夕方といえども残暑は未だ厳しい。自室に行き、エアコンをつけて部屋を出る。
洗面所に向かい冷水で顔を洗う。止まると汗が噴出してくるから、極力動き続けるのだ。
三科悟(みしなさとる)は冷蔵庫から牛乳を取り出し、直接口をつけて一気に飲みほした。
「ふぅーっ! 生き返るな」
キンキンに冷えた牛乳が身体に染み渡っていく。
パックを簡単に水洗いしてから流しに置き、再び自室へ。そろそろ部屋の温度が下がり始めた頃だろう。
ベッドに座って汗が染み付いたYシャツを脱ぎ、タオルで身体を拭う。
(今日はシャワーを浴びれそうだな)
そう思った瞬間、玄関が開く音がした。
「間に合わなかったか……」
悟は苦笑した。この来訪者は、シャワーを浴びることを許してくれない。
というか、部屋を出ることを許してくれない。
静かに悟の部屋のドアが開いた。侵入してくるのは、制服姿の少女。
無言のまま上がりこんで来たが、当然ながらこの家の住人ではない。
星川愛莉(ほしかわえり)。
悟の幼馴染兼恋人である。
少女の顔に浮かんでいるのは満面の笑み。
相当いいことがあったに違いない、とは思わない。
「ただいま」
「ここはお前の家じゃない」
いつもの挨拶に定型句で返す。いつものようにサッと変わる表情。膨らむ愛莉の唇。
「あつーーい」
「このクソ暑いのにブレザーまで着てりゃ、当然だな」
「っ! いちいちうるさいっ! ばか悟!」
キッと睨みつけながら、ブレザーを脱ぐ愛莉。
こいつがこんなに表情を変えるのも、「ばか」という言葉を発するのも、"ここ"でだけ。
愛莉はここ以外ではまさに別人なのだ。
県内でも有数の進学校である我が校にあって、定期テストの成績は学年トップ3を逃したことが無い。
2年生の現在、生徒会副会長であり近々行なわれる選挙により会長に就任することが確実視されている。
基本的にはきちんとしているが抜くときは抜く、所謂話が分かるタイプのため、突っ張った連中からも好意的に見られている。
そして、きわめつけはその容姿だ。
身長は160センチ半ばだが、手足がすらっと長く170近くあるように見える。
胸元まで届こうかという長い黒髪は艶やかだ。
たまご形の顔は、切れ長で大きな瞳をはじめ各パーツが絶妙のバランスで彩っている。
男女問わず愛莉は抜群の人気を誇る。
常に冷静沈着だが、時折見せる笑顔とのギャップが人気の秘訣らしい。
ちなみに愛莉は運動神経も抜群だ。しかし愛莉は部活には入らない。
何故入らないのか、という問いに対する彼女の答えを聞いたときには、愛しさのあまり襲ってしまったっけ……。
魅力に溢れたこの幼馴染は、こうして毎日のように部屋にやってくる。
そうなったのは、高校に入ってから。
小学校中学年からそこまでの期間は、幼馴染とはいえ少し距離が開いていた。
なぜその距離が今のように詰まったのかはわからない。
悟はずっと愛莉に惚れていた。
だからそうなったのは愛莉の方も好きになってくれたからなのだろうけど、その理由は知らない。
訊いても"ここ"での愛莉はわがまま過ぎて、相手をしてくれないのだ。
「待ってろ。タオル持って来てやるから」
言って部屋を出て行こうとしたが、滑らかな動きで進路をふさがれた。
「いい。タオルあるじゃない」
「それは俺が使ったやつだ」
年頃の女の子が男の使用済み汗拭きタオルなど使いたがるわけがないのだが。
「それでいいの!」
強い口調で言う。でも、声には微かに甘えの色が混じっている。
「こっち……見ないでよ?」
紅くなった頬。暑さのせいだけとは思えない。
悟に背を向け、胸元から手を入れて身体を拭う愛莉。
シャツから透けて見える、白い肌。下着。
もう何度か"その奥"も見ているというのに、悟の心臓が大暴れをはじめる。
吹き飛びそうな理性を抑えるために、悟は机に手を伸ばす。
昨夜から読み始めた小説。一心不乱に文字を追う。
内容など入ってくるわけが無かった。それでも読み続けた。
「悟……? 悟ってばぁ!」
作業を終えた愛莉が呼んでいる。
耳を貸してはダメだ。
「……なんだよ」
分かっていてもできやしない。
「ちゃんとこっち見て!」
ほんの2分前に見るなと言っておきながらこの態度はどうなのよ。
見るな。見るな。せめてもの抵抗だ。
「見ないなら……」
思わせぶりな愛莉の言葉。でも、悟はどうすることもできない。
それは期待しているからに他ならない。
本能には抗えない。
そして愛莉は、期待通り抱きついてきた。
悟の真横から。
「んーっ! 悟の匂いだぁ」
すぐ近くにある幼馴染の顔。無意識に投げ出される小説。
「俺、汗臭いぞ?」
「平気だよ。悟のだもん」
そういってヒクヒク鼻を動かす。
小動物かっての。
……可愛すぎるっての。
「悟こそ、嫌じゃない……?」
恐る恐るといった感じで愛莉が言う。
この状況で、嫌なことなどあるはずも無いのに何だというのか。
「わたし、汗臭くない……?」
気にしていたのか。悟は意地の悪い笑みを浮かべながら大げさに匂いをかいでやる。
「ぁ、いやっ!」
嫌といいながらも離れようとしない。
無言のまま目だけで訊いてくる、どうしようもなく愛しい少女。
「お前と一緒。愛莉のだから平気」
「良かったぁ。今日スプレー忘れちゃったからどうしようかと思ってたんだ」
陽の光を待ち望んでいた花の様に、笑顔が広がる。
悟の言葉は決して嘘ではなかった。
サラッとというのか、サッパリというのか、清涼感のある匂い。
微かに甘さすら感じたような気がするのは、さすがに贔屓目かな。
「わざわざブレザー着てきた甲斐があったなっ」
クスクスと愛莉が笑う。
「ねぇ、どうしてわたしがブレザー着てきたかわかる?」
分かるわけがなかった。悟は首を横に振った。
"ここ"での愛莉がいくら無邪気で表情豊かでも、悟とでは頭の出来が違いすぎた。
思わせぶりな間を空けてから、愛莉は口を開いた。
「悟以外に、見せたくなかったから」
「何を」かは、さすがにすぐ分かった。ついさっき、目を奪われたものだから。
生徒副会長として身だしなみもちゃんとしようとしているのか、程度にしか思ってなかった。
といってもまだ9月の頭だからブレザーの着用は義務付けられていないが。
「そんな理由で着てたってのかよ」
必死に呆れの色を声に出して言う。内心は嬉しくてしょうがない。
「だって、嫌なんだもん。……しょうがないじゃない」
潤んだ瞳で睨むな。
どう見ても上目遣いにしかなってない。
もう、限界だ。
愛莉をシーツの海にそっと寝かせ、一番上のボタンに手を掛ける。
「愛莉……いいよな?」
結局今日も、悟の理性は陥落した。
「いいよ……。悟、だから」
ふんわりとした笑顔で愛莉が言う。また一つ、悟の心臓がギヤを上げる。
震える手でボタンを外す。何度したら震えなくなってくれるんだろう。
顕わになった素肌。
平素は真っ白なそれが、すでに朱色に染まっている。
汗に塗れてもスベスベで柔らかい。
そっと首筋に口付ける―――直前に愛莉に止められた。
「どした?」
荒い息遣い。悟と同じ。
愛莉もすでに、愛欲の渦に取り込まれている。
悟の右手を取り、人差し指に口付けた。
「先にこっちに、してくれなきゃイヤ……」
小さくてピンク色の艶やかな唇。微かに湿っていた。
男としての余裕など見せられない。
ただ、溺れていくだけ。
この一見遠くて物凄く近い、気ままなようで寂しがり屋な、クールなようで甘えん坊な、最愛の幼馴染に。
二人の吐息と香りが染み付いた、この部屋で。