「あー」
白い天井をぼんやりと眺めて、七篠孝輔は奇声を上げた。彼はベッドに仰向けになって、
額を隠すように右腕を頭に乗せている。
枕の上には全開にされた窓がある。生ぬるい風が吹くたび、孝輔の視界上部に浮き上がった
レースのカーテンが侵入してくる。
BGMとしてセミの大合唱と時折思い出したようにガラス音を奏でる安物の風鈴があるが、
それはどちらかというと耳障りな騒音の部類に入る気がした。
「ねぇ」
足元から声がして、孝輔は黒目だけをそちらに下げてみた。
少女が腕を枕にして、うつぶせに彼のベッドにもたれている。うっすらと汗の膜が張った素足は
だらしなくカーペットに投げ出され、短いスカートから伸びた太ももの部分が朱を差して上気している。
声を掛けるまで読んでいたらしいティーンズ雑誌が、しわを寄せたシーツの上、乱雑に放り出されていた。
「なんだよ、茜」
孝輔は若干不機嫌さを滲ませた声で言う。長年付き合いを続けてきた成果か、何か彼にとって
都合の悪いことを言われそうな、そんな直感めいたものを感じていた。
高坂茜は猫が顔を洗うように、一度腕の中に顔を埋めてから、おどけた仕草でその血色のいい唇を尖らせた。
「――――暇」
彼女の予想通りの言葉に、孝輔は目線を天井に戻す。
茜は孝輔に無視されたことを感づくと、更に唇を突き出して、目の前にあった彼の脚をゆすった。
「ねー、ひまー」
「うるさい」
「ひまー、ひまー」
「うるさいって」
「ひーーーー、まーーーー」
「だー、もうっ! わかったからっ!」
その瞬間の茜は、まるでリードを目にした子犬だった。彼女の表情が期待でパッと輝く。
しかし孝輔は足をばたつかせて茜の手を振り払うと、寝そべったまま彼女に背中を向けた。
「……ったく、このクソ暑いときに」
「もー、孝ちゃん!」
「はいはい」
「ねー、夏休みだよ? もう八月だよ?」
「だから?」
「どっか行こうよ。もったいないよ」
孝輔はしかめ面の見本のような顔で、肩越しに少女の方を振り返る。その険しい視線を受けて、
彼女はにこっ、と白い歯を見せて小首をかしげた。彼女の毛先がさらりと揺れる。肩口に掛かる長さの髪は、
空気をはらんだ外ハネ気味にスタイリングされていたが、ベッドに押し付けたせいで、一部がへこんでつぶれていた。
髪色はその軽やかさを重視した髪形に合わせて、明るいブラウンに脱色されている。茜がそのカラーリングをしたのは夏休みに入ってからだ。
彼女がそれを披露するためわざわざ、隣の家(つまり孝輔の家)の夕食どきに闖入してきたことを思い出して、
彼はため息をつきそうになった。
そんな夏休み仕様の髪で飾られている茜の顔立ちは、異性から見てなかなかに魅力的だった。
卵形の小顔。ぱっちりとした二重の瞳。本人は低すぎると嘆く少し丸い鼻。かわいらしいつぼみのような、
小さいピンクの唇。高校生にしてはいささか童顔なきらいもあるが、それもくるくるとしきりに表情を変える
彼女の性格によく似合っていった。
それはまるで、孝輔の好みをそのまま削りだしたような造形だったが、彼がその照れくさい事実を
茜に伝えたことはない。まあそれも、卵と鶏の命題ではあるが。
「遊びたいなら、友達といけよ。ほら、いつもお前がつるんでる――――」
孝輔は無愛想な口調を作る。
茜は慌てたようにぶんぶんと首を振った。それから少し考えるような仕草をして、
「んー。みんな、この夏は男の子と遊ぶんだって。高二にもなって女だけで遊ぶのはむなしいんだってさ」
「え? でも、お前のグループで彼氏もち、って一人だけだろ?」
「違うよ。二人だよ」
「え? 誰かできたのか? 彼氏」
「んーん。ユウちゃんと、それと――――私」
自分の言葉が気恥ずかしかったのか、茜はシーツに顔を押し当てて、栗色の髪で顔を隠す。ただ、
その間から覗いた小さな耳が、そこだけ冬に逆戻りしたように真っ赤だった。
「ばか。照れるくらいなら言うな」
紅潮の伝播した孝輔が、はぐらかすように茜の髪をぐしゃぐしゃとかき乱した。
「へへへ」
茜はベッドに密着したまま、くぐもった声で笑う。
孝輔の手を取って、自分の頭を擦り付ける。満足するまで孝輔に撫でてもらってから、茜は、もぞり、と上目で彼を見つめた。
「だーかーらー、今年の夏は全部孝ちゃんと遊ぶのです」
「俺の都合は?」
「え? なんか用事あるの?」
「……いや、基本暇だけど」
「でしょー。これだから友達のいないヒッキー少年は」
「やかましいわ」
孝輔はそう言って苦笑すると、茜の額を拳骨で軽く小突いた。
「というわけで。さぁ、遊びに行きませう」
「何が、というわけで、だよ。大体、こんな炎天下の中、どこに行くって?」
孝輔はうんざりした様子で、ぼりぼりと頭をかいた。仰向けに戻ると、無地のTシャツの背中が汗を吸ってじっとりと不快に湿っている。
「んー。映画?」
「それは昨日行った」
「海!」
「それは一昨日」
「プール!」
「それは先週」
「ボーリング!」
「それも先週」
「ゲームセンター!」
「お前負けたら泣くもん」
「バッティングセンター!」
「あれは我ながらアホだった」
「カラオケ!」
「二人ではキツイっていいかげん学習しろ」
「漫画喫茶!」
「すぐ眠くなるくせに」
「買い物!」
「お前はまだ何か買い足りないのか?」
「お祭り! 花火!」
「それは今度の土日だろ?」
茜は勢いよく立ち上がると、拗ねた表情で孝輔を睨み付けた。
「もー! だったらどこがいいの! 孝ちゃんは!」
「いや、だから。今日はもういいじゃん。この快晴の下、わざわざ外、出なくても。――――もう。ほんと。暑いし」
孝輔はしみじみ呟くと、全身からやる気と元気を脱気しきった。
「むー、孝ちゃんの意地悪っ! バカっ! 間抜けっ! 早漏っ!」
「ば…っ! 女の子がなんて単語を……!」
「もういいもん。そんなこと言って、後で後悔したって知らないから!」
「あー、はいはい」
スカートのポケットをさぐり始めた茜を横目に、孝輔は子供に引っ張りまわされた老犬のように深く息をついた。
「ったく。たまにはダラダラさせてくれ」
ギシ、とベッドのスプリングが鳴る。茜は足を投げ出して孝輔の横に座ると、どこかに電話を掛け始めた。
「えっと、もしもし、先輩ですか?」
先輩。その二文字に孝輔は大きく目を見開く。顔を引き攣らせて体をハネ起こすと、焦って茜に手を伸ばした。
「このバカっ! おい! 待て!」
茜は悪戯っぽい笑みを浮かべて、携帯を奪おうとする孝輔から逃げる。
まずい。厄介なことになる。孝輔は今までの悪夢を回想しながら、茜の後を追う。
高坂茜には、他人に対して無自覚な隙があった。その分け隔てがなさ過ぎて半ば無差別テロのような邪気のない笑顔と、
常識より近めに設定されたパーソナルスペースの基準は、思春期を迎えた異性に当然のごとく勘違いをもたらした。
確信をもって彼女に告白する男子生徒たちは、その確信の原因となったヒマワリの笑みの下、呆気なく撃沈されていった。
それでも見苦しく言い寄ってくる男たちの主張を、茜はいつもキョトンとした不思議そうな表情で聞いていた。彼女にとってそれは当然で、
なにより彼女には、その時点で既に10年近くも思いを寄せる男の子がいたのだ。
そしてその想われ人は、茜の色恋沙汰に巻き込まれては、いつも四苦八苦させられていた。
七篠孝輔。彼のように、中学生にして痴情のもつれで生命の危険を感じたというのも中々に稀有な存在だと思われる。
そんな二人にとって、先輩というのは、茜に振られて一時期ストーカー行為を繰り返した一人の上級生を指していた。
「なに考えてんだ! マジで!」
「きゃっ!」
孝輔は茜から携帯をひったくると、二人はもつれ込むようにしてベッドに倒れた。
「あ! 先輩!? 今のは違うんです! ちょっとした手違いで、その――――」
『――――時30秒をお知らせします』
「…………は?」
かくん、と顎を落とす孝輔。
そんな彼に後ろから抱きすくめられた格好で、茜はこらえきれず吹き出した。
「ふふ。大体、私が先輩の番号知ってるわけないでしょ」
しかしどうも最近、
「ね? びっくりした? ね?」
彼女はそんな自分の因果な性質を、
「へへへ。どう? 焦ったでしょ」
咀嚼し、理解し、
「あんまり私を甘く見ないほうがよろしいですますことよ」
こうして孝輔を煽るのに利用している節がある。
(まったく嘆かわしい)
「まったく嘆かわしい」
「?」
高校に進学して二年目。幼馴染の恋人は年々その魅力を増していく。
追いかけられて、暴れたせいだろう。幾条かの髪の毛が張り付いた茜のうなじに、孝輔は触れるだけのキスをした。
「わっ! なに? 突然」
「まぁ、なんとなく」
「もう」
そういう茜の声音に非難の色はない。
茜は孝輔の腕の中で小さく身じろぎすると、反転して彼と向かい合う形になった。そのまま彼の背中に腕を、
彼の腰に脚を巻きつかせると、肌の隙間を全て埋めるようにしてしがみ付いた。
「ふふふ。ねぇ」
「ん?」
「これだと家の中でも暑いよ。どうする?」
茜は更に全身をくまなくまとわりつかせる。それから、クスリと細めた目で、色気を絡ませた眼差しを孝輔に送った。
(まったくもって嘆かわしい)
「いつの間にお前は、そんな小悪魔エロっ娘キャラに」
「へへへ。責任とってね、孝ちゃん」
女の子の方が早熟である。そんな提言は自分たちには当てはまらないと思っていたのに。
孝輔はトロンと艶っぽい瞳に、熱を逃がすためか軽く開いた唇に、汗の筋をぬめらせる頬に、
視線をさまよわせながら喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
あんな天然で、泣き虫で、すぐ転んで、寝ぼけた子犬みたいで、いつもほわほわしていたくせに。
「あついよ、孝ちゃん」
「お前のせいだろ」
「へへ」
茜は猫が甘えるように自分と孝輔の髪をすり合わせると、彼の鼻の頭をペロンと舐めた。
「しょっぱい」
「この変態」
「――――孝ちゃん」
「なんだよ?」
「孝ちゃんが一緒に出かけてくれないのは私に飽きたから?」
「は?」
孝輔は唐突に向けられた不安に目を丸くする。
「ちげーよ、ばか。なんでそうなる?」
「だって」
「ん?」
「昨日も、一昨日も、今日と同じくらい暑かったけど、遊んでくれたもん」
「あのな。夏休み入って毎日毎日遊びまわってたら、そりゃそろそろネタも尽きてくんだろ普通」
孝輔は頭痛に耐えるようにこめかみを押さえてから、茜のふわふわとした手触りの髪を梳いた。
「むー。そうだけど……」
「なんですか? 何か納得できないことでも? お嬢様?」
「なんかそれって倦怠期の夫婦みたい」
不満げに頬を膨らませる茜を見て、孝輔は彼女に気づかれないよう喉の奥で笑った。
「もー、何がおかしいの?」
「いや。まぁ、確かに何だかんだで17年目だしな」
「むー。でも交際暦はまだ、……えーっと、2年だっけ?」
「そうだな。中3の初めからだから、3年目か」
告白は一応孝輔からだった。とは言っても、それ以前から幼馴染としてほとんど一緒にいたし、
茜が頻繁に告白を受けるようになってからは、いつの間にか断りの方便として孝輔が使われていたので
外堀は完璧に埋められていたわけだが。
「しかしまぁ、」
「……あ」
「とりあえず、セックスレスではないな」
「もう、……孝ちゃんのバカ」
茜は太ももに押し付けられた昂ぶりを感じて、孝輔の胸板に赤らめた顔を埋めた。
孝輔は茜にキスをしようとして、しかし途中で動きを止める。
「? 孝ちゃん、どうかした?」
「しまった。ゴム、切らしたんだったな」
孝輔は形容しがたい表情で、茜と顔を見合わせる。
昨晩(正確には今日の早朝)、最後の一個を使い切った所だった。彼らも多分に漏れず学生らしく、文字通り毎日のように盛っていたりする。
「はい、コレ」
茜のスカートのポケットから出てくる、なんだかんだで見慣れた箱。
「あれ?」
「無いの分かってたから、家の買い溜め持ってきた」
茜は恥ずかしそうに頬を染めて、まるで孝輔のTシャツに潜り込むような仕草をした。
「朝、戻ってたのは、コレのためか」
「うー」
むーむーと羞恥に唸っている茜の髪をぐしゃぐしゃかき乱すと、孝輔は肩を震わせて笑った。
「そういや、母さんたちは?」
「うちのお母さんと一緒に出かけてる。夕飯も外で食べてくるから、二人で済ませといて、って」
「父さんとおじさんの分は?」
苦笑気味に尋ねた孝輔に、茜はさぁ? と首をかしげて笑った。
「ったく。――――どうする? 俺たちは?」
「うん。行ってみたいお店があるんだ」
「へー、美味いの?」
「うん。らしいよ。資金もお母さんから徴収してある」
「二人分?」
「もちろん。半分は孝ちゃんのお母さんから」
「お前、いつの間に」
へへへ、と茜は得意げに口元を持ち上げる。
「だから、今晩は外食して、ちょっとブラブラしてこよ。夜なら涼しいから良いでしょ?」
「まぁな」
そうして孝輔はふと思った。コイツ、始めからそのつもりだったんじゃ?
「ねぇ?」
孝輔は思考の海に足をかけた所で、ちょいちょいと袖を引かれて立ち戻った。
「ん?」
「その、…………しないの?」
「う」
茜に上目遣いに見つめられて、下火になっていた欲望が再燃する。分かりやすい彼の息子は
既にその頭をムクムクと持ち上げていた。
「あ。もう――――孝ちゃんのえっち」
「お前が言うな。このエロっ娘」
「うん。私も」
茜は愉しそうな声を上げて、孝輔に抱きついた。
「あー、くそ!」
なんで出掛けるつもりのヤツがコンドームもってんだよ、とかそんなツッコミを入れるのも忘れて、
孝輔は発情してウルウルと瞳を輝かせる茜に覆いかぶさった。