両親が煩くいうので顔を出しただけよ。と春原乃理歌は缶コーヒーに口をつける。
ガードレールの曲がった白に腰を預けて、夏の夜でも熱い缶を手放さない。
乃理歌は相も変わらず砂糖たっぷりの熱い缶コーヒーを愛しているらしい。
ちいさくふくらんだ唇に缶の縁を挟み、喉を鳴らす。
「へえ」
私はなんということもない返答をした。
乃理歌は視線をちらりと揺らし、私を見上げた。
「いつものことで申し訳ないわ。デリカシーがなかったのね」
「謝ることじゃあないよ」
こちらの口調に乃理歌が笑った。
真っ直ぐな髪が肩を撫でて揺れる。
両親が早逝し、祖父の面倒を見ているのは確かだがこれくらいのことは本当になんでもないのだ。
とはいえ面白くもなんともなかった。
アパート裏の狭い通りは街灯も老齢なのか。
薄暗い明かりの下でも月明かりは鮮烈だった。
乃理歌は両親が健在だ。
大学進学を機に関東に出た彼女はほとんど帰省をせず、
地元で働く私と顔をあわせることも少なかった。
あれから十年以上の時が経つ。
仲が良かった方か、といえばそんなこともなかった。
一般的な幼馴染みというのは、果たして中学高校と歳を重ねても仲が良いものなのだろうか?
異性同士でしかも女性が年上であった私たちのような場合はどうなのだろうか。
少なくとも私と乃理歌はいつまでも親密というわけにはいかなかった。
というか中学の頃、猥褻な書籍を発見されて以来絶縁宣言をされたのである。
高校になっても「おはよう」「さよなら」「私東京の大学に行くから、それじゃ」以外の会話を交わしていない。
気難しやの高嶺の花な先輩は十数年かけてようやく、
家の裏手でお茶をすることを承諾してくれるくらいに軟化した。
「和義もお酒ばかり飲んでは駄目よ」
「このうえ禁酒ではやっていられないんでね。それは無理な命令だよ乃理歌さん」
「あら」
大人ぶっちゃって、と眼が細められる。
「身体は大事にしなさいよ。資本でしょう」
「そっちこそ、さっきから姉さんぶってら」
鼻を鳴らす。
街灯に当たっては火花を散らして羽虫がバチリバチリと止め処なく死んでいた。
アパートの三階では親戚同士の宴会なのか賑やかな笑い声が網戸越しにも響いていた。
少年の頃、遠目に眺めた面影を宿したままで乃理歌は静かに傍にいた。
なんとはなしに居心地が悪かった。
「もう。気遣ってくれる女性くらいいるでしょ?悲しませてはいけないわよ」
黙って隣でポカリの空き缶を転がしては去っていった彼女達をほんのひと時回想する。
結婚相手に将来手のかかりそうな老人つきは向かない。
愛だの恋だのパートナーだのと言っていても結局それが現実だ。
深い溜息が漏れる。
汗ばんだ手のひらは、あっという間に冷えたアルミも温くした。
「……今はいないよ。いたら紹介してほしいよ」
「そうなの。意外ね」
「うん。誰かいないかな」
「紹介なんてできないわ。そんな奇特な女性は私くらいのものでしょ?」
肘に軽く触れた手は、缶コーヒーで温められてじわりと熱かった。
すべるようにして手首を握る指先がやわらかい。
薄ら明かりの街灯と響く笑い声。
コオロギのなくお盆の満月が、彼女を伴わずに何度私を通り過ぎていっただろう。
「乃理歌さん、さ」
「なあに?」
「結 婚 焦 っ て る ん だ ね ・ ・ ・」
――クールなようで無感動なようで口数少ない一見高嶺の花の春原先輩。
そんなの全て嘘っぱちだ。
私、いや俺だけがずっと知っていた秘密なのだから。
案の定斜に構えた表情をがらりと捨てて彼女は私を睨み上げた。
懐かしい表情だった。
「うっるさいわね!」
これでこそ乃理歌さんだなあと私はようやくにして楽しくなり心から笑った。