「美果さん、パーティーに行きませんか」  
12月に入った頃、旦那様が前触れなく私を誘われた。  
聞けば、旦那様の長年のご友人、弓島(ゆじま)様のお宅で、今月中旬に恒例のクリスマスパーティーがあるのだという。  
弓島家といえば、池之端家と肩を並べるほどの名家だ。  
「無理です!メイドに紛れるならともかく。大体、服や靴はどうするんですか」  
そう言ったのに、旦那様は「弓島には妹がいるのです、彼女の服を貸してもらえばいい」と暢気に仰った。  
年頃の女の子が、知らない女に服を貸すなんて嫌がると思うけど。  
「美果さん」  
浮かない顔をする私に、旦那様が静かに呼びかけられた。  
「ああいう場には、2人で行くのがルールなのです」  
「えっ?」  
旦那様も、毎年誰か女性を連れて出席されていたんだろうか。  
「あの、去年までは…」  
「兄と2人で行っていました」  
仰った言葉を聞いて、私の背筋がひやりと冷たくなる。  
この方は、もうお兄様と2人でパーティーに参加することはできないのだ。  
知らなかったとはいえ、まずいことを尋ねてしまった。  
大事なご友人宅のパーティー、しかも毎年ご参加になっていたのなら、ぜひ行きたいと思っていらっしゃるに違いない。  
私が承諾すれば丸く納まるのなら、ここははいと言うべきなのだろうか。  
「ああ、忘れていました。弓島家のシェフは、ひどく腕利きなのです」  
揺れる私に、新たな手で攻勢がかけられた。  
なんでも、弓島家のパーティーメニューは、名家のそれの中で3本の指に入るほど素晴らしい物らしい。  
「オードブルにサラダにパスタ、デザートに至るまで、お抱えのシェフが腕によりを掛けて抜群に美味しい物を作るのです。  
ワインも、弓島家所有のワイナリーで醸造された、質の良い物が供されるのです」  
こう言われては、ぐらっと来るのも当然のことだと許して頂きたい。  
「泊めてくれるそうですから、夜と翌朝の食費が浮くことになりますね。帰りにはお土産もありますよ」  
駄目押しの一言を食らい、私はとうとう押し切られて、旦那様のお供をする羽目になってしまった。  
 
 
そしてパーティーの当日が来て、旦那様と私は普段着のままアパートを出た。  
旦那様の礼服はあるのだが、さすがにきらびやかな格好で電車には乗れない。  
目指す弓島家のお屋敷に到着すると、ご次男の透様とその妹の香織様が出迎えて下さった。  
お2人と旦那様は面識があるので、私だけが部外者ということになる。  
しかしさすが名家にお育ちになった方は違い、お2人は私のような者にも、しごく愛想よく接して下さった。  
「香織さん、お願いしますね」  
「ええ。パーティーの時間までには、何とか」  
旦那様は香織様に私を託され、透様と共にあちらの部屋へ行かれてしまった。  
よそのお宅で私を一人にするなんて、ひどい。  
「私の部屋へ行きましょう。こっちよ」  
さっさと歩かれる香織様に、私は慌ててついて行った。  
「さて。ヘアメイクの前に、何を着るか決めましょう」  
香織様が、自室のクロゼットを開けられると、そこには色とりどりの洋服が整然と並んでいた。  
どれもこれも、名家の女性にふさわしい高級な物であることが一目で分かる。  
本当に、私なんかがお借りしていいのだろうか。  
「鏡の前に立って。ほら、ぼさっとしないで」  
いつも私が旦那様に言うようなことを、今日はこの初対面の方に言われている。  
「あなた、私より小柄だから。私が少し前に着てたのがいいかしら…」  
そう言って、香織様はクロゼットの「少し前に着ていた物」ゾーンに手を伸ばし、豪快にドレスを何着か掴んで取り出された。  
そしてまるで映画の早送りのように、私の体に次々と当てて似合うかを見て、不可だと脇の小机に重ねられていく。  
いくらも経たないうちに、そこにはきらびやかなドレスのミルフィーユが出来上がった。  
 
「あ、これがいいわ。ほら!」  
香織様が、ある一着を私に当てられた瞬間、表情をパッと明るくされた。  
「ねえ、どう?似合うと思わない?」  
「は、はあ…」  
香織様が勧めて下さったのは、肩が大きく開いた薄いパープルのドレスだった。  
ちょっと大人っぽ過ぎるデザインだと思ったのだけど、どうやら雰囲気的に、私に発言権は無いらしい。  
「じゃ、これね。着るのは後でいいから、その前に体のコンディションを整えないと」  
「え、体調はいいですけど…」  
「違うわよ。眉とか襟足とか、あなたいい加減に処理しているでしょう」  
ぴしゃりと言われ、反論できずに下を向く。  
日々の忙しさにかまけ……という建前で、気合を入れていないのは確かだ。  
「服を貸すのは私なんだから、レンタル料代わりに好きにさせてもらうわ」  
そう宣言され、香織様は楽しみでならないという風に微笑まれた。  
 
 
そして私は、香織様の指導と叱責のもと、体のあちこちの手入れから始めることになってしまった。  
眉を整え、肘や膝の角質を落としてクリームをすり込み、体中の産毛を剃ってマニキュアを塗って。  
ようやくドレスを着る許可が下りた後は、香織様の手によって、今までしたことがないようなヘアスタイルになった。  
ヘアアイロンで髪を巻き、高く結い上げてヘアアクセサリーで留められ、何やら光る粉まで振り掛けられて。  
香織様はまるでプロの美容師のように、私を一般人からパーティー仕様へと変身させて下さったのだ。  
「これでいいわ。私も準備するから、あっちで待ってて頂戴」  
私のメイクを終えて、会心の笑みを浮かべた後、香織様はご自分の準備に取り掛かられた。  
窓ガラスには、きょとんとした顔でこちらを見ている、知らない人の姿が映っている。  
全く実感が無いのだが、どうやらこれが、きちんと体を手入れして着飾った時の私らしい。  
池之端家のお屋敷にいた頃は、清潔感を保つだけの最低限の身だしなみはしていたが、使用人だから華美にはしなかった。  
しかし今は、メイクで顔の上に一枚皮が増えたみたいだし、結い上げた髪の重みで肩凝りになりそうだ。  
待つことしばし、ご自分の準備を済まされた香織様が、私の座るソファの方に来られた。  
日頃のお手入れに抜かりが無いから、こういう時にも短時間でお支度が整うのだろうか。  
すらりとしたお体に優雅なドレスをまとわれ、ヘアもメイクもまるで本職が手を掛けたように美しく決まっている。  
本来、女というのはこうあるべきなのだと、私は香織様を見て少し反省した。  
 
 
「ねえ。池之端さんは、新しい住まいでちゃんとやっていらっしゃるの?」  
「えっ……」  
私の対面に座り、運ばれてきたお茶を一口飲んで、香織様は興味津々といった様子で口を開かれた。  
「あなた、メイドなんでしょう?池之端さんはあんな感じだから、じれったく思うこともあるんじゃない?」  
「はい、それはもう」  
最近は旦那様をガミガミ怒ることも少なくなったが、全く無いわけではない。  
「私、あの人は昔から知っているけど。ちょっと世間からずれている所があるじゃない?」  
「はい」  
「私、あの人と一緒に暮らせって言われたら、きっと3日ももたないわ。あなた偉いわね」  
忠義心に満ちているならまだしも、日頃あの方に無礼極まりない態度を取っている自分が、褒められるのは妙な気分だ。  
「別に、偉くなんてありません。慣れですね、もう」  
私が言うと、香織様はさも面白そうに声を立ててお笑いになった。  
「慣れ、ね。本当にそうかもしれないわ」  
「はい。私にしてみれば、女の身だしなみに慣れていらっしゃる香織様の方が、何倍も偉く思えます」  
「そうかしら」  
「ええ、まるでプロの人みたいだって思いました。将来はそっちの道に進まれるのですか?」  
私が素直に人を褒めるのは、実はとても珍しい。  
場に溶け込むためのお世辞やお上手を言い慣れたこの口から、本心が出たのは久しぶりのことだ。  
しかし香織様は、私の言葉にサッと表情を暗くされた。  
 
「仕事、ね。私の将来の仕事はきっと、着飾って微笑んで、何も考えずにいることだと思うわ」  
「え……」  
「大学を出てしばらくしたら、父にとって都合のいい人のところへお嫁にやられるに決まっているもの」  
その言葉を聞いて、私は今しがたの己の発言を舌を噛み切りたくなるほどに後悔した。  
そうだ、名家にお生まれの女性は、自分のやりたいことを追及できる立場にはないのだ。  
「すみません。私、何も考えてなくって……」  
飾り立てて頂いて華やいだ気分もどこへやら、私は心底落ち込んで謝った。  
この方は、私みたいなお気楽な庶民とは違うから、よく考えて会話をしなければいけなかったのに。  
「いいのよ。気にしないで頂戴」  
「でも……」  
「素直に褒めてくれたんだもの。それを怒ることなんて、しないわ」  
香織様のフォローの言葉が、胸に痛かった。  
「それよりも、ねえ。私、本当に上手だと思った?お世辞じゃなくて?」  
「はい。お若いのにあんなにお出来になるなんて、びっくりしました」  
問われるのに、私は素直に頷いた。  
同い年なのに本当にすごいと、心から関心していたから。  
「ありがとう。私もね、こういうのが仕事になればいいなあって、本当は思っているの」  
「そうなんですか?」  
「ええ。だから今日だって、母がサロンに誘ってくれたけど、断って自分でやったのよ。  
人様のスタイリングも初めてだったけど、楽しかった。終ったばかりだけど、またやってみたいわ」  
「ありがとうございます」  
「これが仕事となるとそりゃあ辛いだろうけど、きっと、楽しくもあると思うの」  
どこか夢見るような瞳で仰った香織様を見ると、本当にこういうことが好きなのだというのがよく分かる。  
「香織様。それなら、やってみればいいんじゃないですか?」  
私が言うと、香織様が目を大きくみはられた。  
「大学に通われているんでしょう?それなら、まだ時間はあります。  
よそのお嬢様が海外留学されるみたいに、香織様は美容の勉強をなさればいいんです」  
旦那様を見ていると、大学は大変だろうなと思うけれど、並行してもう一つ何かをやるのは不可能ではない。  
「中途半端に諦めると、きっと将来後悔するんじゃないでしょうか」  
「そんな経験があるの?」  
「ええ。私も、せめて高校くらいは出ておけばよかったと、何度も後悔しました」  
中学を出てすぐ池之端家でメイドになったのは、居場所の無い実家から逃げ出すための手段だった。  
あの時はこれが精一杯だったのだが、お屋敷をクビになって以後の職探しには難渋した。  
まず学歴ではねられ、面接が1分以内で終ったことも何度もある。  
「同い年なのに頑張って働いているなんて、偉いなあと思うんだけど」  
「ありがとうございます。でも、そうは思ってくれない人もいますから。  
それに、後悔の種があると『あの時こうしておけば』って、いつまでもいじいじ考えてしまうんです」  
「そうなのね。確かに私も、いつまでもしつこく悩むタイプだわ」  
こんなに明るいオーラをまとわれているこの方でも、そうなのだろうか。  
「後悔の種、ね。確かにそんな物、無い方がいいわよね」  
「はい」  
「分かったわ。もう一度ちゃんと考えてみる」  
香織様の表情が引き締まり、頷いて下さったのを見てホッとする。  
この方に、好きなことを追求できる幸せが訪れますようにと、私は心から願った。  
 
 
冷めてしまったお茶を淹れ直し、話を続けているうちに、日も暮れてパーティーの時間になった。  
「あの、一旦お屋敷から出て玄関から入り直した方がいいんでしょうか」  
問うと、香織様は首を傾げられた。  
「別にそんなの、構わないんじゃないかしら。記帳は池之端さんが済ませてくれているでしょうから」  
「そうでしょうか。旦那様、ボーッとしているから…」  
お兄様とパーティーにご一緒なさっていた時は、その手の事は任せていらっしゃったはずだ。  
「あ、今日はその呼び方、よした方がいいわ。『旦那様』って」  
香織様がふと立ち止まって仰ったことに、私はどうしてですかと問い返した。  
「だってそれじゃ、周りの人に奇妙に思われてしまうじゃない。だから今日だけは名前で呼ぶべきだわ」  
「え、旦那様は旦那様であって、名前でお呼びしたことなんてないんですけど……」  
「そうなの?でも広間で呼ぶのは無理よ。池之端さんに一切近付かないなら別だけど」  
じゃあせいぜい食べて飲んで、旦那様の傍には行かないようにしよう。  
 
香織様と階下へ降りると、美しく設えられた大広間には、すでに色とりどりに着飾った紳士淑女が笑いさざめいていた。  
池之端家にいた頃、私は裏で洗い物やゴミの始末をするのが当たり前で、こういう華やかな場に身を置いたことはない。  
自分一人が明らかに場違いであるように思え、私の足はひとりでに止まってしまった。  
「緊張することないわ。堂々としてれば、見破る人はいないわよ」  
だからしゃんとしなさい、私が腕によりをかけたんだからね、と笑って、香織様はさっさとあちらへ行かれてしまった。  
せっかく、あの方に長時間掛けてここまで仕上げてもらったのだから、きちんとしなければ。  
私は、目の合う人にどうにか愛想笑いを作ってみせ、目立たぬように壁際へ移動した。  
そして大広間の中を見渡しながら、旦那様のお姿を必死に探した。  
今日は近寄らないと決めたばかりなのに、慣れない場所に不安になって、誰かに傍にいてほしくなったのだ。  
あちこち探してやっと見つけた旦那様は、透様の隣に立ち、何名かの方と談笑していらっしゃった。  
落ちぶれてアパート住まいになったとはいえ、元々は良家の御曹司だから、場に馴染んでおられるのは当然のこと。  
こちらに気付くこともなく、出席者と立派に社交をしていらっしゃる。  
ご両親とお兄様の事故が無ければ、あの方はこういったパーティーにしょっちゅうお出になれたのにと思った。  
 
 
華やかな場の雰囲気とは裏腹に、私の気持ちはずんと沈みこんでしまった。  
間もなくパーティーのプログラムが始まり、暗いオーラをまとった女を気にとめる人がいなかったのが幸いだった。  
弓島社長の開会の挨拶の後、乾杯が終ってお料理が運ばれだして、音楽も大きくなって場が賑やかさを増す。  
旦那様が仰っていたとおり、お料理は一品一品がとても素晴らしくて、私は目が釘付けになってしまった。  
弓島家のお屋敷は池之端家と同程度の大きさだけど、料理に関してはこちらの一本勝ちだ。  
それを申し上げると、戻ってきて下さった香織様は笑って、デザートもパティシエの特製だから楽しみにしてと仰った。  
浅ましいのは承知だけれど、そう言われると落ち込んでばかりもいられない。  
私は早々に立ち直り、香織様が席を外された時を狙って、食欲全開で料理をお腹に納めていった。  
人々の視線や意識の合間を縫い、テーブルに近付いて食べ、また壁際に戻る。  
時折声を掛けてくれる人もいたが、素性がばれないように挨拶程度にとどめておいた。  
そうして忍者のように立ち回っている間に、パーティーのプログラムはどんどんと消化されていった。  
賛美歌、大きなクリスマスケーキのライトアップ、曲芸などの出し物、ビンゴ大会。  
それらが終り、進行役が突如芝居がかった合図をした、次の瞬間。  
会場のあらゆる照明が一斉に落とされ、大広間はいきなり真っ暗闇になった。  
「今から皆様には、この中を歩き回って最初に手が触れた方とダンスをして頂きます。では、どうぞ!」  
進行役の言葉に、私の全身から血の気が引いた。  
そんな、いきなりダンスなんて言われても困ってしまう。  
数年前にメイド教育の一環で少し習ったきりで、それから一度も踊っていないのに。  
「パートナーが決まった方は、壁際へ寄って下さい。まだの方は、お部屋の中央でお相手探しをして下さい」  
暗い中で進行役が煽り、周囲の人達が壁の方に移動する気配がする。  
かくなる上はこの場から逃げようと、私は大広間の入り口へ向かい、すり足で移動を始めた。  
私がいなくなればパートナーにあぶれる人が出るだろうが、足を踏むよりはいいだろう。  
しかし、ようやくたどり着いた重厚なドアに手を掛けても、鍵でもかかっているのか、うんともすんともいわなかった。  
まずい、これでは逃げられない。  
「パートナーを獲得していらっしゃらない方、お早く!」  
進行役が暢気に煽るのに心の中で毒づいて、どうしようか途方に暮れる。  
その時、不意に傍で誰かが転んだ気配がした。  
ドシンという音に周りが笑ったのが気の毒で、私はそっと手を貸して立たせてあげることに決めた。  
いいとこのお嬢様が転ぶなんて、きっと恥ずかしいだろうから。  
そして、そちらの方向へ当てずっぽうに手を伸ばし、転んだ人と手が触れたと思ったその時。  
前触れ無く、大広間の照明が元通りになった。  
「あっ!」  
その瞬間、私は驚きのあまり、その姿勢のままで固まってしまった。  
私に手を握られていたのは、誰あろう、うちの旦那様だったのだ。  
 
「すみません、面目ない」  
そう言いながらこちらをご覧になった旦那様の目が、私の顔をとらえて動かなくなった。  
「美果、さん?」  
呆けたように尋ねられ、私はしょうがなく首を縦に振った。  
手を貸すだなんて、しなければよかった。  
「旦那様。私、ダンスできませんから、誰か他の方を当って下さ……」  
手を振り解いて背を向けようとしたが、旦那様は私の手を離して下さらなかった。  
「屋敷で習ったでしょう?簡単なワルツですよ」  
「でも、実際に踊ったことなんて、あれから一度もなくて」  
「大丈夫です。暗闇でダンス相手を探すこの企画は、弓島家のパーティーの伝統なんです。  
昔は、これが男女の出会いの場になっていたそうですよ」  
「はあ……」  
「心配ありません。初めての人と踊る場合がほとんどですから、難しい曲はかからないのです」  
無理ながらすぐに解放してあげますから、と私をなだめ、旦那様は大広間の中央に向き直られた。  
「女性は内側です。ほら、美果さん」  
促され、私は渋々旦那様と向き合い、お手を取った。  
足を踏んでしまったら、後で一生懸命謝ることにしよう。  
 
 
間もなく、楽団が軽快なワルツを奏ではじめ、ペアになった男女が音楽にあわせてくるくると踊り始めた。  
今までは思い思いのことをしていた人達が、全員同じ動きをしているのは壮観だ。  
周囲を見回すと、パートナーが見つからなかったのか、男同士で組んでいるペアもいて面白かった。  
「美果さん、きょろきょろしてはいけません。こういう場合には僕の方を見るものです」  
旦那様にたしなめられ、すみませんと謝って私は踊りに意識を戻した。  
しかし、踊るのに集中するということは、旦那様とずっと見つめ合うということだ。  
お言葉に従ったはいいけど、そうしているとどんどんと頬に血が昇ってきて、頭が爆発しそうになった。  
これはまずいと思った私は、微妙に目をそらし、視線をタイの辺りに固定することに決めた。  
こうすれば、もうのぼせないのに違いないと、少しだけ心に余裕が生まれた。  
それにしても、私達は驚くほどスムーズに踊れている。  
足を踏むかも蹴飛ばすかもと心配していたけれど、旦那様のリードがお上手なのか、今のところ全くそんな気配は無い。  
むしろ、音楽の調べの通りに体が動いて、気分がとても良かった。  
これがパーティーのフィナーレなのだろうから、あれこれ考えるのはやめてダンスを楽しもう。  
どうせこれは一生に一度の夢なのだ、私が旦那様のパートナーとしてこういう場に出ることなど、今後二度とあり得ない。  
だったら、音楽がやむまでせいぜい楽しめばいいだけのことだ。  
目一杯食べたお腹を楽にするためにも、せいぜい運動しようと、私は旦那様のリードのままにダンスを続けた。  
 
 
数曲後、音楽がやんでパーティーはお開きになった。  
今のダンスで知り合ったのか、若い男女が何やらひそひそと会話をしているのをそこここで見かける。  
私は、人の波に従って大広間を出て、香織様に今日のお礼を丁重に述べ、今晩使わせて頂く客用寝室に向かった。  
目的の部屋には、アパートから着てきた服や荷物がすでに運び込まれていた。  
ソファに座ると、私の体から力がどっと抜けた。  
ほとんど食べてばかりだったとはいえ、ああいう場に立ってとても緊張していたから。  
いつの間にかはぐれてしまった旦那様は、まだここには来られていない。  
もしかしたら、また透様とお話をされているのかもしれない。  
それなら、今のうちにお風呂をすませてしまおうか。  
立ち上がった私は、ドレスを脱いでお風呂場に向かった。  
弓島家の客用寝室のお風呂場は、白を基調にした広い空間で、シャンプーなどの備品もホテル並みに揃っていた。  
体を洗うのも、薄いタオルではなく本物の海綿だ。  
ボディソープを含ませて泡立てれば、すごく滑らかに肌を洗い上げられるに違いない。  
これは後でのお楽しみと、顔と髪を先に洗ってしまい、私は海綿を持ったまま湯船に浸かった。  
水を含ませたそれの感触が心地良くて、手の中で弄ぶ。  
小さい頃、お風呂場にアヒルのおもちゃを持って入った時みたいで、妙に面白かった。  
 
刹那、お風呂場のドアが前触れもなく大きく開いた。  
びっくりして腰が浮き、お湯が浴槽の中を大きく動く。  
湯気の中を懸命に目を凝らして見やると、入り口には旦那様が立っておられた。  
「あ…」  
主人を差し置いて、先にお風呂に入ったのはいけなかっただろうか。  
しかも入浴剤まで入れたりなんかして、楽しんでいるのはばればれだ。  
硬直している私を尻目に、旦那様が無言でドアを閉められ、すりガラスの向こうからも姿が消える。  
気を利かせて下さったのか、それとも怒ってしまわれたのか。  
どちらなのだろうと悩み、私はお湯の中で気を揉んだ。  
 
 
しばしの後、お風呂場のドアがまた開いた。  
旦那様は、今度は礼装をすっかり脱ぎ、腰にタオルを巻かれただけの姿で立っておられた。  
「僕も入りますから、片側を空けて下さい」  
何でもないことのように言われ、しばらくして私はあっと息を飲んだ。  
「旦那様、私、もう上がりますから」  
「構いませんよ。久しぶりの広い風呂だ、二人で入りましょう」  
二人で、って…。  
「世の男女は、こういったコミュニケーションを取るのでしょう?」  
確かに、そういう人達もいるとは思うけれど。  
でも、そんなことをするのは恋人同士ってやつで、主人とメイドという私達の関係上はあるとは思えない。  
そう言おうか迷っている間に、旦那様はさっさと湯船の中に入って脚を伸ばされ、私を後ろから抱きかかえられた。  
「いい湯ですね」  
満足気に呟いて、旦那様がほうっと息をつかれる。  
アパートでは入浴剤は使わないから、たまにはこういうお風呂に入るのもいい。  
一緒にお風呂に入るのは初めてだけど、向き合っているわけではないので、思ったほど恥ずかしくはなかった。  
「美果さん。手に持っているのは、何です?」  
旦那様がこちらを見て、不思議そうに尋ねられる。  
「海綿ですよ。これで体を洗うんです」  
「海綿……」  
「ええ。まん丸でふわふわで、触ってて楽しいんです」  
「……そうですか」  
「こんなに大きいの、1個2千円はすると思います。もしかして、地中海産の最高級品ってやつでしょうか。  
ほら、こんなに水を吸うんですよ、すごいでしょう?」  
まるで自分の手柄のように誇らしくなって、旦那様によく見えるように持ち上げる。  
含んでいた水分を全て追い出すかのように、それをギュッと力一杯絞ってみせると、旦那様が一瞬苦しそうに息を止められた。  
「旦那様、どうしたんですか?」  
「いえ、別に何でも」  
妙に言葉を濁されるのが、何だか怪しい。  
釈然としない気持ちで、海綿を湯の中で弄んでいると、ついと伸びてきた旦那様の手にそれが奪われてしまった。  
「あっ」  
思わず振り返ると、目が合った旦那様は、ひどく複雑な表情でこちらをご覧になっていた。  
「返して下さい。旦那様も海綿で遊びたいんですか?」  
取り戻そうと手を伸ばしても、なぜかあの方はそれを私の手の届かない場所へ遠ざけられてしまう。  
「……美果さん。あまり、その名を人前で口にするものではありません」  
「なんでです?海綿って、悪い言葉なんですか?」  
たしなめるように仰ったのを聞き、私の頭の中は疑問符で一杯になった。  
「旦那様、なんで黙ってらっしゃるんですか」  
だめだというのなら、理由を教えてほしいのに。  
「とにかく、だめです。その言葉にギクリとする者は多いのです。あと、これを力任せに握り潰すのもいけません」  
旦那様が珍しくぴしゃりと仰り、私はそれ以上追求するのをやめた。  
きっと、昔これを使っていじめられたとか、そういう苦い記憶がこの方にはあるのだろう。  
 
せっかくのおもちゃを奪われて黙りこくる私の肩に、旦那様のお手が触れる。  
お湯がすくい上げられ、ぱちゃぱちゃと小さな音を立てながら浴びせられた。  
それが何となく心地良くて、私はふうっと息を吐き、旦那様に寄りかかった。  
水音以外は何も聞こえない、静かで落ち着いているこの空間は、先程までの華やかなパーティー会場とはまるで別世界だ。  
そういえば、さっき踊っていた時の旦那様は、妙にかっこ良かった。  
いつもは頼りないのに、あの時は貴公子という言葉がぴったり来るような、見上げた男っぷりだったように思う。  
「旦那様、ダンスがお上手なんですね」  
私が言うと、あの方が首を傾げられた気配がした。  
「そうですか?僕など、ごく普通のレベルでしかないと思いますが」  
「そんなことありません。この私なんかを、見事にリードして踊らせて下さったじゃありませんか」  
いつもより何割増しでかっこ良く見えて、不覚にもポーッとなってしまうほどに。  
「レディにお褒めいただくとは、光栄ですね」  
少し嬉しそうに旦那様が仰り、私の肩にまたお湯が掛けられた。  
「美果さんも、なかなかうまく踊っていらっしゃいましたよ。  
本当に、あの時あなたと分かるまでは、どこのご令嬢かと思いました」  
「えっ?」  
「僕に手を貸してくれたこの人が、美果さんであるとわかった時は、あなたの連れであることが誇らしく感じました」  
上機嫌で褒めて下さるのに、こそばゆい気持ちになる。  
でも、パートナーとして出席したのに、なんで最後のダンスの時まで旦那様は私を放っておかれたんだろう。  
「旦那様、パーティーの途中で『美果はどうしているだろう』と考えては下さらなかったんですか?  
私、周りが知らない人ばかりで、すごく不安だったのに」  
少しくらいエスコートしてくれてもよかったのにと、私は少し頬を膨らませて文句を言った。  
「申し訳ありません。最初は探したのですが、分からなかったものですから。  
それに、一緒にいると、僕の付き合いに美果さんを巻き込むことになるので、気の毒だと思いまして」  
「そうだったんですか」  
「はい。たまには僕から解放されて、伸び伸びしたいだろうとも思いましたから。料理はちゃんと食べましたか?」  
「勿論です。たぶん、出されたお料理は全種類、一口は手を出したと思いますよ」  
「それは食欲が旺盛なことだ。しかし、太りますよ?」  
「大丈夫ですよ。明日からまた質素なんですから」  
「それは、そうですね」  
旦那様が、クスッと小さく笑われた。  
こうして二人でお風呂に入っていると、さっきのパーティーのことが、早くも遠い夢のようだ。  
堂々たる名家の御曹司の風格に満ちていた、旦那様の先程のお姿は、しっかりと覚えているのだけれど。  
ドレスやヘアメイクの魔法が解けてしまった私を見て、旦那様はがっかりしてはいらっしゃらないだろうか。  
着飾っただけで中身が伴わない私とは違い、この方には本物の輝きがある。  
それはボロアパートに住んでいても、バーゲンの安物を着ていても、きっと隠せない「品格」というものだ。  
自分とこの方との差に、ほんの少しだけ悲しくなってしまい、私は黙って俯いた。  
 
 
「美果さん、洗ってあげましょうか」  
突然、さも名案であるかのように言われ、私の悲しい気分は一瞬にして吹き飛んだ。  
「今日のパーティーに参加したいという、僕の願いを叶えてくれたお礼です。遠慮はいりません」  
いえそれなら、さっきの美味しいお料理で十分お釣りがきますけど。  
お湯を出て全身を見られるのは、私も女の端くれ、抵抗がある。  
「たまには、僕もあなたのお役に立ちたいのです。それに、さっきの物で背中を洗うのは、ちと苦しそうですよ?」  
その言葉にハッとしてお風呂場を見回すと、浴用タオルもブラシも見当たらなかった。  
「でも、やっぱり……。何ていうか……」  
明るいライトに目をやり煮えきらぬ返事をすると、旦那様はそこでお気づきになって、照明を絞って下さった。  
有効な断りの言葉が見つからないまま、私はしぶしぶお湯から上がった。  
ボディソープを海綿に揉み込んで渡すと、旦那様が優しく私の体を洗い始められた。  
いざそうなってみると、ちょっと恥ずかしいけれど、洗ってもらうのは中々に気持ちがいいものだった。  
旦那様に全てを預け、導かれるままに腕を上げ、体の向きを変える。  
時々、触れられては困る場所に海綿が当たり、反応しそうになって心臓が跳ねた。  
ただ洗ってもらっているだけなのに、声を上げるわけにはいかない。  
何とか耐えて全身を泡まみれにしてもらい、シャワーで流してもらうと、体を包む物が無くなった私はひどく心細くなった。  
 
「じゃ、次は私が洗って差し上げます」  
裸で向かい合う緊張感に耐えられなくなり、旦那様にあちらを向いてもらい、私は背後から海綿を受け取って泡立て直した。  
背伸びをして、旦那様のうなじや肩の辺りから洗い始める。  
「力加減は大丈夫ですか?」  
「ええ、とてもいい心地です」  
そう言ってもらうと、洗う方も満更でもない。  
私は上機嫌で旦那様の背中を洗い、しゃがんでふくらはぎや踵までを丁寧に泡で包んだ。  
「こっちを向いて下さい」  
手を動かしながら言うと、旦那様ははいと頷いてきびすを返された。  
せっかくしゃがんだのだから、今度は下から洗おう。  
 
 
さて……と上を向いたところで、私は心臓が止まりそうになった。  
濡れて肌に貼りついたタオルが、旦那様の下半身をくっきりと形どっていたから。  
照明を暗くしたとはいえ、この至近距離ではその意味など無かった。  
「美果さん?」  
動きを止めた私を不思議に思ったのか、旦那様が声をかけられる。  
えっ、とようやく喉からしぼり出した私の声は、掠れて裏返っている、我ながら奇妙な声だった。  
これではいけないと、口をギュッと閉じ、何でもないふりで泡を増やして洗い始める。  
とうとう目線が正面からそこを見つめ、私は意を決して、旦那様が腰に巻かれているタオルを外した。  
「あっ」  
息を飲まれてもそ知らぬふりで、海綿を滑らせてアレを泡で隠すように洗う。  
これはただの体の一部、平常心で洗おうと自分に言い聞かせ、震える指でその裏の辺りにも泡を行き渡らせた。  
呼吸もできないほど緊張した時間が終り、やっとお腹や胸に取りかかると、上から旦那様の視線を感じた。  
このままだと目が合ってしまう、それは明らかにまずい。  
「旦那様。うーってして下さい」  
無理矢理天井を向いてもらって、私は残りの部分を洗った。  
 
 
私が手を下ろすと同時に、旦那様が自らシャワーを取って体を流された。  
せっかく泡で覆って見えなくした肌がまた現れ、私の心臓がドキリとする。  
「あの、じゃあ、髪はご自分で洗って下さい」  
そう言って湯船に逃げようとする私の体を、旦那様が背後からいきなり抱きしめられた。  
「きゃっ」  
旦那様の腕が、胸の前で交差するようにして私を引き寄せる。  
洗い上げ、水滴をまとった肌と肌が密着する感触は、いつもよりずっと鮮烈に感じられた。  
こうして抱き締められると、全身がカーッとなって、私は何も考えられなくなってしまう。  
気がつくと、私の手は自分の意思とは裏腹に背後へ伸び、旦那様のアレに触れていた。  
先の方を軽く握り込んで何度か擦ると、それは手の中でより固く大きくなり、旦那様が苦しそうに呻かれた。  
このままでは、きっと辛いに違いないから、ちゃんとしてあげなければ。  
私はそっと横へずれて、旦那様を湯船のへりに座らせた。  
しゃがみ込むと、さっき洗い上げたアレが真正面に来る。  
私は目の前の物をもう一度握り込み、石鹸の香りのするそれを迷わず口内へ迎え入れた。  
「うっ」  
その瞬間、旦那様が苦しそうな声を漏らされた。  
口をすぼめて吸い付いて、合間に舌で上下に舐め上げてみると、その声はさらに切迫したものになった。  
「……やめないで下さい」  
ふと動きを止めると、旦那様が私の後頭部にお手を触れて、困ったように呟かれる。  
それに応える代わりに、私はもう一度アレを握り、今度は根元まで深くくわえ込んだ。  
何度もむせそうになりながらも、何とかこらえる。  
旦那様の息遣いや力の入り方に注意を向けながら、私は思いつく限りのことを試した。  
先の方を舐めながら、根元から太くなっている部分までを指でなぞるのが、一番いいみたいだ。  
それを何度も繰り返すと、旦那様の呼吸は一層乱れ、脚が所在無く震え始めた。  
「美果さんっ…あ…いけません…」  
切れ切れに呟いて、旦那様が私の髪に指を絡めて引き寄せられる。  
そして、声にならない呻きがあの方の口からしぼり出された瞬間、私の口の中一杯に苦い味が広がった。  
 
何とかそれを飲み込んだ後、旦那様から体を離す。  
さてこれから、どうしようか。  
今さらながら次の行動に迷って目を伏せると、旦那様がついと立ち上がられた。  
少し冷えた体に温かいシャワーのお湯が掛けられ、気分がほぐれる。  
しばしの後、キュッと音を立ててコックが締められ、お風呂場に再び静寂が戻った。  
「部屋に、戻りましょう」  
心なしか低い声で仰ったのに頷いて、旦那様には先に行ってもらう。  
それを見送った後、まだ少し口に残っている後味をすすいでから、私も一足遅れて後に続いた。  
置いてあったボディミルクを肌に塗って、バスローブを着て脱衣所を出る。  
旦那様は、ベッドに腰掛けられ、少し俯いて何やら考えことをされているようだった。  
「美果さん」  
私の足音に気付いて、はっとしたように顔を上げられ、あの方がぎこちない笑みを見せられる。  
「座られますか?」  
私は、お言葉の通りに隣に行き、手を伸ばせば触れられるほどの距離に座った。  
旦那様は、足をぱたぱたとさせて、手もせわしなく動かしながら黙っておられる。  
何だか、気まずい。  
「あの……。なんか、お気に障ることでも……」  
「いいえ」  
居心地の悪さに耐えかねて口を開くと、旦那様ははたと動きを止められ、でも私を見ずに返答された。  
「美果さんが悪いのではありません。自分の不甲斐なさに、少し落ち込んでしまっただけです」  
「不甲斐なさ?」  
「ええ。あっけなく、さっき…」  
旦那様はそこで言いよどまれて、ご自分の髪をくしゃりとつかまれた。  
先程までの貴公子ぶりはどこへやら、すっかりいつものこの方に戻られている。  
それにちょっと安心したけれど、悩んでおられるこの方を見るのは本意ではない。  
「別にいいじゃありませんか。健康な男の人って、そうなんでしょう?」  
「……ええ、おそらくは」  
「変だなんて思いませんから。だから落ち込むのはやめにして、むしろ、よくやったと褒めて下さい」  
私が言うと、旦那様が吹き出される気配がした。  
「さすが美果さんです。あなたは素晴らしい」  
「そうでしょう?」  
「ええ。鄙(ひな)には稀(まれ)な、見上げた逸材です」  
難しい言葉を言われても、意味が分からない。  
「その辺では見ることができないほど、優れているということです」  
「そうですか」  
「ええ」  
「ありがとうございます」  
互いに丁寧に頭を下げ、そして私達は顔を見合わせて笑いあった。  
 
 
ふと沈黙が訪れ、旦那様のまとわれる空気が変わったのが分かった。  
目を瞬かせる私の体にその腕が回り、引き寄せられて胸の中に閉じ込められる。  
バスローブの生地がふわふわして気持ちいい。  
何度かそこに頬擦りをして顔を上げると、柔らかいキスが与えられた。  
「あ、んっ…」  
旦那様のバスローブを握りしめ、キスに応える。  
軽く深く何度も繰り返すうちに、私の体は、中心にポッと小さな炎が生まれたように火照ってきた。  
そうなると、唇だけの触れ合いではもう物足りなくなってしまうのだ。  
私は、旦那様にもたれかかり、触れる場所を少しでも増やそうとした。  
さっきは心地良かったバスローブが、今はひどく邪魔に思えた。  
キスが終り、腕を解かれて私はベッドに組み敷かれた。  
そしてバスローブを脱がされ、露になった胸にキスをされた。  
敏感な場所に、湯上りのしっとりした唇が触れると気持ちいい。  
体の力をなるべく抜いて、旦那様の邪魔にならないようにする。  
私が素直になったのが分かったのか、旦那様は思うがままに、二の腕や肩の辺りにもキスをされた。  
「いい香りがしますね」  
肌に触れる合間、ふと顔を上げて旦那様が呟かれる。  
「ボディミルクです。湯上りの肌につけると、しっとりするんです」  
説明すると、旦那様はなるほどと呟かれた。  
 
「あとで、僕にもつけて下さい。2人で塗りあいっこをしましょうか」  
「2人で?」  
「ええ。風呂には、もう一度入るのですから」  
さらりと言われた言葉に、私は危うくのぼせてしまいそうになった。  
確かに、これから汗をかくようなことをするのだ。  
答えに困る私を見やって、旦那様は微笑み、そして前触れ無く乳首に吸い付かれた。  
いきなりのことに、私は軽い叫び声を上げて、はだけたバスローブを握りしめてしまった。  
しかし、手が痛くなるくらいに力を入れても、旦那様の愛撫から意識をそらすことができない。  
「あっ……。あ……んん……あぁん……」  
媚びるような、ねだるような声が出て恥ずかしい。  
丹念に、いっそ執拗とも思えるほど触れられて、左右に身をよじってしまう。  
すると旦那様は、私の両手首を掴んでシーツに押し付け、動きを封じてしまわれた。  
そして、尚も胸を集中的に愛撫され、私を煽られたのだ。  
ただ上半身を触られているだけなのに、私の体は、芯からとろとろに蕩けてしまったようになった。  
気持ち良くて気持ち良くて、どうしようもない。  
お屋敷にいた頃に比べると、あの当時よりも旦那様は随分と「上手く」なられたと思う。  
最近は、抱かれるたびに私はこの方に翻弄されている。  
体も敏感になってしまい、特に胸などは、寝るときにも下着をつけないとパジャマに擦れて安眠できないほどだ。  
素肌にパジャマを着ることは、もうないのかもしれない。  
動かない頭でそう考えるうち、思うさま胸に触れられていた旦那様の唇が、下半身へと向かっていく。  
あの方が次にとられる行動を予測して、私は頭の中が沸騰しそうになった。  
つい先日までは、いやだとか遠慮するとか、見苦しく逃げようとしていたのに。  
今の私の心と体には、期待感だけがみっしりとつまって、今にもはちきれそうになっていた。  
早く触れてほしい、そして、気持ち良くしてほしい。  
もうそれしかなかったから、開かされた脚の間に旦那様が屈まれても、抵抗はしなかった。  
 
 
刺激されるのを待ち侘びている場所に、旦那様のしなやかな指がそっと触れる。  
溢れかけている愛液を周囲に塗りこめるように指が動いて、私はその物足りなさに足の指をギュッと握りこんだ。  
そうじゃなくて、私の一番感じる場所に触れてほしいのに。  
わざと焦らしていらっしゃらないというのが分かるだけに、余計にもどかしいのだ。  
しばしの我慢の後、ようやく旦那様の指が私の襞を割り、期待に疼く場所に届く。  
軽く一撫でされただけで、そこから電気が走ったように快感が全身を駆け抜けた。  
暴れては、指がそれて触ってもらえなくなる。  
私は脚を開いたままにし、残る恥じらいには手で顔を隠すことで折り合いをつけた。  
でも、旦那様がそこに触れられるたび、叫んだり大きく息を飲んだりして、喉と胸が苦しくなった。  
「あっ!あんっ……ん……」  
旦那様が私の両脚を抱え込み、そこに舌を這わされ始める。  
指とは違う、柔らかくてしっとりとした刺激が気持ち良くて、もう頭が変になりそうだった。  
体のどこもかしこもが熱く、快感に震え、旦那様の舌がどう動くかに全神経を集中していた。  
「あ……旦那様っ。だめ……」  
手をばたつかせ、涙まで浮かべて限界を訴えると、旦那様は私の脚を抱えたお手に一瞬だけ力を入れられた。  
これは、閨の時にだけなさるあの方の合図だ。  
「はっ……あ……あああっ!」  
大きな波に飲み込まれるような衝撃が身に走り、危うく意識が飛びかける寸前で、私は何とか持ちこたえた。  
体からがくりと力が抜け、不意に呼吸が楽になって、胸一杯に酸素が満ちる。  
旦那様が顔を上げ、ふうっと息をつかれた気配がした。  
 
 
旦那様の体温が感じられなくなって、さっき置き去りにされた時のような心細さが私の胸にこみ上げる。  
いやだ、早く来てほしい、いっぱいに満たしてほしい。  
「美果さん」  
その声と共に、待ち侘びた旦那様の顔が近付き、私の目の少し上で止まる。  
「大丈夫ですね?」  
問われたのに頷き微笑んでみせると、旦那様も私と同じに笑みを浮かべられた。  
そして、さっき舌で触れて下さった辺りに、固くなったアレが押し当てられて、ぬるりと滑った。  
そうなったことに、自分のあそこがどんな状態であるか思い知らされて、一旦冷めかけていた体の熱が一気にぶり返した。  
下に視線をやられた旦那様が、今度は慎重に腰を沈めてこられる。  
そして、アレが体を深く貫く感触に、私の喉の奥から吐息がしぼり出された。  
 
「あ……」  
旦那様がゆっくりと動き始められ、触れ合った部分から快感がじわりと湧き上がってくる。  
繋がった部分から立つ水音が、はっきりと耳に届き、私は身をすくませた。  
お風呂上りとはいえ、ここがこんなに濡れているのはお湯のせいなんかではない。  
旦那様にイかされて、その余韻が残っている体を、さらに丹念に突き上げられているのだ。  
体の熱は冷めるどころか、むしろより高まっている。  
もっと気持ち良くなりたい、いっぱい突いて欲しいという欲望が心身を支配して荒れ狂っていた。  
「あっ!」  
腰をぐいと強く引き寄せられ、思わず短く叫んでしまう。  
旦那様はただ闇雲に動かれるのではなく、緩急をつけて突き上げ、私をさらに乱れさせられた。  
シーツの上に置いていた私の手は、いつの間にか旦那様に抱きつき、汗ばむお体を引き寄せていた。  
胸もお腹も密着し、脚までもあの方の腰に絡みつかせて。  
どこまでが自分の体で、どこからが旦那様の体なのか、茹だった頭ではもう判断がつかなかった。  
「あっ……やあっ……あ…」  
達する寸前に特有の、足元が崩れ落ちるような感覚に襲われはじめる。  
途方も無い心細さに耐えられず、私はあらん限りの力を込めて旦那様にくっついた。  
「あっ!」  
上ずった声と共に旦那様が達されたのが、おぼろげに分かった。  
つながった部分が一際熱を持ち、けいれんしたように私の体も大きく震える。  
もう一度意識が飛びかけ、あまりの気持ち良さに放心してしまい、私はそのまま固まったようになってしまった。  
旦那様がシーツに横倒しになられ、私もつられて横向きになる。  
体の下でベッドのスプリングがきしむ音に、私はここが弓島家の客用寝室であることをふと思い出した。  
お客として招いて頂いたとはいえ、よそ様のお宅でこういうことをするのはまずかっただろうか。  
その思いが少し遅れて羞恥心となり、私は手足の力を頑張って抜き、後ろにずれて旦那様との距離を取った。  
よし、このままお風呂場へ…という目論みは、伸びてきた旦那様の腕に抱き取られたことで、あっけなくついえる羽目になった。  
 
 
満足気に私の髪や肩を撫でながら、旦那様が優しいお顔でこちらをご覧になっている。  
こんな風にされたら、大抵の女の子は勘違いしてしまうんじゃないだろうか。  
私は何だか胸がもやもやとして、下を向いてギュッと目を閉じた。  
「美果さん」  
呼ばれたので、仕方なく小さく返事をする。  
「風呂場へ行きましょう。何とかミルクを塗って下さい」  
旦那様の言葉に、さっき頼まれたことを思い出し、それはまずいと私の顔から血の気が引いた。  
これから一緒にお風呂なんて困る。  
セックスの後で大変なことになった髪や体を、明るい場所で見られるのはいやだ。  
「旦那様お先にどうぞ。私は後で入りますから」  
お申し出を断って、旦那様をベッドから押し出し、私はすっぽりと掛け布団をかぶった。  
「塗って、下さらないのですか」  
しょげた声で言われてしまい、私の胸がうっと痛んだ。  
せっかく気持ちいいことをしたんだから、その雰囲気のままサービスしてあげたいのは山々だけれど。  
改めて再度一緒にお風呂に入るのは、セックスそのものよりも恥ずかしい。  
だから、まだ体力が回復しないとか、さっきは私が先に入りましたからとか言い訳を並べ、どうにか旦那様をお風呂場に追い立てた。  
シャワーの音が聞こえだしたのを確認し、私は起き上がって、手早くバスローブを元の通りに着込んだ。  
「これで大丈夫だ」などと根拠なく呟き、ぐしゃぐしゃになった髪を整えて顔を洗う。  
それでどうにか格好がついたところで、お風呂から上がられた旦那様を待ち構え、一応ボディミルクを塗って差し上げた。  
塗り終わったところで、「そういえば、明日の天気はどうでしょうね」などと白々しく言い置き、交代にお風呂場に逃げ込む。  
素早くお湯を浴び、旦那様がテレビの天気予報を待っておられる間に、私は元のようにバスローブを着た。  
さっさとベッドに入り、あの方の言動にこれ以上心を乱される前に、早々に寝ることに決める。  
肌触りの良い高級な布団は、一生に一度の、夢のように華やかだった日の終着点のように思えた。  
もしかしたら、今日のパーティーは、旦那様から私へのクリスマスプレゼントなのかもしれない。  
たかがメイドをあのようなパーティーの場に伴われるなど、それなりのお考えがなくてはできないと思うもの。  
だとしたら、私はなんて果報者なんだろう。  
うとうとし始めたその時、隣に旦那様が横になられる気配がした。  
しかし、私の意識はそこで途絶えてしまった。  
何しろいい布団で眠らせて頂いたから、夢を見ることもなく、朝までぐっすりだったのだから。  
 
 
翌日は弓島家で朝食をご馳走になり、お土産までもらってようやくおいとました。  
お土産は、チョコレートの生地の上に数種のベリーが乗っかった、小さくて可愛らしいケーキだった。  
門の所までわざわざ見送って下さった香織様は、また暇な時にモデルになっててね、と私にこっそり頼んでこられた。  
本当に、この方が、好きな事を仕事にできればいいのに。  
年が明けて初詣に行った時には、そう神様にお願いしようかなどと考えながら、旦那様と一緒に帰り道を歩いた。  
一日留守にしたくらいでは、アパートは変わるはずもなく、相変わらずのぼろぼろさで溜息が漏れる。  
しかし、古びた階段を上がって自分達の部屋のドアを開けると、妙にホッとした。  
旦那様はどうだか分からないが、私には、やっぱりここが一番落ち着く。  
でも、おそらく、旦那様のお考えも私とはそう違わないのではないだろうか。  
何といっても、帰宅するや否やコタツに入り、私にお茶を所望して寛がれているのだから。  
そして、すっかりリラックスしたあの方が羽織っておられるのは、私がペンダントのお礼に贈った紺色の綿入れだ。  
コタツといえば綿入れ、という至極単純な発想で決めたのだけど、旦那様はいたく気に入って下さって、毎日愛用なさっている。  
その風景を見ると、また日常に戻ってきたと、少し寂しいながらも新たな決意が胸に湧いてくる。  
クリスマスが終れば、あっという間に年末がやって来る。  
年の瀬参りと初詣で、観音様に参拝する人が増え、茶店は大忙しになるらしい。  
パーティーのことは忘れて、気持ちを切り替えて、また毎日頑張らねばと気を引き締めた。  
しかし、その晩に食べたケーキはまるで天国の食べ物のように美味しくて、私はしばし昨夜の夢の名残を味わったのだった。  
 
 
 
──第6話 おわり──  
 

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