「一本っ! それまで! 勝者、大山美冬!」  
「押忍っ!」  
 審判の判定にたいして、美冬はわきを締め、短く応えた。ショートカットの髪が揺れて、きらきらと汗が零れる。  
 一方、直前に見事な上段回し蹴りを側頭部にくらって、まるで棒倒しの棒が倒れるように崩れ落ち、床に倒れこんでいる対戦相手、北条香織のポニーテールはピクリとも動かない。  
 すぐさまタンカが用意され、救護係に抱え上げられたとき、自分の頭の上で慌てた声が聞こえ、香織はうっすらと目を開けた。  
「だ、大丈夫? 北条さん?」  
 同じ道場に通っている吉村信広が心配そうに香織の顔を覗きこんでいる。  
 それには応えずに香織は救護係に話しかけた。  
「もう、大丈夫です。自分で歩けます」  
 固い、感情のこもっていない声でそう言うと、起きあがりロッカールームに向かう。  
 ちらりと自分を負かした美冬の様子を窺う。  
 試合場を挟んで香織の反対側にいる美冬は、観客席にいた恋人らしき男とハイタッチをかわして満面の笑みを浮かべている。その顔は直前に空手の試合をやっていたとは思えないほど綺麗だ。  
 顔中を腫らして、鼻血まで流している私とは大違いだ。香織は力無く笑うと、救護係に渡された脱脂綿を鼻に詰めた。  
「あんまり無理しない方がいいよ。か、肩貸そうか?」  
 吉村が慌てて駆け寄ってくる。  
「いい、ほっといて。それより自分の試合のこと心配しなよ」  
 心配する吉村をすげなく袖にすると、香織は全身の痛みに顔をしかめながら足を引き摺るようにして動かした。  
 
 控え室に戻ると、香織は部屋の片隅にある洗面所で顔を洗った。口をすすぐと、吐き出した水は血に染まっていた。  
 ふと目の前の鏡を見ると、青いあざがいたるところにできている。とくに右目などは漫画のように大きく腫れあがっている。  
 香織はじっと鏡の中の自分を見つめた。というよりも睨みつけたというほうが正しいだろう。  
 本人は自覚していないが、人並み以上に美しい顔が無残なことになっている。だが、それでも香織の美貌はまったく損なわれない。なぜなら強い意志の光が瞳に宿り続けているからだ。それは肉体が打ちのめされても変わることなく輝いている。  
 「また負けた」  
 内心の思いを、ぽつりと呟いたその瞬間、瞳の光りが弱々しく揺らいだ。  
 初めて大山美冬と対戦してから今日で三度目。そのどれもが一本負けだった。  
「くそっ……なんで、なんで……勝てないんだ」  
 出しっぱなしだった水をすくい、もう一度顔を洗う。熱を持った顔に冷えた水が心地良い。しかし、その程度では気持ちは納まらない。  
 負けた悔しさではない、勝てない自分に対する不甲斐無さから、目頭が熱くなった。じわじわと瞳を涙が覆ってゆき、それが零れ落ちようとしたとき。  
「北条さん? なにもしないままだとまずいから応急手当しようと思って来たんだけど……入っていい?」  
 ドアの外から吉村の声が聞こえた。  
「ちょっと待って」  
 相変わらずの硬質な声で返事をすると、ざぶざぶと乱暴に顔を洗う。  
 顔を上げた時には、いつもどおりの強い意思の宿った輝く瞳の香織がそこにいた。先ほどまで泣きそうになっていた人物と同じ人間とは思えない変わりようだった。  
 しかし、今、その光の強さはどこか張りつめたものになってしまっている。  
 胴着を脱ぎ、下着だけの格好になる香織。さすがにそのままでは不味いと感じたのか、ハーフパンツを履いたもののの、スポーツブラがぴったりフィットしている上半身は控えめな胸の形が露わなままだ。  
「入っていいよ」  
 
 部屋に足を踏み入れて、もう着替え終わっているものと思っていた吉村は面食らった。  
 贅肉のかけらもない、引き締まったしなやかで魅力的な体が惜しげもなく晒されている。  
「う、上……着なくていいの?」  
「これ以上着ると手当てしにくいでしょ」  
 自分の魅力を理解していないのか、男として見られていないのか。間違い無く後者だと悲しい確信をして、吉村はテーブルに救急箱を置いた。てきぱきと消毒液などをとりだしていく。  
「それじゃあ、痛かったらいってね」  
 そんなことを言ったものの、吉村は香織の青あざができつつある顔を見て、自分が痛そうに顔をしかめた。  
 目立つものからあざを冷やし、冷湿布を貼っていく。  
「口開けてもらえる」  
 黙ってがぱりと口を大きく開く香織。何箇所か切れて痛々しい傷口を見せている。そこにも眉をよせながら、薬を塗る。  
 作業は進むのだが、気まずい沈黙に耐えかねて、吉村は周囲を見まわして会話の種を探そうとした。  
「!」  
 しかし、その行動は見事なやぶへびに終わった。香織の同世代の女の子よりも小さな胸の頂上。間抜けな男は二つの小さなぽっちを発見してしまった。  
 普通のスポーツブラならそんなふうにはならないはずなのだが、不幸にも、いや幸運にもというべきか、香織は海外製のものを使用していた。尊敬する女空手家が同じブランドのものを愛用していたからである。  
 見まいとするのだが、ついつい吉村の視線は香織のふくらみをさまよってしまう。  
 そして、気をそらせようとして、なにも考えずに口を動かした。  
「ざ、残念だったね。負けちゃって」  
 吉村は言ってから、しまった! と心の中で絶叫したが声になった言葉を取り消すことはできない。  
「私のほうが弱かったんだろうね」  
 
 氷のように固く冷たい声が部屋に響いた。  
「そ、そうじゃなくて……その、あの。つ、次は勝てるといいね。あんなに練習してるんだからきっと次は勝てるよ」  
「今回は勝てなかったけどね」  
「だ、大丈夫だって北条さんは空手上手いし」  
「下手だったら特待生になれなかったからね」  
「えっ……と、あ、あれだ! たまには息抜きとかしてみたら」  
「……負けたのに?」  
 鋭い目で香織が吉村を睨みつけた。  
「あんたみたいに負けてもへらへらしてられるような身分じゃないのよ! こっちは勝てなきゃプレッシャーかけられるのよ学校からも、コーチからも! なんのために金だしてやってるんだって!」  
 荒々しく立ちあがり、香織は吉村を見下ろした。  
「手当てしてくれる気がないんだったらもういい。帰って練習しないといけないから」  
 手早く荷物をまとめ、ジャージを羽織ると香織は部屋を出て行ってしまった。  
 あとには消えて無くなってしまいたいと悔やむ吉村が消毒液を持って残された。  
 
 翌日、香織はけがによるものであろう発熱で学校を休んだ。  
 それを吉村は己の失言のこともあり、たいへん気をもんだが、結局香織は一日休んだだけでその次の日からは普通に登校してきた。  
 しばらくの間、空手部の活動中、吉村は気まずい思いをしていたが、香織の方はそんなことはなかったかのように、今までどおりに接してきた。  
   
「あんまり気にしてないみたいで良かったなぁ」  
 自宅のベットに寝転がりながらぼんやりとテレビを見ながら吉村は呟いた。  
 香織は敗戦後、空手部にくると今まで以上に熱心に練習していた。その姿勢は他の部員にも広がっていき、部員達はそれぞれの目標に向かって、香織を見習って充実したクラブ活動をおこなっていた。  
「……あ」  
 カバンをあさっていた吉村が間の抜けた声を出した。  
「しまった。スケッチブック学校に忘れた」  
 時計に目をやると、九時。明日でもよいかと考えたが、あいにくと明日は土曜日で学校は休みである。週末にあのスケッチブックがないのは痛い。今から家を出れば、なんとか学校が閉まる前につく。悩んだ末に吉村は学校に向かうことにした。  
 
「ここでいいよな。すぐ戻るし」  
 一人で言い訳しながら、吉村は下駄箱のすぐ前に自転車を止めた。  
 言葉どおりに、五分ほどで吉村はスケッチブックをわきに抱えて教室から戻ってきた。  
「ん?」  
 校庭の端にある道場に明りがついている。こんな時間に自分以外に誰かが学校にいるとは。いつもの吉村なら見まわりの人だろう、そう思って帰ってしまうはずなのに、なぜか、誰がいるのだろう。そんなふうに気になってしまった。  
 自転車で無人のグラウンドを横切って道場に向かう。  
 静かに自転車を止めると道場の扉を少しだけ開き、中を覗いた。  
 夕方までは大勢の人間がいたそこは、今は一人、香織がいるだけだった。  
 照明がこうこうと照らすそこは、畳の上にぽつんと一つ、影が落ちているせいで、誰もいないよりも寂しい世界に見えた。  
 覗き見をしている吉村にはまったく気付かずに、香織はえんえんと空手の型をくりかえしている。  
 しなやかに体が動き、拳が、脚が、素早く繰り出される。そのたびに、きらきらと宝石のように汗が飛び散った。  
 静かな道場に、畳を踏みしめる音と、技が空を切る音が響く。  
 吉村がその華麗な体捌きに見惚れていると、香織は道場の端に吊るしてあるサンドバックのひとつに向かっていった。  
 その表情を見る限り、もう限界だろうに、香織は休むことなくサンドバックを叩き始める。  
 すぐさま鋭い打撃音が間断無く吉村の耳に飛び込んできた。  
 みるみるうちに香織の足元の畳に汗が溜まっていく。  
 それまでぼんやりしていた吉村は、ようやく自分の手にしているものがなにか思い出した様子で、スケッチブックを開くと、中に挟まっていた鉛筆で香織の練習風景を猛烈な勢いで描き始めた。  
 
 それから、どれくらいの時間が経っただろうか。吉村は十二枚目のラフスケッチを終えたとき、ようやく異常に気付いた。  
 ちょっと待てよ。僕がスケッチ一枚に五、六分かかるとして……一枚目を描き始めてから……もう一時間以上経ってるじゃないか!  
 まてよ、最初の様子だとクラブが終わってからもずっと一人で残ってたと考えるほうが……七時前に終わったから、そうすると……四時間!?  
「い、急いで止めさせないと!」  
 手にしていたスケッチブックを放り出すと、吉村は靴も脱がずに道場に飛び出した。  
「北条さんっ! か、体壊すよ、休まないと!」  
 喚き叫ぶ吉村の声が届かないのだろうか。異常とも言える集中力で香織は体を動かし続ける。  
 近づいてみると、今まで気付かなかったが、香織の手を守っているグローブのすきまから赤いものが流れ出している。  
「ほ……北条さん」  
 やむを得ず、吉村は強引に香織の体を抑えにかかった。しかし、香織は制止を振りきって無理矢理に動こうとする。そのうえ畳に水溜りができるほど汗をかいているせいで、ずるずる滑って上手くいかない。  
「だめだって! なんでこんなことを!」  
 悲しいかな、男と女とはいえ力は香織のほうが上だ。吉村は覚悟を決めて、香織を押し倒そうとした。なかば倒れこむように体重を香織に預ける。  
 それはあっさり成功した。  
 もう限界を越えていたのだろう。簡単にバランスを崩すと香織はふらりと畳の上に倒れ伏した。  
 
「だ、大丈夫、北条さん?」  
 立ちあがった吉村が声をかけるが香織はピクリとも動かない。どうやら気を失ってしまっているようだ。  
 おろおろと視線をさまよわせた吉村は、道場のすみにあった誰かのタオルを見つけた。誰のものか、使用済みかどうかもわからないが、この際文句は言えない。  
「タオル濡らして、あと……水だ」  
 吉村はこれまでの人生で一番機敏に動いた。タオルを引っ掴むと、道場の外へ飛び出す。  
 タオルを洗面所で濡らし、自販機でスポーツ飲料を買うと、再び、靴も脱がずに道場に飛びこんだ。  
 ぐったりとしたままの香織に駆け寄ると、汗に濡れた顔を冷たいタオルで拭ってやる。  
「え、っと、こういうときは、あ! 救急車呼ばないと、なんで気付かなかったんだ」  
 ジーンズのポケットから携帯電話を取り出すと、ボタンを押そうとした。  
「そ……そんなの、呼ばなくて……いいから」  
 いまだに起きあがってはいないものの、顔だけを動かして香織が吉村の行動を止めた。  
「北条さん! よかった。でも救急車読んだほうが……。僕もう、どうしようかと思って。」  
 香織の気がついた安心からか、支離滅裂になりながらも、吉村がほっとした表情を見せた。  
「……大丈夫。ちょっと、たぶん、たんに疲れただけだと思う」  
 つらそうに話す香織に肩を貸して、香織を立ちあがらせると、道場の壁にもたれられるように場所を移動する。  
 ゆっくりと香織を座らせると、吉村はあせりながら先ほど買ってきたスポーツドリンクを差し出した。  
「こ、これ飲んで」  
「ありがとう……」  
 
 素直に受け取った香織だったが、指に力が入らないのか、缶のフタを開けることができずに悪戦苦闘している。  
「あ、気がつかなくてごめん」  
 香織にかわって吉村が缶をあけ、再度缶を香織に渡す。  
 気まずい沈黙のなか、香織がスポーツドリンクを飲む音だけが切れ切れに聞こえる。  
 吉村がおもむろに立ちあがった。  
「靴はきっぱなしだった。ちょっと脱いでくる。そうだ、ついでにもう一本飲む物買ってくるよ。それだけじゃ足りないだろうし」  
 いろいろと理由をつけてみたものの、実際のところは沈黙に耐えかねてその場を離れたかった、というのが吉村の正直な気持ちだった。  
 先ほどとは違い、ゆっくりと自動販売機に向かう。  
「やっぱり、試合に負けたからかな。そしたら僕の言葉もちょっとは影響してるかもなぁ」  
 あんなふうに体を痛めつける理由が他には見当たらず、吉村は深い溜息をついた。  
「もしかして僕と北条さん相性悪いのかなぁ? しょっちゅう気まずいし。もしそうだったらすごいへこむんだけど……」  
 気がつくと自販機の前にいた。香織のためにスポーツドリンクを、自分のぶんとしてコーラを買い、ふらふらと道場に戻る。  
 ぽつんと道場の片隅に座っている香織は、今にも消えて無くなりそうに見えた。  
「あ、これここに置いとくから」  
「……うん」  
 自分も腰を下ろし、吉村もコーラを飲みはじめる。炭酸の弾ける音がこんなにも大きく聞こえることがあるとは想像もしなかった。  
 吉村にとって、まさに針山の上にいるような心地で十分が過ぎたころ、ようやく香織が声をかけてきた。  
「なんでこんな時間に学校にいたの」  
 それはこっちのセリフだよ、と思いながらも吉村が答える。  
「スケッチブック忘れて、それ取りに来たんだ」  
「こんな時間に? 美術の課題でなんかあったっけ」  
「絵、描くの好きなんだ。だから週末にないと困るから」  
「ふぅん」  
 
「あ、スケッチブック! さっき放り出したままだった」  
 ばたばたとあわただしく道場の入り口に向かうと、すぐに吉村が帰ってきた。もちろん手にはスケッチブックを持っている。  
「さっき、慌てちゃって」  
「なんで空手部に入ったの?」  
「え?」  
「絵描くの好きなんだったら美術部に入ればよかったのに」  
「いや、一応それにはわけがあって」  
「どんな?」  
「その、少しは北条さんも関係あるって言うか、その」  
「あたしに?」  
「覚えてないかな。まぁ仕方ないよね」  
 吉村が少し悲しそうな顔を、香織が怪訝な顔をした。  
「まだ入学したての頃、一回モデルになってくれないかって頼んだことがあるんだけど……」  
「うそ!? そんなことあった?」  
「ほんと一言、二言程度だから覚えてなくて当たり前だよ。  
 僕は美術部に入るって決めてたんだけど、友達に付き合って色んなクラブを見てまわってたときに、組手をしてる北条さんを見て、一瞬でこの人を描きたいって思って。  
 組手が終わってすぐにモデルになってもらえませんかって頼んだんだ」  
「ごめん、全然覚えてない」  
「それでそのときに、あたしより強かったらいいよって言われたんだよ。だから空手部に入ったんだ」  
「そうなんだ……じゃあ別に空手が好きなわけじゃないんだ」  
 感情がこもっていないその言葉は、まるで吉村を刺すようだった。  
 慌てた吉村が両手を振って弁解する。  
「そっそんなことないよ。初めはそんな理由だけど今は空手も好きだし。北条さんより強くはなれそうにないけど。それよりも、あんなふうに無茶しないほうがいいよ」  
「無茶?」  
 
「あんなふうに練習っていうか、体痛めつけるみたいなことは」  
「負けたんだから前よりもっと練習するのは当たり前でしょ!」  
 突然、香織が声を荒げた。  
 それに気圧されながらも、幾分小さくなった声で吉村が反論する。  
「でも、あんなのは練習なんかじゃないよ。その、負けて悔しいのはわかるけどもっと、他のやり方があると思うし」  
「どんな!?」  
「それは……、でもあんなのは間違ってるよ。疲れてるみたいだし、気分転換でもしたほうが」  
「うるさいっ!」  
 香織は吉村を怒鳴りつけた。  
「あんたみたいに空手も好きなんてのんきなこと言ってられるような人間とは違うのよ!」  
「北条さん……」  
「あんたと違ってあたしは空手の他にはなにも持ってないんだ! 気分転換なんて気安く言うなっ!」  
 香織が頭を抱えて喚き叫ぶ。  
「ずっと……ずっと、空手しかしてないあたしに、気晴らしの仕方なんかわかんないんだよっ! 気分転換なんて、そんなこと急に言われたってどうやって過ごせばいいかなんて……。  
 休みだって空手の練習して! 空手以外のことなんて全然しなくて! 空手だけがあたしの全部で! 他になにも知らなくて! それなのに勝てなくて!   
 最初は楽しかったのに、今はもう楽しくなんかない。つらいだけなのに、いまさら辞めることもできなくて……もう……疲れた」  
 最後の言葉を搾り出すように言うと、香織の目から涙が一粒零れ落ちた。それを合図にしたようにぼろぼろと大粒の雫が堰を切ったように溢れ出す。  
 棟を締めつけられるような嗚咽を耳にしても、女性が泣く場面などに免疫のない吉村はただうろたえることしかできない。  
「……ははっ、バカみたい。こんなこと他人に言ってもしょうがないのに」  
 
 泣きながら、香織は笑った。それは見る者の心を締めつけるような自嘲の笑みだった。   
 渇いた笑いを漏らした後の香織は、一転して抜け殻のようなうつろな表情になってしまった。  
 いつもの力溢れる瞳は輝きを失い、ガラス玉のように見える。  
 様々な感情を爆発させすぎて、エネルギーを失ってしまったのだろう。  
 吉村は自分にできることはないかと、頭をフル回転させ、香織をなんとかなぐさめようと心だけが暴走した結果、あらぬことを口走った。  
「だ、だったら……そ、その、ぼ、僕の絵のモデルに、なってください……とかは……だめ、かな」  
「モ……デル?」  
 頬を濡らしながら、きょとんとした顔で香織が呟いた。  
 勢いで言ってしまったことになんとか収拾をつけようと、言葉を続ける吉村。  
「その、いやなら、い、いいんだけど。できたらモデルになって欲しいんだ。気分転換になるかどうかはわからないけど」  
「あたしが?」  
「そう! 絶対にいい絵を描くから! それに普通なら絶対にやらないことをやるんだから、気分転換になる……ならないかな」  
 最後のほうは自信なさげに声が小さくなったものの、それに反して吉村の目はらんらんと輝いている。  
「あっ、あたしなんかがそんなモデルなんて! そんなの困るっ!」  
 いやいやをするように首を振り、断固拒否の構えを見せる香織。  
 しかしここまできてしまった以上、吉村もひくにひけない。  
「大丈夫! 北条さんなら最高のモデルになれる、こんなに綺麗な人を僕は他に知らない」  
 身を乗り出してきた吉村の勢いに押されながらも、香織はさらに断る理由を並べたてようとする。  
 どうやら、あまりに突拍子もない頼みごとに混乱して、それを回避するのに必死で自分の悩みが一時的に頭から消えてしまったようだ。  
「だめっ、無理だって、あたしなんか全然綺麗じゃないし、女っぽくもないし。ほら、これ、こんなふうに拳ダコのある女なんてモデルになんてなれないって」  
 香織が拳を突き出しアピールしてみせる。  
 
「僕は北条さんのことを女らしくないなんて思わないし、拳ダコだって魅力のひとつだと思う。だから、そんなふうに自分のことを卑下するのは良くないよ。自分の魅力をわかってないんだったらモデルになることでそれに気付くと思う!」  
 目の中で炎が燃え盛っているのではないかというほどに、情熱をたぎらせて吉村がかきくどく。  
「でも……、そんなことしたことないし」  
 言葉だけでは足りないと思ったのか、もう一押しだと思ったのか、吉村は傍らにおいてあったスケッチブックを広げた。  
「ほら! これ見てよ」  
 そこには数枚の風景画と、数多くの人物画が描かれていた。さらに言えば、人物のほとんどは香織だった。  
 さきほどの香織が倒れる直前の練習風景から、試合中の香織、組み手をしている香織、タオルで汗を拭っている香織、制服姿の香織、色々な香織がそこにいた。  
 香織は戸惑ったようにそのスケッチの数々を眺める。  
「……これ、あたし?」  
「そう! 北条さん、許可取らないで描いたことはあやまるけど、描かずにはいられなかったんだ! だからちゃんと僕に北条さんを描かせて欲しい!」  
「あ、あたしこんなに綺麗なんかじゃない」  
「僕はありのままを描いただけだ」  
「嘘つかないでっ! ほら顔だってまだこんなに腫れてるし」  
「腫れならひくの待つから、今度の土曜日にならもう元に戻ってるよ」  
「で、でも、あたしその……む、胸ないからヌードなんてできないっ!」  
 香織が耳まで真っ赤になって絶叫する。  
 一拍おいて吉村が気の抜けた声をした。  
「……ヌード?」  
 香織の真っ赤に染まった顔をぽかんとした顔で吉村が見つめる。  
「モデルって脱ぐんだろ?」  
 
 素人だからとはいえ、あまりな誤解を吉村は優しく解きほぐす。  
「全部の女性画がヌードなわけじゃないでしょ? 僕が北条さんに頼むのは服を着たままのモデル。ヌードはヌードで描きたいけどそんなの頼めないって」  
 安心した香織の様子を吉村は見逃さなかった。すかさず追撃をかける。  
「さっきの言葉はヌードじゃなかったら引き受けてもらえるってことだよね」  
「ち、ちがう」  
「いや、違わないよ。今度の土曜日一時に学校の門のところで待ってるから、絶対にきてね」  
「え、でも……」  
「そうか! 練習ある?」  
「土曜日は午前中で終わるけど……」  
「だったらちょうどよかった」  
 有無を言わさず約束をさせると、吉村は香織を家まで送っていくと言いだした。  
 断ろうとする香織を、心配だからと言って、強引に自転車のうしろに乗せると、月明りのもとグラウンドをふらふらと頼りなく進んでいく。  
 すると、校門が閉まっていた。当然である。とっくに深夜零時を過ぎているのだから。  
 守衛にこんな時間まで学内にいた理由を勘繰られながらも、二人は何度も頭を下げて門を開けてもらった。  
「家どこらへんなの?」  
「家って言うか、寮に住んでる。知らない? うちの特待生が入ってる清流寮」  
「あー、あそこか。じゃあ北条さん一人暮しなんだ」  
「他に生徒がいっぱいいるから一人ってわけじゃないけど。相部屋だし」  
 清流寮と彫られた、いかめしい石碑が鎮座ましましている寮の前で、香織が送ってくれた礼を言う。  
「その……送ってくれてありがとう」  
「いいよ、僕がむりやり送ったんだし。あ! 北条さんの家がわかったんだから僕土曜日迎えにくるよ」  
「え!?」  
「それじゃあ、また明日」  
 戸惑う香織を残して、吉村は上機嫌で去っていった。  
「ど、どうしよう……」  

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