「うわぁー!あっちゃ行け!」
日羽子(ひわこ)は腕を振り回し懸命に反撃する。
だが、その大きな蛾は日羽子から離れずに、頭の周りをブンブン飛び回った。
「ひぇええっ、嫌なのだっ、こっち来ちゃ嫌ッ!」
大きな目をパニックでさらに大きく見開きながら、日羽子はたまらずに蔵の出口へと走った。
薄暗い蔵の外は秋晴れに照らされて白く眩しい。
転がり出た硬い土の地面の向こうには巨大な屋敷と日本庭園が広がっていた。
「たすけて〜〜!」
ぎゃあぎゃあ叫びながらら猛ダッシュで倉から逃げる日羽子に、外で箒をかけていた男が呆れたような冷たい視線を送る。
「ありゃあ大丈夫なんでしょうか?」
男が隣で書物を日干ししている老人にポツリと訊くと、
「お前、あれが大丈夫に見えるか?」とそっけなく返された。
男は思わず言葉に詰まるが、いいえ、と力なく溢した。
玉置日羽子は、歴代巫女の中でもぶっちぎりの霊力の低さと、子どもじみた性格を持つ少女だった。
恐ろしくドジで、「大事な壷だから丁寧に扱え」と念を押しても数秒後には見事にズッコケて割っている。
清めの塩と香油を間違え辺り一面を火の海にする。
式神の封じられた呪符を何故か古紙回収に出してしまう。
その割に容姿だけは無駄に優れていて、くりくりした大きな瞳と小さな口が絶妙なバランスで配置された小さな顔は「ムダに美少女」として近辺でも有名だった。
淡い茶色のねこっ毛のボブと細い体から、どこか子リスのような愛嬌も感じる。
田舎育ちとは思えないほど洗練されたスレンダーボディだが、中身が中身だけに異性にモテるという噂は聞かない。
「あの娘で本当に豺払い(やまいぬばらい)の儀ができるのか…」
箒の男はため息をついた。彼は日羽子の祖父、傍らの老人の弟子だ。
二人とも紺のかすりの作務衣を着、一見山奥の陶芸家といった風だ。
玉置の爺は腰を伸ばし大きく伸びをする。
小柄で腰も曲がっているがいかにも頑固そうな面構えの元気なお爺さんだ。
目の前の蓙には何時の時代に書かれたか判らぬような古い巻物や書物が並ぶ。
お爺さんは伸びをしたまま言った。
「あれも腐っても巫女だ。それに、豺も現在はもう弱い。なるようになるじゃろ」
そんな無責任な、と男は老人を見返す。
でも確かに、我々がどう気を揉んだところで儀を執り行なえる巫女は日羽子一人だ。
なるようになるのを横で見守っているしかない。
都内の田舎。辺りに山と川しかないこの村に玉置の屋敷はある。
代々妖魔を払うことを生業とする玉置の一族は、ここまで科学が発達した現在も割りと商売繁盛していた。
不可思議な都市伝説に代表されるように、冷たいコンクリートジャングルにも妖魔は生息しているのだ。
それを払い清めるのが玉置の“巫女”なのだが、現巫女である日羽子のダメっぷりは前記とおり、凄まじかった。
それでも奇跡的に、今までは無事に仕事の依頼もこなせていた。
相手になった妖魔が運良く弱小の三下ばかりだったのだ。塩をひと摘みパラリとかけて終了である。
一応、清めの塩は霊力を練られた物だし、お払いには特殊な呪文も必要なので素人が簡単に真似できるものではない。
それでもかろうじて日羽子にも遂行可能なレベルのお仕事だった。
それが、来週には豺払いという一大イベントを敢行しなければならない。
これは玉置の家が代々つとめる封印の儀式で、村にそびえる方図之山(かたずのやま)に眠る魔物の封を毎年きつく締め直すのだ。
失敗すれば日羽子自身も大怪我をするかもしれないし、玉置の信頼も威信も地に落ちるだろう。
そうなりゃおまんまの食い上げである。困る。