腿まで、何度も往復させる。  
 足が柔らかいので力加減が分からなくて一夏の表情を覗うと、一夏は困ったような恥ずかしがっているような表情でこっちを見下ろしていた。  
何だか、自分が酷くいやらしいことをしているような気がする。  
 そんな感覚に戸惑っていると、今度は溶けたアイスが彼女の手首を伝って床に落ちた。  
「一夏、アイス食べろ、早く!」  
 床を拭きながらそう言うと、一夏は慌てて手にしたアイスを舐め始めた。  
 初めは上部を必死に舐めていた彼女だが、まずは下部から舐めていった方が良いと判断したらしい。  
 下からアイスを舐め取ろうと、アイスを自分の顔より心持ち上に持ち上げた。  
 
 多分、状況が悪かったんだろうと思う。  
 一夏は随分と焦ってたし、アイスはもう半分水だった。  
 だから、アイスを上手く食べられなかったとしても一夏のせいじゃない。  
 彼女がアイスを食べようとして、さっきの映画のキスシーンのような音がしたとしても、それは決して一夏のせいじゃない。  
 それでもそれは、一夏の動きを止めてしまうには充分だった。  
 もう一夏はどうして良いのか分からないほどに真っ赤になって、自分の鼻の少し先にある水色の塊を凝視していた。  
 
  ぱた、ぱた。  
 
 一夏の頬を、首筋を。  
 少し蛍光色がかった色水が滑り落ちていく。  
 これ、このままにしておいたら泣くな。  
 長年の経験からそう判断し立ち上がると、俺はアイスごと一夏の手を掴んで引き寄せた。  
 そのまま、一夏の手の中のアイスをがりがりとかじっていく。  
 一夏の手には少し大ぶりなアイスも、俺の手に収まると丁度良かった。  
 半分水になっていたアイスをものの十秒で完食すると、青い汁でべたついた一夏の手を放した。  
「……あ、ありがとう」  
 アイスの棒を握りしめながら礼を言う彼女をまともに見ることも出来ず、俺は汚れた手を洗うことを口実に部屋を出た。  
 
 
「どうしよう……」  
一夏はへなへなとその場に座り込んだ。  
 テレビの向こうでは一組の男女が、切なかったり悲しかったりする恋心をヒートアップさせている。  
 足下にはラムネ味の小さな小さな水たまり。  
 手にしたアイスの棒には『アタリ』と、茶色い文字で書かれていた。  
 どうしよう、どうしよう。  
 アイスの棒にアタリって書かれているのは嬉しいことの筈なのに、  
 コレを持っていってコンビニのお兄さんに交換してくださいって言うの?とか、もう一本これと同じアイスを食べなきゃいけないの?とか。  
 そんな疑問でぐるぐるして、全然喜べない。  
「あたっちゃった、どうしよう」  
 アイスを食べたのに身体が熱い。  
 思わず火照った頬に手を当てると、ねとついた感触が指に絡み付いた。  
 
 

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