私が、海音寺荘を引き払って旦那様のアパートに引っ越したのは、5月になる少し前だった。
本当はもう少し早く行くつもりだったのだけど、アルバイトの後任が見つからず、辞めるのがずれ込んだためだ。
その一方で、心配していた海音寺荘の賃貸契約の問題は、あっさりと片付いた。
「遅かれ早かれ、そうなると思っていましたのよ」
旦那様のアパートから戻った日の夕方、さっそくお部屋を訪ねて詫びると、大家さんは笑ってそう言われた。
なんでも旦那様は「いつか必ず美果さんを呼び寄せます」と大家さんに宣言されていたらしい。
だから、私が契約途中で引っ越すことは、大家さんには全くの想定内だったそうなのだ。
全くもう、私に隠れて二人で何を相談していたんだか。
もう一度私と暮らすことを、旦那様が人様に言うくらい固く決めておられたのは、そりゃあ嬉しいけれど。
こんなんだったら、旦那様が行動を起こして下さるまで、意地を張り通してやればよかったと思った。
次に旦那様と会ったのは、年の瀬だった。
大学が冬休みに入ったのを利用して、旦那様がこちらへ戻ってこられたのだ。
旦那様ファンの近隣のおば様お婆様方はそりゃあ喜んで、先を争うように歓待していた。
騒がしいのが一段落すると、私はあの方がご両親とお兄様のお墓参りをされるお供をした。
墓石周りの雑草を抜いて、水を掛けて花とお線香を供えて。
手を合わせてじっと目をつぶっておられる旦那様の後ろで、私も神妙に頭をたれていた。
三名がご存命だった頃は言葉を交わすことも叶わなかった下っ端メイドの自分が、こうしているのがなんだか不思議だった。
その帰り道、旦那様と私は初めて手をつないだ。
前を歩かれていた旦那様が足を止めて、私が追いつくのを待って手を差し出されて。
取られた手が優しく握られる感触に、びっくりしすぎて声が出なくなった。
ぎこちなく指先が触れるくらいのつなぎ方だったけれど、私にはとてもとても刺激が強くて。
今まで、手を握る指を絡めるといえば、閨の時だけに限られていたから。
歩き方も妙にぎくしゃくとしてしまって、はたから見ればきっと、私が旦那様に連行されているように見えたに違いない。
信号待ちの時も、切符を買う時でさえあの方はお手を離されることはなくて。
そのまま、アパートに着くまでドキドキが止まらなかった。
関西に行かれて何か変わられたのかな……などと考えて、その日はあまり眠れなかった気がする。
年末までは、私もぎりぎりまで忙しくなかったので、一緒の時間を長く持つことができた。
一緒に食事をして、お茶を飲みながらとりとめのないことをあれこれ話して。
布団は一組しかないから、夜はまあ、それなりに。
年が明けると、アクセサリー店の初売りで忙しくなったので、一緒にいられる時間は大幅に減った。
それでも、ちゃんと観音様に初詣をして、帰りには私が前に働いていた茶店で食事をして帰った。
お正月が終ると、また離れ離れの生活に戻ってしまったけれど。
寂しさを埋めるように、冬から春にかけて何通か手紙を交換しあって、やっと私は旦那様の待つ関西へ引っ越した。
思っていたほどの変化もなく、私はすぐに関西での生活に溶け込めるかのように思えた。
しかしものの数日で、ちょっとした違和感を覚えるようになった。
旦那様が、妙に優しいのだ。
元々すごくお優しい方なんだけど、引越し後はなんだか、私をとても労わって下さる。
たまに朝食を作って下さるし、休みの日には外へ連れ出して、あちこちを案内して下さる。
おかげで楽をさせて頂いているのだが、暢気に喜んでいたのは最初だけで、そのうちに居心地が悪くなってきた。
どう考えても、メイドが主人にして頂くこととしては行きすぎだ。
ここだけの話だけれど、閨の時にも今までしたことのない体位を取らされ、面食らうことがこのところ続いている。
変だ変だともやもやした後、ある結論に達した。
ずっとアパートにいるから細々と考えてしまうのだろう、向こうにいた頃みたいに私も働こう。
大学という固い場所に就職されたとはいえ、旦那様のお給料を当てにしてばかりもいられないし。
そう思って相談したのだが、あの方は私を止めてこう仰った。
「しばらくはアルバイトをせず、こちらに慣れることを第一に考えて下さい」
関西に住んだことのない私への、思いやりに満ちた言葉に従わないわけにはいかない。
というわけで私は、メイドの仕事だけに専念することになった。
それなら全てをきっちりやろうと、三畳ほどの納戸を片付けて女中部屋とさせてもらうことにした。
迷われるあの方に、お仕事を頑張って頂くため、私が邪魔をしない環境を作りましょうと強引に押し切って。
といっても、最初の2週間ほどは旦那様のベッドに連日引きずり込まれて、そこで寝る羽目になってしまったのだけれども。
そして6月、私が関西に来て一ヶ月ほど経ったある日のこと。
海音寺荘の大家さんが、私宛に一通の封筒を送ってこられた。
何の用事かと首を傾げながら封を切ると、中には転送シールの貼られた一枚の葉書が入っていた。
「あ……」
差出人が故郷の父であるのを認めて、胸に不快な動悸を感じる。
血の気が引いたように指先が冷たくなり、自分の表情が苦々しく歪むのが分かった。
葉書には、父の手で池之端家の住所が書かれた上から、機械文字で打ち出された海音寺荘の住所が貼られている。
嫌な胸騒ぎに震える手で葉書を裏返すと、そこには簡潔な文面があった。
5月の末に手術をすること、入院する病院のこと。
短いながらも驚くべき内容に、私は葉書を何度も読み返した。
入院先は、母が息を引き取った病院であることに気付き、心臓がまた嫌な跳ね方をする。
母の死後あまり間をあけず再婚して、あの性悪の後妻と連れ子をうちへ引き込んだ父。
彼らにひどい仕打ちを受けたおかげで、私は中学卒業と同時に半ば家出のような形で池之端家にメイド奉公に出た。
あの日から今の今まで、実家からは電話の一回も葉書の一枚もなかったのに。
さては馬鹿オヤジ、病を得て気弱になったか。
せせら笑おうとするが、心とは裏腹に、表情は硬くこわばったまま動かなかった。
商売柄、早寝早起きでとにかく健康だった父が入院だなんてと、驚きと不安が先に立つ。
もしかしたら、すごく悪いのかもしれない。
死期が近いのを悟って、最後に一目私の顔が見たくて葉書をよこしたのかもしれない。
次々に浮かんでくる悪い想像を振り払おうと、所在無く立ったり座ったりを繰り返す。
家を出て以来里帰りもしていないから、もう7年ほど会ってない計算になる。
割り切れない思いはあるけれど、ここはやはり見舞いに行くべきだろうか。
いや、でも……。
頭の中がぐるぐるして、考えがまとまらずに気分まで悪くなってくる。
一人では結論が出せそうもなく、私は旦那様のお帰りを待って相談することにした。
「それは心配です。美果さん、すぐお父上を見舞うべきです」
その夜、葉書を読んだ旦那様は即座にきっぱりと仰った。
多分そうするのが正しいのだろうけど、でも……。
はいと頷くことができずに困っていると、旦那様が私の手を取って下さる。
「病気の方を見舞って元気づけるのは、健康であればこそできるのです。
美果さんがご実家に対して複雑な思いを抱いているのは存じていますが、ここはお父上の病状を確認しなければ」
とにかく一度お行きなさい、こっそり様子をうかがうだけでも……と重ねて促され、私はようやく首を縦に振ることができた。
「申し訳ありません、私用でこんな……」
「構いませんよ。そうだ、いっそのこと僕もお供しますから二人で行きましょう」
「えっ」
「一度ご挨拶せねばと思っていたのです。この際ですから」
「は、はあ……」
なんで旦那様が、うちの父に会う必要があるんだろう。
分からなかったけど、どうしても一人で行くと断るようなことでもなかったので、二人で行くことにした。
私一人だと、不安に押し潰されそうで心細いから。
結局、その週末に故郷へ行くことになった。
土曜日の朝にアパートを出て、特急を乗り継いで久しぶりの故郷に向かう。
病院の最寄駅で降りて田舎道を歩いていくと、周囲の雰囲気にそぐわない近代的な建物が見えてきた。
母が入院していた頃より、随分大きくなっている。
病院の立派さに、父の病状への悪い想像が胸を潰しそうに大きくなる。
「大丈夫ですか、美果さん」
足を止めた私に旦那様が呼びかけられる。
爪が食い込むくらいに握り締めていた手を取られ、はっとする。
一人で行くんじゃない、隣に旦那様がいて下さるのだ。
難しい病気の話が出ても、旦那様がかみ砕いて説明して下さるはず。
もし継母や義理の兄弟がいても、前みたいに一人で対峙しなくていい。
心配そうに私の顔を見ておられる旦那様に頷いてみせ、門をくぐる。
病院特有の白く清潔なつくりも、やはり母がいた頃とは違う。
しかし父が病室の番号を葉書に書いていたので、ほぼ迷わずにたどり着くことができた。
今は個人情報のナントカで、名前は戸口に出ないらしい。
息を整えて、小さくノックしてからドアを開ける。
そっと中をうかがうと、窓からの風にカーテンが揺れていて、殺風景な病室に表情を作っていた。
7年ぶりに会う父は、ノックの音に反応したのか、ベッドから起き上がってまっすぐ戸口の方を向いていた。
「……美果」
呟いた父の顔色は良く、元気そうだ。
道々の悪い想像が外れて、私はこっそり胸をなで下ろした。
戸口で突っ立っているのも妙なので、ベッドのそばへ行く。
不思議そうに旦那様を見ている父に、この方が私のご主人様であることを紹介すると、父は慌てて姿勢を正した。
「美果がいつもお世話になっております」
ベッドの上でえらく深々と頭を下げる父の姿に、本来は私もこうすべきなのだと思いだす。
あれをしろこれをするなと、敬意のかけらもない態度でこの方に接している自分はやはり失礼なのだ。
私は慌てて旦那様に椅子を勧めた。
病状を問う私に、父が手術の説明書を見せて、無事成功したよと説明する。
資料の下の同意書には、父と後妻の署名が見えた。
そういえば、あの人はどうしたんだろう、入院患者に付き添いもしていないなんて。
ベッド周りもどことなく乱雑で、手が行き届いていないように見える。
「父さん、あの人はあんまり来てないの?」
「ああ。店があるからね、毎日は来られないんだ」
私が実家にいた頃は店番も嫌がったのに、あの人も少しは改心したのだろうか。
「去年、店を畳んでコンビニにしたんだ。バイトをあまり雇ってないからね」
「え、店やめたの?」
続く父の言葉にびっくりしすぎて、吐くはずの息を飲み込んでしまい何も言えなくなる。
「客足が遠のいてね。このまま昔ながらの商いを続けるよりも、思い切って商売換えしたのさ」
「そ、そう……」
確かに、今は果実店よりスーパーでフルーツを買う人が大半なのだろう、私もそうだ。
それは分かるのだけど、店のことは私の小さい頃の記憶と切り離せないから、商売替えはまるで自分の子供時代がなくなったかのように思えて。
配達に使っていたバイクと、店名の入った帽子や前掛けの記憶がよみがえり、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
胸の内の動揺を悟られないために、壁際のカゴの中にある洗濯物を片付けようと思い立つ。
そう断って、父が口を開く前にさっさと病室を出た私は、2階下にあるランドリー室に向かった。
洗濯機のスイッチを入れても病室に帰る気になれなくて、そこにあった椅子に腰掛ける。
うちの店がなくなってしまったなんて。
さっきの父の言葉が、まだ自分の中で実感を伴わない。
お見舞いの果物盛りカゴや贈答用果物も扱う、小さくとも由緒のある果実店だったのに。
小学生の頃には、両親の商売のことを作文に書いて、先生に褒めてもらったこともあるのに。
家を出てから一度も帰郷しなかった身ではあるけれど、すごくショックだった。
洗濯物を乾かし、病室へ戻る。
旦那様と父は、和気あいあいといった様子でお喋りをしていた。
「美果さんお帰りなさい。お父上に、果物の話をお聞きしていました」
旦那様がにこやかに仰るのに、父が同意するように大きく頷く。
初対面で年齢の違う父のような人と、旦那様の話が合うのが不思議だった。
果汁が豊富で美味しいメロンの選び方、露地のみかんとハウスみかんの違い。
ベッドの足元を台の代わりにして洗濯物を畳みながら、二人の話を聞くともなく聞いた。
さほど面白いとも思えない話なのに、旦那様が興味深げに聞いて下さるので父は饒舌に喋る。
何となくその輪には入りにくくて、私は父に何か欲しい物があるかを聞いて、買出しに行くことにした。
病院から少し歩くと、大きなスーパーがあることは知っていたし。
「いい考えですね。僕は少し、お父上と男の話を致しますから」
旦那様が了承して下さったので、病室を出て階段を下りる。
お見舞いに来たはずなのに、用事を片付けているのが何だかしっくりこなかった。
それより、男の話って何のことだろう。
まさかいかがわしい方面の……と眉根を寄せて考えながら、スーパーに続く道を歩いた。
売場をあちこち歩き、父に聞いた入用の物、目に付いた便利そうな物を買って病室へ戻る。
父がありがとうと言ってくれ、それにほんの少し気持ちが凪いだ。
窓から西日が入ってきて、眩しさにブラインドを下ろしたところで気付く。
「旦那様、そろそろ……」
袖を引っ張り、帰る時刻が近付いていることを小声で言うと、旦那様がああと頷かれる。
「帰るのか?」
私達のやり取りに気付いた父が尋ねてくる。
ほんの少し寂しそうなその姿に、胸がちくりと痛んだ。
アパートは遠いから……というようなことを、口の中でもごもご言い訳する。
指定席を買っているわけではないけれど、旦那様の休日を頂いているのだから、あまり遅くなるのも気が咎める。
「お気を落とされずに。明日も参りますから」
不意に旦那様が仰って、私はびっくりして息を飲んだ。
「そうですか。いや、ありがとうございます」
父も暢気に旦那様に頭を下げ、私のことはそっちのけで、二人の中で話がまとまっている。
「では僕達はこれで失礼致します。ひとまずお大事に」
旦那様が立ち上がって優雅に頭を下げられ、私の背を押される。
それに流されてしまい、私は旦那様の仰った言葉を父に訂正できないまま、病室を出てしまった。
階段を下りきったところで、傍らの方に向き直る。
「旦那様、何であんなことを仰ったんですか」
廊下を歩きながら文句を言うのだが、旦那様は顔色一つ変えられない。
「あんなに寂しそうにされては、はいさようなら、と帰るわけにはいかないでしょう」
「それは、そうですけど……」
「次いつ会えるとも限らないのです、この際ですからまとめてお父上に顔を見せておあげなさい」
「だって、明日も行くってことは、今晩帰れないってことなんですよ?」
「ええ、ですから宿を探しましょう。駅前に行けばホテルが見つかるでしょう」
旦那様は事も無げにそう仰って、私の手を掴み、握られる。
ぎこちなく手をつないだまま、私達は駅前へ今日の宿を探しに行った。
そして。
「言ったとおりじゃありませんか、もうっ!」
約二時間の後、私は旦那様に文句を言い立てていた。
まずは夕食にしましょうと仰った時、私は「ぼやぼやしてたら泊まる所にあぶれますよ」と言ったのに。
食事処選びにぐずぐず迷い、やっと夕食が終わった時にはもうかなり時計の針が進んでいて。
予想通り、駅前のホテルにはもう空きが無く、宿泊を断られたのだ。
あわててよそを当ろうとするも、地方都市にホテルは数少ない。
漫画喫茶やインターネットカフェなど、気の利いた施設も無くって。
困ってあちこち歩き回るうち、裏通りにさしかかった私達には、もう選択肢は残されていなかった。
門前に2種類の値段が告知されている、妙に艶かしい明かりを灯しているホテルに嫌々入ったのである。
一旦アパートに帰るよりも泊まりの方が安いから、などと思いつつも心中は複雑だ。
なんでこんないかがわしいホテルに泊まらなきゃいけないんだろう。
この部屋は普通だけれど、フロントには、貝殻型ベッドの部屋や天井がプラネタリウムになっている部屋の写真があったっけ。
入ったものの諦めがつかない私は、気楽な見学者さながらに室内を見て回られている旦那様の背中をにらんだ。
既にこの状況を受け入れ、ほおとかふむとか、もっともらしく頷いている暢気なあの方を。
行き当たりばったりのくせに、妙に適応力があるんだから。
「美果さんご覧なさい、ジャグジーがありますよ」
お風呂場から楽しそうな声が聞こえてきて、私は呆れて深い溜息をついた。
一緒にお風呂に入りたそうにしている旦那様を無視して、ソファに足を乗せて行儀悪く座る。
昼間の父のことを思い出して、しばし目を閉じた。
あっけないくらいにあっさりとした再会だったと思う。
継母や義理の兄弟がそこにいなかったせいもあるけれど、拍子抜けするくらいに自然だった。
実家にいた頃は、いじめられている私を助けてくれない父に対して、失望を感じていたのに。
会った途端に父に対する過去の怒りが爆発するかもしれない……という想像は、想像で終った。
これが「日にち薬」っていうやつなんだろうか。
会ったとはいっても、洗濯や買い物でほとんど席を外していたけど。
明日もう一度会ったら、父に対する自分の感情がもっとクリアになるのかな。
なんだかそう思うと不安になり、気分を変えるためにテレビを見ることにする。
面白い番組を探してリモコンを触っていると、画面がいきなり肌色一色になった。
『ご主人様おやめ下さい、いけませんっ!』
メイド服を着た女の子が、主人と呼ぶには明らかに怪しい全裸男に襲いかかられている。
揉み合う二人はもつれ込むように床に倒れ、女の子が頬を一つ張られて涙ぐむ。
クラシックなエプロンが引き裂かれ、破れたフリルの隙間から彼女の両胸がこぼれ落ちるように覗いた。
『いやっ、だめっ……。ああ……』
男の無骨な手が女の子のスカートの中に入り込み、下着を引き下ろして露になった場所に指を届かせる。
小刻みに刺激を与えられ、女の子は高い悲鳴を上げながら脚をばたつかせる。
スカートがまくれ上がり、脚の付け根が見えて心臓がどきりとする。
これは、アダルトビデオ……?
まばたきを忘れた目が画面に釘付けになる。
男はとうのたったオッサンだけど、女の子は若くて可愛くスタイルがいい。
『あぁんっ……ご主人様……』
強制的な「ご奉仕」の後、女の子が男のアレを挿れられて切なげな声で呼ぶ。
大きく揺さぶられ、小柄な彼女の体がシーツに浮き沈みしはじめる。
こんな荒っぽいセックスなんて痛いに決まってるのに、そもそもこれは演技のはずなのに。
見ていると妙に体の芯が熱くなって、呼吸も上がってくるのが分かる。
私は視線を画面に固定したまま、身震いが止まらない自分の体を抱いた。
リモコンが手からすり抜け、小さな音を立ててソファに落ちる。
『ご主人様、気持ちい……ああんっ、あんっ」
拒否していたはずの女の子が、いつの間にか媚びさえ感じさせる声で主人を呼び、あられもない格好で貫かれている。
絶え間ない喘ぎと乱れきったメイド服は、彼女が本当に快感に悶えているようにしか見えなかった。
「美果さん?」
「ひっ!」
名を呼ばれソファから飛び上がる。
弾かれたように振り向くと、バスローブを着た旦那様がこちらを不思議そうに見ておられた。
私がビデオに目を奪われているうちに、お風呂が済んだのだ。
時が止まったように見つめ合う私達の背後では、女優があんあんと喘ぎながら「ご主人様」にねだっている。
この状況はまずい、言い訳の余地も無いほどまず過ぎる。
悲鳴を上げてリモコンを拾おうとするが、リモコンは震える手をすり抜け、まるで生き物のように逃げる。
床に落ちたそれがソファの下に消え、冷や汗がどっと背筋を伝い落ちる。
私は弾かれたように前方に突進し、テレビの主電源に手刀をくれてお風呂場に逃げ込んだ。
どうしようどうしようどうしよう。
お湯に浸かって唸りながら、脚をバタバタさせる。
勢いがついて腰が浮き、私は危うく浴槽で溺れそうになった。
偶然のこととはいえ、あんなビデオに目を奪われているところを見られてしまったなんて。
女のくせにスケベのヘンタイだと思われたんじゃないだろうか、もうお嫁に行けない。
お湯には入浴剤でも入っているのか、柑橘系のいい香りがしているのに、ちっとも心が落ち着いてくれない。
せめて私が男なら、大人のたしなみだと堂々としていられるのに。
お風呂場を出た後の有効な対処方法が思い浮かばないまま、ふやける寸前でお湯から出る。
置いてあったバスローブを着て、そーっと脱衣所のドアを開けた。
漏れ聞こえる音に、旦那様がテレビで天気予報か何かを見ておられるのが分かる。
もうこうなったら、今のうちに寝てしまうしかない。
足の裏に全神経を集中させ、猫になったつもりで抜き足差し足で部屋を横切る。
大きくて立派なベッドに感心する余裕も無く入り込み、ギュッと目を閉じた。
旦那様がなるべく長くテレビに気を取られていますようにと願いながら、寝返りを打ちベッドの端に寄る。
壁を向いて寝たふりをするのだが、頭の中はかっかと熱く火照っていて、ちっとも冷めてくれない。
さっきのビデオの女優と、どうにもご主人様らしくない男とのセックス風景が脳裏によみがえって、私の血圧を上げる。
もし旦那様があんなに強引になさったら、私もあんな風にはしたなくなってしまうのだろうか。
あれがフィクションなのは明白なのに、妙に頭から離れず、自分達に置き換えて考えてしまいあわあわする。
これではだめ、もう寝る寝ると口の中で唱えていると、旦那様がこちらへ歩いてこられる気配がした。
「美果さん?」
呼びかけられても返事をせず、精一杯呼吸を整えて寝たふりを続ける。
ベッドの向こう側がギシリと沈み込み、旦那様が傍らに座られたのが分かった。
寝ているのを確かめるように肩の辺りを触られる。
それにも無反応を決め込んでいると、旦那様は掛け布団をめくり上げて隣に入ってこられた。
自分も寝ようとお考えになったのかな、と思ったその時。
むに。
「っ!?」
前触れ無くわき腹をつままれて、驚いて声にならない声が出る。
大きく跳ねた体をころんと上向かされ、思わず目を開けるとすぐ上に旦那様のお顔があった。
「あ……」
いたずらっぽい面持ちで見つめられ、さっきビデオを見ているのを見つかった時と同じにあたふたしてしまう。
私のこざかしい狸寝入りなんか、とっくにお見通しになっていたんだ。
この期に及んで知らぬふりをする知恵もない私は、旦那様を見たまま固まった。
いくらか見つめあった後、旦那様がプッと吹き出される。
また上手い言い訳の言葉が見つからなくて、頬に血が昇りっぱなしになった。
真っ赤になっているそこを隠したくて、ようやく動くようになった手で顔を覆う。
なのに女心の分からない旦那様は、私の手を掴み顔から外させられた。
口答えする間もなく唇を重ねられ、閉じるはずの目を大きく見開いてしまう。
きちんと目を閉じておられる旦那様のまつ毛が至近距離に見え、慌てて目をつむった。
軽く触れるだけのキスが、次第に深く、心にざわざわとした物を呼び起こすようなキスになってくる。
先程まで顔を隠していた私の手は、いつの間にか旦那様の首に回り、縋りついていた。
「ん……」
夢中で長い時間を過ごした後、唇を離して息をつく。
必死にたぐり寄せようとしていた眠気は、はるか向こうへ飛んでいってしまっていた。
こんなキスをしてしまえばもう、大人しく寝るなんてできない。
旦那様を引き寄せていた手にもう一度力を入れると、あの方は私の考えがお分かりになったようだった。
バスローブのベルトが、するりと解かれる。
閉じたまぶたを透かす光の弱まりに、部屋の照明が落とされたのを感じた。
もう一度軽くキスを下さってから、旦那様の手と唇が私の体を順に撫でていく。
バスローブの上から焦らすように胸を触られ、もどかしさに身を捩る。
早く直接触って、一杯感じさせて欲しいのに。
んっと不満な吐息を漏らし、旦那様の指を誘うようにバスローブをはだける。
自分のはしたない行いが、さっきのビデオの女優と重なり、身の置き場の無い心地になる。
「あっ」
求めに応え、旦那様のお手が直接胸元に触れ、柔らかい愛撫を始める。
その手の温かさが、空調の効いた部屋ではやけに生々しく、心がざわついた。
「あんっ!」
旦那様に乳首を吸い上げられ、上ずった叫び声が出てしまう。
最近、私のここは一層敏感になってきている。
前よりも感じやすくなっているのでは?と、旦那様がセクハラ発言をされるくらいに。
確かにそうかもしれないけど、でも、それはあの方が言っていいせりふじゃない。
閨のたびに執拗にそこを愛撫なさっているのは、誰あろうこの方自身なのに。
私だけのせいになさるなんて、ちょっと違うと思う。
「んっ……。あ……あんっ……」
刺激を受けるたびに胸が切なく疼いて、頭の中がぼうっとしてくる。
この感じは決して嫌いではないから、いつもされるがままになるのだけれど。
旦那様の気配が遠のくと切なくなって、手をギュッと握り締めてしまう。
一瞬でも離れないで、離さないでいて欲しいとお願いしたくなる。
下を向くと、私の胸に顔を埋めておられる旦那様が目に入る。
一心に吸い付いていらっしゃるのが可愛く思えて、口元がほころんだ。
「んっ!」
視線を感じたのか、顔を上げられた旦那様とまともに目が合って激しく動揺する。
吐くはずの息を飲み込んでしまい、喉の奥が大変なことになった。
こんな時に目が合うなんて困る。
ベッドがきしむ音がして、旦那様が私の顔を覗き込むようにずり上がってこられたのを感じ、慌てて壁を向く。
今また目が合ったら、それこそどうしていいか分からないもの。
なのに女心を分からない旦那様は、私の頬に手を触れて自分の方を向かそうとされる。
「やっ……ん、んっ……」
必死で抗って、体を揺すって旦那様の手から逃れる努力をする。
いつもは私の言うことを何でもはいはいと聞いてくれるくせに、こういう時のこの方は妙に強引だ。
どう逃げようか思案してもうまくいかず、気がつけば私はベッドから下りていた。
散々愛撫されて、熱を持った体が冷えるのに身震いする。
「美果さん?」
戸惑ったように名を呼ばれて、どうしていいか困って俯く。
ふと手を取られて顔を上げると、旦那様が決まり悪げな笑みを浮かべていらっしゃった。
「困らせすぎたようですね」
許しを乞うように仰るのに、反射的に首を振る。
わざとじゃないのは分かっているから、旦那様を責める気なんか全く無い。
でも、ちょっとした悔しさが自分の中にあるのもまた事実で。
どうすればこの気持ちが治まるかしばし考え、やがて一つだけ思いついた。
もう一度ベッドに乗っかり、旦那様の足元へと下がってバスローブに手をかける。
さっきこの方が私になさったようにお脱がせして、ベッドの下に放った。
「あっ」
固くなり始めているアレに手をやり、軽く握りこんで扱くと、息を飲まれる気配がする。
それにほんの少し胸がすくような心地になり、俄然やる気が湧いてきた。
かがみ込んでそっと唇を寄せ、軽くキスするように何度も柔らかく触れる。
「美果さん。……頼みます」
焦れた旦那様がねだるように仰るのを聞いて、頬が緩む。
私も、満更じゃない。
気を良くして、私は旦那様を上目遣いに見上げながら、ゆっくりとアレをくわえ込んだ。
喉の奥を動かして、唾液をいっぱいに絡め、音がするほど啜り上げて愛撫する。
根元は軽く握り、上下に扱いて快感を煽る。
さっきのビデオで女優がしていたように。
「あ……う、っ……」
旦那様が悩ましげに眉根を寄せて、苦しそうな表情をされる。
その脚がわななき腰も揺れて、限界が近いことを示していた。
ここで焦らしてやろうかとも思うけれど、旦那様のイくお顔が見たい。
目を閉じていらっしゃるのを幸いに、私はあの方のお顔から視線をそらさず、アレの先に強く吸いついた。
舌先を尖らせて、太い部分の輪郭をなぞるように舐め上げる。
根元をさする手の動きも早くして、旦那様を追いつめた。
「あっ!」
旦那様の短い叫びと共に、生温かい物が口の中一杯に広がる。
舌や喉に絡みつくそれを、頷くように頭を上下させて少しずつ飲み下した。
アレの先端にもう一度舌を這わせてから、名残惜しく唇を離す。
旦那様が深い溜息をついて、放心したように枕に頭を預けられた。
ご回復を待つ間、旦那様の脚やお腹を手持ち無沙汰に触れる。
力加減を変えてみたり、指先や手の平で擦ってみたりして遊んでいると、あの方がようやく体を起こされた。
髪を梳いてくれる感触が心地良くて、されるがままになってじっとする。
いつの間にか目を閉じていたようで、肩に手を掛けられてハッとした時には、私はシーツに背を預けていた。
鼻と鼻がくっつきそうなほど近くには、旦那様のお顔がある。
上から私を見つめるあの方と目が合い、魅入られたように視線を外せなくなってしまう。
長く見つめ合った後、旦那様はついと私の足元へ下がられた。
「あっ……」
脚を開かされて立った水音に、頬がカッと熱くなる。
まだそこには指一本触れられていないのに。
旦那様のアレに触れていただけで、そんな風になったなんて。
急に気恥ずかしくなってそこを隠そうとしても、旦那様のお体にぶつかって脚が閉じられない。
ヘッドボードの方ににじり上がっても、その分だけ距離を詰められて逃げることは叶わなかった。
「んっ」
膝の裏を押されてもう一度開脚させられ、完全に露になった場所に旦那様の指が触れる。
ぬめりを帯びた音がさっきよりも大きく聞こえ、息を飲んで身をすくませる。
やっぱりいやだ、恥ずかしい。
脚を閉じられないならと、力を抜いていた手を脚の付け根に持っていく。
「いけません」
旦那様に強い力で手首をつかまれ、シーツに押し付けられた。
「だって……んっ、あ!」
口答えの代わりに出たのは、上ずった叫び声。
手首を戒めていたはずのあの方のお手が、いつの間にか私を裏返しにするように太股の裏側を押し上げていて。
隠したくて堪らない場所が天井を向いて、体の中で一番高い位置に来ていた。
「やっ、旦那様っ」
体を揺すって抗議しても、私を変な体勢にしているあの方のお手はちっとも動いてくれなくて。
濡れた場所に感じる吐息に、お顔をすぐそばに近付けておられるのが分かった。
危険信号が大音量で頭の中に鳴り響き、目に涙がにじむ。
いや、いやと何度も繰り返し言って脚をばたつかせ、ようやっとあの方から逃れた。
「美果さん?」
呼ばれても返事をせず、体を胎児のように丸める。
寒くも無いのに体が震えて、私はますます縮こまった。
足元にあった旦那様の気配が、いつの間にか背後に来ている。
ようやく呼吸が整って、真っ先に感じたことがそれだった。
振り返りたいけれど、恐くて動けない。
あんな風に拒否して、気を悪くなさったのではという思いが先に立つ。
心の中身が羞恥から恐怖にすり替わった時、前触れ無く背中が温かい物に包まれる。
旦那様が後ろから私を抱きしめて、落ち着かせるように頭を撫でて下さっていた。
その温もりが心地良くて、深呼吸して旦那様の香りを胸いっぱいに吸い込む。
背中をぴたりと旦那様の胸に密着させ、前に回ったあの方の腕を握った。
さっき変な格好をさせられていた時とは違う、触れられることの純粋な嬉しさが胸を満たすのを感じる。
みぞおちの辺りに触れていたお手を持ち上げ、自分の頬に押し当てて目を閉じる。
旦那様は指を少し動かして、私の頬をくすぐるように撫でられた。
「ん……」
その心地良さに、自分の物とも思えないうっとりした声が口をついて出る。
いたずらに羞恥を煽るような触れ方には抵抗があるけれど、こういうのならいくらでもされたい。
旦那様が私の頭を撫でていた手を止め、腕をシーツにつけて後ろから腕枕をして下さる。
一方、私が捕まえて頬に押し当てていたもう片方の手は、ゆっくりと下へ向かった。
私の薄い茂みをかき分け、今しがたほんの少しだけ触れられていた場所に戻り、そろそろと動き始める。
また美果が嫌がるかもしれないと、遠慮がちになさっているのが分かった。
「んっ……あ……あんっ……」
でも、もう私の口からはいやなんて言葉は出てこなかった。
抑えた指の動きが、まるで焦らされているようで堪らなく気持ちよくて、それだけで。
襞や肉芽に触れられるたびに体を跳ねさせ、与えられる快感だけに集中するのみだった。
旦那様に後ろから抱っこされている安心感もあり、声を上げるのを抑えられなくなる。
しみ出た愛液を周囲に塗りこめるように動いていた指が、私の中に浅く入り込む。
それに次の期待を煽られ、私はギュッと旦那様の腕を握り締めた。
うなじを撫でていく旦那様の安堵の吐息に、ほんの少し申し訳なくなる。
もう、大丈夫ですから。
その思いを込めて旦那様のお手に触れ、そこへと押し付ける。
濡れそぼった柔らかい場所への責めが強くなり、私は何度も湿った吐息を漏らした。
快感にぼうっとした私の耳元で、旦那様が囁かれる。
頷くと、あの方がベッドから降りられる気配がした。
私も寝返りを打ち、今度こそちゃんと……と自分に言い聞かせて待った。
しばらくして、準備を済ませた旦那様が覆いかぶさってこられる。
私の手を拾い上げて自分の肩に回させ、落ち着かせるように撫でて下さってから、ゆっくりと身を沈めてこられた。
徐々に増す圧迫感に、私はのけぞって大きく息を吐く。
全部入ったところで頬にキスしてもらって、嬉しさにまた頬が緩んだ。
手に力を入れて旦那様を引き寄せ、小さくねだる。
それに安心したように、あの方は腰を使われ始めた。
浅く深く、緩急つけて貫かれて快感に身を捩る。
中を探るようにアレを押し付けられて、体が何度もびくりと跳ねた。
弱い場所が全てばれてしまっているようで、圧倒的不利を感じる。
でも、旦那様とこうしているのはすごくすごく気持ち良くて、嬉しくて。
ここがアパートじゃないことも、さっき心の中でこの方に散々悪態をついたことも、もう頭の中から消えてしまっていた。
そんなことより、今抱き合ってることの方が何千倍も大事だもの。
イくのはできるだけ先がいいな……と、息を乱しながら考えていた。
心地良い揺さぶりに身を任せていると、旦那様がふと動きを止められる。
繋がったまま抱き起こされそうになって、私は慌てて旦那様にしがみつき、いやだと首を振った。
最初は正常位で安心させておいて、途中で妙な体位に替わるのが最近のパターンになっている。
変なのはいやだ、このままでいいのに。
「美果さん、いい子ですから……」
なだめるように背中をさすられても、首を振り続けて拒否の意思を伝える。
しかし旦那様は、その訴えを無視して私を抱き起こされた。
あぐらをかいた膝の上に座らされ、これからどうなるのかと不安におののく。
しかし、予想に反してそれ以上は何もされず、私は心の中でホッと息をついた。
これなら経験のある体位だし、安定するから結構好き。
「いいですか?」
問われるのに頷いて、私は腕の力を抜いた。
一瞬だけ目が合ったと思ったらまた距離が近くなって、唇が触れ合う。
軽いキスが物足りなくて、私は知らぬ間にあの方の首に腕を回し、もっと欲しいと求めていた。
最近は変な体位ばっかりで、こうしてきちんと向き合えてなかったから、できる時にしておかないと。
夢中でキスをして、苦しくなったらちょっと唇を離して、息が整えばまたくっつけて。
繰り返してもちっとも飽きなくて、むしろもっと欲しくなっていくようだった。
何度目かの時、不意に身をかわされて狙いが外される。
ムッとして口答えしようかと思った時、お尻をゆっくり撫でられて体が跳ねた。
「美果さんは、大胆なのかそうでないのか、よく分かりませんね」
笑みを含んだ声で旦那様が仰って、またお尻を触られる。
珍しい体位を拒もうとしたくせに、キスには積極的だって言いたいんだと思う。
「そんなの、エロいだけの方に言われたくなんかありません」
何もかも全て、私を困らせる旦那様がいけないのに、変な奴だとでも言われるのは心外だ。
「これはまた随分な言われようですね」
「当然です。今まで全然しなかった……姿勢とか、この頃しょっちゅうなんですから」
「よりよい物があるかと思い試したのですが、お気に召しませんか?」
「いやです。なんか落ち着かなくって、心細くなりますから」
私は別に、今までのセックスに不満なんかない。
人を恥ずかしがらせて楽しむのはやめて下さいとは、たまに言いたいけれど。
「そうですか、美果さんは新しい分野を開拓する気はありませんか」
「はい。今のままで十分です」
旦那様がどこか残念そうなのは、研究者だから探究心が抑えられないからなのかな。
それとも、ただスケベなだけだろうか。
私の言葉に旦那様が頷かれる。
「分かりました。少し惜しい気もしますが、美果さんの意思を尊重しましょう」
思慮深いながらも、どこか残念そうな口調で仰る。
旦那様は、あんな体位とかそんな体位とか、色々試したいのだろうか。
もしかして、私を抱くのに飽きたのかな。
不快な想像をし、旦那様の首に巻きついたままの手に力が入った。
問うてみようかと口を開いた時、体が揺さぶられる。
繋がった場所から、十分にそこが潤っていることを示すように水音が上がった。
「あ……っん……」
体重のせいで、中に入っているアレの存在感がいつもより大きい。
往復するたび、狙いすましたかのように気持ちいい場所に当って息が止まる。
私は、これで十分なのに。
「旦那様……。や……あっ……」
気持ちいいですかと尋ねたいのに、それを口にすることができない。
何度か聞こうとしたのに、結局、呼びかけるだけになってしまった。
言葉を口に上せるのを諦めて、お腹に力を入れてアレを締め付けてみる。
旦那様の動きに呼応するように腰を使い頑張ると、息が一層荒くなり、肌にうっすらと汗が浮かんできた。
「あ……」
旦那様が切なそうな表情を見せて、ギュッと目を閉じられる。
演技のできない方だから、気持ちいいんだ。
ホッとして体の固さが取れ、動きがスムーズになるのが分かった。
「あ……あっ!」
旦那様が上体を屈ませ、私の胸に唇を寄せられる。
腰の動きに注意を向けられているせいで、そちらへの責めは緩いけれど、それが焦らしのテクニックみたいに思えて。
こちらももっと……と言う代わりに、私は旦那様をぐっと引き寄せた。
舌先を尖らせて乳首をつつかれるのが堪らなく気持ちいい。
胸への刺激のたびに体に力が入り、それにつられてあそこが収縮するのがわかった。
「んっ……あ……あんっ……」
夢見心地で揺さぶられ、胸を可愛がられて意識が飛びそうになる。
気持ちよさを伝えたいけど言葉にならず、その代わりに旦那様をもっと強く引き寄せた。
触れ合う面積が広い方が、安心できていい。
そんなことを言うとまた「美果さんは甘えん坊ですね」と言われるから、秘密にするけど。
でも多分、私の状況を見れば旦那様には分かってしまうのだろう。
それなのになぜ、最近は変な体位ばっかりなのかな。
「旦那様っ……ん、もっと……」
我慢できずにねだると、すぐそれが叶えられ、腰をつかまれ深く突き上げられる。
かき混ぜるようにもされて、いよいよ危うくなってきた。
自分のてっぺんがすぐそこに来ているのが分かって、受け入れるべく心構えをする。
「あ……ああっ!」
下準備のしきらないうちに、大きな快感の波に襲われて叫び達する。
体も思考もふらついたけど、今日は旦那様に抱きついているおかげで何とか堪えられた。
息を整えるのもスムーズで、いつになく調子がいい。
一旦体の力を抜いて、旦那様の肩におでこをつけると、髪にあの方の指が絡まった。
そうだ、旦那様はまだのはず。
背中の方に重心を移し、布団に旦那様を引き倒そうと頑張っていると、意図を読み取り叶えて下さる。
シーツに折り重なった所で、また視線が合ってドキリとする。
いつもの大人しい草食動物みたいな目じゃなく、熱と情欲のこもった「男の人」の目だ。
見惚れて言葉を失っていると、足首をつかまれて大きく開脚させられる。
繋がりが一気に深くなり、私は圧迫に息を飲んだ。
苦しいけど、こうされるのは嫌いじゃない。
私が頷いて目を閉じたのを見計らい、旦那様が腰を使われ始める。
さっきとは違い、ご自分の快感を求められているのだけど、でも私も気持ちよくてまた息が乱れた。
また抱きついて堪えたいけど、ワンパターンだと思われるのは本意じゃない。
しばらく迷った挙句に枕を掴み、顔を埋めて声を殺した。
でも、突き上げの合間に肌を吸われると、どうしたって声が漏れてしまう。
いつもなら、痕が残るからいやだと文句を言うところだ。
でも今日は黙っていよう、変な体位はやめてというお願いを聞いてもらったばかりだし。
あれはいや、これもいやと言ってばかりじゃ、旦那様の優しさにつけ込んでいるみたいで良くない。
私がいつになく従順なのが妙だと思われたのか、あの方が肌に吸い付く力を強められる。
それにつられて体の震えも大きくなったけど、それでも不平は言わず、私はされるがままになった。
「あっ……」
旦那様が一際切ない声を上げ、動きを大きくして畳みかけるように責めてこられる。
私も脚を絡めて必死についていき、先にイかないように頑張った。
「んっ!」
音を上げるギリギリのところで、旦那様のアレが私の中で大きく脈打つ。
それに息を飲んだ後、どうにかイかせてあげられたことに、自分の口元が綻ぶのが分かった。
旦那様は、絶頂の余韻を味わうかのように何度か緩く突かれた後、深い深い溜息をついて姿勢を起こされた。
今日何度目かのキスをして、体を離す。
何だか気恥ずかしい雰囲気のまま、私達はもう一度並んで横になった。
面白がってあの貝殻ベッドの部屋にしないでよかった、あっちなら事後の雰囲気に耐えられなかっただろう。
アパートじゃないから、他の部屋に逃げることもできないし。
「美果さん」
穏やかな声で呼ばれて顔を上げると、こちらをじっと見ていらっしゃる旦那様と目が合う。
はいと返事をすると、あの方の指がまた髪に触れた。
「昼間は、どうでしたか」
曖昧な質問に眉を上げるも、すぐに仰りたいことの意味が分かった。
「なんか、いざ会ってみるとアッサリしてて拍子抜けしました」
ドラマなんかだと、再会シーンでは愛憎をぶつけ合ってドロドロするのに。
自分もそうなると密かに恐れていたことは全くなく、我ながら驚いている。
「そうですか。お父上が元気そうで僕も安心しました」
心底同意して大きく頷く。
すごく重い病気だったらどうしようかと、心中は穏やかではなかったから。
「旦那様、ありがとうございます」
背中を押してもらわなければ、私はお見舞いに来ないまま、もやもやとした思いを抱えていただろう。
とにかく父が元気そうでよかった、他のことはとりあえず今はいい。
「僕は何もしていません。ああ、お見舞いの品は見繕いましたが」
冗談めかして仰っているけれど、今回のことは本当に旦那様のおかげだ。
「なんかすっきりしました。と言いましても、全部これでチャラ、というわけではありませんけれど」
許したか許してないかで言えば、私はまだ父を全て許したわけではないと思う。
それは事実だけれど、それとは別の所で、そろそろ認めてあげてもいいかなという気にはなっている。
苦労させられた事実は決して消えないけれど、今、私抜きの家族が一丸となってコンビニを頑張っているのであれば。
父は新しい家族の中に入り、私は親離れした。
何となくだけど、そう思えるようになった。
これは、きっと旦那様がいて下さるおかげだ。
今の暮らしが平穏で幸せだから、父に怒りをぶつける気にもならないし、その必要もない。
「見舞いを提案したのは軽々しかったと、後で思ったのですが」
「いいえ。旦那様があの時ああ言って下さらなかったら、来てませんから」
こんがらがった感情の糸をほぐしてきれいに巻き直すには、まだ時間がかかるはず。
でも、父がさっさと治ってくれることの方が今は重要だ。
「僕もたまには役に立ちましたか」
「はい。旦那様がいて下さるからこそ私、幸せで……あっ」
さっき胸に去来した思いを言葉にしかけ、あわてて口に手を当てる。
危ない、こんなことを言ったら旦那様が面白がられるに決まっている。
「何ですか美果さん。今、『幸せ』と……」
「そんなこと言ってません。旦那様の聞き間違いです」
「いいえ、確かに聞こえました。空耳ではありません」
珍しく強硬に言われ、困って私は視線を泳がせた。
「ええと、私が言ったのは、その」
「はい」
「お屋敷にいた頃は、いじめられたりしてあんまり幸せじゃなかったんですけど……。
今は旦那様と二人で、そういうストレスもありませんし、旦那様はお優しいから」
「ええ」
「何かを恨む気持ちになれないのかなって。だから、その……ちょっと、幸せなのかなって……」
いつになく押し出しのある雰囲気に負け、しぶしぶ答える。
せめてもの抵抗で最後を濁したけれど、それも中途半端に終った。
私の答えを聞いて黙ってしまわれた旦那様が、口を開かれるまでの時間がひどく長く感じられた。
「僕はただ提案をしただけに過ぎません。美果さんが、自分の力で葛藤を乗り越えたのでしょう?」
ようやく旦那様が仰ったのは、あまりにも私を買いかぶりすぎた言葉だった。
「そんなことないです。そもそもはお屋敷を追われた時、旦那様が同居を誘って下さった時からです」
自分で言うのは渋るくせに、旦那様のけんそんには反論したくなるのはなぜなのか。
「もしあの時一人ぼっちでクビになっていたら、私は今頃すごくひねくれてて、手遅れになったと思います」
ひがみっぽい私のことだ、環境を恨み自分の運命を恨み、そうなっていたことは想像に易い。
ああもう、こうなったら言ってしまえ。
「私が今幸せなのは、旦那様のおかげですから」
性格が慎ましいのはこの方の長所だけど、自分を過小評価してもらっては困る。
会社とお屋敷を取り戻してもらうことは諦めたけど、ノーベル賞の約束がまだ残っているんだから。
ちょっとくらいなら自信を持ってもらってもいい、そもそも事実なんだし。
「そうですか。美果さんは今、幸せですか」
いいえと否定したいあまのじゃくな気持ちを押し込めて、旦那様の言葉に頷く。
いつまでもそんな子供っぽいことでは、進歩がない。
「そうですか。では、もう少し幸せになる気はありませんか」
からかわれると思いきや、旦那様が口にされたのは意外な言葉だった。
心なしか、身に纏われている雰囲気が変わったような気がする。
もう少し幸せって何だろう、犬でも飼いたいのかな。
考えたけど分かりかねて、私はもう一度旦那様を見上げた。
「結婚しましょう。美果さんに、僕の伴侶になって頂きたいのです」
続けて仰ったことを聞いて、私の時間が止まった。
たっぷり、一分半は経ったと思う。
さっきより格段に分かりやすい言葉を理解するのに、それだけかかった。
「け……」
「結婚です。いつまでも曖昧なままではいけません」
固まる私をじれったく思ったのか、旦那様がさらに言葉を重ねられる。
「え、だって。そんな……」
私達はご主人様とメイドで、ずっとやってきた。
旦那様が大人しくて私がガサツだから、立場の差は随分とあいまいにはなっていたけれど。
そもそもは主従なのだから、結婚なんか身分違いだというのは私にでも分かる。
「旦那様は、お立場とかそういう、色々と……」
「今の僕はただの大学職員です。それ以上でも以下でもありません」
確かにそうだけれど、この方は元々すごい名家の御曹司で、私なんかと釣り合う方ではない。
もっと私より上等の女の人、例えば教授のお嬢さんなんかの方がお似合いだと思うのに。
「今まで苦労をかけた分、美果さんをもっと幸せにしたいのです。お父上には報告済みです」
「えっ?」
まさか、私が洗濯や買い物で席を外していた時に?
「じゃ『男の話』って……」
「ええ」
旦那様が頷かれる。
「便乗した形になりましたが、この機会を利用させてもらいました。いつかは通らねばならぬ道ですから」
晴れ晴れとしたお顔から察するに、父もいい返事をしたのだろう。
この方と会って、好印象を抱かない人がいるとは思えないもの。
「海音寺荘で暮らしていた頃から、言おう言おうと思っていたのですが……。
あの頃の僕は自分一人も食わせられない半人前の学生でしたし、美果さんも未成年でしたから」
そんなに前から考えていて下さったのかと、私は驚きに目を見開いた。
「また一緒に暮らすようになってからも、いいタイミングが掴めずにぐずぐずしていました。
先にそれとなく仄めかしても、美果さんは気付かれませんでしたから」
「仄めかすって、いつのことです?そんなの全然……」
「『僕達の関係を、もっとちゃんとした物にしましょう』と」
「あっ!」
夜に不似合いな大声を上げ、私は再び固まった。
そういえば、去年そう言われた覚えがある。
「もっとも、最近はすぐ言うより先に下地を作ろうと方向転換していました。
僕に惚れて、妻になりたいと思ってくれるようにと」
「まさか、それって……」
やけに優しかったり、あちこち連れて行って下さったり、閨で変な体位を試されたことも、あれも全て……。
ごめんなさい、妙だ妙だと思うだけでドキドキなんてしませんでした。
心の中で謝りながら、自分の鈍感さに落ち込んでしまう。
申し訳なくて申し訳なくて、穴があったら入りたい心地だ。
でも、旦那様が私のことを目一杯考えて、あれこれ画策して下さっていたのかと思うと嬉しい。
「美果さん。返事を聞かせて下さい」
旦那様が私を引き寄せ、胸に抱きとめて仰る。
「……私なんかに、旦那様のお嫁さんが務まるでしょうか」
「特別な何かをしてもらう、などというわけではありませんからね。今まで通りに家事をして、僕の帰りを待って下されば」
「え、たったそれだけで……」
「はい。僕はただ美果さんに、ずっと傍にいてほしいだけなのです」
これから先、もっとうんと年をとってもずっと旦那様と一緒。
想像してみて、それが全くいやじゃないことに気付いて驚く。
旦那様と二人で暮らしていさえすれば、きっとそれだけで幸せだ。
でも、それに関しては一言ある。
「あの、旦那様」
呼びかけると、私を抱きすくめているあの方の腕に力が入る。
「今仰ったこと、申し訳ないくらい嬉しくて、ありがたいんですけど……」
「なんです?断りたいのですか」
焦れたように言って、旦那様が私の顔を覗き込まれる。
「そうじゃありません。すぐじゃなくて、少し先にして頂ければ、と……。
嫁に来いと言って頂けるのは嬉しいんですが、私、こんなですし」
「こんな?」
「ええ」
打たれ強い以外の長所がこれと言ってないことは、自分が一番よく知っている。
ガサツだし口うるさいし鈍感だし、もし私が男なら、こんな女を奥さんにしたいとは絶対に思わない。
こないだも、旦那様に趣味の悪い嫌がらせをしたところだし。
「結婚を急ぎすぎたら『早まった』って後悔なさると思います。私がすっごく陰険なのは、旦那様もご存知でしょう?」
「陰険?何のことです」
「こないだのお弁当のことです」
自分の罪を改めて口にするのは気が進まないけれど、こうなれば言うよりしょうがない。
少し前の夜、旦那様と私は、くだらないことで軽く口論した。
悔しくて眠れなかった私は、腹いせに翌朝、旦那様のお弁当を思い切りファンシーに作りたてたのだ。
人参をハート型に切り、うずらの卵とごまでヒヨコを作り、レタスやハムをじゃばらに切ったのを巻いて花を作って。
さつまあげをクマの顔に切り、チーズを星型に切って飾り、蒸したジャガイモの輪切りには海苔で顔を描いた。
しかもわざとご飯を入れず、旦那様がこのお弁当を人目の多い学食に持って行かれるようにも仕向けた。
まあこれは、おかずが盛りだくさんになってしまい、ご飯のスペースが無くなったせいもあるけれど。
「可愛らしい弁当の日のことですか?あれは、美果さんの僕への愛情表現ではなかったのですか」
「は?」
「ご飯を入れ忘れるほど、おかずに手をかけてくれたのでしょう?」
「ち、違……」
「見た人に冷やかされましたが、仲直りの印だと思って僕は美味しく頂きました」
それが何か?と不思議そうな旦那様の表情を見て、私の体から力が抜ける。
手の込んだ嫌がらせをしたのに、丸きり反対に受け取っておられたなんて。
あの日は、力作が完成した時点で気が済んでしまい、旦那様がご帰宅なさった時の表情は確かめなかった。
そういえば、量の多さにもかかわらずお弁当は全てきれいに平らげてあったっけ。
呆れるを通り越して、乾いた笑いが口の端に浮かんでくる。
善意の固まりのようなこの方と暮らしていれば、私の性格ももうちょっとましになるかもしれない。
「早まったなどとは思わないでしょう。海音寺荘の頃から数えても、見定める期間は十分ありました」
「それは、そうですけど」
この、自分でもよく分からない戸惑いをどう伝えればいいんだろう。
様々に悩み、百面相をして言葉を搾り出そうと頑張る。
首を傾げておられた旦那様が、先に口を開かれた。
「猶予期間が欲しいのですか?」
「あ、それです。少しの間で構いませんから」
「なるほど。結婚を前提としたお付き合いということですね」
さすがに優秀な方だ、言いたいことをうまく言葉にできない私の頭の中を先に読み取られるとは。
毎日顔を合わせていたし閨のお相手もしていたけれど、すぐ結婚したらうまく切り替えられない気がする。
今さらだと思われてもいい、私は旦那様ときちんと恋愛がしたい。
力いっぱい頷くと、旦那様はふむとしばし考え込まれる。
「いいでしょう。確かに、僕達には生活はありましたが、付き合いというと乏しかった。
結婚の前に、まずは恋人という関係を経るのも悪くありません」
美果さんはまだ若いですから、そういう楽しみも欲しいのでしょうねと旦那様が頷かれる。
「閨の時以外では、美果さんはあまりこう、僕に甘えられませんからね」
「それはそうです。昼間っからメイドが主人に甘えるなんておかしいですもん」
旦那様の言い方だと、夜中は目一杯甘えているように聞こえるけど、それは事実と違う。
「分かりました、この話は少し延ばしましょう。ただし、前提に異論はありませんね?」
それは無いので素直に頷く。
「しょうがないです。惚れられた弱みってやつですから」
ずっと一緒にいたい人に結婚してくれと言われれば、首を縦に振るだけ。
だからそう言ったのに、旦那様はおやと首を傾げられる。
「それを言うなら『惚れた弱み』ではありませんか?」
「違います『られた』です」
私が言うと、旦那様がわずかに傷ついた表情になられる。
「ほら、惚れられると『ありがとう、それなら期待に応えよう』って思うでしょう?そういうことですよ」
ちょっと申し訳なくなったので、慌てて言葉をつなぐ。
こんなこと言ってるけど、自分がこの方に惚れてもらっているという実感なんかありはしないんだけど。
今まで男性に好きだといわれたことなんか無いし、付き合った経験も無いし。
「私、こういうことには鈍いですが。よろしくお願いします」
「全くです。美果さんはよく気がつく反面、こういったことには疎いようですね。
先ほどは僕の一挙一動に敏感に反応して、随分と可愛らしかったのに」
「あっ」
旦那様が聞き捨てならないことを言いながら、私のお尻をいやらしい手つきで撫でられる。
そんな風にされると、さっき貪欲に求めてしまったことを思い出して、いたたまれなくて死にそうになる。
「そもそも、美果さんをこのようにしたのは僕です。その責任も取らねばなりませんね」
げっ。
「旦那様、私、セクハラする人と結婚するなんていやなんですけど」
身を捩って、旦那様の手から逃れようと抵抗しながら言う。
「諦めて下さい。大学では女子学生にしないようにしますから、あなたにだけは」
旦那様のお手は止まることなく、変な場所ばっかりを選んで撫でさする。
器用な指先に快感を呼び起こされ、私は上ずった声を上げるしかなかった。
確かに、こんなことを大学で女子学生にされては大変だ。
「もうっ!こんな悪いことをする人とは、お付き合いする気になれません」
「そうですか。ではまた別居しますか?」
「えっ、それはだめです」
せっかくまた一緒に暮らせているのに、別居なんかいやだ。
「そういうことじゃありません。たしなめたかっただけです」
「そうでしたか」
「こんなんじゃダメですよって言いたかったんです。もうちょっと精進して頂く意味でも、一緒に暮らす必要があります」
「ええ、よろしく頼みます」
「安心するのは早いですよ?旦那様が危ない道に進まれないように、私が監視するんですから」
「はい、しっかり頼みます」
旦那様が、微笑みながら頭を撫でて下さる。
その心地良さにたやすく懐柔されて、私はそれ以上言う気が摘み取られてしまった。
この方と結婚して、奥さんになる。
そう遠くない未来図は、まだつかみ所が無いけれど、きっと幸せなものになるだろうと思った。
明日、病室に行ったら父としっかり向き合って、さようならを言おう。
私は関西で、ずっと旦那様の傍で生きていきたい。
──第12話終わり──