もうすぐ、死神の言う約束の日だ。  
やつはきっと、力なく立っているだけのぼくをせせら笑っているのだろう。笑うなら笑え、  
ぼくは非力だ。でも、マリカさまを傷付けるな。  
 
いっぽう、マリカさまは何気なく一日一日を暮らしているようで、自分が死神に命を奪われてしまうかもしれない  
という事を知っているのに、そんなの事をまるでぷいと投げ捨てるようにのほほんとしていた。  
そして、いつもの様に小さなパン屋の看板娘を健気に演じているのであった。  
今日も、空が青い。雲も白い。だけど、ぼくの心境は真っ黒だ。  
 
「姉ちゃん、今日もありがとな」  
パン屋の少年のねぎらいの言葉も、もはや聞きなれた感じ。  
本当に一日一日がすぎて行くのは早い。逃げるように、お日様は地上に隠れ夕飯の時間に。  
宿としてお邪魔しているパン工房に戻るぼくら。今日も一日お疲れ様と、オヤジさんはぼくらを労う。  
パン屋の少年からささやかな干し肉を頂き、小さな小さなディナーを取る。  
ゆっくりした時間はみんなに流れているはずなのに、ぼくにはとてつもなくびくびくした時間だけが流れる。  
 
星の降るその晩、マリカさまから話があると。人気の無い大きな木下で、二人っきりになる。  
不思議な事に、いつもの様な高飛車なマリカさまではなく、ただ一人の女の子の顔つきで、マリカさまはゆっくり話し出す。  
 
「あのね…いい?わたしの名前…。わかるよね」  
「マリカ・ハルクイン」  
随分と当たり前な事を聞きだすなあ、と思っていたぼく。しかし、予想外の答えが返ってくる。  
「うん。じゃ、ないの」  
そんなバカな。確かにマリカさまのフルネームは『マリカ・ハルクイン』のはずなのに。  
一緒に暮らして、ずっと付きっ切りのぼくが言うのに。じゃあ、いったい何?  
 
「わたしの名前は…無いの」  
何を言っているのか、すぐには理解できなかった。しかし、次の瞬間  
そのことを必死に訴えるように、マリカさまの頭からはぼくと同じようなイヌミミが生えていたのだった。  
そのイヌミミは貴いマリカさまには似合わず、まるで卑しまれる者に見えてくるのが悲しい現実だ。  
「わたしは、確かにハルクイン家に居る者だけど、わたしって本当は『居ないこと』になっているの。  
その証拠はこのイヌミミに…ほらっ!しっぽも生えてきた!解るよね」  
「…わかんないよ!!ねえ、マリカさま。ぼくに分かるように教えてよ」  
「血を重んじるハルクイン家は、わたしのような者の存在を許しません。  
わたしは、ハルクイン家の恥なんです。だから…本物のマリカがお屋敷から居なくなると  
同じように旅をさせて…。うん。わたしは大丈夫」  
 
本物のマリカさま。もしかして、街の噂で聞いた『心の病』を抱えた少女のことなのか。  
ぼくらのふるさとは、田舎だ。なのでハルクイン家は、街の誰もかもが知っている。  
だが、田舎特有の閉鎖的な空間では、噂はあっという間に広がる。  
いわんや悪い噂をや。それで、もともと居た『マリカ・ハルクイン』は  
心に病を患ったことで途中からその存在を隠され、その代わりに  
ぼくの大事なマリカさまを表向きに『マリカ・ハルクイン』としていたのだ。  
体面を重んじる悪しき伝統ゆえの悲劇か。  
 
しかし、そんなオトナのおはなしはぼくにはクソくらえ。マリカさまは、一人…。  
なのだが、徐々に人間を失いつつあるマリカさまがここに居た。  
みるみるうちに、マリカさま…もとい金髪の少女はイヌのような毛に包まれ始め、  
二本足で立っていることすらやっとの状態だ。声もだんだん人間のものを失い始め、  
もはやケモノに近づく姿は、ぼくには信じられない。しかし、これが現実。  
「心配しないで。わたしは、もともとこんないぬっころの姿だったんだから。  
元の鞘に戻ったことよね、くうん!!うん。正しいわ。だから、…わん!リツのこともよーく解る…し…」  
完璧に声がイヌそのものになっていく。  
涙で溢れるぼくの瞳には、ふっさふさの一匹のケモノ…いや、マリカさま。  
ざわわ、と風が吹き大きな木の葉を揺らし、おなじようにぼくとマリカさまの毛並みを撫でる。  
「今度は…わん!リツが…ご主人さまに…なる番よ…わ、た・・・」  
ボロを身にまとった毛並みの美しいイヌがぼくの足元に擦り寄ってきた。  
 
「…負けたね」  
後ろから小さな声がする。死神だ。月夜に照らされた彼女のワンピースは、悲しげに映る。  
自分の企みをあっけなくひっくり返されて涙目になっている死神。震える声で、ぼくに向かって抗議する。  
「ケモノになってしまうなんてずるっこじゃん!」  
「ぼ、ぼく知らないよ!!」  
昨晩のマリカさまとの一夜で、マリカさまのケモノの血が覚醒されたのだろう。  
ケモノの命は死神には自由に出来ない。もともとケモノの血が流れていたマリカさまは、  
死神の姿を薄々感じていたのかもしれない。そのことを確かめようにも、既にマリカさまは人間の言葉を操れない。  
 
だけど、ぼくにはマリカさまが何かを訴えているようにも聞こえる。  
「ねえ、わたし…どうしたらいいの?」  
「黙っとけ!」  
「これじゃあ、天上界に顔向けできないよお!!」  
「黙っとけ!」  
マリカさまの声が聞きたい。邪魔しないでよ、死神さんよ。  
今夜はぼくとマリカさま、いやこのイヌっこと静かな夜を過ごしたいんだ。  
今日のお日様が昇っている間は、元気良く店を盛り立てていたのにケモノになってしまうなんて  
なんて残酷な運命。神なんか居るのだろか。  
「死神なら居るよ」  
「黙っとけ!」  
 
 
翌朝、工房ではちょっとした騒ぎだった。マリカさまが居なくなり、  
代わりに一匹のイヌっこがいるもんだから、これをどう説明したらいいのやら。  
ぼくの周りでくるくる廻るイヌっこを指差しながら、朝っぱらから少年と口論になってしまった。  
「ワン公に食わせるエサなんか、ここにはあらへん!」  
「なんだと!この子の悪口を言うな!」  
「あんさんが勝手に連れてきて、なんやねん?」  
少年が激昂するのも無理は無いな。ぼくは、もうここから出るしかないのかな…。  
 
マリカさま、いや…イヌに変身したマリカさまは少年に擦り寄る。  
言葉で表現できない分の感謝の気持ちを少年に伝えているつもりだろう。もういいよ、マリカさま。  
これからはリツがご主人さまになるんだって、あの言葉が蘇る。さあ、命令だ。  
「マリカ!やめ!!」  
素直にマリカはぼくの声に従い、ぼくの元へ戻った。  
 
「ごめんよ、ぼく…」  
マリカさまの毛を優しく撫でながら、整えてやる。女の子なんだから、このくらいは気を使おうね。  
マリカさまも心なしか寂しそうに見える。さて、そろそろお暇するかと思った矢先の事、  
ぼくらの足元に干し肉が飛んできた。  
 
「…これはな、別にあんさんたちに、くれてやろうって投げつけたんやないんやからな!  
べ、別にワン公なんか…す、好っきゃないんやから!!」  
商人は嫌いだ。みんなウソツキだから。  
 
少年とオヤジさんに深い感謝をして、ぼくらは再び旅へ。  
すると、どこかで見たことのある人間が、街の中を通りかかる。  
どこかで見たことがあるはず、うん。でも、こんなにみすぼらしく情けないヤツは  
覚えが無い。コイツは誰なんだ。  
「お久しぶりですね」  
「アンタ誰?」  
「お忘れですか?以前、馬車で揺られて…」  
アイツだ。行商人の『アキ』だ。  
いくらか前に、旅の途中に馬車に乗せてもらい一晩寝床を貸してもらった商人だ。  
しかし、この日の彼は商人の姿さえもしていない。やせ細って、苦労ばかりして疲れ果てた  
名もなき戦士のよう。初めてあった時のようなぎらつきも無い。  
「マリカさまのおっしゃるとおりでした。わたくしが悪うございました」  
「何があったんですか?アキさん」  
「実は、あずき相場に手を出しまして…。目論見どおりに行かず、このありさま。  
今日の食い扶持もないんっすよ。せめて一握りの銀貨でもあれば…」  
 
ぼくは、今まで溜めた金貨、銀貨の多くをアキに差し出した。  
その時のアキのまん丸とした目は、心からの感謝に違いなかっただろう。  
「えええ!?いいんっすか?でも、こんなにあっしは頂けねえ」  
「イヌは恩を一生忘れないって、遠い東の国の言葉にあります。  
これは、ぼくとここに居るマリカさまの気持ちです」  
「マリカさまは…ここに居ないみたいだけど…兎に角、かたじけない!」  
アキは美しい金貨、銀貨の音をさせながら深々とお辞儀をしている。  
もういいや、何もかも振り乱してやれ。  
 
さあ、帰ろう。ぼくらのふるさとに。  
アキもパン屋の少年もオヤジも二度と会わないかもしれないけども、ぼくらはけっして忘れないだろう。  
これからどうするかって、ぼくの小さな頭で考えても時間の無駄。  
あとはなんとかなる、マリカさまの口癖だったな。  
もはや、マリカさまの事をとやかく言うヤツらはいないだろう。ハルクイン家には未練は無い。  
ふるさとの街で小さな部屋でも借りて、一緒にずっとずっと暮らしていこう。  
これは、ぼくらからのマリカさまへの命令だよ。  
 
 
おしまい。  
 

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