「雪恵さん、ひとつ、この孫を男にしてやっておくれでないかね?」  
爽やかな朝、湯気の出る食卓を囲んで食事をしている最中のこと。  
不肖の祖母が言った言葉に、僕は盛大に味噌汁を噴いた。  
 
 
雪恵さんというのは、うちの家で女中をしている妙齢の女性だ。  
名前の通り、雪のように色が白く、すらりとしている。  
落ち着いた色の和服に白い前掛けの似合う、華奢で美しい人だ。  
女中にしておくにはもったいなくて、むしろ老舗旅館の若女将の方がぴったりくるくらいなのに。  
なんで、うちなんかで働いているのだろう。  
僕の家は、いちおう近隣では名家ということになっている柿崎家だ。  
本家は少し離れた所にあり、現柿崎家当主の大伯父はそれなりに大きな会社の経営者だ。  
祖父も父も兄も、その会社で働いている。  
いや、前の二人については「働いていた」と言うべきか。  
祖父は僕の生まれる前に、父は僕が10歳のときに亡くなっている。  
兄は仕事の関係で今アメリカに住んでいて、こちらにはたまにしか帰ってこない。  
現在、家に住んでいる柿崎の人間は祖母の菊子、母の千鶴子、そして僕の3人だ。  
あ、僕の名前は大二郎といいます。高校3年です。  
その他のメンバーは、下働きのトキ江婆さんと、さっき言った雪恵さん。  
恐ろしいことに女性全員が未亡人で、男は僕一人だけ。  
しかも僕は一番年下なものだから、特に祖母にはいいように扱われ、からかいの種にされている。  
小さな頃からそうだったから、身体が大きくなっても祖母にはかなわないという刷り込みがされてしまっている。  
絶対に勝てない相手だから、たまに「ババア」と呼んで溜飲を下げるだけの情けない始末だ。  
10歳年上の兄は、そんな扱いを受けていなかったというのに、なぜ僕だけこうなんだろう。  
おだてられるのは電球を替える時とか漬物石を持ち上げる時とかだけで、それ以外はみそっかす扱いだ。  
兄は頭が良くて男前だったから、祖母も遠慮したのだろうか?  
その割には「周一郎は私の若い頃にそっくりだ」とことあるごとに吹聴していたように思うが…。  
男の子は母親に似て女の子は父親に似るのだから、周一郎兄さんは母方の祖父似なんじゃない?と正論を言ったら頭をはたかれた。  
そんな風にすぐに手や言葉で攻撃を仕掛けてくる祖母だが、母はこの人とものすごくうまくやっている。  
おっとりとした人で、やかましい祖母とは正反対の性格なのに。  
嫁姑争いなんてのも見たことないから、人間の相性っていうのはよく分からないものだと思う。  
祖母の言いなりになっているようで、時たま自分の意見をちゃっかりと通すところもあり、母もなかなかやるらしい。  
ただ、僕が祖母にやられっぱなしなのを見ても、苦笑するだけで味方にはなってくれないのだが…。  
トキ江婆さんはもう40年以上もうちで下働きをしている筋金入りの使用人だ。  
婆さんとはいっても、本当は祖母よりいくつか若いのだが、それを言うとまた祖母の雷が落ちる。  
手も顔もしわしわだが、とっても料理が上手くて、敷地の片隅で栽培している野菜の世話も見事なものだ。  
ずっと通いだったが、旦那さんを亡くしてからは二人で住んでいた家を引き払い、うちに住み込みでやって来たらしい。  
 
雪恵さんがうちに来たのは、2年前の寒い日のことだった。  
祖母が知り合いからの紹介だという触れ込みで彼女を連れてきたとき、僕は一目で恋をしてしまった。  
男の子は必ず年上の女性に惹かれるという言葉があったような気がするが、まさにそれを地でいってしまったってわけ。  
学校近くの文房具店で懐紙や何かを買ってくるように祖母に言われ、下校時にお使いをすることがある。  
買ってきた物を帰宅して雪恵さんに渡すわけだが、毎回ドキドキして、今でもまともに顔を見ることができない。  
すれ違った後の後姿や、家事をしている時の姿を見ることならできるんだけど。  
雪恵さんは僕より5歳年上だから、今年は23歳になるはずだ。  
素性はあまり詳しく説明されなかったが、若いのに未亡人だということで、我が家には温かく迎え入れられた。  
女中経験が無いということで、最初は小さな失敗もしていたようだが、そのうち段々と慣れていったようだ。  
子供の出来なかったトキ江婆さんには、実の娘のように世話を焼かれているのがおかしい。  
随分遅くにできた娘さんだと皆にからかわれ、婆さんは顔をくしゃくしゃにして笑っていた。  
兄が家にいた頃は、二人が並ぶとまさに美男美女で絵になったものだった。  
雪恵さんも、僕のことは「坊ちゃま」と呼ぶくせに、兄さんのことは「周一郎様」と名前で呼んでいたし。  
 
二人がいい仲にならないかとハラハラしたが、兄はアメリカで出合った女性とあっさり結婚してしまった。  
ライバルが消えてくれたと僕は喜んだが、兄嫁になった綾乃さんも結構な美人で、やはりいい男にはいい女がつくのかと思った。  
僕は雪恵さんよりも年下だしまだ学生だし、はっきり言って格下だ。  
兄と比べると顔も成績もうんとダメな方だから、雪恵さんとどうにかなりたいという気持ちはあっても、願望だけで終ると思っていたのに。  
 
味噌汁まみれになったシャツを着替えて学校へ行って、帰宅してから改めて祖母に文句を言った。  
「あら、あたしが何か妙なことを言ったかい?」  
いつものようにとぼけられ、ヤツの狙い通りに僕は逆上する。  
「思いっきり妙なことだよ!あんなことを言って、雪恵さんに失礼だと思わないのかよ!」  
言い終わって肩で息をするが、祖母はあっけらかんとしているだけなのがまた頭にくる。  
「あたしは親切心で言ってやったのさ。お前、雪恵さんに憧れているんだろう?  
じゃなきゃ、あんな雑誌をベッドの下に隠しているわけがないものねぇ」  
「なにっ?」  
「随分と薄着の女が何人か写真で出ていたねぇ。『年上美人』だったかね?本の題名は」  
「うわあっ!それ以上言うな!」  
雪恵さんに聞こえたらどうするんだ。  
「この家には年上の美人があと3人いるが、あれに載っていたのはせいぜい三十路手前の女ばかりだった。  
大二郎、私の推理は間違っているかい?」  
思い切り目が笑った顔でのぞき込まれて、僕はバカみたいにうろたえた。  
「あ、あ、あんたなんか年上であっても美人じゃないじゃないか!」  
出てきたのはこんな言葉だけだというのが情けない。  
周一郎兄さんなら、ババアが黙るようなもっと気の効いたことが言えるのだろうけど。  
「おや、失礼なことを。あたしだって昔はちょっとしたもんだったんだよ」  
「そんな大昔のこと知らないって言ってるだろう、とにかくもうこの話はやめにするっ!  
二度と、あんなことを僕にも雪恵さんにも言わないでくれ!」  
圧倒的に形勢が不利なのを感じ取った僕は、それだけ言って祖母の部屋をあとにした。  
ちくしょう、あのババア。  
当っているだけに何にも反論できなかったじゃないか。  
これ以上何か言われないうちに、あの雑誌は処分してしまおう。  
……載っていたのは洋服の女性ばかりで、僕好みの和服美人はいなかったし。  
 
夕食の時間になっても、給仕をしてくれる雪恵さんの顔をまともに見ることができなかった。  
俯いて黙々と食べて、さっさとごちそうさまをして自分の部屋に戻る。  
勉強をする気にもなれず、ベッドに足を投げ出して座って今朝のことを考えた。  
無神経な祖母のせいで僕の淡い想いは台無しだ。  
旦那さんを亡くして、今なお喪に服すように静かにしている人にあんなことを言うなんて。  
それに、僕にだって失礼だ。  
いくら僕が彼女いない歴=年齢の、さえない高校生だからって。  
そりゃあ、雪恵さんが僕と一晩…なんてことになったら嬉しいけどさ、憧れの人だから。  
きっちり着込んだ着物を脱がせて、髪をほどいてあげて、そして……。  
初めての時はやっぱりベッドよりも布団の方がいいな、その方が雪恵さんのイメージに合う。  
なのに全く、今日は厄日だとぶつぶつ独り言を言いながら、僕はいつしか眠ってしまっていた。  
 
 
「坊ちゃま」  
まどろみの中、呼びかけられて意識が覚醒した。  
僕をこんな風に呼ぶのは一人しかいない。  
ババアも母も大二郎と呼び捨てにするし、トキ江婆さんは「二郎様」って呼ぶし。  
目を開けた僕の目に映ったのは、さっきまで考えていた雪恵さんその人だった。  
「へっ?」  
起き抜けのものすごく間抜けな声で返事をしてしまい、あわててしまう。  
雪恵さんがなんでここにいるんだろう。  
「どうしたの、何か用?」  
大急ぎで身体を起こして尋ねる。  
雪恵さんは、心なしかいつもより顔色が青白いように思われた。  
「…夜伽をしに参りました」  
小さな小さな声で呟かれた言葉に、僕は一気にパニックになった。  
「よ、夜伽!?」  
「はい」  
 
雪恵さんが頷き、きっちり締めてあった帯に手をかける。  
シュルシュルと音を立て、彼女の胴に巻き付いていたそれがただの細長い布になるのを呆然と見つめた。  
ちょっと、ちょっと待って。お願いだから待って!  
この展開は余りに不自然すぎる、きっと夢の中の出来事なんだ。  
雪恵さんを止めようとした手で自分の頬を思い切り引っ張ってみる。  
飛び上がるほどの痛みに、これは夢ではなく現実だということを知り呆然となった。  
 
頬を引っ張ったままの姿で固まっている僕に、雪恵さんが静かに言った。  
「ご遠慮なさらないで下さいまし。大奥様がお命じになったことですから…」  
きっちりと合わされた胸元に手をかけて開きながら、さらに雪恵さんが言う。  
「こちらに…置いていただく為ならば、私は…構いません」  
震えながら苦しそうに言われて、僕の胸はギュッと押し潰されたように痛んだ。  
「僕のことを好きじゃないのに、相手をしてくれるって言ってるの?」  
「え…」  
雪恵さんが言葉をなくし、暗にそうであることを認めた。  
何だよ、それ。  
ババアに言われたから、僕とそういう事をするってことなのか?  
いくらなんでもそれは僕のことを馬鹿にしているよ。  
童貞には童貞のプライドってものがある。  
「僕は、嫌がってる女の人を無理にどうこうしようなんて思わないよ。雪恵さん、さっさと服を直してよ」  
精一杯の虚勢をはって言うと、雪恵さんは驚いたように目を見開いた。  
「あの…」  
「僕を好きになってくれたのならともかく、そうじゃないのにババアの言うことなんて聞く必要は無いよ。  
初めては、僕のことを好きになってくれた人とするって決めてるんだ。ガキのたわ言だと笑うなら笑っていいよ」  
相手をしてもらえと下半身が悪魔のささやきをしてくるが、そんなものは無視だ。  
いくら雪恵さんが美人でも、今そういう関係になってしまうのは何か違う。  
ここで誘惑に負けてしまえば、何か大切なものを失うと直感した。  
 
「いいえ!大奥様のお申し付けですから」  
しかし、ホッとして服を直すかと思いきや、雪恵さんは食い下がってきた。  
祖母が戯れに言ったことを、こんなに真剣に受け止めていたのだろうか?  
「私は構いません、構いませんから…」  
ベッドに座り、雪恵さんは僕の方に向けて身体をもたせ掛けて来た。  
でも体も声も震えていて、とても大丈夫だとは思えない。  
「ダメだったら、ダメだよ!」  
僕は声を裏返らせながら言って、雪恵さんを押しのけた。  
ザリガニみたいに後ろに飛びのき、距離を取って説得する。  
「僕とどうこうならないからって、追い出したりなんかしないったら。雪恵さんは僕よりよっぽどうちに馴染んでいるもの。  
トキ江さんも実の娘みたいに可愛がってるし、雪恵さんをどうこうしたら僕のほうが追い出される」  
手を変え品を変え、どうにか思い直してくれるように言葉を重ねた。  
雪恵さんが考え込むように動きを止めたのを見て、ベッドの上掛けを引っつかんで彼女に被せる。  
白い襦袢と、それに勝るとも劣らない白い胸元が隠れたのを見て、僕はようやく一息つくことができた。  
 
十分に距離を取って、ベッドの端に座る。  
上掛けをかぶったままの肩がひくひくと上下しているのを見て、いたわしくなった。  
「…坊ちゃま、申し訳ございませんでした」  
ようやく紡ぎだされた小さな声は、やはり震えていた。  
さっきの雪恵さんの様子は尋常ではなかった。  
物静かなこの人が、いきなりあんな風に迫ってくるなんておかしい。  
「気にしてないから、雪恵さんも気にしないでいいよ」  
本当はものすごく気にしているのだが、せめてもの虚勢をはって答えた。  
「…はい」  
「雪恵さん、何か悩んでいることがあるの?」  
「え…」  
さっきこの人は、「こちらに置いて頂く為なら…」と言った。  
うち以外では働けない事情でもあるのだろうか。  
気立てがよくて美人なんだから、もっと人前に出る華やかな仕事だってできそうなものなのに。  
「僕でよかったら、聞くよ。僕でよければ、だけど」  
深刻であろう彼女の事情を、青二才の僕が受け止めきれるとは思わない。  
でも、さっき迫られてうかつにも反応してしまった下半身の熱を冷ますためにはこれしかなかった。  
 
長い沈黙の後、雪恵さんはぽつぽつと自分の身の上話を始めた。  
それなりの家に産まれ、19歳になったときに父親の独断で二周りも年の離れた男の後添いにやられたこと。  
しかしその夫は酒癖が悪く、しょっちゅう手を上げられていたこと。  
21歳になる年にご亭主が事故で急死した後は、義弟夫婦にいびられ、身一つで追い出されたこと。  
横暴な父親のいる実家にも戻れず、行く当てがなくて困っていたところをうちの祖母に拾われたこと。  
何も持たずに来たのに、身の回りのものは祖母や母のお下がりを与えてもらい、本当に感謝していること。  
雪恵さんの口から、僕が今まで全く知らなかったことが次々と明らかにされた。  
女中さんにしては綺麗で洗練されているとは思っていたが、まさかひとかどの家の出身だとは知らなかった。  
それよりも、雪恵さんが地味にしているのは、亡きご主人をしのんでだと思っていたのに、そんな事情があったとは。  
予想していたよりもはるかに重い身の上話に、僕は絶句してしまった。  
下半身の熱は早々に冷めてしまったから、こちらは予想通りであったのだけど。  
「私、こちらを出ては行く所が無いと思いつめて、あのようなことをしてしまいました。  
坊ちゃまには本当に申し訳ないことを致しました、どうかお許しください」  
雪恵さんがベッドを下り、床に座って頭を下げる。  
その姿があまりに哀れで、どうにかして守ってあげたいと思った。  
「本当に気にしてないよ。こっちこそ、祖母が変なことを言ってごめんなさい」  
僕もあわてて床に座って頭を下げた。  
そして、祖母には僕がきつく文句を言っておくからと言い含め、雪恵さんを部屋から出した。  
 
扉が閉まり、足音が遠ざかっていくのを聞きながら考える。  
雪恵さんが来たとき、本当の事情が知らされなかったのは、僕がまだ子供だからだろうか。  
兄は大人だから事実を知らされたのかもしれないと思うと、とても悔しくなった。  
それにしても雪恵さんの父親も亡夫も義弟も、揃って不届きな野郎だ。  
美人をいじめるなんて男の風上にも置けない。  
いや、人類共通の敵だと言ってもいい。  
これで、雪恵さんが男性恐怖症にでもなったらどうするんだ。  
もしかすると、もうなってしまっているかも知れないと思うと、ひどく焦った。  
その夜、僕はほとんど眠ることができなかった。  
 
明朝、祖母の部屋へ押し掛けて昨日のことの文句を言った。  
雪恵さんが思いつめてしでかしたことを話すと、さしもの祖母も言葉を失った。  
黙っている祖母に、不用意な発言をしたことを叱りつけ、もう二度と無神経なことを言っては駄目だと釘を刺した。  
初めて、この人に口で勝てたような気がする。  
「確かに、今回は私が悪かった。雪恵さんには私からも謝っておこう、お前にも済まなかった」  
素直に謝られるのにびっくりしたが、さも当然だという表情を作って受け流す。  
「雪恵さんの事情を知っていたなら、なんで昨日みたいなことを言ったんだよ」  
もう少し何か言ってやりたくて、更に言葉を続ける。  
「もう2年も経つから、そろそろ傷も癒えたかと思っていたんだが。浅はかだったようだね」  
きっと、たった2年ぽっちでは立ち直れないくらい、深く傷ついたのに違いない。  
改めて、雪恵さんにひどいことをした奴らに対して怒りがこみ上げてきた。  
僕がもっと大人だったら、傷ついた雪恵さんを優しく包み込んであげられるのに。  
6つも年下であることに、歯噛みするほど悔しくなった。  
いや、年はこの際考えないことにしよう。  
僕がもっといい男になって、雪恵さんに好きになってもらえばいいんだ。  
あんまり自信が無いけど、雪恵さんがこのまま自分の殻に閉じこもったままでいるのは惜しいと思う。  
亡きご亭主を慕い続けているのなら振り向いてもらうのは難しいだろうけど、今回は幸いその正反対だ。  
僕のことを好きになってくれれば、いずれ自分の意思で身を任せてくれるかもしれない。  
急に黙り込んだ僕に祖母が疑わしげな視線を向けてくる中、明るい未来を無理矢理思い描いた。  
 
〔続く〕  
 

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