毎週土曜日、私がアルバイトしている茶店は、週一番のかき入れ時を迎える。  
近くにある観音様のお社にお参りする人が大挙してやってきて、うちを利用するためだ。  
その大抵は年配の人達で、お店でゆっくりしながら、おでんやおそば、甘味やコップ酒を楽しむ。  
今日もお店は盛況で、私も朝から忙しくしていた。  
お客さんは次々にやってくるから、休んでいる暇はない。  
テーブルを手早く拭いて食器を持ち、洗い場へ運ぼうと足を踏み出す。  
その時、椅子の背に見覚えのある上着が掛けられたままなのが目に入った。  
これは、観音様に月参りをしている、老夫婦のご主人の物だ。  
まだ遠くへは行っていないはずだと見当をつけ、お運びの仲間に忘れ物を届けてくると言って店を出る。  
人通りの多い商店街の中を、時折背伸びしながら小走りして、ご夫婦の姿を探した。  
幸い、アーケードを抜ける直前で2人を見つけ、声をかけることができた。  
「ありがとう。熱々のおでんで体が温まったから、気付かなかったよ」  
こう言って笑ったご主人に、上着を渡してきびすを返す。  
今度は全速力でお店へ戻ろうとしたところで、視界のはじに見覚えのある人物が映った。  
うちの旦那様が、少し離れた所を歩いているのだ。  
大学からもう帰ってきたのだろうか、それなら洗濯物を取り込んでもらうように頼もう。  
そう思いついて駆け寄ろうとしたところで、その傍らに誰かもう1人いるのが見えた。  
知っている人かと背伸びをして見てみたが、覚えがない。  
……スーツを着た若い女の人の知り合いは、私にはいない。  
 
 
とっさに酒屋ののぼりに隠れ、目だけ出してじっと見つめる。  
他人の空似かと思ったが、私があの方を見間違えるわけもない。  
2人は、時々短く会話しながら、商店街の脇道へそれていく。  
メイドとしては、主人の知人には、追いかけてでも挨拶すべきなのだろうか。  
でも、この格好ではとても、そんなことは無理だ。  
制服とはいえ、この冗談みたいな茶摘み娘の衣装を着て、初対面の人にどう挨拶しようというのか。  
現に今も、ちょっと向こうで私を指差して、連れと何か言い合っている人がいる。  
路地を折れた2人は、洋食店の前で立ち止まった。  
大衆的な商店街の雰囲気とは一線を画す、コース料理が主体の、なかなかの店だ。  
洋食店ではなく、むしろ下町の隠れ家的レストランと言った方が、ぴったりくるような。  
私なぞ、入るどころか前を通るだけで緊張する。  
2人の姿がドアの向こうに消えたところで、私はうなだれてすごすごと茶店に戻った。  
茶店のオーナーの趣味を、今日ほど恨めしく思ったことはない。  
 
 
あの人は誰なんだろう。  
仕事に戻っても、さっきの女性の顔が頭を離れてくれない。  
旦那様と同じくらいの年格好だったか、いやもう少し若いかもしれない。  
上品で身なりも良くて、いいとこの娘さんだと一目で分かった。  
そう、上流家庭のお嬢様だ。  
心臓がなぜかギュッと縮み、思わず私はお盆を握り締めた。  
旦那様は、あの方と一体どういうお知り合いなのだろう。  
研究室は男所帯でむさくるしいのです、と前に仰っていたから、ご学友だとも考えにくい。  
そうなると、残る解答は一つしかなかった。  
 
ひどい。  
たどり着いた答えに絶句した後、私の胸に浮かんだのは、この短い言葉だった。  
こうして私が忙しく働いているのに、旦那様はのんびりデートだなんて。  
しかもあんな洒落た店でお高いランチなんて、あんまりだ。  
とはいっても、お抱えシェフのいる環境でお育ちになった方だから、本来はそういうのがふさわしいのだけど。  
それにしたって、今の暮らしからすれば過分な贅沢だ。  
私と歩く時は、せいぜい屋台の鯛焼きを買って食べるくらいなのに。  
ご主人様とメイドだから、せめて外では……と、私はあの方に従うように少し後ろを歩いて。  
鯛焼きだって、二種類食べたいと仰ったから、あんことカスタードを一つずつ買って半分こした。  
大きく千切れてしまった頭の方を、惜しい気持ちを堪えてお譲りしたのに。  
なのに、なのに。  
こちらに気付かれなかったとはいえ、私の目の前で、別の人とお洒落なお店に入られるだなんて。  
 
 
旦那様は、あの方と真剣なお付き合いをなさっているんだろうか。  
もし、2人がご結婚なさるようなことになれば、と考える。  
そうなると、きっと私はお払い箱だ。  
主従とはいえ、二人暮しをしていた男女の仲が清かったと人は絶対思わないし、実際何も無いわけじゃないし。  
そんな女を伴って新家庭に入られたのでは、たとえ以後奥様に一筋でも、旦那様の立場が悪くなる。  
何より奥様となる人が難色を示すに違いないし、私も居心地が悪いだろう。  
名家同士のご婚儀の場合、元のお屋敷から使用人を連れて行くパターンと、身一つで新家庭に入られるパターンがある。  
後者の場合は、移動するのは結婚なさるご本人と荷物だけ。  
あの方が一人娘なら、旦那様は婿養子に入られることになるのだろうし。  
そうなると池之端家の正当な跡取りとは言えなくなってしまうけど、後ろ盾ができれば、研究にもきっとプラスになるだろう。  
気苦労はあるにしても、ボロアパートでメイドに叱られ、本も満足に買えない今の生活よりは、いいに決まっている。  
『自惚れないことね』  
先輩メイドに言われた意地悪が、ふと頭に甦る。  
お屋敷にいた頃、あの方の閨の役目を私がすることに決まった時に言われた言葉だ。  
そうだ、私は自惚れていた。  
『旦那様を一人にしておけないから、私がついていてあげないと』  
二人暮しをするようになって間もなく、私はこう考えるようになっていた。  
庶民の暮らしに慣れないあの方を、自分が導いてあげるべきだと。  
田舎者の無学な小娘が、随分思い上がったものだ。  
元々は由緒あるお屋敷で、がちがちの主従関係の中にいたのに、運命のいたずらで、たまたま一緒に住む羽目になって。  
閨を共にしているのだって、お屋敷にいた頃からの習慣の延長みたいなものだ。  
あの方が元いた世界に帰られれば、私はもう要らなくなる。  
なぜか無性に悔しくて、潤む視界に目元を拭う。  
手甲(てっこう)に涙のしみがついて、色が少し濃くなって見えた。  
それが何だかおかしくて、乾いた笑いが浮かんでくる。  
こんな衣装を着て泣いているなんて、それこそ馬鹿馬鹿しいもの。  
さあ、いつまでも感傷に浸っている暇はない。  
私情を職場に持ち込むのはご法度なのだし、なによりお店は忙しいんだから。  
さっさとテーブルを片付けて、次のお客さんを案内しなければ。  
せいぜい働いてくたくたになれば、妙なことを考える暇もなくなるだろう。  
仕事熱心だとオーナーが見込んでくれて、時給が上がるかもしれない。  
そう思うことにして、お運び仲間の仕事をぶん取る勢いで職務に戻る。  
手持ち無沙汰になると洗い場に行き、汚れたお皿やコップを片っぱしから洗って、拭きまくった。  
水と一緒に、胸の中のもやもやも全て流れていってしまえばいい。  
 
閉店まで仕事をこなして、後片付けもして私はお店を出た。  
手には、売れ残ったおでんの包みがある。  
若いのに苦労しているからと、茶店のオーナーがたまに持たせてくれるのだ。  
これがあれば、アパートに帰ってから忙しくご飯を作らなくてもいいので、楽。  
「ただ今帰りました」  
いつものようにドアを開けて言うと、六畳間からのんびりと「お帰りなさい」という声が返ってくる。  
それを聞いた瞬間、ふと昼間の記憶が脳裏によみがえった。  
旦那様とあの女性が、肩を並べて歩いていた光景。  
一旦無理矢理押さえつけた胸のもやもやが、反動で一気にぶり返してくるのを感じた。  
「美果さん」  
顔をしかめ、靴も脱がないまま立ち尽くしている私の耳に、旦那様の声が届く。  
「ビーフカツサンドを頂きました。夕飯は、これにしましょう」  
差し出されたのは、白い小奇麗な箱。  
「サンドイッチ、ですか?」  
「ええ。今日会った人が『夜にでも召し上がって下さい』と、くれたのです」  
それは、もしかして。  
昼間のあの女性の姿が、頭の中で大きくなる。  
胸が言いようもなくざわざわして、手足の先がスッと冷たくなった。  
「旦那様お一人でお食べになって下さい。私は、いりません」  
台所へ立ち、おでんを放り込むように小鍋に入れ、コンロの火にかける。  
冷蔵庫から残り物の煮びたしも出し、旦那様の隣をすり抜けてちゃぶ台へ運んだ。  
「ちゃんと、2人分ありま……」  
「いいえ。せっかくですけど、残り物を片付けたいんです」  
目も合わせないまま、ご飯を乱暴に盛り付けて急須を手に取る。  
サンドイッチに日本茶は合わないかもしれないけど、知るものか。  
紅茶やコーンスープなんか、絶対に作ってあげないんだから。  
温まったおでんの鍋を持ってちゃぶ台の前に行くと、旦那様もこちらへ来られる。  
箱が開いて現れたのは、優美なレースペーパーに包まれた、大ぶりのビーフカツサンド。  
中央にまだ赤みが残っている厚切りの肉を覆う衣には、茶色いソースが程よく染み込んでいる。  
軽くトーストしたパンが、カツの重量感でしなるようにカーブを描いている、一目で高価だと分かる外見をしていた。  
パセリとプチトマトが、ちょっと小首を傾げるように脇に添えられているのが、また憎らしい。  
悔しいけど、すっごく美味しそうだ。  
それに対して私の前にあるのは、串から外れた牛筋、崩壊した厚揚げにがんも、びろびろになった昆布。  
鍋の中にある時点で、すでに残飯のごとき様相を呈している。  
山高帽をかぶったシェフお手製のビーフカツサンドには、どうやったって勝てない。  
言いようもなくむしゃくしゃして、私は乱暴にお箸を手に取った。  
旦那様は、不機嫌な私を刺激しないようにか、恐る恐るサンドイッチを食べ始められる。  
カツと共に挟まれている千切りキャベツが、咀嚼に合わせてシャキシャキいう音さえ、気に障った。  
 
 
さっさと夕食を済ませ、お風呂と洗濯も終える。  
サンドイッチはやはり2人分あったようで、旦那様は食べ切れなかった分を冷蔵庫に仕舞われていた。  
きっと、明日の朝食にでもするつもりなのだろう。  
おでんも1人では食べきれなかったから、私の朝食もまたおでんになる。  
明日の朝まで、惨めな気持ちをひきずらなければならないのかと、うんざりした。  
敷いた布団にダイブして、限界まで深く息を吐く。  
「美果さん、風邪を引きますよ」  
旦那様が私の肩に触れ、呼び掛けられる。  
返事するのも面倒でそのままでいると、上からそっと布団が掛けられた。  
旦那様が、ご自分の布団を掛けて下さったのだ。  
そしてごそごそと音を立てて、隣に入ってこられる。  
いつの間にか、同じ布団で寝る形になった。  
 
ぷいっと反対側を向いた私の体に、旦那様の腕が回る。  
後ろから抱きかかえられ、背に旦那様の温もりを感じた。  
こうしてもらうと、温かくって気持ちいいんだけど。  
今日は心が波立つばかりで、全く落ち着かない。  
首筋にかかる吐息に身を縮めると、そこに唇が押し当てられ軽く吸われた。  
最近はこうして、言葉ではなく態度で誘われることが多くなってきている。  
私がそれに応えて体の力を抜くのが、OKの合図だ。  
「美果さん」  
耳に触れるくらいの距離で、旦那様が囁かれる。  
いつもならその求めに応じて向き直るところだが、今日は全くそんな気分にならない。  
「お断りします。私、眠いんで」  
抑揚のない声で言うと、旦那様がエッと息を飲まれる。  
「どうしても駄目ですか?月の物は、終ったのでは……?」  
先週その理由で断ったのを、覚えておられたか。  
確かにもう終ってるんだけど、あの時以外ならいつでもOKだと思われるのは、しゃくだ。  
私にだって、したくない時はある。  
「気分が乗りません。ただ、それだけです」  
逃げようと身を捩るが、思いのほかがっちりと捕まえられていて抜け出せない。  
「先週は、あなたの仰るとおり、我慢したのですから……」  
聞き分けの悪いことを言われ、腕が緩められる気配はない。  
さらに心が乱され、とうとう私の頭の中で、プチッと何かが切れた。  
「したいんだったら、昼間の彼女にさせてもらえばいいじゃないですか!!」  
言い返した声は、夜に不似合いなほど大きかった。  
「昼間?何のことです?」  
「とぼけないで下さい。旦那様、綺麗な女の人と肩を並べて歩いていたじゃありませんか。  
アーケードの脇の、お洒落なレストランに入っていかれたでしょう」  
胸のもやもやが一気に爆発して、私はさらに語気を荒げる。  
そうだ、やっぱりあれは洋食店などではなく、れっきとした本場風のレストランだ。  
「それは……」  
旦那様がハッとした様子で、言葉に詰まられる。  
「ご一緒の方、綺麗で垢抜けてて、身なりも良くて。きっとどこかのご令嬢なんでしょう?  
よかったじゃありませんか、お婿さんに貰ってもらえば、こんな暮らしから足を洗えますよ」  
テレビもエアコンも洗濯機も無く、たまにトイレが詰まるこのボロアパートより、お屋敷での生活の方がいいに決まっている。  
生まれながらのお坊ちゃんには、そもそもこんな暮らしは無理だったのだ。  
旦那様なんか、壁にツタかバラの絡まる瀟洒な洋館か何かで、優雅にお暮らしになればいい。  
庭に温室や茶室があったり、玄関に虎か熊丸ごと一頭の毛皮が敷いてあるような、隅々にまでお金の行き渡った暮らしを。  
育ちの良い奥さんと上品な話題でお茶を飲んで、仲良くして。  
年下の口うるさいメイドとの生活より、何倍もいいだろう。  
 
 
「美果さん」  
「何ですか、行くんだったら、さっさと行かれたらいいじゃないですか。  
私、寂しくなんかありません。身軽になったら年相応に楽しんでやるんですから」  
話そうとなさるのを遮って、思うままをまくし立てる。  
旦那様なんか、旦那様なんか、私の前にも閨のお相手がいたくせに。  
高校生の頃、当時お屋敷にいた、年上の美人メイドに手ほどきをしてもらったくせに。  
私はその人に会ったことはないけれど、先輩メイドの話によれば、そりゃあ素敵な人だったんだそうだ。  
最初がそうなら、次にあてがわれたのが私みたいなので、きっとがっかりなさったに違いない。  
私は初めてだったのに、他の男の人なんか知らないのに。  
こうなったら、凄い遊び人になってやる。  
一人ぼっちになっても、きっと悪いことばかりでもないはずだ。  
旦那様にあれこれ口うるさく言うこともなくなるから、表情も柔和になって、ひょっとしたらモテるかもしれない。  
寂しければ大家さんに相手をしてもらえばいいし、庭の畑でガーデニングでもすればいい。  
花を育てると心が豊かになるというし、最近は百円ショップで花の種もスコップも、プランターだって買える。  
 
だから、旦那様がよそに行かれたって構わない。  
心配しなくても、私は新家庭にまでついていったりはしない。  
あちらでいじめられない保障なんか、これっぽっちもないんだから。  
世に名の知られた池之端家だって、使用人の世界ではいじめや陰口は日常茶飯事だった。  
ましてや、婿養子にたった一人つき従ってきたメイドなんか、格好のいじめの対象になるだろう。  
実家と池之端家を渡り歩いて、やっと静かな暮らしが手に入ったのに、また同じ世界に戻りたくはない。  
必死で耐えても見返りなど無いのは、いやというほど知っている。  
これ以上惨めになりたくなくて、お手を振り解こうと滅茶苦茶に暴れる。  
しかし、私の体に回る旦那様のお手は、ちっとも緩む気配を見せなかった。  
「美果さん、落ち着きなさい」  
どうかお願いですから……と、旦那様が子供に教え諭すような口調で仰る。  
「何ですか、言い訳なんか聞きたくなんか……」  
「言い訳ではありません。そのままで構いませんから、僕の話を聞きなさい」  
珍しく威厳のある声で、ぴしゃりと制されて息を飲む。  
暴れるのにもいい加減疲れ、私はしぶしぶ体の力を抜いた。  
 
 
私が大人しくなったのを確認して、旦那様がふうっと息をつき、口を開かれる。  
「昼間の女性は、僕の恋人でも何でもありません」  
「えっ」  
仰った言葉に、私の目が点になる。  
「親密であるように見えたのは、旧知の間柄だったからです。ただそれだけのことです」  
「そんな、だって、すごく仲良さそうで……」  
遠目だったけれど、二人とも笑顔を浮かべられていたし、距離も近いように思えた。  
二人がレストランに入るところまでじっと見ていた私には、旦那様の仰ることがおいそれとは信じられない。  
むしろ、私を大人しくさせるための嘘だとしか思えなかった。  
「あの女性は、僕の兄嫁になるかもしれなかった人です」  
疑念を捨てきれない私に怒ることもなく、旦那様がさらに言葉を続けられる。  
そこに含まれていた言葉に、私は目を見開いた。  
「兄……嫁?」  
「ええ。あの方は、生前の兄とお付き合いなさっていた方です」  
そんな、まさか。  
「そもそもは、社を継ぐ兄の伴侶にと、周囲の者がお膳立てしたようなのですが。  
きっかけが何であれ、あの方と兄は気が合って、時間を見つけて会っていたようです」  
「でも、お葬式の時には……」  
とても大きなご葬儀だったけれど、参列なさったのはほとんどが男性で、女性は数えるほどだった。  
しかもほとんどが年配の方で、あの方のような若い女性はおられなかったと思う。  
「まだ婚約前でしたからね。法的には他人なのですから、葬儀に出られる義務はありません。  
何より、兄の死にショックを受けて、倒れられたそうですから」  
「えっ」  
「たとえ倒れられならなかったとしても、葬儀への出席は、あの方の周囲が阻止したでしょう」  
家同士の思惑で引き合わされたのに、いざ相手が亡くなったら、お葬式に出るなだなんて。  
「だって、それってあんまりじゃありませんか」  
意地を張っていたのも忘れ、振り返って旦那様を見て言う。  
今日初めて目を合わせたあの方は、当時のことを思い出したのか、少し悲しそうだった。  
「結婚するはずの相手を亡くして『縁起が悪い女性』だと、噂を立てる人もいるでしょうから」  
「そんな!」  
お付き合いしていた人を亡くした上に、そんなことまで言われるなんてあんまりだ。  
一体どこのどいつがそんなことを言うんだろう、コップでもぶつけてやりたい。  
「妙齢の女性には、中傷されること自体が将来に関わるものです。  
たとえ根拠が無くとも、本人の耳に入れば二重に傷つくことにもなりかねませんから」  
確かに、そうかもしれない。  
私も継母に「お父さんはもうお前のことを好きじゃない」「お前はいらない子だ」と何度も言われた。  
そんなわけないと言い返しても、払いきれなかった言葉のとげが心に刺さって、ふとした時に痛んで泣いた。  
ひょっとして、継母の言葉の方が正しいのかも……と、悲しい疑念に捉われたことには覚えがある。  
 
「彼女がこれ以上傷つくことが無いよう、お父上がそうご判断なさったのでしょう。  
葬儀に来られなかった時は、僕もなぜと思わなかったわけではありませんが」  
「……旦那様は、お2人のことをご存知だったんですか?」  
「ええ、子供時代に何度か会ったことはありました。  
大人になってからは忘れていましたが、兄に名を聞いて思い出したのです」  
「お兄様に?」  
「『親の思惑がらみだというのに引っ掛かりはあるが、妙に気が合う』と。  
あのしっかり者の兄が、この時ばかりは少し照れくさそうに呟いていました」  
その時のことを思い出されたのか、旦那様の表情がさらに切なくなる。  
死んだ人のことを話す時、人はこういう顔をする。  
再婚する前の父が、時折こういう顔で母の思い出話をしていたもの。  
「風の噂に、あの方は空気のいい別荘へ行って、静養なさっているのだと聞いていました。  
先だって、やっとこちらに戻ってこられたようで」  
「それで、訪ねてこられたんですか」  
「はい。僕が屋敷を出たことは、あちらの耳にも届いていたようなのですが。  
詳しい住所までは分からなかったようで、大学まで訪ねてこられたのです」  
「それで……」  
「話が長くなるのが分かりましたから、散らかったむさくるしい場所にいて頂くのは気が咎めました。  
ならば、どこか店へ……と」  
「そうだったんですか」  
「ええ。予想通り、随分長く話しました。まずあの方が、葬儀に出られなかったことを丁重に謝罪なさって」  
「そんな、あの方のせいじゃないのに」  
旦那様のご両親とお兄様が亡くなったのは、不幸な事故のせいだったのに。  
「謝って頂く必要がないのは分かっていましたが。しかし、彼女はそうしたかったのでしょう」  
「気持ちを整理するため、ですか」  
「はい。葬儀に出られなかったことが心にわだかまっているのであれば、謝られることで一区切りがつくでしょうから」  
「そうですね。最後のお別れが、できなかったんですからね……」  
好きになりかけていた人を亡くして、あの方がどれだけ苦しかったのは、私には分からない。  
母が亡くなった時のことを思い出せば、それに近いかもしれないとは思うけれど、それも想像の域でしかない。  
「形だけ謝罪を受け取ってからも、長時間話しました。生前の兄のこと、昔のことから、今現在に至るまでのことも」  
「今……というと、あの方はもう大丈夫なんですか?」  
昼間の反感などすっかり忘れ、恐る恐る尋ねる。  
好きな人を亡くした挙句に今も苦しいのなら、あまりにもあの方が気の毒だ。  
「まだ万全とまではいかないようですが、大分良くなられたようです。  
もう少し落ち着けば、あれ以来休職なさっていた仕事にも、復帰されると」  
「よかった……」  
名前も知らない人、ましてや昼間、散々毒づいた相手であるのに。  
旦那様のお答えを聞いて、私の胸がすうっと軽くなった。  
昼間に二人が仲良さそうに見えたのは、亡くなった方のことを話す相手がやっと見つかったからなのかもしれない。  
あの方の周囲の人は、つとめてその話題を控えるだろうし、旦那様にもこのことを話す相手はいなかった。  
本来悲しみを共有するはずの肉親は、会社とお屋敷を乗っ取って、この方を放り出したのだし。  
ただ一人残った私も、お兄様のことを知っているとはいえ、所詮メイドに過ぎない。  
しかも数年しかご奉公していなかったのだから、使用人の立場でしか見ておらず、心に残るエピソードも無い。  
あの方と旦那様が親密に見えたのは、亡くなったお兄様という存在が二人を近付けたから。  
私がそれに腹を立てたところで、元々どうなるものでもなかったのだ。  
そればかりか、そもそも腹を立てること自体がお門違いだったことになる。  
「疑念は、晴れましたか」  
ふつふつと湧き上がる後悔の念に押し黙る私の耳に、旦那様の声が届く。  
そうだ、暢気に抱きしめられている場合なんかじゃない。  
「旦那様。本当に申し訳ありませんでした」  
飛び起きて姿勢を正し、横になられたままの旦那様に深く頭を下げる。  
勝手に誤解して、冷たい態度を取って、ひどいこともたくさん言って。  
言葉にしなかったことも含めれば、精一杯謝っても、きっと足りないくらいだ。  
昼間の女性は、ご自分が悪くないのに丁重に謝られたのだという。  
対して私は、100%自分のせいで謝っているのだ、ああ何という差なんだろう。  
 
「美果さん、顔を上げて下さい」  
謝り続ける私を見かねたのか、旦那様が身を起こして向かいに座られる。  
「僕も、謝らねばなりません。あなたを放って、あの店でランチを食べました」  
「……は?」  
旦那様が神妙に仰った言葉に、私の思考が停止する。  
私のしたことに比べれば、高いランチを食べたくらいが何だというのだ。  
「そんなこと、どうだっていいじゃありませんか」  
「いいえ、頑張って働いているあなたの目と鼻の先で、僕は贅沢をしたのです」  
名家のご令嬢とおられたんだから、へたな店には入れないに決まっている。  
むしろもっと高い店とか、大きなホテルのレストランでもいいくらいなのに。  
「美味しかった、ですか」  
気にしないで下さいと言いたいけれど、旦那様は必要以上に後ろめたく感じられているご様子だ。  
謝って気が済むのなら、思うようにして頂く他はない。  
「ええ、スープが、特に。とても滑らかで……」  
美味しい物を食べてきたんだから、もっと晴れやかに説明してくれればいいのに。  
「ランチのコースだったんでしょう?前菜とスープとパンと、魚料理と肉料理ですか」  
「はい。デザートと、食後のコーヒーもついていました……」  
このアパートに移ってからというもの、私がこの方に作るのは、ごくごく一般的なお惣菜ばかりだった。  
ランチとはいえコース料理なんか、それこそお屋敷にいた時以来だったに違いない。  
がみがみ言うだけより、たまにはそういう食事をさせてあげた方が、旦那様のやる気につながるかもしれない。  
アメとムチとはいうけど、ともすればムチだけになってしまっているし。  
「高いお金を出したんだから、まずい方が問題じゃありませんか」  
「…………」  
「まだ、何か?」  
後ろめたいことが、まだあるのだろうか。  
私が殊勝なことなんてそうはないのだから、白状するなら今のうちなのに。  
 
 
「支払いは……、あちらが持って下さると、仰ったので……」  
とても言いにくそうに、ほとんど聞き取れないほど小さな声で旦那様が仰る。  
「二人分のランチ代と、サンドイッチのお土産代まで全部、ですか?」  
「はい。申し開きもできません」  
がくりと頭を垂れる旦那様を見ながら、私は大きく溜息をついた。  
男女同権の世の中なのだから、支払いは必ずしも男性が……というのが古臭いとは、分かっているけれど。  
長く静養されていた方にご馳走になりっぱなしだなんて、ちょっとどうかと思う。  
しかも、ひょっとしたら兄嫁になられるはずだった方なのに。  
「旦那様が『おごって下さい』と、あの方に勘定を押し付けられたわけじゃ、ないんですよね?」  
「そんなことは断じてしません。ただ……」  
「ただ?」  
「今の暮らし向きを正直に話した後でしたので、気をつかわせた可能性は、多分にあるのですが……」  
「え、今の暮らしを正直に?」  
まさか、天下の池之端家のご子息が、ボロアパートでがさつなメイドと暮らしている、と?  
「はい。あちらのお話を聞くうちに、僕もいつの間にか、包み隠さず話していました。  
そうしたら『待っている方に、お土産を』と仰って」  
なんと心優しい方だろう、たかがメイド風情にまで気をつかって下さるだなんて。  
そんなできた方を一度でも悪く思った自分が、ますます小さな人間に思えてくる。  
もし事故が無くて、あの方が旦那様のお兄様とご結婚なさっていたら、きっと素晴らしい若奥様になられていたに違いない。  
「終ってしまったことは仕方がありません。ですから、顔を上げて下さい」  
先に謝っていたはずの私が、いつのまにか旦那様に謝ってもらっている。  
「もしまた今度、あの方が来られた時は、次こそおごってあげて下さい。  
旦那様はかりにも池之端家の跡取りなんですから、おごられっ放しではご家名に傷がつきます」  
「はい」  
「その時にお財布の中が寂しかったら、つけにしておいてもらえれば、後でこっそり払いに行きますから」  
おごられることに抵抗を無くしては、この方の将来に差し障りがあるかもしれない。  
家名もさることながら、旦那様がしっかりした所を見せることで、あの方が安心して気分が楽になるかもしれないのだから。  
「ただし、ディナーはやめて下さいね。ランチか、ケーキセットまででお願いします」  
 
「承知しました。肝に銘じておきます」  
旦那様が大きく頷いて、ホッとしたように肩から力を抜かれる。  
そこまで後ろめたかったから、私がさっき問い詰めた時に、言葉に詰まられたのだろうか。  
そんな反応をなさるから、私はますますあの方とのことを誤解する羽目になったのに。  
私が今夜した一連の言動の原因は、少しは旦那様にもあるんです。  
厚かましくそう考えながら、昼間の女性の顔を思い出し、もう一度心の中で謝った。  
しかし、旦那様への謝罪が中途半端になったままでは、居心地が悪い。  
まだ済まなさそうになさっているお顔に触れて、無理矢理正面を向いて頂くことにした。  
「旦那様、美味しい物を召し上がったことなんて、私全く怒ってやしません。  
それより、失礼な態度を取ったり、生意気では済まないひどいことを言った私の方が、悪いんですから」  
本当に、今夜の私の態度は、ただの勘違いで片付けられる範囲を超えている。  
つくづく、私は誤解癖があるようだ。  
前に真珠のペンダントを頂いた時も、ご両親の残されたお金で買われたのだと早合点してこの方を責めたし。  
旦那様は、たかだかランチ程度のことでこんなに申し訳なく思って下さるほど、お優しい方なのに。  
犬は飼い主に似るというけど、メイドは主人には似ないものなのだろうか。  
私も、せめてもうちょっと優しく、大らかになれればいいのに。  
自分がまた情けなくなってきて、私は旦那様と入れ替わりに下を向いた。  
 
 
「美果さん、顔を上げて下さい」  
今日二度目となる言葉が、私の耳に届く。  
「誤解が正されたなら、僕はもういいのです」  
「本当……ですか?」  
俯いたまま恐る恐る窺うと、旦那様が頷かれる気配がした。  
「ええ。終ってみればむしろ、女性にヤキモチを焼いて頂くという、非常に有意義な体験ができました」  
続いて聞こえた言葉に、私の思考がまた停止する。  
「や、ヤキモチなんかじゃありません!」  
違う、断じて違う。  
この方は一体何を仰っているのだろう。  
予想外の事態に、ちゃんと謝ろうという私の決意は、また半ばで崩れた。  
「違うのですか?」  
「違うに決まってるじゃありませんか。何で私が、旦那様にヤキモチを焼かなくちゃいけないんですか」  
今度は私が旦那様に誤解される番なのか、全くなんて日なんだろう。  
「僕があの方と歩いているのを見て、あなたは気分を害したのでしょう?」  
「それは……その……」  
確かに、並んで歩く二人を見た瞬間、全身がびっくりするほどカーッとなったけど。  
でもそれは、旦那様はあの女性のお婿さんになられるのだと、超高速で勘違いしたからであって。  
あと、食べ物の恨みと。  
「違います、ヤキモチを焼いたんじゃありません」  
「では、何だというのです?」  
「旦那様がお婿さんに行かれたら、私は一人になるって、思ったから……」  
社会人なのに、一人が寂しいと言うなんて子供じみている。  
でも、正真正銘の一人ぼっちにはなったことがないのだから、知らぬ物への恐れを抱いたのはしょうがないもの。  
「美果さんは、一人が嫌いですか」  
「そりゃあ……そうです。実家でもお屋敷でも、ここでも。同じ屋根の下に人がいなかったことは、ありませんから」  
「なるほど、そうですね。僕も全くの一人になったことはありません」  
旦那様がふむと頷いて、考え込むような表情をされる。  
池之端家をクビになった時、私は本当はそうなるはずだったけど。  
この方に拾って頂いて、一緒に暮らすようになったから、一人ぼっちは幻で終った。  
情けなくても頼りなくても、旦那様がここにいらっしゃるのは、もう当たり前になってしまっている。  
世話を焼かなければいけない人がいなくなるのだから、寂しくなると想像するのが当たり前だ。  
 
「心配には及びませんよ。僕は美果さんを放って、婿入りなどいたしません」  
「え……」  
「あの方のことが気に掛かるのは事実ですが。それとこれとは全く別のことです」  
「本当、ですか?」  
聞けば聞くほど、昼間の女性は素敵な人のようだったのに。  
綺麗で性格も良くてお金持ちなのなら、私が男なら放っておかない。  
「僕は、兄の代わりにはなれないでしょうから。それに、あちらには跡取りがいらっしゃいますし。  
ですから、僕が入る隙間など最初から無いのです」  
旦那様が私を抱き寄せて、言い聞かせるようにゆっくりと仰る。  
髪に吐息がかかって、ふわふわとくすぐったい。  
でもそんなことは全く気にならないくらい、胸が温かくなった。  
旦那様は、私を置いてけぼりになさらず、ここにいて下さる。  
頼りないと日頃思っているはずなのに、一人にしないと言い切って下さったことがとても心強くて。  
なんだか甘えたくなって、私は旦那様のお胸に頬を寄せてぴったりとくっついた。  
ここでの暮らしは、実家や池之端家のお屋敷にいた頃より、ずっと不安定だけど。  
これほど心底安心したことは、きっと今までなかったと思う。  
体に入っていた無駄な力がすっかり抜けて、旦那様に身を預ける。  
旦那様は私の頭を撫でた後、そっとキスを下さった。  
舌が絡められて深いキスになっても、もう今では戸惑うこともない。  
ただ、続けるうちに頭がぼうっとしてきて、他のことがみんな飛んでいってしまうけれど。  
今さっきまで捉われていた、後悔や情けない気持ちなんか、全てどこかへ行ってしまえばいい。  
「美果さん」  
唇を離して、旦那様が熱っぽく私の名を呼ばれる。  
「先程『眠いから断る』と言われましたが……」  
「あっ」  
確かに、さっきそう言って旦那様の誘いをはねつけた気がする。  
でも、もう今は、そんなとげとげした気持ちはどこにも無い。  
「さっきのは、取り消します。拗ねてただけですから」  
言って笑ってみせると、旦那様が目を細めて応えられる。  
もう一度軽く口づけられてから、2人で布団に横になった。  
手際よく脱がされ、夜の冷気が肌に触れて少し身震いする。  
「寒いですか?」  
問いに答える前に旦那様が被さってこられたので、私は首を横に振った。  
こうしていれば、ちっとも寒くなんかない。  
 
 
旦那様が、私の体の線をなぞるようにして、あちこちに触れられる。  
お手だけじゃなく、たまに肌に唇を寄せたりもなさって、私は何度も身震いした。  
弱い場所を刺激されるたび、堪えきれない声が漏れてしまう。  
普段はなるべく我慢するのに、今日はそんな気には全くならなかった。  
「あっ」  
胸にたどり着いた旦那様の指が、乳首をかすめる。  
途端に、そこに全ての感覚が集中したように思えた。  
「あ……んっ……あ……」  
体がギュッとこわばり、胸を這うお手をつかんでしまう。  
そうすると、今度はそこに旦那様の髪がさらりと触れて。  
舌先で乳首をつつかれて、声がもっと甘くなった。  
指だけでも感じるのに、そんな風にされたら、尚更いけない。  
キスの時よりももっと、他のことが完全に頭から消えてしまう。  
「旦那様……っは……んっ……」  
今度は、旦那様の髪に手を入れ、ねだるように引き寄せてしまう。  
元々感じやすくはあったけれど、今日はさらに輪をかけて気持ちよかった。  
私がうっとりしているのが知れたのか、旦那様が執拗にそこを責められる。  
次第に耐え切れなくなって、もうやめて下さいとお願いしても、旦那様がそこから顔を上げられることはなくて。  
まともに口がきけなくなるくらい、私はすっかり蕩かされてしまった。  
何で今日はこんなに早く……と、回らない頭で考える。  
不安を解消してもらって、リラックスしているから、かな。  
だから……と考えている間に、胸にあったお手が、お腹をなぞってゆっくりと下りて、茂みの下へと向かう。  
旦那様の指が柔らかい場所を押し開いて、一番感じる場所にたどり着いて。  
何度か擦られただけで、私は軽い叫びを上げて達してしまった。  
 
余韻に浸る間もなく、旦那様が私の足首を持ち上げて大きく開かされる。  
快感の名残のある体では、されるがままになる他はなくて。  
あっと思った時には、旦那様がそこに屈まれていて、脚が閉じられなくなった。  
ほうっ、とどこか感心したように息をつかれるのが聞こえる。  
隠せなくなったそこを余す所なく見られていると思うと、そこが余計に潤んでくるようだった。  
「あの……」  
たまりかねて呼びかけ、手を伸ばして旦那様に触れる。  
旦那様の視線の先にある場所がどんなに濡れているかは、自分でも分かるくらいで。  
いつもより感じている証拠のようなそこを、じっと見られるのは恥ずかしすぎる。  
「欲しい、ですか」  
旦那様が、笑みを含んだ声で仰った言葉に、頬がカッと熱くなる。  
私が呼びかけたのは、じっと見ないで下さいと言いたかったからで、早くと求めているからじゃないのに。  
でも、そこをご覧になった旦那様が、そう思われるのも無理はない気がした。  
シーツまで濡らしているんじゃないかと思うほど、ぐしょぐしょになっていたから。  
「いいえ。次は、私の番です」  
欲しい、と喉まで出かかった言葉を抑えて起き上がり、あべこべに旦那様に覆いかぶさる。  
自分からすると言うのも恥ずかしかったけど、あのままずっと見られているよりは、ましだと思えたから。  
お脱がせしたパジャマと下着を、内心のドキドキを隠すように時間を掛けて畳む。  
それでもまだ思い切りがつかなくて、未練がましく布地を指でなぞった。  
「あっ」  
旦那様が、ぐずぐずしている私の手を取って、ご自分のアレに触れさせられる。  
熱い……と思わず呟いてしまい、また頬に血が昇るのが分かった。  
初めてするわけでもないのに、今更だなどと思われたんじゃないだろうか。  
胸のドキドキがなお一層高くなってしまい、半ばパニックになりながら、私は手を動かし始めた。  
軽く握り締めて上下に扱いて、合間に先の方を指でくすぐって。  
さっき胸を触られていたときのことを思い出し、同じように触れる。  
幸いそれが良かったようで、旦那様の息が荒くなりはじめた。  
それを感じ取り、ようやく落ち着きかけていた私の頬に、旦那様がそっと手を添え、何か言いよどまれる。  
仰りたいことを理解した私は、素直に姿勢を落とし、アレを口の中に納めた。  
望まれるとおりに吸い付いて、舌先で輪郭をなぞり上げると、旦那様のお体に力が入る。  
いきなり追い立てるようなことはせず、時間をかけて愛撫を続ける。  
呼吸をなお一層乱しながら、旦那様は私の動きに合わせて腰を揺らし始められた。  
あと少し……と予感した時、不意に旦那様が身を起こして、私の肩に手を掛けられる。  
「今日は、早く美果さんを抱きたい気分なのです」  
だから、もう……と言って、私を退かせられる。  
そして、ご自分の準備を済ませられた旦那様に、私はもう一度正面から抱きしめられて。  
旦那様の温もりと香りに包まれて、胸がギュッと締めつけられた。  
私は一人ぼっちじゃない。  
こんなに優しい方と、一緒に暮らしているんだ。  
実家や池之端家ではついぞ感じたことのない、幸福な安堵感とも呼ぶべき物が体を包むのを感じた。  
「どうしました?」  
「……いいえ。どうもしません」  
ただ、ちょっと鼻の奥がツンとなって、涙が出そうになっているのを堪えているだけです。  
首を振って抱きつく力を強めると、旦那様のお手が頭を撫でてくれる。  
その心地良さに目を細めた後、私は腕の力をそのままに、背中から布団に倒れこんだ。  
「あっ」  
不意をつかれた旦那様が、私を押し潰さないように手を付かれる。  
その慌てっぷりがおかしくて、私はつい吹きだしてしまった。  
「美果さんは、僕を驚かすのが好きなのですね」  
「はい、大好きです」  
旦那様が私を見て、困ったり驚いたりするのが、なぜだか嬉しい。  
そしてその後に笑ってくれれば、尚いい。  
「困った人ですね」  
ほら、笑った。  
「きゃっ」  
どうだと得意になったその時、いきなり旦那様のお手にお腹の下を撫でられて声が出る。  
「お返しです」  
今度は、旦那様がしてやったりというような表情になられる。  
とっさに脚に力を入れた私の隙をついて、また胸に舌が這わされた。  
 
「ひゃっ……あ……あんっ……」  
さっきされたばかりなのに、やっぱり気持ち良くて、意味のある言葉が言えなくなってしまう。  
ただ頬に血が昇るのを感じながら、強く目をつぶるしかできない。  
旦那様は胸に顔を埋めながら、アレの納まる場所を探すように、腰をもぞもぞと動かし始められる。  
それがまるで、焦らされているかのようで。  
耐えられなくなって、私はまるで誘うかのように脚を開いていた。  
「あ……」  
ようやくアレが濡れた場所に押し付けられ、立った水音に息を飲む。  
そして、胸への愛撫はそのままに、そこに少しずつ力がかけられていって。  
「やっ……。あ……あ……」  
熱く逞しい物が入ってくる圧迫感に、呼吸が大きく乱れた。  
胸だけでも気持ちいいのに、同時になんて。  
入れられただけでイくなんて恥ずかしすぎるから我慢しようと、シーツを握り締めて耐える。  
力を入れすぎた手が、ぶるぶる震えた。  
「大丈夫ですか」  
そう尋ねる、旦那様の吐息にさえ感じてしまう。  
はいという返事は、妙に力んだ声になってしまい、あたふたした。  
旦那様が、やっと胸から顔を上げられ、ゆっくりと腰を使われはじめる。  
かき混ぜるように中を擦りあげられて、つながった場所からいやらしい水音が立つ。  
弱い場所を狙いすましたかのように責められて、私はどうしようもないほど喘がされた。  
たまに突き上げを緩めて、旦那様が私の体のあちこちにキスされて。  
痕が残るかな、などと頭の片隅で考えるのだけど、それもすぐにどうでもよくなった。  
「んっ」  
旦那様が私の膝を押し開き、さらに深く腰を沈めてこられる。  
一番奥までアレが届いて、私の心と体を容赦なく抉って乱れさせて。  
堪らずお背に抱きつくと、汗ばんだ胸と胸が密着した。  
「旦那様、もう……」  
こうなっては、さすがに駄目。  
肩口に額を押し付けて訴えると、あの方が頷かれたのが感じられて。  
そのまま畳みかけるように突き上げられ、私はとうとう、喉が痛くなるくらいに叫んで達してしまった。  
 
 
まるで長距離走の後のように、意識が朦朧として、喉が苦しい。  
呼吸を整えようと頑張っていると、そのまま一気に抱き起こされ、私はあの方の膝の上に座る格好になった。  
背をさすってもらうのが気持ち良くて、自然にまぶたが下りてくる。  
「美果さん」  
「はい。……はい?」  
呼び掛けに答えたのは、我ながら小さく、しまりがない声だった。  
「疲れましたか」  
気遣わしげでありながらも、どこか残念そうな声で旦那様が問われる。  
「……いいえ。大丈夫、です」  
ようやく呼吸が楽になって、先程よりも幾分はっきりと答える。  
そうですか、と頷かれた旦那様が、官能的な手つきで私のお尻を撫でられる。  
それを合図に、私は恐る恐る腰を動かし始めた。  
ゆっくりなのだけれど、体重のせいで、さっきより深く繋がっている気がする。  
潤みきった粘膜が、旦那様のアレを締めつけ、絡み付いているのがはっきりと分かった。  
「あ……」  
たっぷりと味わうように、旦那様の膝の上で腰を使う。  
胸と胸が擦れ合って、それもまた気持ち良かった。  
感じる場所からもやもやとした物が立ち上がってきて、頭のてっぺんから爪先までを支配しはじめる。  
今しがた達したばかりなのに、また同じ物が欲しくて、堪らなくなって。  
夢中で腰を動かす私の肌を、旦那様が撫でられる。  
肩から下へ向かった手は前に回り、やがて私たちの体の間へ無理矢理割り込んで。  
旦那様のアレを食いしめている私の柔らかい場所にたどり着き、肉芽を探り当てた。  
「あっ!」  
ただ指が押し付けられただけなのに、鮮烈な快感が走って動きを止める。  
ここを触られると、本当にもう抑えが効かなくなってしまうのに。  
 
旦那様が気持ちいいように動くべきなのに、私は貪欲にも、あの方の指がそこに当るように腰を動かし始めていた。  
お腹とお腹を擦り合わせるように腰を使うと、指が肉芽を抉るように刺激して気持ちいい。  
その刺激に体が跳ね、旦那様のアレを食い締めている場所が、キュッと収縮するのが分かる。  
中も外も気持ち良くて、旦那様の肩に掛けていたはずの私の手は、いつの間にかあの方の首に回り、縋りついていた。  
肌の密着が増して、息もまた乱れてくる。  
「あっ……あ……んっ……」  
快感に陶然となる頭の片隅で、旦那様をイかせてあげなければと思い出す。  
私は二回も……なのに、この方はまだだから。  
使命感めいた物に駆られて、お腹に力を入れ直して。  
私はもう一度、旦那様にいいように動き始めた。  
それに応えるように、旦那様も腰を動かされはじめて。  
ともすれば快感に負けそうになりながらも、ぎりぎりの所で耐え続けた。  
「美果さん……。あ、もう……」  
旦那様が切なげに呟かれて、アレが私の中で大きく脈打ち、弾ける。  
それを感じ取ったのとほぼ同時に、視界が真っ白になった。  
 
 
しばらく、気を失っていたらしい。  
気がつくと、私は布団に横たわっていて、旦那様が脇でこちらを見ておられた。  
やだ、無防備な寝顔を見られたんじゃないだろうか。  
慌てて布団に隠れる私を見て、旦那様が吹きだされ、空気が凪いだ。  
「美果さん。身軽にしてあげることは、まだ無理のようです」  
笑みを含んだ声で仰った中には、さっき私が口にしてしまった失礼な単語が含まれていた。  
一瞬ひやりとしたけれど、その言葉でからかわれたということは、怒っていらっしゃらないということだ。  
「残念です。モテモテになって、いっぱい遊ぼうと思っていたのに」  
私だって、年相応に、合コンや夜遊びに興味がないわけじゃない。  
くぐもった声で言うと、旦那様が布団越しに私を引き寄せられた。  
「あなたに苦労をかけていることは、日々重く受け止めています。  
だからこそ、僕は美果さんを一人にはしないということを、分かっていて下さい」  
布団にもぐり込んだ旦那様のお手が、私の手を探り当てる。  
ちっとも綺麗じゃない荒れた手なのに、包み込むように握り締めて下さって、私の心に火が灯ったようになった。  
何だかすごく幸せな気分になって、繋いだ手を頬にすり寄せ、うっとりと目を閉じる。  
生活の苦労なんて、大したことじゃない。  
お金が無いのは本当だけれど、頑張れば認めてくれる人がいる今の生活は、やり甲斐がある。  
人の悪意をぶつけられることもないから、気楽だし。  
「早く身を立てて、美果さんにもう少し楽な暮らしをさせてあげられれば、と思います」  
「楽な暮らし、ですか」  
「はい。日頃アルバイトや家計のことで頭を一杯にしているあなたを、早く、僕のことだけ考えていられるように」  
そんな日々は、ちょっと想像がつかないけれど。  
旦那様がそんな風に頑張って下さる気持ちがあるのなら、本当に叶う気がした。  
「僕のことと、せいぜい今日のおかずについてだけ、考えていればいいような」  
えっ。  
「そんなんだったら、私ますます馬鹿になるじゃありませんか」  
旦那様の言葉を遮って、思わず言ってしまう。  
今だって、頭を叩いたら乾いた音がするくらい馬鹿なのに。  
「僕はそれで構いません。悩んでいるより、明るく元気な美果さんを見ていたいのです」  
そう言って、私の顔を覆う布団をめくった旦那様が、そっと唇を重ねてこられる。  
そんな風にされると、本当に大事にしてもらえているんだなあと思えて。  
嬉しい反面、このままではいけないという思いが胸に滾ってくる。  
この方のやる気を、削ぐようなことをしてはいけない。  
旦那様には頑張って頂いて、いつの日にか絶対に、会社とお屋敷を取り戻して頂かねばならないんだから。  
 
名家のご子息であられる旦那様と、メイドの私のアパートでの暮らし。  
最初はぎくしゃくして腹を立てるばかりだったけど、日々を過ごすうちに、とてもうまく回るようになった。  
旦那様が大学院に行っておられる間に私はアルバイトをして、夕方帰って家事をして。  
お帰りを待って、一緒にご飯を食べてから、旦那様は勉強、私は家でできるアルバイトと家事の残りをして。  
そして、たまには一緒に寝て。  
質素だけれどなかなか楽しい二人暮しは、それから二年ほど続いた。  
 
 
 
 
──第9話終わり──  
 

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