ほのかに香水の匂いが滝の方からする。  
 山を登る途中のことで、俺は少々面食らった。  
 特別鼻が利くわけではないが、そのときはなぜかその香りを鋭敏に感じとった。澄んだ  
空気に混じる花のような香りに、強い違和感を感じたせいかもしれない。  
 匂いの方へ向かうと、滝の音が強くなった。  
 人気の少ない山の中。ここに来るまで誰にも会っていない。しかし香水の匂いがすると  
いうことは人がいるということだ。  
 川が流れている。その川に沿って荒い岩肌の上を歩いていく。  
 やがて進んだ先に滝が見えた。  
 ガラスのように滑らかに水が滝壺に落ちていく。その光景に俺は思わずため息をついた。  
 水しぶきが霧雨となってこちらまで届く。冷たい霧吹がなかなか心地よく感じられ、  
俺は滝壺から広がる池に近付いた。  
 直後、水面から何かが飛び出てきた。  
「うわっ!」  
 一瞬魚か何かかと思ったが、長い黒髪と艶のある白い肌を見て、人間の、しかも女性で  
あることに気付いた。  
 女性は、裸だった。  
「ぷはっ」  
 息を宙に吐き出して、彼女は岩の淵へと手を伸ばす。  
「……」  
 目が合った。  
 互いに固まった。  
「……え?」  
 女性は大きな瞳を丸くして──それから悲鳴を上げた。  
 
「本当にごめん!」  
 俺は彼女に背を向けながら、必死に謝っていた。  
 後ろから衣擦れの音がする。渡したタオルで体を拭き終えたのだろう。服を着る音に  
俺はつい気まずくなる。  
「いえ、私の方こそごめんなさいっ! まさか他に人がいるとは思わなかったものですから」  
 彼女はひたすら恐縮した様子だった。  
「あの、もう大丈夫です」  
 彼女の言葉に緊張気味に振り返る。  
 そして俺は、彼女と相対した。  
 結構な美人だった。歳は俺より一つ二つ下だろう。整った顔の中で大きな瞳と形のよい  
唇が目を引く。後ろにまとめた黒髪はしっとりと濡れていたが、光沢を失わない健康的な  
艶を保っていた。  
 つい見とれてしまったが、彼女の怪訝な表情に慌てて口を開く。  
「あの、さっきは」  
「……見ました?」  
 不安げに問いかけてくる彼女。  
 すいません、ばっちり見てしまいました。  
「あ、その、」  
「す、すみません! 今のなしで!」  
 顔を真っ赤に染めて、彼女はうつ向いてしまった。  
「あの、ここに来るまで誰にも会わなかったので、てっきり誰もいないと思ってたんです。  
ごめんなさい本当に」  
「いや、俺的にはラッキーだったっていうか……」  
「ひゃうっ!?」  
 何、今の声。  
「へ、変なこと言わないで下さいよ」  
「わ、悪い。……ところで」  
「ひゃ、はい」  
 噛んだ。  
「なんで水の中に?」  
 尋ねると、彼女は顔を曇らせた。  
 
「……指輪を落としてしまったんです」  
「指輪?」  
「はい。大切な物だからどうしても見つけないといけなくて、それで」  
 大切な指輪。彼氏から貰ったものとかか。少し残念に思う。まあこれだけの美人なら  
彼氏くらいいて当然か。  
 滝壺から広がる池は結構広い。勢いよく落ちる滝のせいで水面には白い泡と波紋ばかりが  
広がる。  
「見つけるのが無理とは言わないが、見つけようとするのは無茶だと思うぞ」  
 俺は素直な感想を口にした。水温も低そうだし、この中から小さな指輪を探すのは骨が  
折れるだろう。  
「やっぱりそうでしょうか……」  
 しゅん、とうなだれる彼女。しかしちらちらと池に目をやる辺り、諦め切れないようだ。  
「水の中にどんな細菌がいるかもわからないし、やめた方がいい。風邪程度で済めばマシな  
方だ」  
「……」  
 彼女の視線は池から外れない。  
「また飛び込む気じゃないよな」  
「……」  
「そんなに大事な物なのか?」  
 頷く彼女。  
 俺はそれを見てため息をついた。  
 水の透明度は高い。泡と波紋が邪魔をしているだけで、水中でも一応物は見えるだろう。  
指輪を落としたと言っても奥の方ではなく、岩淵に近いところに落ちているはずだ。問題は  
深さと水温だが、それさえ気を付ければまあ──  
「わかった。俺が潜って探すよ」  
「え?」  
 彼女が目を丸くした。  
「結構運動には自信あるんだ。見つけられるかどうかはわからないけど、やるだけやってみる」  
「そんな、見ず知らずの方にそこまで迷惑かけられません」  
「俺がやりたいってだけだから。別に迷惑とかそういうんじゃない」  
 水面を見つめる彼女の目はとても深刻で、苦痛にも近い色をしていた。それを無視する  
ことなんて俺にはできなかった。美人の困り事ならなおさらだ。  
「わ、私も」  
「一回潜った後だときついと思うぞ。それよりどの辺りに落としたかわかるかな?」  
「あ、はい。この……」彼女は正面右の岩下辺りを指差す。「……辺りに落としたんです  
けど、滝のせいで水の流れがちょっと複雑で」  
 広めに探さなければならないということか。俺はシャツを脱ぎ、上半身裸になった。  
「んじゃちょっと潜ってみる」  
「……すみません」  
「いいからいいから。それより俺の荷物見ていてほしい」  
「は、はい」  
 彼女の頷きを確認して、俺は水の中に身を投じた。  
 
「はあ……はっ……」  
 予想以上の水の冷たさに、俺は悪戦苦闘した。  
 体があまりに冷えるので途中で三度岸に上がった。その甲斐あって指輪は見つけたが、  
体はすっかり冷えきってしまった。  
 体を拭いて服を着て、それでも寒くてガタガタ震える俺に、彼女がそっと寄り添う。  
「ごめんなさい、私のために……」  
 申し訳なさそうに彼女が謝ってくる。  
 寒くて痛くてそれどころじゃなかったが、俺は彼女に一言言いたくて顔を上げた。  
「俺が、やりたくてやったことだ……。そんなに謝らなくて、いい」  
「でも」  
「じゃあ、こうしよう。今からじゃ、もう登山は無理だ。一緒に山を下りて、どこか暖かい  
所に入ろう。ファミレスでも喫茶店でもいい。そのときに何かおごってくれ」  
 彼女は呆気にとられたように口をぽかんと開けた。  
「えっ、と……」  
「駄目かな?」  
 彼女はしばらく固まっていた。  
 俺はそれを見て後悔する。彼氏持ちをこんな露骨に誘うのはさすがに調子に乗りすぎたか。  
 しかし彼女は目を何度かしばたいた後、やがて嬉しそうに微笑んだ。  
「いいえ、喜んで!」  
 
 そのあと下山したはいいが、俺は体調を悪くして入院した。  
 体に入った菌が原因で白血球値が通常の二倍に増加したらしい。内臓が弱ってしばらく  
点滴のみの生活を強いられた。  
 正直かなり苦しんだが、同じように水の中に潜った彼女は体調を崩さなかったので、  
そのことは幸いだった。  
 それにいいこともあった。  
 彼女が俺を心配して、度々見舞いに来てくれたのだ。責任を感じたのかもしれないが、  
入院費まで払ってくれたので、俺は逆に恐縮した。  
 ただ彼女が、あのときの指輪を着けているのを見て、やっぱり見つけてよかったと俺は  
思った。  
 それは彼女の指には少し大きいようだったが、とても綺麗だった。  
 退院したら改めてお礼をさせて下さいと言ったので、俺はしばらく考えてから答えた。  
「じゃああのときの約束を果たしてもらおうかな」  
「約束?」  
「喫茶店。温かいものでも飲んで、ゆっくり君と話したい」  
 彼女はきょとんとなったがすぐに華やいだ笑顔を見せてくれた。  
 あのときの不思議な香りを感じさせる、花のように綺麗な笑顔だった。  
 
      ◇   ◇   ◇  
 
「じゃああなたはずっと、私に彼氏がいると勘違いをされてたんですか?」  
 彼女が呆れた調子で尋ねてくる。  
「いや、だって大切な指輪とか言われると、そりゃ彼氏からのものだと思うだろ」  
 俺は自分の指にはまっている指輪を見やる。左手薬指にはめられているそれは、二年前の  
あのとき、俺が見つけた彼女の指輪だった。  
「お祖父様の形見ですもの。大切なものです」  
「いや、確かにサイズ合ってなかったし変だとは思ったけど、普通は勘違いするぞ」  
「男の人とお付き合いしたのはあなたが初めてです」  
「で、唯一の相手になるわけだ」  
 彼女は照れたように肩をすくめた。  
「でも、本当に俺がもらってよかったのか? 大事な形見なんだろ」  
「お祖父様は『お前の大事な相手にでも贈ってやれ』って言ってました。私はあなたに  
つけていてほしいんです」  
「形見が結婚指輪になるとは、お祖父さんも思ってなかったんじゃないか」  
 そうかもしれませんね、と彼女は笑う。彼女の左手薬指には俺が贈ったダイヤの指輪が  
ある。  
 俺と彼女は険しい山道を歩いている。結婚後、初めてのデートは、二年前にできなかった  
山登りだった。場所もあのときと同じ山だ。  
「もうそろそろかな」  
 俺たちは川に沿って進む。水で滑りやすい岩肌を慎重に歩いていく。  
 しばらく進むと、ようやく見えてきた。  
 あのときと同じガラスのように滑らかな滝が、変わらずそこにあった。  
「こうして落ち着いて見ると、綺麗だな」  
「そうですね」  
 彼女が寄り添ってきた。甘い花のような香りが鼻孔をくすぐった。  
 
「あのときと同じ香水だな」  
「え?」  
 彼女が不思議そうに俺の顔を見上げた。  
「この匂いが滝の方からしたから、俺はあのときここまで来たんだ」  
 俺の言葉に彼女が驚く。  
「確かにフローラルにしては強い香りですけど……そんなに匂いました?」  
「いや、なんか違和感みたいなのがあって、それで香りに気付いた」  
「そ、そんなにたくさんつけた覚えはないんですけど……」  
 恥ずかしそうにする彼女を見て、俺は小さく笑んだ。  
「ひょっとしたらこの滝が俺たちを引き合わせてくれたのかもしれない」  
 くさい台詞だが、彼女は結構こういう言い回しに弱いのだ。だから俺はわざとそういう  
言い方を選ぶ。  
「……」  
 彼女は顔を赤くして黙った。  
 が、しばらくして何かを思い出したのか明るい表情になった。  
「確かに──私たちが一緒になったのは運命だったのかもしれませんね」  
「? なんだよ急に」  
「この香水、アマリージュって言うんですけど、どういう意味だと思います?」  
 アマリージュ。聞いたことのない単語だったので、俺は首を振った。  
「さあ……なんて意味なんだ?」  
 彼女はとても嬉しそうな顔で、答えた。  
 
 
 
「『愛と結婚』、ですよ」  
 

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