いつものようにバイトを終え、商店街で買い物をしてアパートに帰る。
「旦那さ……あっ」
ただ今戻りましたと言いかけ、私は慌てて口を閉じた。
旦那様は、学会の準備で数日間アパートを留守にされているのだ。
何年に一度かの大きな学会だということで準備も大変らしく、開催地へ行く前に合宿をなさっているらしい。
「大学の施設で研究室の皆と泊り込むのです。クラブの合宿のような物ですね」と仰っていた。
それなら物いりだとお財布を持ってくると、なぜか頑なに拒まれてしまった。
今回の費用はほとんど大学と教授持ちなので、学生は小遣いくらいしか要らないのですと言われたのだ。
大学というのはなんと太っ腹なのだろう、この際うちの家計もついでに面倒を見てくれないだろうか。
などと馬鹿なことを考えつつ、服や身の回りの物を詰めたカバンと一緒にあの方を送り出したのは二日前のこと。
5泊6日の日程なので、私も同じ長さを一人で過ごすことになる。
これだけ長く一人でいるのは、人生始まって以来のことだ。
朝に寝起きの悪い旦那様を叩き起こすことも無く、夜、早くお風呂に入って下さいとせっつくこともない。
洗濯も炊事も一人分だから、あっという間に終って時間が余る。
こういう時に限って内職も頼まれなくて、私は夜8時以降は全くのフリーになった。
初日などは何もすることが無くて、私は時間を持て余して途方に暮れることになった。
それを踏まえ、昨夜は適当に買ったファッション雑誌を読み、眠たくなったところで寝た。
今朝は久しぶりに砂糖の入っていない卵焼きを堪能した(旦那様は、甘い卵焼きじゃないと食べてくれないのだ)。
そして今晩も、夕食をすぐに作るのはやめて、畳に寝転んでおせんべいを食べながら雑誌の続きを読んだ。
いつもあの方に「早く」「しゃきっと」「○○して下さい」とせっついている以上、こういう真似は一人の時しかできない。
だらだら過ごしているうち、おせんべいでお腹が一杯になってしまい、夕飯が入らなくなってしまった。
私のこんな姿は、旦那様には絶対に見せられない。
洗濯は明日まとめてすることにし、さっさとシャワーを浴びて横になる。
あの方は、まだ大学にいらっしゃるのか、それとももう学会の開催地に行かれたのか。
部屋の隅に置いた畳まれたままのコタツは、主人の帰りを待っているようだ。
私も5日間一人暮らしを満喫しようと思ったくせに、いざとなると気が抜けてしまい、覇気が出ない。
旦那様と2人の、忙しいけど充実した時間と、一人の精彩の無い単調な時間では落差が大きすぎる。
早く6日目にならないだろうかと、シミだらけの天井を見ながら考えた。
明日と明後日の夜は、どうやって時間を潰そうか迷ううち、疲れて眠ってしまった。
それから2日間張り合いの無い生活を送り、ようやっと旦那様が帰ってこられる日になった。
何時にお戻りかが分からなかったので、バイトが終ってから私は大急ぎでアパートに走った。
5日間外食続きだっただろうから、今日のメニューは家庭的なものがいいかな。
ということは肉じゃがとほうれん草の胡麻和えかと見当をつけ、畑に戻って順調に育ったほうれん草を抜いてきた。
夕食の時は、さりげなく旦那様のお皿にお肉を多く盛ってあげることにしよう、汁物も作らなきゃ。
着替えて台所で立ち働きながら、合間に時計を何度も見てお帰りを待つ。
そして、ご飯が炊き上がり、お鍋からもいい香りが立ち始めた頃、待ち人は少し疲れた様子でドアを開けられた。
「お帰りなさいませ」
靴を脱がれた旦那様から旅行カバンを受け取ると、久しぶりににこやかな笑顔を見ることができた。
「ただいま。留守中、何か変わったことはありませんでしたか?」
「ええ、ありません」
ご飯の前にお茶の支度をと急須に手を掛けながら言うと、旦那様はそうですかと頷いて、いそいそと六畳間へ入られた。
久しぶりに二人でちゃぶ台を囲み、何やかやと話しながら夕食をとった。
旦那様はいつになく食欲がおありだったようで、ご飯を2度もお代わりされた。
「味気ない食事ばかりで辟易しました。僕には、やはり美果さんの料理の方が口に合います」
こんなお言葉を頂いてしまい、私は照れて旦那様のご飯をしゃもじで叩きすぎて真っ平らにしてしまった。
あまり褒められると調子に乗ってしまうから、エサを与えないでと言いたくなってしまう。
でも、旦那様がにこにこしながら私の料理を食べていらっしゃるのは、悪くない風景だ。
「…食べたい物を言って下されば、作ってもいいです」
どうにかそう申し上げ、これ以上のぼせてしまわないうちにと、大急ぎで自分の膳にある物を片付けた。
お風呂と洗濯物を済ませ、旦那様がコタツで勉強なさっているのをそっと観察しつつ干し物をする。
学会から帰ってきたところなのに、もう次の論文を書かなければいけないんだろうか。
好きな道とはいえ大変だろう、ちょっとサービスしてあげよう。
夜だからと薄めに入れたお茶を御前にそっと置くと、旦那様は気付いてお礼を言って下さった。
「美果さん、今日は内職はありませんか」
「え?ええ」
いつもこの方の背後で絵や写真と取っ組み合っている私が、手持ち無沙汰なのが珍しいのだろうか。
「お邪魔でしたか?」
「いいえ、そうではないのです。特に用事が無いのであれば、まあ座って下さい」
お言葉に従いコタツに入った私を見届けると、旦那様はついと立ち上がって押入れの方に行かれた。
「美果さん。あなたに、これを」
旅行カバンを探られていた旦那様が、何やら持ってこちらへ戻られる。
置かれたのは、水色のリボンで飾られた、細長いきれいな包みだった。
何だろう、お土産のお菓子なのだろうか。
「開けてみて下さい。僕からの贈り物です」
「えっ?」
促され、私は恐る恐るリボンに手を掛けた。
そして、包装紙の下からは、上品な青色のベルベット地でできたケースが姿を現した。
これは、まさか……。
急速に胸が高鳴りだして、呼吸が乱れてくる。
旦那様のお顔を見て、頷いて下さったのを合図に、私はそのケースの蓋をはね上げた。
中にあった物を見た途端、私は驚きで息を飲んだ。
入れ物の形状から予想がついていたとはいえ、やはり実際に目にすると心臓が跳ねる。
旦那様が私に下さったのは、真珠が3つあしらわれている、お洒落なペンダントだったのだ。
真珠の両脇には、光を反射するカッティングが施された、小さなピンクゴールドの粒がついている。
可愛くて素敵で、これをつけると性格までそうなってしまうのではないかと思うほどの、とても良い品だった。
「いいでしょう?どうです、気に入りましたか」
固まっている私の顔を覗き込んで、旦那様がわくわくした表情で尋ねられる。
はい、とても可愛いです、すごく素敵です。
こう言おうと口を開いた瞬間、私はハッと重大なことに思い当たった。
そして、喜びの言葉を発する代わりに唇を強く引き結び、ケースの蓋を元通りに閉めた。
「どうしました?」
私の様子を変に思われたのか、旦那様が尋ねてこられる。
「せっかくですけど、これは頂けません。返品してきて下さい」
「えっ?」
旦那様は、ケースと私の顔を交互に見比べ、意味が分からないといったような表情をされた。
「遠慮せずともいいのです。これは僕が、あなたにと……」
「いいえ。私がこれを受け取るわけには参りません」
包装紙とリボンを掛け直しながら、なるべく無表情に早口で言う。
こんな可愛いペンダントを頂けるなんてと、単純に喜んだ今しがたの自分の愚かさがいやになった。
「どうして……」
旦那様が呆然と呟かれた言葉に、私はカッとなった。
「『どうして』?そんなの分かっているでしょう?ご両親が残された大切なお金を、こんな物に使うなんて!」
この方は、毎月家庭教師で稼いだアルバイト料を封も切らずに渡してくれる。
自分で管理するとつい使ってしまうからと、まずは全額こちらに預けられ、そこから私がお小遣いを支給するのだ。
毎月決まった額のそれは、本や学用品を買うと足りなくなり、もう少し下さいと月末にすまなさそうに仰るのが常。
だから、こんなアクセサリーを買うお金など持っていらっしゃるわけが無い。
この方が池之端のお屋敷を追われる時に持ち出せた、ほんの一部の預貯金に手を付けて買われたに違いないのだ。
生活が苦しくても、そのお金には絶対に手を付けるまいと思って、私はやりくりもバイトも頑張ったのに。
大事な物だから、学費や病気の時など、まとまったお金が必要な時のために取っておきましょうねと言ったのに。
約束をあっさり違えられたことが途方も無く悲しくなってしまい、私は痛いくらいに強く両手を握り締めた。
「美果さん」
私が包み直したペンダントの箱を見ながら、旦那様が静かに口を開かれた。
「これは、貯金で買ったのではありません。僕が稼いだお金で買った物です」
「そんな、とぼけないで下さい!こんな可愛いの、千円や2千円で買えないことくらい私にも分かります。
貯金じゃないって言うんなら、一体どこからお金を調達したんですか!」
まさか、お昼ご飯を抜いていたとか?
はたまた、もしかしたらの話だけれど、泥棒したとか?
「旦那様っ。違うって言うんだったら、お金の出所を説明して下さい!」
ごまかしたら許さないという強い意気込みを持って、私は旦那様に詰め寄った。
「それは……」
「言ってくれないんだったら、私が返品してきます。レシートを出して下さい」
旅行カバンにまだ入っているかもしれないと思い、押入れへ行こうと立ち上がる。
すると、そんな私を押し留めるかのように、旦那様が私の手を掴まれた。
その力強さに驚いて、私は片脚を踏み出したままの姿勢で動きを止めた。
「…分かりました。全部説明しますから、こちらを向いて座って下さい」
いつになく真剣な面持ちをなさっているのに気おされて、私はぺたりと床に腰を下ろした。
これではいけない、お金の出所を聞き出すまでは気をしっかり持っていないと。
「この首飾りを買ったお金は、僕が自分で稼いだ物です。これは本当に真実なのです」
私が座ったのを確認した旦那様が、一呼吸置いてから言い聞かせるように仰った。
「黙っているつもりでしたが、誤解を受けた以上はお話しましょう。
この5日間、僕は学会に行くと言いながら本当は治験に行ってきました。これは、その報酬で買ったのです」
耳慣れない言葉が耳に入り、私は旦那様のお顔を見上げた。
「痴漢…」
「治験です。治験とは、製薬会社や研究機関、医療機器メーカーなどが行う、臨床テストのようなものです」
「それの、助手か何かのアルバイトをされたっていうことですか?」
さすが学者様の卵だ、バイト先の選び方からして私とは違う。
「それとはちょっと違うのですが……」
「白衣を着て変なメガネを掛けたりなんかして、難しい言葉と数字を相手にされてたんでしょう?」
私が問うと、旦那様は難しい顔で黙ってしまわれた。
中卒には、説明しても分からないとでも思われたのだろうか。
「旦那様。私は馬鹿ですけど、説明して頂ければ理解できると思います」
たぶん、だけど。
今までの話で分かったのは、旦那様は学会に行くと嘘をついて、治験なる物に行かれていたということだけだ。
私がお言葉の続きを待っていると、旦那様は深く溜息をついた後、言いにくそうに口を開かれた。
「助手のアルバイトではありません。僕は、被験者として参加していたのです」
「被験者?」
「ええ。いわば5日間入院していたようなものでした」
「え、だって旦那様、どこも悪くないじゃありませんか」
なのに、どうして入院なんて。
旦那様の口から出たお言葉を頭の中に並べ、仰ることを理解しようと頑張った。
臨床テスト。白衣は着ていない。入院のようなもの。被験者として参加した。
「ああっ!」
しばしの後、私の頭がとある結論を導き出す。
そして次の瞬間、私は旦那様のセーターに掴みかかり、それを脱がせていた。
「どうしました?」
私に肌着も奪い取られ、上半身裸になった旦那様が目をみはりながら尋ねられる。
血眼になっている私の剣幕に、びっくりされたようだった。
「旦那様。一体、何をされたんですか!」
きょとんとしておられるのが癪で、腹が立って叫ぶ。
旦那様は、テストする側ではなく、される側のお立場で「治験」なるものに臨まれたに違いない。
自分からモルモットになり下がるなんて、とんだことだ。
「答えて下さい。変な薬とか、無理矢理飲まされたりしませんでしたか?」
旦那様を押さえつけてお体を隅々まで検分すると、ひじの辺りに注射跡のようなものがいくつか見受けられた。
こんなもの、今回の外泊の前には無かったはずだ。
「大丈夫ですか?どっか痛いとか苦しいとか、ありませんか」
旦那様の肩を揺さぶりながら、寸分の異常も見逃さぬように問い掛ける。
「美果さん、落ち着いてください。一体どうしたんですか」
「どうもこうもありません。旦那様の馬鹿、大馬鹿っ!」
不安と怒りに胸が潰れそうになりながら、私はありったけの大声で怒鳴った。
「なんでそんなのに行ったんですか!私なんかへの、プレゼントのためですか」
「……」
「大事なお体を犠牲にしてお金を稼ぐなんて!そんなこと、してほしくなんかありません」
とうとう目から涙がせきを切ったように流れ始め、それでも両手で顔を覆って私は言い募った。
貯金を使ったと早合点した時とは、比べ物にならないくらい悲しかった。
「美果さん。あなたは、何か勘違いをされているようです」
わあわあ泣いている私の肩に、旦那様がそっと手を触れて言葉を掛けてこられる。
「治験とは、非合法の組織が人体実験を行うような、そんないかがわしい物ではありません。
その場には医師がいますし、データを取るための検査も、健康診断とさほど変わらない物なのです」
「そう、なんですか……?」
「ええ。短期間で比較的報酬がいいので、副業で定期的にやっている人達もいるのですよ?」
そんなこと言われても、私は参加したことが無いから分からない。
ただ、さっき見た旦那様の肌に残る針の跡が、赤く痛々しく目に焼きついただけ。
「どうしてそんな…。その報酬で、私にプレゼントを買って下さるためですか」
「それは…」
「隠さないで下さい。そうなんでしょう?」
「…はい」
渋々答えられた旦那様が、私に脱がされたセーターを元のように着込まれた。
「この間、大学の帰りに街を歩いていたら、宝飾店であの首飾りが目に留まりました。
これは美果さんに似合うに違いない、プレゼントしたら喜ぶだろう…と思ったものですから」
さっき、その通りにした自分の暢気さが思い出され、胸が痛い。
「ああ、勘違いしないで下さい。元々は、自分のために使おうと思っていたのです。
だから友人のつてを頼りました。短期ですむアルバイトがあれば、教えてくれと」
「本当ですか?最初は、ご自分のために使うお金を稼ぎたかったんですか?」
「そうです。僕が頼むと、友人は報酬がすぐ手元に入るこの仕事を紹介してくれました。
まあ、申し込みをすませて当日が来る間に、首飾りを見つけてその用途は変わりましたが…」
私にプレゼントするために、アルバイトをされたのではなかったということなのか。
それならいいけれど、まだ嘘をついていらっしゃるのかもしれないと、疑念が湧いた。
「旦那様。本当に、自分で使うお金を得るのが目的だったんですか?」
「はい。へそくりを、作っておこうと思いまして…」
私が尚も問うと、言いにくそうにしながらも、旦那様が隠さずに言葉を続けられる。
「毎月の小遣いはもらっていても、高価な本などが急に必要になる時があるかもしれないと思ったのです。
そういった場合に備え、美果さんに内緒のお金を、用意しておくべきだという結論に達したものですから…」
「そんなの、言ってくれれば何とかします。私だって、何でもかんでも節約しようなんて思っていませんっ」
言い返してはみたものの、声にはさっきほどの力は入らなかった
この方に金銭感覚をつけてもらおうと、私が厳しくしすぎたのがいけないのだろうか。
だから、この方は私に隠れてこそこそ治験なんかに行かれたのだろうか。
「申し訳ありません。秘密にしておくはずだったのに、ばれてしまっては意味がありませんね」
旦那様は、馬鹿だ。
妙な企みをしたのに、私のためにあっけなくお金の用途を変更し、そして今全てがばれてこうして私に怒られている。
いい大学に通っておられるのに、本当にしょうがない人だ。
しかし、旦那様のお考えに全く気付くことなく、お元気でと言って送り出した私はもっと馬鹿なのかもしれない。
ようやく顔を上げた私を、旦那様が正面から見つめられた。
「美果さん。僕がいなくて、淋しかったですか」
「えっ?」
「待っていて下さったのでしょう?僕が戻った時、あなたはすごく嬉しそうな顔をなさいました」
涙が引いた私を見て安心したのか、旦那様が微笑を含んだ声で仰ったのが、ちょっと気に障った。
今しがた叱られて悄然となさっていたばかりなのに、全く暢気な人だ。
「…別に。全然淋しくなんかありませんでした。鬼の居ぬ間に、好き勝手やってたんです」
「ほう、そうですか」
「連日夜遊びをして、お酒を飲みました。こんなんだったら、もっと行っていらっしゃってもよかったのに」
本当は、甘くない卵焼きを食べて、だらだらした生活を送っていただけなのに、全くの嘘が口から出てくる。
しかし、そんな強がりも見透かされているようで悔しかった。
「…そうですか。僕は、淋しかったですよ?」
お酒はいけませんね、と怖い顔をされた後に、旦那様がふと語調を変えて仰った。
「あなたのご飯とお小言が、体に馴染んでいましたから。それが無いのが奇妙に思えました」
「え…」
「寒かったですから、美果さんを抱っこしたかったです。あちらにはコタツもありませんでしたから」
入院みたいなものだと仰ったから、きっと殺風景な場所にいらっしゃったのだろう。
「自分で決めたとはいえ、5日もここを空けたのは、正直言ってきつかったです」
肩をなぞるように動いていた旦那様のお手に力が入り、私はギュッと抱き締められた。
「学会に行くふりをしていましたから、出発前に閨のことをお願いするわけにも、いかなかったですし」
…そういえば、かれこれ2週間はしていない気がする。
「知らない人々の中で5日間生活するのは、とても心細かったのです」
どこか迷いのある手つきで、旦那様が私の背を撫でて呟かれる。
誘いたいのなら、もっと力強く、有無を言わせない態度で誘ってくれればいいのに。
こういう場合、旦那様の態度から感じ取って、したいんですかとかいいですよなどと、私が言葉を掛けるのが常だ。
でも、今日は黙っていよう。
この方の言葉でちゃんと聞いてみたいし、嘘をつかれた腹いせもある。
「それで…美果さん。ですから…あの……」
途中までは言えるのに、大事な一言が言えないのか。
困っておられる旦那様の耳たぶが、真っ赤になっているのが見て取れた。
こういう時のこの方は、非常に初々しくて可愛いと思う。
いざ事が始まれば私を恥ずかしがらせるのが好きなくせに、男性というのは本当に不可解なものだ。
「美果さん、ええと…。ひ…久方ぶりに、お手合わせ、を…お願いします!」
待ち疲れるくらいの時間を掛けて、旦那様がやっと言いたい言葉を発された。
勢い余ったのか最後は大声になって、はあはあと肩を上下させられている。
申し訳ないけど、すごくおかしい。
「お手合わせ」だなんて、まるで武士が剣の相手を頼んでいるみたいだ。
さっきまで泣いていたのが信じられないくらい、私は一気に愉快になってしまった。
「…美果さん。笑うなんて、ひどいです」
私がお腹を抱えているのにムッとしたのか、旦那様がすねたように抗議してこられる。
「す、すみません…。でも、あはははっ!」
だめだ、旦那様のなさりようが面白くて、笑いがどうやっても堪えきれない。
こんなんじゃ、気分を害されるに決まっているのに。
「……やっとの思いで言ったのに」
「え…んんっ!」
抱き締められる力がふっと緩んだと思ったその時、私はあごを掴まれて旦那様に素早く口づけられていた。
びっくりして押し返しても、笑われたのが余程悔しかったのか、旦那様は私を離しては下さらない。
「んっ……っは…ん……」
いつも優しいキスを下さるこの方が、こんな噛み付くようなキスを仕掛けられるのは初めてだ。
そんなにお気に障ったのかと、焦りと驚きで私の頭はオーバーヒートしてしまった。
私がされるがままになるのを感じて、仕返しができたと踏んだのか、旦那様がそこでようやく唇を離される。
呼吸が急に楽になって、私は必死に呼吸して酸素を求めた。
いやだ、不意打ちだったのに、今のキスで早くも下腹の辺りがじわじわ熱くなってきている。
それが疼きに変わる前に、どうにか止めようとそこを押さえた手を、旦那様が掴まれた。
「今日は、いやとかだめなどは無しです。言われても、きっと止まらないと思います」
少しだけ申し訳なさそうに仰って、旦那様は私の着衣に手を掛けて脱がされた。
コタツを向こうへ押しやってできたスペースに押し倒され、間髪をいれずに覆いかぶさられる。
「今度、あの首飾りをつけて見せてください」
私の髪に手を触れて言われた後、旦那様はもう一度キスを下さって、私の体を下に向かって唇でなぞりはじめられた。
「あっ…んん…あ…やぁ……」
慈しむように胸を触られ、声が甘くなる。
絶対に、私の体は以前より敏感になっていると思う。
「美果さん」
優しく私の名を呼んで、旦那様が乳首に舌で触れられる。
そして。
「ひゃあんっ!」
前触れ無くそこに歯が立てられ、快感に蕩けかけていた私の体に場違いな緊張が走った。
すごく痛いわけではないけれど、固い物がそこに当るのは何だか怖い。
「旦那様…う……」
「さっき、僕を笑った罰ですよ。大丈夫、強く噛んだりはしません」
ちょっと楽しそうに言われてしまい、私は先程の自分の行動を心底後悔した。
普段生意気な私が怯えるのがお気に召したのか、旦那様が何度も同じ事を繰り返される。
「旦那様っ…ごめんなさい。だから、それ…いや……」
必死で身をよじってその責めから逃れた私は、自分の体を抱くようにして隠した。
「いや、は無しです」
さっきと同じ強い力で、旦那様が私の手を外させて、シーツに押し付けてしまわれた。
また噛まれる!と冷や汗が背筋を流れたが、今度はそこを舌で柔らかく舐め上げられてまた声が甘くなる。
その気持ち良さに、緊張でこわばっていた私の体はまた蕩けはじめ、抵抗する気力はいとも簡単に摘み取られた。
「あんっ…あ……ひゃあっ…ん…あんっ……」
舌と指先で交互にそこを刺激されると、声を抑えることができない。
痛みで緊張していた体にいきなり優しく触れられると、いつもの何倍も感じてしまう。
こういうのを、アメとムチっていうんだろうか。
「ん…あっ…あ……」
乳首を舐めながら、旦那様が指で私のお腹を撫で下ろされる。
みぞおち、おへそを通り抜け、向かうのはもっと下。
胸への刺激だけでうっとりしていた心身が、別の場所に触れられる期待に騒ぎはじめる。
きっともう、旦那様の指が向かう場所は濡れているに違いない。
「今日の美果さんは、素直ですね」
少し嬉しそうに仰った旦那様が、やっと指をその場所に届かされた。
軽く撫でられただけなのに、そこが潤みきっているのが自分にも分かるなんて、ひどく恥ずかしい。
はしたない女だと、旦那様に思われてやしないだろうか。
「旦那様……」
でも、どうにも我慢できなくて、私は鼻にかかった声で呼んで、ねだるような所作をしてみせた。
もっと触ってもらわないと、胸への愛撫だけでそこがそんな風になってしまったのがバレてしまう。
だから、早く。
指先で軽くなぞるだけじゃいやだ、いっぱい触ってほしい。
私は手を下へ伸ばし、祈るような気持ちで旦那様のお手を掴んで、そこに押し付けた。
「美果さん?」
普段はこういうことをしない私が今日は違うのが珍しいのか、旦那様が少しびっくりされる。
もう、奇妙に思われても構わないから、もっと触ってほしい。
そんな強い望みが体を支配して、胸がギュッと切なくなった。
閨のことが途絶えて、私は心のどこかでこの方に触れられるのを待っていたのかもしれない。
学会だから自重なさっているのだと思いつつも、求められない淋しさのようなものが胸にあったのは確かだ。
だから、今こうして触れてもらって、気持ち良さだけではない喜びの感情が全身に満ち満ちている。
このまま抱いてもらって、2人で同じ快感を共有できたなら、どんなに素敵だろう。
「旦那様。もう、下さい……」
湧き上がる欲望に操られ、私は短く言葉を発した。
いつもなら、何てことを言ったのかと大慌てになって、火消しに躍起になるところだ。
「分かりました。僕も、これ以上の我慢は苦しいです」
旦那様が準備をされる気配を感じ、私は心の中で早く早くと唱えた。
今日は素直になりますから、早く。
「いいですね?」
私の返答を待たず、旦那様が一気に腰を沈めてこられる。
貫かれ、アレが私の隙間を埋めるのが、ひどく心地良かった。
全て入りきったところで、旦那様が私の額に軽く口づけられる。
「…何だか、ひどく久しぶりのような気がします」
ですから、あまり長くもたないかもしれませんと、旦那様は自信なさそうに呟かれた。
お屋敷にいた頃、閨で体を開く私を省みることも無く、ご自分の良いようにだけ動かれていたことがふと頭をよぎる。
しかし当時と今は違う、もうこの方は私のことを置いてけぼりにはなさらないはずだ。
「じゃあ、いっぱい我慢してください。『小憎らしい美果より、先にイってなるものか』って」
「それは難しいですね。美果さんが小憎らしいのは、口先だけのことですから」
旦那様の言葉にえっと息を飲んだ次の瞬間、私は吸ったばかりの空気を全て吐く羽目になってしまった。
いつになく力強い動きで、旦那様が腰を使われはじめたから。
「あっ、ああんっ…くうっ…あ…」
だめだ、旦那様に我慢してと言ったくせに、すごく気持ちがいい。
アレが奥まで押し込まれるたび、閉じた瞼の裏で火花が散るのが分かるくらい。
2週間振りなのに、すぐイくのはいやだ。
「旦那様っ…。もっと、ゆっくり……」
力の入らない手でお胸を押し返して訴えると、旦那様は荒い息もそのままに口を開かれた。
「美果さん、今日は2回しましょう。止めろといわれても、自分でもどうしようもありません」
「そんな…。あっ、ああっ!」
脚をぐいと持ち上げられ、より圧迫が強められて私は悲鳴を上げた。
待って、いや、やめて。
とにかく一度動きを止めてほしくて、思いつくだけの言葉で頼んでも聞き入れてはもらえなかった。
もうだめ、我慢の限界。
「あっ……あ……あああんっ!!」
旦那様のアレを一際強く締め付けた瞬間、私はあっけなく達してしまった。
全身が痺れたようになり、がたがた震えて呼吸さえもままならない。
私がそんな風になっても旦那様は尚も動き続けられ、しばらくしてようやく低く呻いた後、一切の動きを止められた。
……頭がぼうっとする。目が霞んで、手足の先から血の気が引いたみたいに冷たい。
達した後の余韻が、今日はやけに尾を引いて私を翻弄した。
過ぎた快感は、体の機能を鈍らせてしまうものらしい。
イった気持ちよさはどこへやら、私は知らない場所に一人ぽつんと残されたかのように、耐えられないほど心細くなった。
「美果さん」
後始末を終えられた旦那様が、隣に横になって私を背後から抱きしめて下さった。
その温もりを感じ取ると、体が変なのが徐々に治まって、私はようやく落ち着くことができた。
「しばらく、こうしていましょう」
旦那様が耳元で囁かれるのに、素直に頷く。
そういえば、旦那様は治験の話の折に「美果さんを抱っこしたかった」と仰っていたっけ。
こうしてもらうと、私もひどく安心できる。
体に回ったお手を掴んで肌に押し付けると、旦那様はふうと息をついて私のうなじに唇を寄せられた。
「今日の美果さんは、積極的ですね」
何度も軽くキスされながら、微笑を湛えた声で旦那様が仰る。
「そんなこと、ないですけど」
「いいえ、あなたの口からあんな言葉が出たのは、初めてではありませんか?」
「あっ……」
そういえば、熱に浮かされて、ひどくはしたないことを言ってしまった気がする。
「あれは、その…」
「僕は嬉しかったですよ。求められるのは、ひどく気分がいい」
言葉に詰まる私の胸を、旦那様のお手が包み込んだ。
柔らかく揉まれて乳首を指の腹で擦られ、危機感が頭をよぎる。
そんな風にされると、またしょうこりもなく感じてしまうのに。
「ん、やだっ。いや……」
さっきつい口走ってしまった言葉も、今こうして旦那様が得意気になさっているのも不満だった。
どうしてだか分からないけれど、この方が私より優位に立たれると、ひどく居心地が悪くなるのだ。
「美果さん。そんな風になさると、僕は煽られているとしか思えませんが」
お尻をもぞもぞさせて旦那様の腕から逃げようとする動きが、思わぬ影響を与えたのだろうか。
腰の辺りに当っていた旦那様のアレが、また固さを持ち始めたのを背後に感じた。
「もう一度、いいですね?」
「え…あっ!」
旦那様の指が下半身に届き、私の敏感な肉芽を探り当てて円を描くように撫で回す。
さっきはほとんど触れられていなかったから、その刺激はとても大きくて、私の頭のてっぺんにまでジンと響いた。
「やぁん…あ…ああ…ん……」
その指が、私の口からじっとりと湿った喘ぎを引き出していく。
さっきは抵抗していたはずなのにと思っても、これでは勝ち目など無くなってしまう。
触れられた場所に生まれた疼きと熱が全身を覆いつくし、私はまた欲しくなってしまった。
私のこの体は、本人の意思とは裏腹に、どんどん旦那様の都合の良いように変えられていくようだ。
「美果さん、力を抜いて」
胎児のように縮まる私の耳元で、旦那様が仰るのがくすぐったい。
「もしかして、本当にいやですか?さっきので疲れましたか」
体をこわばらせたままでいると、少し心配そうに尋ねられてしまった。
最近は閨の時に意地悪な部分を垣間見せられることもあるが、この方は元々ひどく優しい方だ。
だから、私が体を支配する熱と戦っているのを見て、心配してくださっているのだろう。
でも、こういう時にはさっきのように、少々強引に事を進めてくれたほうがいいのに。
「…2回っていう約束は、ちゃんと覚えています」
私が小さく呟くと、旦那様は安心したように頷いた後、私の片脚を持ち上げられた。
そのまま背後からゆっくり貫かれ、私の口から小さい呻きが漏れる。
「温かいですね。こうしているだけでも、いい気持ちです」
さっきは、味わうこともせずすぐに動きましたからね、と旦那様が申し訳なさそうに言葉を続けられる。
「今回は、僕にも余裕があります。さっきのようなことはしません」
旦那様が、ゆっくりと腰を使いながら、私に言い聞かせるように呟かれた。
緩やかに大きく動かれると、性急に昇りつめさせられた時よりも、もっと深くつながっている感じがする。
旦那様のアレが中を往復するたび、何ともいえない満足感のような物が私の胸に生まれ、どんどん膨らんでいった。
いつもは正面から抱き合ってばかりだったけど、後ろからというのも、いいかも。
「あんっ……あ……うんっ……」
ひどく心地良く揺さぶられながら、私は一歩一歩高みへと押し上げられていった。
一度目のセックスがジェットコースターだとすれば、今は観覧車に乗っているような気分。
旦那様とぴったりくっ付いて、肌の感触や息遣いに浸りきる余裕がある。
「あ……旦那様、気持ちいい……」
視界に霞がかかったようになり、口からは今までに発したことのないほどうっとりとした声が出てくる。
日頃の悩みとか不安とか、そういった物は全てどこかに隠れてしまって、かけらも見えなかった。
「美果さん、そろそろ…いいですか?」
乱れる息の合間に問われるのに頷いて、私は覚悟を決めて目をつぶった。
「あんっ…あ…あ……んんんっ!」
弱い場所を狙いすましたかのように突き上げられ、もう一度絶頂に達する。
旦那様のそれもほぼ同時だったようで、あの方も腰の動きを止められ、私のうなじにもう一度唇を寄せられた。
一度目とは違い、達した後の余韻がすごく気持ち良くて、私はしばらくただ黙っていた。
体のどこにも違和感が無くなり、リラックスしていて、まるで雲の上に乗っているかのようだ。
旦那様も、体のつながりを解かれた後、同じように静かになさっていた。
ふと、先程頂いたペンダントのことが頭をよぎる。
嬉しかった、ありがとうという感謝の気持ちを私はまだ伝えていない。
大声を上げたことも謝らなければと思い、私は寝返りを打って旦那様の方を向いた。
「旦那様。プレゼント、ありがとうございました」
人にお礼を言う時は、相手の目を見てはっきりと。
小さい頃に母がそう教えてくれたことを思い出し、きちんとそうすると、旦那様は私を見て眩しそうに目を細められた。
「その分だと、返品に行く気は無くなったのですね?」
「…はい。早とちりして、失礼を言ったことをお詫びします」
プレゼントをしようと思って下さったことも、それを叱ってしまったのも、申し訳ない。
私が神妙な顔をすると、旦那様はそれを見て、気にするなという風ににっこりと微笑んで下さった。
「いいんですよ。あなたがきつく叱ったのは、僕のことを思ってのことだと分かっていますから」
「…はい」
「首飾りを一目見た瞬間、あなたは本当に嬉しそうな顔をしてくれました。あれが、本心なのでしょう?」
そうだ、何年ぶりかのプレゼントってだけでも嬉しかったのに、とても可愛らしいペンダントだったもの。
「あれだけで僕は満足ですよ。嘘をついてまで、治験に行った甲斐がありました」
そのお言葉に、さっき取り乱したことを思い出して、自分の頬に血が昇るのを感じた。
ここで何を言っても言い訳になるだろうが、あの時は本当に心配だったのだ。
旦那様は大丈夫だと仰っても、注射針の跡を見つけた時は心臓がギュッと縮んだ。
もうあんなことは二度と御免だ、それをちゃんと言っておこう。
この方が私のために痛い思いをされるのはいやだし、私の目の届かない所で何日も過ごされるのは心配だから。
「旦那様。もう、治験には行かないでくださいね。プレゼントも今回が最初で最後にしてください。
何も贈って下さらなくても、私を喜ばせたいというお気持ちだけで十分ですから」
もう一度旦那様の目を見て、自分の気持ちがちゃんと伝わるように心を込めて話した。
「そうですか、美果さんが仰るのなら、考えておきましょう。
しかし、今回のことは許してください。あれが目に入った時は、美果さんにとしか考えられなかったものですから」
ペンダントを見つけた時のことを思い出したのか、旦那様はまた目を細めて言われた。
私も女の端くれだから、アクセサリーをもらうのは本当はとても嬉しいのだ。
しかし、そのために旦那様に自分の身を犠牲にするようなことは、してほしくない。
この分だと、今後もこの方はまた私に何か贈ってくださる気になるだろう。
私と旦那様の、どちらにも得になるような妙案は、何かないものだろうか。
「あっ!」
その時、私の頭に突如、稲妻のようにまばゆい閃光を伴ったアイデアが浮かんだ。
これだ、これしかない。
「旦那様、ノーベル賞です。ノーベル賞を取ってください」
私がお手を握って一息に言うと、旦那様は不意を突かれたのか、きょとんとなさった。
「ノーベル賞が、どうしました?」
「私、それがいいです。ほら、今年はまた日本人が、なんか取ったんでしょう?」
「ええ。物理学賞と化学賞ですね」
さすが旦那様だ、先輩学者に敬意を持ってきちんと記憶なさっている。
「ね、旦那様もあれ取って下さい。そうすれば私は、『うちの旦那様がすごい賞を取った』って誇れます。
物じゃなくて、喜びをプレゼントをして下さい。それなら、旦那様はどこも痛くないし、ご自身の名誉にもなるでしょう?」
この方がノーベル賞をお取りになれば、たぶん賞金もつくだろうから、もう少しいい所へ引っ越せるだろう。
もしかしたら、池之端家のお屋敷を取り戻されることも叶うかもしれない。
ああ、なんていい考えなんだろう。明日にでもそうならないものだろうか。
一気に楽しくなってしまった私の頬を、旦那様が指でつつかれた。
「美果さん、それは無理です」
景気のいい想像がしぼむくらい冷静に釘を刺されて、私は何でですかと問い返した。
「あれは、僕のような若造が取れるような賞ではありません。
たとえ良い研究をして世のため人のために今すぐ結果を出したとしても、あの賞をもらえるまでには何十年も掛かるのです」
「何十年、ですか……」
それでは、旦那様も私も老人になってしまう。
なんだ、せっかくいい案だと思ったのにと、私はがっくりと肩を落としてしまった。
「僕に、ノーベル賞を取ってほしいんですか?」
黙ってしまった私の手を、旦那様がギュッと握り返される。
ええと、それじゃなくてもある程度名誉があって、賞金がなるべく豪華なやつなら何でもいいんですけど。
そうとは言いかねたので、私はただ頷くだけにとどめた。
「それならば、僕を折に触れて叱咤激励してください。あなたに尻を叩いてもらえば、きっと頑張れると思います」
「本当ですか?」
旦那様のお言葉に、私は再び気持ちが華やいできた。
「ノーベル賞の賞金は、たしか日本円で1億数千万円だったはずです。それがもらえれば、あなたに楽をさせてあげられる」
「1億、数千万…」
「ええ。宝くじの一等賞よりは、安いですが」
確かにそうだけど、足りない分は名誉で十分補えると思う。
うまくすれば、国内でも何か賞をもらって、その賞金が入ってくるかも。
これは、ぜひノーベル賞を取ってもらわねばならない、何としても。
「旦那様。賞金が入ったら、もう少し広い所に引っ越しましょう。いえ、それだけあれば一戸建てだって買えちゃいます」
胸を弾ませて私が言うと、旦那様は頷いた後、ふと表情を引き締められた。
「そうですね。しかし、賞を取るために研究をするのではありませんよ。
ただ学問を愛し究めたい、世のため人のためになる発見や発明をしたいという気持ちが無ければ、研究はできません」
いかにも学者様らしく、謹厳な面持ちで旦那様が仰る。
楽しい未来に夢を馳せているんだから、水を差さないでほしいのに。
「研究の動機はお任せします。なるべく早く、お願いしますね」
「はい」
「あんまり待たせると、私、その賞金を持って一人で逃げてしまうかもしれませんよ?」
急かすための冗談を言うと、旦那様はおやおやと言いながら、やっと楽しそうに声を立ててお笑いになった。
「それは、楽しそうですね。外国へ逃げるのですか?」
「いえ、私は日本語しかできませんから、国内のどっかだと思いますけど」
「そうですか。それでは美果さんが逃げたら、僕は賞の取材に来るカメラに向かって呼びかけることにしましょう。
『美果さん、あまり無駄遣いしてはいけませんよ、きちんと計画を立てなさい』と」
「えっ、金返せって言わないんですか?」
信じられない。私だったら地の果てまで追いかけてお金を取り戻すのに。
「僕が賞をもらえるような年まで、美果さんが傍にいてくださるのなら。
あなたのその働きはきっと、賞金を丸ごと差し上げるのに値するくらい、素晴らしいものでしょうから」
まるで本心からそう思っているように邪気の無い瞳をして、旦那様が静かに語られる。
褒められるよりけなされる数の多い人生を送ってきた身には、そのお言葉が受け止めきれないほどに眩しかった。
「…そうですね。私は今旦那様に一銭も頂いていないのに、朝に夕にお世話をしているんです。
賞金が入れば、未払いの給金をそこからきっちり頂きますからね」
「ええ、そうなるように僕もせいぜい頑張って、美果さんがしびれを切らさないうちに結果を出したいものです」
憎まれ口しか言わない私と、それにも誠実に答えを返してくださる旦那様。
今はボロアパート暮らしでも、将来の夢を描くくらいの元気は持ち続けていたいものだ。
「じゃあ、未来の受賞者様。もう遅いんで、さっさと寝てください」
「はい、分かりました。それではお休みなさい」
旦那様はもう一度柔らかい笑みを見せられ、私を引き寄せて目を閉じられた。
胸に抱かれて閉じた瞼の裏に浮かんだのは、頂いた真珠のペンダントのこと。
私も何かいい物を買って、お返しに旦那様にプレゼントをしよう。
喜んでもらえる物を考えて、思いつくままに頭のままにリストアップしていく。
そのスピードが次第にゆっくりになり、そして、とうとう私は眠気に足を取られて、何も思い浮かばなくなってしまった。
考えるのはまた今度にしよう。
とりあえず、明日はまた、旦那様の好きなうんと甘い卵焼きを作ってあげなければ。
そう決めて、気持ち良さそうに眠っておられる方に身を寄せ直し、私は優しく温かい眠りの中に引き込まれていった。
──第5話 おわり──