旦那様が引っ越されて、瞬く間に日が過ぎ、季節は移り変わった。  
私は、アルバイトの掛け持ちをやめ、ショッピングモールの中のアクセサリー店で働くようになった。  
毎日制服を着て元気にお勤めをするという点では、メイドと変わらない。  
以前のように、夕方にはアパートに帰るというわけにはいかなくなったけれど。  
誰かのために家事をするという役目が無くなってしまったので、問題は無かった。  
メイド服一式は、あの方が引っ越された次の日から袖を通さず、縫い直しもせずに仕舞いこんだままだ。  
どこかのお屋敷へメイド奉公に戻ることも考えたが、何となく気後れしてやめた。  
引っ越してから、旦那様は大家さんの方に一度だけ電話されたらしい。  
大家と店子という枠を超えてお世話になっていたのだから、しごく当然のことだと思う。  
その電話がかかってきたのは日中だったので、あいにく、私は勤めに出ていて留守だった。  
だから旦那様のお声を聞くことは叶わず、大家さんに「元気そうでしたよ」と教えてもらっただけ。  
線は細いけれど体は丈夫な方だから、きっとお元気でいらっしゃると思う。  
今年の夏は酷暑だったから、夏ばてをされていないか、少し心配になったけれど。  
 
 
秋が深まり、11月の声を聞くようになった頃、急激に寒い日がやってきた。  
明日はもっと冷え込むとニュースで知り、上着を出そうと押入れの衣装ケースを取り出す。  
冬用のセーターやマフラーをかきわけ、目的の物を取り出そうとした時、はたと手が止まった。  
「あ……」  
予想もしていなかった物が視界に映り、心臓が止まりそうになる。  
旦那様の綿入れが、なぜかそこから出てきたのだ。  
これは、私があの方に贈った物だ。  
同居を始めて一年目の冬、旦那様が私に真珠のネックレスを買ってくれたことがある。  
高価な品を頂いて恐縮した私は、それをクリスマスプレゼントだととらえ、お返しにこの綿入れを差し上げた。  
隙間風が吹き込むこの部屋で、旦那様の背中が寒そうだったから……というのが、選ぶ決め手になった。  
綿入れとはいえ、浮ついた柄の安物ではなく、それなりの値段のする上質な物を選んだのを覚えている。  
旦那様もこれを気に入って下さり、毎日のように着ておられたのに、なぜ今これがここにあるのだろう。  
考えてみるのだが、春頃の記憶はいまいちはっきりとはしない。  
思い出すのは、旦那様と一緒にいることが苦痛で、できる限り背中を向けて暮らしていたということだけ。  
おおかた、クリーニングから帰ってきたこれを仕舞い込む場所に困り、自分の衣装ケースに入れたのだと思う。  
それを忘れた頃に、あの引越しの話が出たのに違いない。  
そうでない限りは、これがここにあることの説明がつかない。  
どうしよう。  
サイズが大きいから、私が着るのには向かないと思う。  
かといって、処分してしまうのもしのびない。  
それなら宅配で送ればよさそうなものだが、旦那様のあちらでの住所を私は知らない。  
 
 
大学まで、届けに行こうか。  
そんな考えがフッと頭に浮かんだ。  
書店で入試関連の本を調べれば、大学のある場所は分かるだろう。  
夜行バスを使えば安く行ける。  
これからは寒くなる一方だから、できるだけ早い方がいい。  
もしかして、あちらでとっくに新しい物を買われているかもしれないし、私のことももうお忘れになったかもしれない。  
それでも私は、旦那様に、この綿入れを傍に置いてほしかったのだ。  
これを着て、あのコタツに入り、このアパートにいた時のように過ごしてほしい。  
揃いで買った湯飲みの片割れでお茶を飲みながら、月に一度くらいは、口うるさいガサツなメイドのことを思い出してほしい。  
そんな風に思うのが、贈った私のエゴだったとしても。  
 
こういう気持ちを、きっと世間では未練と呼ぶのだろう。  
自分にもそういう感情があったことに戸惑ったけれど、一旦考えたことは頭から消えなかった。  
次の日、店長と話をして、休みをもらう手はずを整える。  
普段真面目なお陰か、すんなり承諾してもらえ、夜行バスでは大変だからと二日休みをもらえた。  
綿入れは陰干しした後に包み、お渡しする準備を整えた。  
そして、そうこうしている間に当日が来て、仕事を終えた私は夜行バスの発着所へ向かった。  
車窓の景色は、夜ということもあって興味を引かず、狭いシートを少し倒して眠る準備をする。  
旦那様は、まだ新しい綿入れを買われていなければいいんだけど。  
行ったことのない地に思いをはせ、私はしばし浅い眠りについた。  
 
 
早朝、バスが大きな駅のターミナルに到着し、乗客は一斉に下りて思い思いの場所に散っていった。  
私は、駅前の喫茶店に入り、時間をつぶすことにする。  
食事も済ませ、駅の中をしばし迷い歩いた後、電車を乗り継いで旦那様の大学へと向かった。  
最寄り駅で降りると、学生の流れができていて、今度は迷うこともなく大学までたどり着ける。  
しかし構内に入った瞬間、私はまた途方に暮れることになった。  
旦那様が、この広いキャンパスのどこにおられるか、皆目見当がつかないのだ。  
理系の研究室というひどく曖昧なイメージでは、この総合大学の中を探すのは大変だった。  
案内板を見るごとに立ち止まり、道行く何人もの学生に尋ね、ようやくここと思われる建物にたどり着く。  
フロアには廊下を挟んで両脇にドアがずらりと並び、○○教授だの××講師だのと、部屋の主の名が小さく表示されている。  
まるで殺風景な入院病棟に迷い込んでしまったかのようで、心細さを覚えた。  
旦那様は、どのドアの向こうにいらっしゃるのだろう。  
多分、まだ個室をもらえるような待遇は受けていないはずだ。  
そうすると、主の名がない部屋を数人で使っていらっしゃるのに違いない。  
フロアの端から端まで歩いて調べると、それらしき部屋は5部屋あった。  
この中のどこかに旦那様がおられるはず。  
しかし、ドアは室内の様子をうかがえるようには作られておらず、私は困ってしまった。  
ここは研究施設というだけあって、人通りも少なく、建物全体がしんと静まり返っている。  
このような雰囲気で、よそ者がいきなりドアを開けるというのは、はばかられた。  
 
 
廊下を行きつ戻りつするのに疲れた私は、置いてあったベンチに腰掛けた。  
窓の外には広大な大学の風景が広がっていて、大勢の学生や職員が行き交っている。  
皆それぞれに行くべき場所があるのに、私には「旦那様のおられる部屋」という、大づかみな目的地しかない。  
そもそも、このフロアどころか建物自体が見当違いだということもあり得るのだ。  
スーパーなら、案内所で迷子放送をしてもらえるのにな。  
大きく溜息をついたその時、向こうの方でドアがカチャリと開く音が微かに聞こえた。  
何気なくそちらに目をやり、一瞬で体中の血が逆流したような衝撃が私を襲う。  
そこにあったのは、見覚えのある、懐かしい懐かしい背中だったのだから。  
「旦那様!」  
立ち上がり、自分でも驚くほどに大きな声で呼びかけると、その人影はハッとした様子でこちらに振り返った。  
無機質な白衣を着てはいるが、見間違えるはずもない。  
息を飲み、驚いた表情でそこに立ち尽くしているのは、やっぱり私の旦那様だった。  
「美果……さん?」  
呆然と呟かれた自分の名前が耳に届く。  
よかった、あの方はまだ私のことを覚えて下さっている。  
そう思った瞬間、涙が勝手に溢れ出し、私はその場にへたり込んでしまった。  
コツコツと足音を立てて、旦那様がこちらへ歩いてこられる気配がする。  
そして、床に座り込んだ私の目に見覚えのある靴が映り、確かにあの方であるということを報告してくれた。  
もっとちゃんと見たくて、袖で乱暴に顔を拭い、目を何度も瞬かせる。  
靴は私より二、三歩離れた所で止まり、折られたスラックスの膝が見え、そして懐かしいあの方のお顔が私を覗き込んだ。  
「あ……」  
何を言ったらいいのだろう、どう振舞えばよいのだろう。  
仕事場に勝手にやってきて、いきなり泣き出すなんて、大人のすることではない。  
「あ、の……」  
口の中がからからに乾ききって、きちんと声が出ずにもどかしい。  
今、旦那様がご自分のハンカチを取り出し、私の涙を拭って下さっているというのに。  
何やら少し困ったような、難しい表情をなさっていて、それを見て胸が騒ぐばかりだ。  
いきなり来たのは、やっぱりまずかっただろうか。  
不安が急速にこみ上げてきて、呼吸が苦しくなった。  
 
「池之端君」  
その時、不意に落ち着いた声が聞こえた。  
旦那様が振り返られ、私もそちらに目をやると、旦那様の肩越しに小柄な老紳士が立っているのが見えた。  
はいと短く返事をして、旦那様は私に背を向けてその人と何やら難しい話をされ始める。  
言葉の感じからすると、その老紳士は偉い教授か誰かのようだ。  
やはりここは大学で、私などのいるべき場所ではないという思いが、胸に突き刺さった。  
私のあずかり知らぬ分野のことながら、旦那様が老紳士に何かを頼まれたのか、言いつけられたのが分かった。  
いつの間にか話は終っていたようで、あちらへ向かう老紳士の背を見送って、旦那様がこちらに向き直られる。  
再び目が合って、私の心臓はまた大きく跳ねた。  
「美果さん、すみません。今はちょっと時間が無いのです」  
旦那様が申し訳なさそうに仰って、お手にあったハンカチを私の手に握らされる。  
「僕のアパートはすぐ近くです。すみませんが、僕が帰るまで待っていてもらえないでしょうか」  
ちょっとそうしていて下さいと言って、旦那様が今しがた出てきたドアの中に消えられる。  
そして何やらお手に持って戻ってこられ、私にそれを押し付けられた。  
「これが鍵です。部屋は、3階の307号室です」  
旦那様はそう早口で仰って、ポケットから紙とペンを取り出して地図を描いて下さった。  
「この建物を出て、右に行くと裏門が見えてきますから。ほら、ここにあるこれです」  
「……はい」  
受け取った地図の中に、確かにその文字があるのを認め、頷く。  
「なるべく早く帰るようにします。それまで、好きに寛いで下さって構いません」  
旦那様はもう一度優しく微笑んで下さってから、きびすを返し、さっきの老紳士が歩いていった方向へ小走りで去っていかれた。  
ご本人がいいと仰ったのだから、待っていても構わないのかな。  
もらった地図をもう一度確認し、私は階段を下りて建物を出た。  
 
 
旦那様のアパートは、本当にわかりやすい場所にあった。  
裏門を出て左に折れてまっすぐ歩き、めがね屋の横の角を曲がってすぐ。  
地図のとおりに歩くと、小奇麗な建物が見えてきて、これなのかと見当をつける。  
階段を上がり、307号室に鍵を差し込んで回すと、カチャリと音を立ててドアが開いた。  
中へ入ると、見覚えのある服や身の回りの物が目に入り、ここがあの方の住まいなのだと教えてくれる。  
それに何より、旦那様と暮らすことになって初めての冬に買った、あのコタツが部屋の中央に鎮座していた。  
本や資料が天板の上にたくさん積まれている光景も、とても懐かしかった。  
洋間なのに、コタツを使っておられるなんて。  
あの方らしいと、私の顔にはひとりでに笑みが浮かんだ。  
部屋は、キッチンとリビング、その奥の寝室と広めの納戸という間取りになっている。  
お風呂場とトイレもちゃんと別になっていて、一人暮らしには少し広いとも思える造りだった。  
一通りの家電も揃っていて、旦那様はここで、それなりに充実した生活を送っていらっしゃることが窺える。  
もう就職して社会人になられたのだから、収入も安定して、こういった物を買えるようにもなったのだろう。  
最初は、ご自分の世話すらできないあの方を、私はずいぶん叱りつけたものだったのに。  
私は、感慨にふけりながら荷解きをし、ハンガーを借りて綿入れを壁に掛けた。  
こうしておけば、あの方はきっと気付いて、私が帰った後にこれを使って下さるだろう。  
やっぱり持って来てよかったと、私はコタツに入って綿入れをしばし見つめた。  
 
 
まだ日は高く、旦那様が帰ってこられるまで時間がある。  
旦那様のハンカチが自分の手の中にあったことに気付き、洗おうかとコタツを出た。  
涙で濡らした上に握りしめていたから、このままで返すわけにはいかない。  
ふと部屋の隅を見ると、かごの中に洗濯前の衣類がある。  
一人暮らしだから、つい溜め込んでしまわれたのだろう、これもついでに洗ってしまおう。  
じっと待っているだけより、何かしている方が気がまぎれていい。  
自分の物ではない衣類を洗うのも、久しぶりのこと。  
見たことのないシャツや下着もあり、こちらで新しく買われたのだろうと見当をつけた。  
洗濯物をベランダに干して、一仕事終えた気分になる。  
寒いから、これが乾くのは、きっと私が帰った後だ。  
やるべきことは終ったけれど、また時間がある。  
そういえば、大学からこちらへ向かう途中に、小さなスーパーがあるのが見えた。  
あそこで食材を見繕って、夕飯でも作ろうか。  
 
そう思い立ち、私は旦那様の部屋を出て、もと来た道を少し戻った。  
向かったスーパーは、近くに大学があるせいか、単身者向けのお惣菜が充実している。  
最近は帰りが遅くなると、こういう物を買って食べることがあるのだが、今日に限っては全く買う気がしなかった。  
料理をしたいという意欲が、胸にふつふつと滾っている。  
初めて来る場所で買い物をしてアパートに戻るなんて、まるで海音寺荘に引っ越した初日のようだ。  
帰り道、売場にあった珍しいご当地野菜のことを思い出す。  
旦那様は、ああいう野菜を使って料理をされるのだろうか。  
考え事をしながら旦那様の部屋に戻り、台所を借りて料理をする。  
夕食を今から作るのは少し早いけど、何かしていないと落ち着かなかった。  
料理が全て終ったところで、コタツに入って目を閉じる。  
夜行バスでは熟睡できなかったから、今になって眠気が襲ってきた。  
洗濯も料理も済ませたし、やることはもう無い。  
私の体はころりと横倒しになり、数分後には眠ってしまっていた。  
 
 
ドアがノックされる音に、ハッと目を見開く。  
つい寝入ってしまったらしい、見上げた窓の外は暗く、もう夜になっていることが知れる。  
私は慌てて立ち上がり、玄関へ走った。  
「お帰り、なさい」  
ドアを開けてぎこちなく言うと、旦那様は「ただいま戻りました」と微笑んで下さった。  
以前と全く変わらない、見る者を温かな気分にさせる笑顔が目に眩しい。  
「いい香りがしますね」  
旦那様が仰って、私は先ほど調えた夕飯のことを思い出した。  
「あ……。さしでがましいかとは思ったんですけど、夕ご飯を……」  
「そうですか。ありがとう、助かります」  
旦那様が再び微笑まれたのを見て、私はホッと胸をなで下ろした。  
着替えをされている間に、コタツの上に温め直した料理を並べ、ご飯をよそって準備をする。  
この部屋には、二人分の膳に必要なお皿は無く、おかずは一緒盛りになってしまった。  
謝る私に、旦那様は「全く構いませんよ。つつきあって食べましょう」と仰り、いそいそと箸を取られる。  
私も少し遅れてそれに習ったのだが、皿の上の物に注ぐべき視線は、全て旦那様の方に集中してしまっていた。  
食べている人をじっと見るなど、失礼なのに。  
半年ぶりに会ったこの方が、私の料理を美味しそうに食べていらっしゃるのが、すごく懐かしかったから。  
 
 
ぐずぐずしているうちに、旦那様が私より先に食事を終えられた。  
一緒に暮らしていた頃は、いつだって私の方が早く食べ終えていたのに。  
「美果さん、ゆっくりお食べなさい」  
旦那様がそう仰って、お茶碗とお箸を流しへ持って行かれる。  
「すみません」  
なんだかきまりが悪くなり、私は食べるピッチを上げて膳の上の物を片付けた。  
流しへ行き、洗い物をして戻ると、旦那様は壁の方をじっと見ていらっしゃった。  
「これを、持ってきて下さったんですか?」  
私が座ると、旦那様が視線を固定されたままお尋ねになる。  
その目が見つめているのは、私が持ってきた綿入れだった。  
「はい。先週から、急に寒くなりましたから」  
「本当に。こちらも、随分と冷え込みました」  
旦那様が、やっと私の方に向き直られる。  
「寒いから上に着る物を……と、この綿入れを探したのに。無かったので、どうしたのかと思っていました」  
そう仰るのに、私は、これが自分の衣類に紛れていたことを話した。  
「そうですか。僕は、引越しのどさくさで失くしてしまったのかと、ひどくショックだったのです」  
「ショック、ですか?」  
「はい。綿入れとコタツと熱いお茶は、冬の風物詩ですからね」  
旦那様の言葉に、二人で暮らしていた頃のことがまた脳裏によみがえってくる。  
海音寺荘の部屋で、難しい本や書類と格闘して、一息つくと私にお茶を所望されたこの方の姿、声。  
記憶の中のそれが、今目の前にいるこの方とぴったり重なり、一つになった。  
胸をわし掴みにされるような懐かしさを覚え、目の奥が熱く潤んでくるようだった。  
 
泣きそうなのを堪えるため、お茶を淹れにキッチンに立つ。  
気持ちを落ち着けてコタツへ戻り、離れていた半年間の話をすることにした。  
私が、アクセサリー店に腰を据えて働き出したことを話すと、旦那様が微笑まれた。  
「美果さんは弁が立ちますからね。売るのもお上手でしょう」  
そう言われて、背筋がこそばゆくなる。  
控えめな接客を心がけているとはいえ、ついセールストークに熱が入ってしまうのは確かだ。  
「僕は、昼間に美果さんがいらっしゃったあの建物で、ほとんどの時間を過ごしていました。  
休日には、社寺仏閣を巡ったりして、けっこう出歩いていたのですよ」  
「えっ?」  
旦那様は、明らかにインドア派のはずなのに。  
「早く、こちらに馴染まなくてはいけませんからね。それにはあちこち歩き回るのが早いのです」  
私が抱いた疑問を見透かしたのか、旦那様が言葉を重ねられる。  
「休日は、ここにいると一人で寂しいですからね。それを紛らす意味もありました」  
「えっ、寂しかった……んですか?」  
旦那様が小さく頷かれる。  
「寂しくないわけはないでしょう?今までは二人暮しだったのに、急に一人になったんですから」  
声が出ず、私は無言で頷いた。  
「ただ寂しいと思うだけでは、情けないですからね。  
だから、あちこち見て回って『この地で僕は生きていくんだ』と、半ば強引に気持ちを切り替えていました」  
それはもしかして、私がバイトを渡り歩くのをやめ、アクセサリーショップの職を見つけたことと同じなのだろうか。  
どちらも、二人暮しのことを心の片隅に追いやって、自分を取り巻く環境を変えたのだから、きっとそうなのだろう。  
「……それで、寂しいのは無くなりましたか?」  
私が問うと、旦那様はしばらく考えてから首を横に振られた。  
「残念ながら、紛らす程度にしかなりませんでした」  
「そう……ですか」  
「しかし、弱音だけは吐くまいと思っていたのですよ?こちらでやっていきたいという思いだけは本物でした。  
地縁血縁の無い場所で頑張るのは、美果さんが15歳ですでにやっていたことですからね」  
「えっ……」  
「ずっと大人である僕が、めそめそするのは恥ずかしいでしょう」  
「それは、そうですね」  
「美果さんが恋しくなって逃げ帰れば、あなたは僕が関西に行くと言った時以上に、烈火のごとく怒るでしょう?  
情けない男だと、幻滅するでしょう。それだけは避けねばと思っていました」  
「えっ」  
今、旦那様は何と仰っただろう。  
美果が恋しいと、そう聞こえたような気がしたんだけれど。  
「旦那様、今……」  
「何です?」  
「恋しい、って仰いましたか?」  
「ええ。美果さんが恋しくて、随分と寂しい思いを致しました」  
旦那様が私の言葉に頷き、感慨深げな表情をされる。  
私も、旦那様が恋しかった。  
一人を満喫するはずだったのに、気がつくと旦那様のことばかり考えていた。  
それが苦しくて、仕事を変えたり遅くまで働いたりしたけれど、どうしても振り切れなくて。  
仕返しだのお屋敷奪回だのと外面にばかりにこだわって、大切な人と離れてしまった自分の愚かさを死ぬほど後悔した。  
別々に暮らしてみて、やっと分かった。  
あの時の夢や約束なんか一切どうだっていい、もう一度私は旦那様と暮らしたい。  
いるべき人がいないのは、もう沢山だ。  
 
 
「旦那様、私……」  
両手を体の前で握り合わせ、必死に心を落ち着ける。  
感情のままに話せば、喧嘩別れみたいになったあの時と同じになってしまう気がした。  
それだけはいや、絶対にいやだ。  
「私、もう一度旦那様と一緒に暮らしたいんです。  
会社やお屋敷のことなんか無くたって、私には、旦那様と一緒にいるってことがそれだけで楽しかったんです」  
過去の怒りや恨みに心を占められ、本当に大切な物に気付くのには随分長くかかったけれど。  
こうなった今、ずっと重荷になっていた感情は全て流れ去って、私の心には芯の部分だけが残っている。  
旦那様に夢を預けてもたれかかるような、無責任な生き方はもうしない。  
二人で住めることを喜びながら、ご飯の出来やアイロンの具合に一喜一憂するようなシンプルな生活がしたい。  
それができるならば、私は関西でも外国でも、どこにでも行く。  
 
祈るような気持ちで頭を下げる私の肩に、旦那様のお手が触れる。  
そのままふわりと抱き寄せられ、私は旦那様の肩口に顔を埋めた。  
「……僕は、駄目な男です」  
旦那様の苦々しい声に、心臓が縮み上がる。  
その声の重さの意味は何だろう。  
「あの……」  
呼吸が浅くなり、胸がギュッと痛くなる。  
やっぱり、旦那様はもう私となんか暮らしたくないのだろうか。  
「ごめんなさい」  
謝って、旦那様の腕の中から身を起こす。  
環境が変われば、こうなるのは仕方がないことなのだ。  
「無理なことを言いました、忘れて下さい。私は明日帰ります」  
ここで、未練がましくすがってはいけない。  
別の部屋に逃げようと腰を浮かせると、旦那様に強い力で腕を引かれた。  
その手の平はとても熱く、びっくりして私は動きを止める。  
「美果さん、人の話は皆まで聞くものです」  
「えっ……」  
有無を言わせぬ迫力で旦那様が仰って、私の頭が混乱する。  
「旦那様は、私とはもう暮らすお積もりは無いんでしょう?だって、あんなに苦々しい声で……」  
「違います。あんな声が出たのは、僕が言うべきことを美果さんに言わせてしまった……と悔やむ気持ちからです」  
「それは……」  
「美果さん。僕がどうして『部屋で待ってて』と言ったと思います?  
待つだけなら、学校の図書館でもカフェテリアでも場所はあったのに」  
さあ、それは分からない。  
私は部外者だから、大学内にいるのがいけないからじゃないのだろうか。  
首を傾げる私を見て、旦那様が焦れたようにまた口を開かれる。  
「分かりませんか。美果さんのいるアパートに、帰りたかったのですよ」  
「えっ?」  
「美果さんに、ここで僕を待っていて欲しかったのです」  
旦那様の言葉が胸を打つ。  
海音寺荘では、私がこの方を待つより、この方が私を待つ方が多かったけど。  
たまに遅く帰ってこられたこの方を迎えると、笑顔とともに「美果さん、ただいま」という言葉が返ってくるのが常だった。  
仕事で心がささくれ立っても、旦那様のその仕草を見ると、いつも心がフッと凪いだのだ。  
この方も、もしかしたら、私がお帰りなさいと言うのを楽しみにしていらっしゃったのだろうか。  
「美果さん。僕はあの日、さよならとは言わなかったでしょう?」  
「え?ええ」  
引越しの日、見送ることもなくお風呂場に隠れていた私へ、この方が最後に仰った言葉。  
『行ってきます』  
ドアごしに聞いた、この短い言葉を私が忘れるわけもない。  
「ほんの一時、離れるだけだという認識でしたからね。さようならと書かなかったのは、わざとです」  
「えっ?」  
自分の目がまん丸になるのが分かる。  
私は、もう会えないかとまで思っていたのに。  
「こちらで最低一年は頑張って、それから改めてあなたを迎えに行くつもりでした。  
その前にこうして来て下さったから、ちょっと予定が変わりましたが」  
旦那様が私の髪に手を触れ、穏やかに語られる。  
その瞳には嘘や取繕いの色は無く、本心だけが宿っているのが見て取れた  
「美果さんにもう一度会うのは、頼れる強い男になってから……と思ったのですが。  
こうして会ってしまうと、もう駄目ですね。また、あなたと暮らしたい」  
今まで見たこともないような情熱的な瞳で、旦那様が仰る。  
自惚れかもしれないけど、旦那様が打ち込んでおられる学問のことを語られるときよりも、ずっと強い意志を感じた。  
そのかっこ良さに目を奪われ、気持ちが舞い上がりそうになったところでハッとした。  
あの日、私はこの世の終わりのように悲劇的な心境だったのに、旦那様は「ほんの一時、離れるだけ」と思っていらっしゃったなんて。  
担がれたようで、なんか面白くない。  
「そんなの、言って下さらなきゃ分かんないじゃありませんか」  
「ええ、それについては謝るしかありません」  
過去に例の無いほど深く頭を下げられ、謝られてしまう。  
ずるい、そんな風にされると責められなくなってしまうじゃないか。  
「言えなかったのは僕の弱さと、約束を破った後ろめたさゆえのことです。  
ですが、信じて下さい。僕は本当に、美果さんともう一度暮らしたいと思っていました」  
 
熱意のこもった声と表情で言われて、胸に喜びが湧く。  
しかし、今後のために少しだけ苦言を呈させてもらおう。  
「こっちでしばらく頑張ってから、私を呼び寄せられるお積もりだったんですね?」  
「はい。四の五の言わずに態度で示せば、あなたも分かってくれると考えていました」  
「そんなの、六か七くらい言ってから引っ越して下さらなきゃ困ります。私はエスパーじゃありません。  
頑張るってことは、職場で信頼を得て認めてもらうってことなんでしょう?」  
「ええ」  
「旦那様は言葉をケチっていらっしゃるんです。メイド一人の心も掴めないのに、周囲の人に認めて頂くことなんか、できるはずないじゃありませんか」  
「それは……」  
旦那様がうっと言葉に詰まられる。  
この感じは、二人暮しを始めた頃によくあった。  
根っからのお坊ちゃまである旦那様に、庶民の生活をこんこんと説いていた、あの最初の頃の。  
あの時同様、ひたすらガミガミ言うのはやめておこう。  
この辺で角を引っ込めることに決め、自分の眉間に指で触れてしわを伸ばした。  
自分は弱いという自覚があるのなら、私が今後それをみっちりと鍛えてあげればすむことだ。  
「私、こっちに越してきても構わないんですね?」  
「ええ。待っていますから、是非ともそうして下さい」  
旦那様が大きく頷かれたのを見て、私はやっと安心すると共に、さっきのことはもう不問にすることにした。  
 
 
色々片付いたところで、旦那様の後にお風呂に入り、パジャマを借りる。  
「美果さんはベッドをお使いなさい。僕はこちらで寝ますから」  
長すぎる裾と袖を折り返している私に、旦那様がコタツを指差して仰った。  
「そんなわけにはいきません。押しかけたのは私なんですから、私がこっちで寝ます」  
パジャマを借りた上、ベッドまで独り占めするのは気がひける。  
「いいえ、美果さんはお客人なのですから、床で眠らせるわけにはいきません」  
「だめです。前にも旦那様、コタツで寝るって言い張って、風邪引いて寝込んだじゃないですか」  
最初の冬、そうなった旦那様に「小学生ですか、全く!」と怒ったことを思い出す。  
就職したんだから、「風邪を引くのは、自己管理がなってない証拠だ」と上司に思われるかもしれないのに。  
「ほら、旦那様はあっちで寝て下さい」  
肩を押して促しても、旦那様は頑なに首を横に振られるばかり。  
「美果さんが風邪を引くのも困ります。それでは宿を提供した僕の立場がありません」  
何の立場だろう、男のプライドってやつだろうか。  
「分かりました。じゃあ、一緒に寝ましょう」  
このままベッドを譲り合っていても、埒があかない。  
だからそう提案すると、旦那様はやっと頷かれた。  
「いい考えですね。それなら風邪を引く心配はなさそうです」  
合意しあったところで、二人して寝室へ行く。  
先に横になられた旦那様が、掛け布団をめくって、私の入るスペースを作って下さった。  
招かれるままにそこへ入り込むと、旦那様の温もりをはらんだ布団が、私の体を優しく包み込んだ。  
なんて温かいんだろう。  
コタツも好きだけれど、この温もりは、電気や何かでは決して作れない、人肌だけが持つ温もりだ。  
気持ちがふわふわとほぐれていくようで、心地良くて堪らない。  
目の前には、青いパジャマを着た旦那様の胸がある。  
私は自然にそちらへ近付き、ぴたりと触れるほど近くに身を置いた。  
「温かいですね、美果さん」  
旦那様の腕が私の背に回り、もっと距離を縮めようとするかのように引き寄せる。  
こんな風に抱きしめてもらうのは、いつ以来だろう。  
私達の間に距離ができたのは、就職の話が出た時からだから、引越しの日よりさらに前だ。  
そんなに長くご無沙汰だったなんて信じられないくらい、旦那様の胸は心地いい。  
様々に悪態をついていたけれど、私はこの方にこうしてもらうのが、すごく好きだった。  
最初はただの深夜勤務だったけど、一緒に住むようになって、そのお心に触れるようにもなると、楽しみで。  
ここに自分の居場所があると思うと、時折泣きたいくらいに幸せだったのに。  
旦那様の言葉が足りなかったせいとはいえ、自分から遠ざかるような真似をしたなんて、私はなんて馬鹿だったんだろう。  
「旦那様、旦那様っ」  
後悔と自己嫌悪がよみがえり、私は旦那様に力一杯抱きついた。  
ぎゅうぎゅうと音がするくらいに密着して、二人の体を隔てる空気さえも押し出すくらいに。  
 
「美果さん?」  
旦那様が覗き込もうとされるのを拒み、両脚まで絡めてくっつく。  
今の私を横から見ると、きっと馬鹿なコアラか間抜けなナマケモノだ。  
「旦那様、抱いて下さい。今すぐに」  
密着してもなお拭いきれない不安を振り払いたくて、恥を忘れて懇願する。  
驚いた表情で固まっておられるのがもどかしくて、私は起き上がり、借りたパジャマを脱ぎ捨てた。  
下着のホックに手をかけたところで、ようやく気を取り直した旦那様が私を制される。  
「美果さん、お待ちなさい。どうか落ち着いて」  
諭すような言葉に、私は背に回した手を戻し、シーツに落とした。  
「落ち着いてます、私……」  
旦那様に抱いて欲しい、ただそれだけなのに。  
自分とこの方の温度差が、無性にもどかしい。  
「私、冷静です。本気で、旦那様に抱いて欲しいって思ってるんです」  
泣きたくなる気持ちを懸命になだめ、精一杯言葉をつなげる。  
女からこんなことを言うのはみっともないけれど、でも、どうしても本心を伝えたかった。  
 
 
「僕の我慢が、無駄になるではありませんか」  
沈黙を破って、旦那様が決まり悪げに呟かれる。  
意外な言葉に、私は目を何度も瞬かせた。  
「我慢?」  
「再会してすぐ手を出すような真似は、誠意に欠けるからと慎んでいたのに」  
私は、へっ……?と間抜けな声を上げる。  
「あの、こういう場合は、ぜひ手を出して頂きたいんですけど」  
「いえ、やはり分別が、その……」  
もじもじと煮え切らない態度を取られる旦那様は、アパートに引っ越した当初のこの方そのものだ。  
ああもう、こんな時に限って。  
「んっ……」  
この上は実力行使だと、私は姿勢を落として旦那様にキスを仕掛けた。  
唇が触れ合った瞬間、二人で暮らしていた頃のことがどっと脳裏によみがえってくる。  
私達が初めてキスをしたのは、あのアパートに移ってから。  
最初は何とも思わなかったけど、回数を重ねるにつれて、気持ちも伴うようになった。  
目を閉じてからキスまでのわずかな時間、全身の神経が研ぎ澄まされたように敏感になって。  
唇がくっつくと、他のこと一切が頭から消えて、旦那様のことしか考えられなくなるのは以前も今も同じ。  
「ん……」  
何度も何度も角度を変えて、キスに夢中になる。  
そうするうちに、向こうからかけられる力が大きくなってきて、私は心の中で快哉を叫んだ。  
差し込まれた舌を受け入れ、深く絡め合いながら、旦那様のパジャマをギュッと掴む。  
ずっとしていても構わないくらいだったのに、とうとう息苦しくなって、唇が離れてしまった。  
それが寂しくて、下を向いて唇を噛む。  
「美果さん、顔を見せて下さい」  
旦那様が言い聞かせるように仰って、私のあごを指先で持ち上げられる。  
目が合うと、あの方は少し微笑んでこちらをご覧になっていた。  
その表情を見てしまったら、もう。  
「旦那様……」  
「はい」  
「私、旦那様のことが好きです」  
自覚するのに長い月日を要した本心が、口をついて出る。  
不思議と、慌てたり焦ったりとか、そういった気分には全くならなかった。  
「僕も、美果さんのことが好きですよ」  
目を細めて言って、今度は旦那様の方から唇を重ねてこられる。  
胸を温かい物が満たし、鼻の奥がツンと痛くなった。  
この方が私のことを好き、だって。  
今すぐ近隣の人達に言って回りたいくらい、自分が舞い上がるのが分かる。  
旦那様が、私の機嫌を取り結ぶためではなく、本心で仰っているのが分かったから。  
 
互いの服を脱がせあって、改めて二人してベッドに横たわる。  
体を慈しむように撫でてもらい、期待を煽られて心臓が爆発しそうに高鳴った。  
「あ……」  
ようやく旦那様のお手が胸にたどり着き、乳房を包み込む。  
どこまでも優しいその手つきが嬉しくて、私はまた泣きそうになった。  
「あっ……や……あ……」  
旦那様の指が乳首を擦るたび、声が出てしまう。  
この半年間、一人寝の寂しさに耐えかねて自分で触ったときより、ずっとずっと気持ちいい。  
お体を引き寄せてせがむと、旦那様はそこを丹念に愛撫して下さる。  
快感と喜び、旦那様を好きだと思う気持ちがごちゃ混ぜになり、胸が詰まった。  
もっとしてほしい、ずっとこうしていたい。  
ただそれだけで、他一切のことは頭の中から消え去っていく。  
息が荒くなり、顔は火がついたように熱く火照っていて。  
胸に置かれていた旦那様のお手が次第に体を下りていくのを、ぼんやりと感じていた。  
ウエストやおへその辺りで止まるのがもどかしくて、左右に身を捩る。  
私に余裕がないのが愉快なのか、旦那様が時折クスクスと笑い声を上げられるのが、ちょっと悔しい。  
二人で暮らしていた頃は、よくこうやって焦らされていた。  
最初は気丈に振舞っていても、ついには欲しくてたまらなくなり、私がいつも負けていたっけ。  
「美果さん?」  
懐かしさにお手を取りギュッと握ると、旦那様が怪訝そうに尋ねてこられる。  
しかし、触って欲しい場所にお手を押し付けると、私の言いたいことが伝わったようだった。  
求めに応え、旦那様が私の脚の間に指を滑り込ませられる。  
目的の場所に着いた瞬間、ぬるりとした感触がし、顔がさらに熱くなる。  
旦那様はほうっと感心したように息をつき、遠慮がちに指を動かされるばかり。  
黙っていられると、なんか、気まずい。  
「あの、……そんなに?」  
驚くほど濡れているんですか、と問いかけると、ややあって旦那様が頷かれる。  
「ええ。ひどく潤んでいて、僕のことを誘っています」  
その周囲をなぞりながら旦那様が仰って、私の顔を覗き込まれる。  
返答に困って目をつぶると、またキスしてもらえた。  
指が動くたびに体をびくつかせながらも、懸命に応じる。  
全身に力が入り、両方から刺激を受けて余計に追いつめられた。  
「んっ、あ……あっ!」  
肉芽を指先で弾くように刺激され、短く叫んでしまう。  
快感のあまり、閉じた目の裏が白く光る思いがした。  
「あっ……んんっ」  
指とは違う物がそこに触れて、今度は驚きで体が跳ねる。  
焦らすこともせず、旦那様がいきなり私の腰を抱え込んで、そこに舌を届かされたから。  
「やっ……あ……あぁ……」  
甘い物を舐めるように旦那様の舌が動き、秘所をなぶる。  
恥ずかしさと気持ちよさがごちゃまぜになって、私はお尻をもぞもぞさせた。  
そんな風にされるなんて耐えられないと思うのに、腰が抜けるくらいに気持ちいい。  
もっとぐしょぐしょになるくらいに舐めて欲しい、許してもうやめてと言いたくなるほど愛撫して欲しい。  
大きく開かされた脚を閉じることも忘れ、まるで溺れてでもいるかのように激しく呼吸しながら旦那様に身を委ねる。  
頭の中が沸騰したように熱くなり、喘ぎと呻きの繰り返しで喉の奥がジンと痛んだ。  
「あ、だめ……。あ……あああっ!」  
旦那様の責めに、体がついに音を上げる。  
腰だけでなく全身を震わせて、私は、自分でも驚くほどの声を上げて達してしまった。  
大波が去った後も、小さな波がそれこそ波状攻撃を仕掛けてきて、危うく気を失ってしまいそうになった。  
 
「美果さん」  
旦那様に呼ばれ、視線だけで応える。  
まだ胸がドキドキして、下半身の震えが止まらない。  
久しぶりなのに、旦那様はなんでこんなに私を気持ちよくさせられるんだろう。  
まだ何もしてない自分と目の前の方を比べ、私は顔をしかめた。  
旦那様だけなんてずるい、私にだって気持ちよくさせて欲しい。  
お腹に力を入れて起き上がり、あべこべに旦那様を押し倒す。  
ぽかんとしていらっしゃるうちに、パジャマをお脱がせしてベッドの下に放った。  
ちょっと行儀が悪いけど、この際だから仕方ない。  
さらに姿勢を低くし、旦那様の下着に手を掛ける。  
一気に引き下ろすと、久しぶりに見るアレが目に飛び込んできた。  
握りこんで擦り上げると、旦那様がうっと苦しそうな表情をされる。  
そうだ、アパートにいる時もこうだったっけ。  
私のことを敏感だと笑うくせに、ちょっと触っただけでそんな顔をされるなんて、旦那様だって十分に敏感だ。  
主導権を取り返して気分が良くなり、さらに手の動きを速める。  
いくらもしないうちにアレは固さを増し、手触りがまるで違ってきた。  
「美果さん」  
旦那様が、困ったような、何かをねだるような表情で私の名を呼ばれる。  
頷いて、私はアレを口の中に納めた。  
唇で柔らかく擦り上げ、舌を使って舐め上げてもみる。  
久しぶりだからぎこちないのだけど、旦那様はまた苦しそうに眉根を寄せ、深く息を吐かれた。  
「んっ……。我慢しなくても、構いませんよ」  
そう言ったのだけど、旦那様は頑なに首を左右に振られる。  
「やっと、美果さんと睦みあえているのに。僕が不甲斐ないところを見せるわけにはいきません」  
別に、不甲斐ないなんて思わないけど。  
必死に堪えておられるのがおかしくて、私は少し悪乗りすることにした。  
「あ、っ……」  
舌先でアレの輪郭をなぞり上げると、旦那様が脚をわななかせて声を上げられる。  
きっと、もう少し。  
先端を卑猥な音を立てて吸い上げ、根元を微妙な加減でしつこく擦り上げて追いつめると、旦那様はついに音を上げられた。  
「うっ……」  
小さな声と共に、私の口の中に生温かい物が放たれて、しゅうっと音がするみたいに旦那様の体から力が抜ける。  
やったぁ、という達成感が胸に湧いて、私は喉を鳴らして口の中にある物を飲み干した。  
なんだか、前よりも特別な味がしたようだった。  
 
 
場違いににやにやしていると、旦那様がついと立ち上がり、クローゼットを開けられた。  
がさごそと何かを探されているのを見るともなく見ていると、小さなくしゃみが出る。  
「美果さん、布団をかぶっていなさい」  
少し慌てたような声で旦那様が仰って、私は素直に言いつけに従った。  
クロゼットの閉まる音がして、旦那様がこっちに戻ってこられる。  
私に背を向けて手を動かされているのを見て、旦那様の探し物の正体に思い至った。  
そうか。でも、あれっ……?。  
理由の分からないの違和感を覚え、布団の中で何度かまばたきをする。  
何だろう、これは……と考えようとした時、物音が止んだ。  
布団を剥がれ、代わりに旦那様が覆いかぶさってこられる。  
その目に情欲の光を見て取って、私は吐こうとした息を飲み込んだ。  
いつも優しい旦那様だけど、閨の時に限っては、たまに怖いほど真剣になられることがある。  
半年ほどもご無沙汰だったのに、ちゃんとお相手できるだろうか。  
久しぶりだし、痛かったらどうしよう。  
「美果さん、僕につかまっていらっしゃい」  
私が身構えたのが分かったのか、旦那様が表情を和らげて優しく仰る。  
お言葉の通りにすると、クスッと小さい笑い声が聞こえてきた。  
不安を和らげて下さるなんてやっぱり優しいけれど、私が素直に従ったのが、そんなに面白いのだろうか。  
こういうときに笑うなんて、ムードが無いと睨もうとしたその時、アレがゆっくりと押し込まれてきた。  
「あ……んっ……」  
私に負荷をかけないようにと、旦那様が気を使われているのが分かる。  
一息に挿れるより、ゆっくりする方が男性には大変なはずなのに。  
それより何より、思ったほど痛くない。  
 
ホッとして、私は体の力をなるべく抜いて協力した。  
「美果さんのここは、僕のためにあるのですから。間が開いても、拒むようなことはありませんよ」  
全部入ったところで、旦那様が珍しく調子に乗った発言をされる。  
いつもなら、何言ってんですかと軽くいなすところなのに、今は全くそんな気にはならない。  
久しぶりだし、気遣ってもらえてすごく嬉しいし。  
心底幸せな気持ちで、旦那様の頬にキスをする。  
それを合図としたかのように、旦那様が動かれ始める。  
アレが中をうがつ久しぶりの感触は、体がちりちりと熱く焼けるようで、あっという間に呼吸が乱れてくる。  
頭の中がぼうっと白く霞んで、心細くなって。  
私は強い力で、まるでぶら下がるようにして旦那様にしがみついた。  
「美果さん、これでは動けません」  
旦那様が苦笑いして仰る。  
「手を握ってあげましょう。それなら、大丈夫でしょう?」  
私の不安を見透かすかのように、旦那様が私の手を外させてご自分の手の平を重ねられる。  
指を絡めて握ってもらうと、なるほど落ち着く。  
頷いて笑ってみせると、旦那様が目を細められる。  
「では、いきますよ」  
腰を深く沈めては後戻りされ、緩急の幅がきつくなっても、もう心が揺れることはなかった。  
圧迫に耐え切れず手に力を入れても、旦那様も同じように握り返して下さるのがとても嬉しくて。  
この方とのセックスが、こんなにも温かくて幸せな物であったことが思い出されてくる。  
体を起こされて繋がる角度を変えたり、急に腰を止めて焦らされたりするのも、とても懐かしかった。  
何かが目尻を伝って落ちる感触に、自分が泣いていることを知る。  
嬉しくて涙が出るなんて、今までの人生には無かった。  
「旦那様っ…………あぁ……んっ……」  
うっとりと蕩けきった声で、何度も旦那様を呼ぶ。  
はい、とそのたびに応えて下さるのが、輪をかけて私を喜ばせる。  
私がついていてあげなければ……なんて、偉そうに考えていたこともあるけれど。  
本当は、旦那様がいらっしゃらなければ困るのは、私の方だった。  
もうだめかと思っていたけれど、また会えてこうして体を重ねられる幸せを思った。  
ずっとこうしていられたらいいのに、明日帰るなんていやだ。  
「んっ……。旦那様……私、明日……」  
引き止めて欲しくて、息が上がっているのに語りかける。  
帰りたくなんかない、と続けようとしたその口を、旦那様の唇が一息にふさぐ。  
「く、んっ……ん……」  
舌を絡められ、吸われて意識が飛びそうになる。  
大きな熱が、解放を求めて身体中を荒れ狂って私を追いつめる。  
ああ、もうだめ。  
薄れる意識の中で、私は旦那様のキスから逃げて大きく叫び、達した。  
 
絶頂の余韻に体を激しく震わせている私を、旦那様が抱き上げられる。  
肩に手を回させてもらい、抱きついてやっと人心地がついた思いがした。  
でも、まだ指先がぴりぴりして、うまく力が入らない。  
指を一本ずつ動かして、体を元に戻そうとする。  
「美果さん」  
旦那様が、私を落ち着かせるように背中を撫でてくれる。  
そうだ、旦那様はまだのはず。  
抱きついた腕を少し緩め、ゆっくりとお尻を持ち上げる。  
お腹に力を入れて、今度は私から動き始めた。  
旦那様のためなんだけど、でも、やっぱり自分も気持ちよくなってしまう。  
今しがた達したばかりなのに、何てはしたない。  
気をそらすために、旦那様の首筋に吸い付いてみても、あまり効果がなかった。  
「旦那様、お願いします……。私……」  
申し訳ない思いで頼むと、旦那様がまた私の背を撫でて下さる。  
その手が私の腰までやってきて、掴んで下から大きく突き上げられ始める。  
「あんっ……あ……あぁ……」  
我慢しようと唇を噛み締める力は弱く、また大きく喘いでしまう。  
だめ、まだだめとうわ言のように自分に何度も言い聞かせ、ぎりぎりのところで耐え続けた。  
その甲斐あって、精一杯締め上げていた旦那様のアレが、ようやく私の中で脈打ち大きく震える。  
低い呻きがうなじを撫でていき、旦那様が絶頂を迎えられたことを知った。  
どうにか頑張れた……とホッとしたところで、目の前が真っ暗になって、私はそのまま意識を手放した。  
 
 
温かい物が頬にくっついている感触に気付いて、目を覚ます。  
どれくらい気を失っていたのか、私は最初のようにきちんとベッドに横たわっていた。  
頬に触れていたのは、青いパジャマを着た旦那様の胸だった。  
向こうのアパートにいた頃と何も変わらない安心感に、深呼吸をして旦那様の背中に腕を回す。  
目を覚ましたくせに、まるで雲の上にでも乗っているようにふわふわとした心地良いまどろみが、私をまた眠りへと誘う。  
素直に従おうと目を閉じた時、さっきの違和感の正体が突如目の前に現れ、私はあっと声を上げた。  
旦那様一人暮らしのこの部屋に、なんでゴムなんかがあるんだろう。  
まさか、他に……。  
不安が黒雲のように広がり、今までの心地良さが体から一掃される。  
聞きたくないけど、でも、どうしても聞かなければならない。  
「旦那様」  
眠っていらっしゃるかと思ったけれど、呼びかけると、はいと返事がある。  
「さっき使った、あれ、は……。誰か他の方のための……」  
怖い上に事後の雰囲気をぶち壊しにする質問を、恐る恐る口にする。  
若くていい男が新天地で新しい恋をするなど、きっとよくあることに違いない。  
でも私は、それがこの方にも当てはまるとは思いたくなかった。  
「あれとは、あれのことですか?」  
「はい。あれ、です……」  
名称をぼかしたために、旦那様の確認が入る。  
「あれは、引越しの時に海音寺荘から持ってきたものですよ」  
「えっ?」  
「心配には及びません。あれは、美果さんと使っていた分の残りです」  
安心しなさい、とでもいうように旦那様が笑みを浮かべて仰るのに、私は胸を大きくなで下ろした。  
よかった、杞憂だったのか。  
だけどあんな物、引越しの荷物に入れるような種類の物ではないはずだ、と私の頭の中に疑問符が浮かんだ。  
「でも、なんでこんなの、わざわざ持ってきたんですか?まさかこっちで使うた……」  
「違います」  
重ねて質問すると、それに被せるように旦那様が否定の言葉を返される。  
「僕がこれを持ってこちらに来たのは、美果さんのためです」  
「え、私の?」  
「ええ。妙齢の女性の部屋にこのような物を置いていくのは、教育上よろしくありませんからね」  
だから隔離したのですよ、と旦那様が説明されて、私は目をまん丸に大きく見開いた。  
「教育上って、私はもう大人なんですけど」  
「分かっています。しかしこういった物は、あれば使いたくなるのが人の常ですから」  
その言葉に心底呆れてしまった。  
私が心を不安に揺らめかせていたあの時、旦那様はそんなくだらないことを考えていらっしゃったなんて。  
本当に、つくづくマイペースな方だ。  
「私がこれを見て妙な気を起こさないようにという、旦那様のお考えだったんですか?」  
「はい」  
「若い女が持つのは悪くても、30歳目前のオジサンが持ってるのは構わないんですか?」  
私についてそう仰るならば、旦那様だって、あれば使いたくなるだろうに。  
男の人だったら、女よりももっと「そういう気」になりそうなものなのに、そっちの可能性は無視なのか。  
なんか、釈然としない。  
「美果さん、『オジサン』と言ったことを訂正なさい。僕はまだそんな年ではありません」  
旦那様が眉根を寄せて仰るのに私は、はぁ……と、しまりのない返事をした。  
確かに、自分のご主人様に対して少々失礼だったかもしれない。  
「他の者が美果さんをさらっていかないようにという、まじないです。  
捨ててしまわなかったのは、まだ使える物を捨てると、あなたに顔向けできなくなるからです」  
そういえば、同居を始めた当初よく私は「むやみに物を捨てちゃいけません」とこの方に言い含めた気がする。  
律儀にそれを守って下さっていたのなら、むしろ喜ぶべきことなのかな。  
 
 
「それよりも美果さん。その質問をしたいのは僕の方です」  
旦那様の声のトーンが変わる。  
「半年間、あなたに他の者が手を触れませんでしたか?」  
私の髪に遠慮がちに触れながら、旦那様が不安げな面持ちで仰る。  
そんなことあるわけなかったから、私は即座に首を振った。  
「ええ。残念ながら、私は理想が高いんです。寂しくても、妙な男とゆきずりになんて、絶対にしたくありませんから」  
もしそんなことをしていれば、私はきっと自分が許せなかったと思う。  
 
「そうですか。しかし、寂しかったんですか?」  
「えっ……」  
旦那様に顔を覗き込まれ、あたふたしてしまう。  
「ちょっとだけ。本当に、ほんのちょっとです。別に『旦那様じゃなきゃいやだ』なんて、思ってませんから」  
寂しいなんて、口が滑ってしまったかもしれない。  
こんなことを言えば、旦那様が調子に乗られるのは分かりきっているのに、私の勘も鈍ったものだ。  
「手のかかる人が急にいなくなって、暇で暇で物足りなくなって。  
これって、寂しいってことなのかなって思っただけです。ほら、私は働き者ですから」  
「ええ。美果さんは近頃の若者には珍しいほどの、働き者ですね」  
にこにこ笑いながら、旦那様が褒めてくれる。  
この方に頭を撫でてもらうのも、随分久しぶりのことだ。  
「旦那様より若くて頭が良くてハンサムで、センスとお金と気配りと頼りがいもある男なんて、世の中に溢れ返っているのに。  
折悪しく、本当にたまたま、この半年間出会わなかっただけです」  
「そうですか」  
「ええ。現れたら、さっさと乗り換えてやったのに」  
そう言うと、旦那様は私の頭を撫でるお手をそのままに、ふむと頷かれた。  
「奇遇ですね。僕も、理想が高いんです」  
「えっ?」  
「美果さんより可愛らしくて、僕のことを一心に考えてくれる女性とは、出会えませんでした」  
私の頬を指でなぞり、旦那様が言葉を続けられる。  
あっという間に、頬が熱を持つのが分かった。  
そんな風に言われたら、若いだのハンサムだのと、馬鹿な条件を並べ立てた自分がひどく滑稽に思える。  
今のは言葉の綾というやつで、本当はそんな条件なんかどうでもいい。  
同じ部屋に旦那様と住んで、身の回りのお世話をして、たまには夜に仲良くして。  
そんな生活ができさえすれば、私は他に何も望むことはない。  
でも本当に、私はこっちに引っ越してきてもいいんだろうか。  
さっきそう言ってもらったはずなのに、なぜだか今になって疑問が湧いてくる。  
旦那様も、つい言葉の勢いで仰ったんじゃないだろうか。  
「あの、旦那様……。私、こっちに来ても、本当にいいんでしょうか……」  
声が震えて、自分でも聞き取れないくらい小さくなる。  
新しい道を歩まれている旦那様に、頼るような真似をするのは良くないのかもしれない。  
「美果さんは、引っ越してくることに不安がありますか?」  
やはり食べ物の問題ですか?と重ねて問われ、私はまた、へっと間抜けな声を上げた。  
「いいんですか?私がこの部屋に、旦那様と一緒に住まわせて頂くんですよ?」  
「不都合ですか?こちらは海音寺荘よりは広いし、新しくて丈夫ですよ?」  
何を言っているんだという顔をして仰る旦那様と、同じような顔で二人して見詰め合う。  
お互いに首を傾げて、そのまましばらく微動だにしなかった。  
 
 
「あちらのアパートの賃貸契約のことが気に掛かるのですか?」  
旦那様が問われて、そういえばと思考がそちらへ持っていかれる。  
そうだ、急に引っ越すとなれば、向こうの大家さんに違約金とか取られるんじゃないだろうか。  
不安になって言うと、旦那様は私を安心させるように微笑まれた。  
「渋い顔はされるかもしれませんが、許して頂けるでしょう。もし怒られたら、言い出したのは僕だからと謝りますよ」  
「はい……」  
「こちらに来てからも、僕は大家さんと時々連絡を取っていました。近況報告のついでに、美果さんの様子を尋ねたりもして」  
「そうなんですか?」  
「ええ。月に一度くらいは、電話をかけていましたよ。こちらの名産品を送ったこともあります」  
「え?だって大家さんは、旦那様の連絡先を知らないって…」  
私の言葉に、旦那様は驚いたように目を見開かれる。  
「こちらの住所は教えていましたよ?何かあったら、ご連絡下さいと」  
「だったら、なんで…」  
大家さんは、知らないなんて言ったんだろう。  
意図が分からなくて、私は首を傾げた。  
同じく考え込むような顔をなさった旦那様が、何かを思いついた表情になられる。  
「美果さん。あなたはどうやら、大家さんに一本取られたようですね」  
「えっ?」  
「僕の連絡先を教えないでおけば、あなたが大学に来られるということを、大家さんは見抜かれたのでしょう」  
 
「あ!」  
…………やられた。  
言われてみれば、その通りだ。  
このアパートの住所を知っていれば、私は綿入れを一方的に送りつけ、それで終わりになっていただろうと思う。  
それができなかったから、大学の住所を調べて、こちらへ赴くという行動を取る羽目になったのだし。  
「ね。あなたがこちらへ来ると言っても、大家さんは怒らないと思いませんか」  
クスクス笑いながら、旦那様が楽しげに仰る。  
悔しいけれど、きっとそのとおりになるだろうと思った。  
「美果さんは行動派ですからね。大家さんにとっては、その想像をすることは容易だったのでしょう。  
長く生きていらっしゃる方は、そういうことに思いが至るようになるものです」  
年を取るってことは、賢くなるってことになるのかな。  
 
 
「ですから、美果さん。引越しの準備が整えば、すぐにでも来て欲しいと思っています」  
「本当ですか?私をからかってらっしゃるんじゃ、ありませんよね?」  
「当たり前です。僕はそんな悪趣味なことはいたしません」  
心外だという顔を旦那様がされて、私はやっと、その言葉を素直に受け取ることができた。  
「ノーベル賞を取るという約束は、まだ果たせていません。このままでは僕は嘘つきになってしまいます。  
僕が賞を取って、美果さんが賞金を持ち逃げするのでしょう?離れていては、それもできないではありませんか」  
そういえば、寝物語に、そんな話をしたような気がする。  
よく覚えていらっしゃったものだ、私なんかすっかり忘れてしまっていたのに。  
「いいことを教えてあげましょう。ノーベル賞の賞金は非課税だから、額面そのままもらえるんです。丸儲けですよ」  
「え、本当ですか」  
がぜん元気になった自分に、心の中で冷や汗をかく。  
現金の話をされて目を見開くのは、庶民のさがだと、旦那様にはどうか好意的に受け取って欲しい。  
「ええ。僕が独り占めしそうだと思われるなら、授賞式には美果さんもついていらっしゃい」  
「いいんですか?」  
「構わないでしょう。ああいった場には、一人きりでは行かないものです」  
旦那様の言葉に、以前行った弓島家のパーティーのことを思い出した。  
「ああいうのって、女連れじゃないとだめなんですか?」  
問うと、旦那様が大きく眉をひそめられる。  
「美果さん、その言い方はおよしなさい。パートナー同伴、です」  
「はあ。同伴で」  
現金の話の時は無反応なのに、こういう突っ込みはきちんとなさる。  
「授賞式って、どこでやるんですか?」  
「スウェーデンのストックホルムですよ。北欧の、とても寒い国です」  
「寒い国……」  
「ええ。オーロラが出るくらいに寒い地ですよ」  
それならすごく遠くになる、渡航費とか結構かかるんじゃないんだろうか。  
「それって、まさか自費じゃないですよね?」  
もしそうなら、とてもそんな場所には行けそうにない。  
「多分大丈夫でしょう。お前にやるからここまで取りに来いというような、ケチなことは言わないはずです。  
あれはスウェーデンの政府も関わっている、権威のある賞なのですからね」  
そうか。国家が関わっているなら、きっと太っ腹なのだろう。  
それならパーティーのお料理も豪華に違いない……と胸算用をして、頬が緩むのが分かった。  
 
「何年かかるか分かりませんが、きっと連れて行きますから。それまで僕の傍にいてくれますか?」  
すごく真剣な、男前度が確実に何割か増した表情で旦那様が仰る。  
「はい。でも、今度こそですよ?また約束を破られたんじゃたまりません」  
「ええ、頑張ります。ですから一緒に住んで、せいぜい僕の尻を叩いて下さい。  
美果さんさえよければ、僕達の関係も、もっときちんとしたいと思っています」  
「え?きちんと、ですか?」  
旦那様の言葉に、池之端家にメイドとして雇われた時の、ややこしい手続きのことを思い出す。  
別にそんなの無くっても、私は、また二人暮しができればそれだけでいい。  
「遠慮しときます。甲とか乙とか義務を負ふとか、七面倒くさい文字で一杯の真っ黒な契約書に署名するんでしょう?」  
ああいうのは、なんだか悪魔に魂を売る儀式みたいで気が進まない。  
読めと言われて書面を読んでも、頭の中がひっかき回されるみたいで気分が悪くなるし。  
「いいえ、確かそこまで文字数は多くありませんでした。色も、黒ではなくエンジ色だったように思います」  
「エンジ色、ですか」  
ちょっと読みやすそうだけど、やっぱり気が進まない。  
「契約書は、やめにしませんか?だって、読んでると眠た……く……」  
そこまで言ったところで、あくびが立て続けに出て、勝手にまぶたが下りてくる。  
もっと話していたいけれど、どうやらこの辺が限界みたいだ。  
「そうですか。ではこの話は、もう少し先にしましょうか」  
遠くで聞こえる旦那様の声に、やっとの思いで頷く。  
「お休みなさい、美果さん」  
「お……休み……なさい……」  
名残惜しいけど、さっさと寝て明日に備えよう。  
朝食には、旦那様の好きな甘い玉子焼きと、きんぴらごぼうに豚汁も作ろうか。  
コタツの上に並びきれないくらいおかずを並べて、旦那様を喜ばせたい。  
昼間のスーパーは確か24時間営業だったから、起きたらひとっ走り買い物に行こう。  
眠りに落ちる寸前、旦那様の温もりに包まれながら、うとうと考える。  
二人分の朝食を作るのは、自分だけの分を作る時より、きっと何倍も楽しい。  
早く、朝になればいいな。  
 
 
 
──第11話終わり──  
 

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