第2話 前編  
 
 洗い終わった二十五枚目の皿を拭いて、水気切り用のカゴに入れておく。  
 ルクは左手で額を拭うような仕草をして、布巾を置いた。疲れを感じるようには作られ  
ていないが、疲れたような気がする。さほど深い意味はない。  
 お昼に使われた食器はこれで終了だった。  
 
「お皿洗い終わりましタ」  
 
 街外れにある食堂。  
 ただ居候しつつ家事を手伝うだけでは悪いと考え、ルクはサジムに仕事をしたいと頼ん  
だ。その数日後、紹介されたのがここである。木蓮亭という街の一角にある小さな食堂  
兼酒場で、サジムの行き付けらしい。  
 
「しばらくお客さんも来ないし、そろそろお昼にしようか?」  
 
 店のおかみさんであるカラサの声がする。  
 
「はイ、今行きマス」  
 
 ルクは布巾を置いてから、そちらに歩き出した。  
 さすがに、人型スライムのまま出歩くわけにはいかないので、簡単な魔術で人間の姿  
を真似していた。赤い髪の少女という外見で、白いシャツに緑色のスカートというと格好  
である。服は自分の身体を変形させたものだった。  
 
 今は店から渡された白い割烹着を着て、三角巾を頭に巻いている。  
 カラサたちには、サジムの遠縁の親戚で身寄りが無くなったので一緒に暮らしていると  
説明していた。言葉が拙いのは、故郷の方言だと誤魔化している。サジムの説明が上手  
かったのか、今のところ特に怪しまれてもいない。  
 
「ルクちゃんは仕事早いねぇ。手付きも慣れてるし手際もいいし、料理も掃除も上手だし。  
本当に言いお嫁さんになるよぉ」  
 
 ナカン・カラサ。白い割烹着を着た五十歳ほどのやや恰幅のいい女性である。笑顔の  
似合う明るい人というのが、ルクの感想だった。  
 さほど広くない店内にはテーブルが五つ置かれている。その一番奥――厨房のすぐ隣  
にカラサが着いていた。テーブルには簡単なまかない料理が置かれている。店のドアに  
は準備中の札が掛けられているので、客は入ってこない。  
 
「ありがトうございマス」  
 
 一度頭を下げてから、ルクは椅子に座った。頭の三角巾を取り、きれいに畳んでテー  
ブルに置いてから、テーブルの上に並んだ料理をじっと見つめる。  
 
 パンが三枚と残り物の肉と野菜と魚を煮込んだホワイトシチュー、ガラスのコップと水  
差し。残り物とはいえ、きちんと料理してあるためかなり美味しい。ルク自身は味覚という  
概念が薄いので詳しくは分からないのだが。  
 
「またまたぁ、謙遜しちゃってぇ」  
 
 カラサがぱたぱたと手を振っている。  
 
「さ、ご飯にしましょう」  
「はイ。頂きまス」  
「いただきます」  
 
 そう口にしてから、ルクはパンをちぎって口に入れた。顎を何度も動かし噛み砕いてい  
く。固形物は消化に時間が掛かるため、出来るだけ細かくしなくてはいけない。  
 カラサが口元に手を当てた。内緒話をするように。  
 
「ところで、ルクちゃん」  
「はイ?」  
「あなた、サジムのこと好きなんでしょ?」  
 
 唐突に口にされたその言葉に。  
 ルクは沈黙を返した。むぐむぐとパンを噛みながら、緑色の瞳でカラサを見つめる。コ  
ップの水を一口飲んで、咀嚼したパンを喉の奥へと流し込んだ。  
 その反応をカラサは肯定と受け取ったらしい。  
 
「人の性格に口出しする気はないけど……。あのサジム相手にあなたの態度は感心しな  
いわねぇ。待ちの態度じゃあの朴念仁は振り向いてくれないわよ?」  
「そう、デスか?」  
 
 シチューを口に入れながら、ルクはただそう頷いた。どう返事をすればいいのかよく分  
からない。食事をしながら話を聞くのは行儀が悪いことだが、幸いにしてカラサは気にし  
ていないようである。  
 一人で話を進めるカラサ。ぴっと人差し指を立てながら、断言した。  
 
「こういう場合は既成事実が重要なのよ。既成、事実」  
「既成ジジつ……?」  
 
 ルクは曖昧に頷く。  
 
「そう、既成事実。あたなも子供じゃないんだし、意味は分かるでしょ? ただ、それを実  
行する勇気もなさそうだし、あたしが一肌脱いであげるわ」  
 
 そう言い切ってから、カラサは左右を見回した。誰もいないことを確認するように。テー  
ブルの置かれた店内はきれいに掃除されている。壁に掛けられた三枚の風景画だけが  
二人を見つめていた。店主であるトーアは仕入れに出ていて今はいない。  
 
「……旦那が帰ってくる前にね。渡しておくよ」  
 
 ドン。  
 
 と、カラサはテーブルに一本の瓶を置いた。  
 
「お酒ですカ?」  
 
 ルクは瞬きをして、その瓶を眺める。  
 無色透明な液体の詰まった透明なガラス瓶。ラベルには『情熱の白』とい銘柄と、アル  
コール注意という文字が記されていた。容量は一リットル半くらいだろう。底には何かの  
草の葉が沈んでいる。高そうなことを除けば、普通の酒にしか見えない。  
 
 しかし、カラサは得意げな表情で指を左右に振ってみせた。  
 
「ただのお酒じゃないのよ。これは北の大山脈近くの寒い街で作られるとっても強〜いお  
酒。強い割にすっきりしてて、かなり飲みやすいわ。だからこのお酒を知らない人が呑む  
と大抵量を間違えて潰れちゃうのよ」  
 
 妙に嬉しそうに説明している。茶色の瞳がきらきらと輝いていた。面白い遊びを考えつ  
いた子供のような無邪気な表情――と表現すれば聞こえはいいかもしれない。  
 にやりと悪戯っぽく表情が変化してる。  
 
「その性質を利用して、相手を酔わせてお持ち帰りするために使われることが多いわね。  
女の子が男を子をね。ついでに、ちょ〜っとエッチな気分になる薬草とかも入ってるし」  
 
「エッチな気分になる薬草ですカ?」  
「実は、そこら辺はあたしもよく知らないだけどね」  
 
 ルクの問いに気楽に笑うカラサ。何を企んでいるのかは分からない。あまり感心できる  
ことではないだろう。ルクに何をしろと言いたいのかは何となく理解した。  
 
「これ、サジムに飲ませて襲っちゃいなさい。あたしが許可するわ」  
 
 ウインクしながら、カラサは予想通りのことを口にする。妙に楽しそうに。  
 
「でもサジムさんはあんまりお酒呑みマセんよ? 寝る前に少し飲んではいますケド、お  
酒呑んでル姿はほとんど見ませんネ。飲ませられルでしょうカ?」  
 
 言いながら、ルクは前髪を手で払った。サジムと同じような赤い髪の毛。この地方では  
赤毛は珍しいらしい。髪の毛のような形というだけだった部分を、実物の髪の毛のように  
するのは大変だった。  
 ルクの思考には気づかず、カラサは続ける。瞳を輝かせながら、  
 
「あなたは知らないみたいだけど、サジムって実は物凄くお酒好きなのよ。でも、お酒買う  
お金ないから滅多に飲まないみたいだけどね。他人の奢りじゃ飲むわよ〜」  
 
 サジムが酒を飲む姿を思い出したのだろう。呆れ半分感心半分の顔を見せていた。  
 パンとシチューを食べながら、ルクは話を聞く。  
 
「それにサジム、こないだ出た新しい本が売れたって喜んでたじゃない。そのお祝いもか  
ねて、ね? これはタダで上げるから遠慮無く使っちゃいなさい。あと、今日はこれから  
帰っていいわよ。旦那にはあたしから言っておくから」  
「そういうコトなら、遠慮無く頂きマす」  
 
 ルクは酒瓶に右手を伸ばしてから。  
 ふと気になって尋ねる。  
 
「カラサさんは何故このようナお酒を持ってルのでしょうカ?」  
「女のヒミツよ」  
 
 カラサはそれだけを答えた。  
 
 
 
 
 ---------  
 
 テーブルに慣れべられた料理を見て、サジムは細く息を吐き出す。  
 
「どうしたんだ、これ?」  
 
 ご馳走と呼ぶべきだろう。  
 一体どこから持ってきたのか。高級そうなパンに、分厚い肉のソテー、香辛料の香り漂  
うスープ、細かく刻んだ唐揚げの入ったサラダ、川魚のムニエル、デザートらしきチーズ  
ケーキ。そして、酒瓶が一本。  
 極端に高いものはないだろう。しかし、経済的理由で粗食を心がけているサジムにとっ  
ては、ご馳走と呼ぶべきものだった。  
 テーブルの傍らに立ったルクを見やる。  
 
「ご主人サマの本が沢山売れタという話をカラサさんから聞いたのデ、ワタシからのお祝  
いでス。どうぞ遠慮せずにお召し上がり下さイ」  
 
 透き通った青い腕で料理を示しながら、ルクがそう言ってくる。淡泊な緑色の瞳からは、  
何を考えているのか読み取ることはできない。本が売れているのは事実だった。増版が  
掛かっていて、現在三版目である。  
 
「あと、このワンピースを買って貰ったお礼でス」  
 
 と、自分のワンピースを指差した。  
 やや高級そうな白い半袖のワンピース。腰は白い布のベルトで留めている。以前着て  
いた服装では飾り気もないため、奮発して買ったのだ。喜んでいるのか喜んでいないの  
か分からない反応が記憶に残っている。  
 さておき、サジムはテーブルに置かれた酒瓶を指差した。  
 
「これ、酒か?」  
「はイ」  
 
 頷くルク。青緑色の髪が動く  
 
「カラサさんから頂きましタ。珍しイお酒だそうデス」  
「あのカラサさんが……」  
 
 木蓮亭の女将。やたらとルクを気に入っていた記憶がある。気が合う要素は見つから  
ないのだが、相性とはそんなものだろう。  
 そう推測しながら、サジムは席に付いた。  
 
「本当にいいのか? ぼくが食べて」  
 
 ご馳走とルクを交互に見ながら、尋ねる。これらの料理の代金は、ルクのアイルバイト  
代から出したのだろう。決して安くはないはずだ。もっとも、ルクは自分で稼いだ金を自  
分の食費以外には使っていないようであるが。   
 
「どうゾ。ご主人サマに食べて貰うために用意しましタから。全部食べて下さイ。ワタシじゃ、  
こんなに食べられませんカラ」  
 
 そう言って、ルクは口元を笑みの形にしてみせる。いつも徹りのやや拙い笑み。確かに  
ここに出された料理はサジムが食べるしかないだろう。  
 ちらりと酒瓶を見てから、サジムは応じるように笑った。  
 
「ありがとう。遠慮せずに頂くよ」  
「ハい。ゆっくりと召し上がって下サイ」  
 
 ルクの言葉を聞いてから。  
 サジムはさっそく酒瓶を開けた。  
 

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