2人暮らしを始めてから3年後、旦那様は博士号を取得し、ついで大学院をつつがなく修了された。
何の研究でどんな論文を書かれたのかというのは、教えて頂いても、やっぱり私には理解できなかったけれど。
ともかく、これで将来はバラ色になるのだと、私は大いに期待した。
しかし現実は、バラも桜も咲く気配を見せることなく、ただ物憂いだけの春がやってきた。
旦那様を雇ってくれる企業が、一社も見つからなかったのだ。
とはいっても、あの方が奇妙な発言をして面接官を呆れさせたとか、そんな原因があったからではない。
ようやく少しずつ良くなってきた景気が、また急に下を向いたせいだ。
おかげで新規採用の枠が大幅に減少し、コネも華々しい研究実績もない身では職を探すのは難しいのです、と旦那様は溜息をついて仰っていた。
旦那様のお父様は、生前大きな会社を経営なさっていたのに。
会社が親戚筋の手に渡った今となっては、旦那様の苗字がたとえ社長のそれと同じであっても、関係ないらしい。
旦那様が博士号を取られれば、いくつもの企業から、選ぶに困るほどのお誘いが来る。
そう暢気に想像していた私にとって、旦那様が無職になるというこの状況は、全く予想外だった。
考えてみれば、高卒や大卒を取る企業はいっぱいあるけど、博士を雇いたい企業なんてそりゃあ少ないはずだ。
まさか、博士が経理やセールスをするわけもない。
就職口を見つけるのが大変だというのは、はっきりしていたのに。
そこは中卒の悲しさ、学がある=就職に有利だと、私は思い切り勘違いしていたのだ。
旦那様が就職できなかったのは、面接官の目が悪かったことと景気のせい。
そう思って自らをなぐさめ、旦那様を励まして次につなげようとは考えていたけれど。
余裕のあまり無い生活にやっと光が……と抱いていた希望があっさり裏切られたのには、正直言ってがっかりした。
学歴が無くて職に困るのならまだしも、高学歴でも職に困ることがあるなんて。
旦那様は「研究生」という、まるで劇団の若手みたいな肩書きで大学に籍を残されることになった。
大学院を出たからといって、完全におさらばするより、そういった名目上でも大学とつながっていた方が有利なのだそうだ。
なんとなくだけれど、就職浪人のことに関しても、あの方は私ほど落胆なさっていないように見えた。
私は相変わらず、あちらこちらを掛け持ちしてアルバイトをする毎日を送っていた。
旦那様にいい会社に入って出世して頂いて、元のお屋敷と会社を取り戻してもらう。
もうすぐ手が届くはずだった、アパート暮らしの中でのたった一つの希望は、先に伸びてしまった。
そして、色とりどりのつつじが街中のあちこちに咲き乱れる頃になった。
桜の咲く少し前から今頃にかけては、年末年始につぐ人出で寺内も門前の商店街もごった返す。
おかげで茶店も忙しく、春の陽気のせいか甘酒に代わり、冷たい甘味もなかなかの売れ行きをみせている。
参拝客は皆一様に楽しそうで、春を満喫しているように見える。
しかしその浮き立った明るさの中にいながら、私はいまいちそういう雰囲気になじめないでいた。
全てを旦那様の就職問題だけのせいにするわけでは、ないのだけれど。
アルバイトの掛け持ちをやめて、一つの所にしっかりと腰をすえて働いた方がいいんじゃないだろうか。
先行きの見えない暮らしのことを思うと、それがベストのように考えられ、混雑する茶店の中でひっそり溜息をついた。
この日、お客が切れたのは夜7時前だった。
夜桜の頃ならもう少し遅かったのだが、桜が散った今は夜に出歩く人も少なくなる。
そんなわけで、私がアパートに帰ったのは夜7時半を少し過ぎた頃だった。
ただいま帰りましたと六畳間に呼びかけ、急いで夕食の準備をする。
最近は旦那様がご飯を炊いてお味噌汁まで作ってくれるようになったので、随分と楽になった。
しばらくして二人分の膳が整った頃、あの方が台所に姿をみせられる。
「お帰りなさい、美果さん」
はいと返事をした時、私はふと首をかしげた。
いつも当たり前のように聞いているあの方の言葉が、今日は何だか違うように聞こえる。
どことなくご機嫌な感じ、何かいいことでもあったのだろうか。
などと思いながらちゃぶ台に膳を並べ、いただきますをする。
食べながら時折そっと観察しても、旦那様はやっぱりいつもと雰囲気が違う。
これはやはり日中に何かあったに違いない、もしかしてまた福引でも当てたのかな。
無欲の勝利というやつなのか、旦那様は福引やくじなどの運に恵まれた方だ。
まあそれだけならいいのだけれど、しかし、その後がいけない。
前に温泉旅行を引き当てられた時も、この方はにじみ出る嬉しさを隠したつもりになって、私が気付くまで黙っていたし。
問うても散々焦らされてから「美果さん、僕は福引で特賞を引き当てました」と、どうだ褒めろといわんばかりの笑顔で言われた。
その後にも「特賞は何だと思います?ねえ、知りたいでしょう?」などと、うっとうしいほど尋ねられたっけ。
タダで旅行に行けて、リフレッシュできたから結果的には良かったけど。
あの時のことを思い出し、棚に飾った温泉名入りのミニちょうちんを横目で見た。
当ったのはテレビか商品券ならいいなあと思いつつ、尋ねないまま食事を終える。
アルバイトの疲れを感じていたので、旦那様のウキウキに付き合うのは、少ししんどかった。
いつもより長めにお風呂に入って、洗濯と残りの家事も済ませて、さっさと寝る準備をする。
「美果さん」
呼ばれて振り返ると、旦那様がすぐそこに立っておられた。
引き寄せられ、そっと唇を重ねられる。
最近はこうして、そういう雰囲気でなくとも口づけられることがたまにある。
まあ、その後はなし崩しに布団に倒れこむんだけど。
何度か合わさった唇が離れ、今日もそうなるのかな……と思った矢先、先程の疑問がまた頭をもたげてきた。
ご機嫌な理由を、まだ聞いていない。
「旦那様。何か、いいことがあったんじゃありませんか?」
疑問を抱えたまま事に及んでも、きっと集中できないに違いない。
私が水を向けると、旦那様はまた嬉しさを隠し切れない表情になられた。
「美果さん、僕は就職できるかもしれません」
どうだと言わんばかりに満面の笑みを浮かべて旦那様が仰るのに、私は耳を疑った。
福引で何か当ったのに違いないと、それしか考えていなかったから。
「……本当ですか?」
「ええ」
「ほんとにほんとですか、アルバイト……とかじゃなくて?」
「はい。正真正銘の、常勤の仕事です。最終選考まで残りました」
ってことは、やっぱり正社員ってことだ。
去年は最終選考なんて言葉、この方の口からは一度も聞けなかったのに。
年度が変わると運が向くのかな、桜には間に合わなかったけど、やっとうちにも春が来たんだ。
「旦那様、やったじゃないですか!」
疲れていたことなどすっかり忘れ、旦那様のお手を取って跳ねんばかりにはしゃぐ。
なんでこんな変な時期にという疑問はあるけれど、旦那様の良さをちゃんと認めてくれる企業があったのならいい。
まだ最終選考が残っているなら喜ぶのは早いけど、旦那様のご様子を見ると採用の見込みが高いのだろう。
「どこですか、○×化粧品ですか?それとも、何語か分からない横文字のメーカーですか?」
就職活動をなさっていた頃に口にされた企業名を思い出し、勢い込んで尋ねる。
他にはどんな名が出ただろう、ナントカカントカっていう、ああ思い出せなくてもどかしい。
「いいえ。大学の教員です」
手を取られたまま旦那様がにこりと笑われ、私はエッと目を大きく見開いた。
「え……。教授とか、助教授っていうやつですか?」
「美果さん、僕などが教授になるのはまだ無理です。採用されればもっと下の、教授になるための第一歩に立てるのです」
それに今は助教授ではなくて「准教授」と呼ぶのですよ、と旦那様が注釈をつけられる。
「第一歩……」
「ええ、ですがこの種の募集にしては珍しく、任期も定められていません。ですから、企業で正社員として雇われるのと同じことです」
旦那様が丁寧に説明して下さるのだが、私の胸は急速にざわめきだした。
正直言って、考えてもみなかった。
大学にお勤めなんて中々できることではないけれど、出世をしてお金を稼ぐという点では不向きなんじゃないだろうか。
研究で業績を上げて認められるのには、企業の中でのそれよりずっと長い時間がかかるだろう。
何より、大金持ちの企業家は数あれど、大金持ちの先生なんて聞いたことがない。
私が黙り込むのをよそに、旦那様が続けられる。
「僕が専攻する分野は特殊で、教員の枠も狭く募集も無いかと思っていたのですが、欠員が出たのは幸運でした。
関西の大学ですから、採用になれば引っ越さなければなりませんが」
「えっ、関西?」
旦那様の言葉に、私は心底驚いて問い直した。
「はい。美果さんはご存知かどうか分かりませんが」
そう言ってから旦那様が口にされたのは、一応は聞いたことがある大学の名だった。
しかし旦那様が通われていた大学より、はっきり言ってレベルは下だ。
それより、引越しだなんて。
池之端家の正当な跡取りが、仕事のためとはいえここを捨てて、遠く離れた場所に居を移すと?
そんなの、許されることではない。
「それって、都落ちってことでしょう?そんなんで、悔しくないんですか」
「美果さんは関西が嫌いですか?」
「関西がダメって言ってるんじゃありません、よそに行くなんて許されないと言ってるんです!」
気がつくと、私は大声で怒鳴っていた。
ご両親とお兄様を亡くされてすぐ、この方は心無い親戚に屋敷と会社を乗っ取られ、路頭に迷う一歩手前だったのに。
いつか見返してやると機会をうかがうことも、地方に行ったらできなくなるじゃないか。
常勤ならば、向こうへ行ったきりになることだって十分考えられる。
男なら、いや男じゃなくても、やられたらやり返すのが当然のこと。
私だって、継母と義理の兄弟に家を追い出されたようなものだけれど、いつかきっと……という夢は捨ててはいない。
ましてや名家にお育ちになった旦那様なら、乗っ取りの事実は、一般人の何倍もプライドを傷付けたに違いないのに。
なのにこの方は全て諦めて、遠い空の下で一生お勉強に取り組まれるおつもりなのだろうか。
「旦那様が頑張って勉強なさってたのは、池之端家のお屋敷や会社を取り戻すためじゃなかったんですか」
主従の関係も忘れて、旦那様を真正面から睨みつける。
大学院にまで行くほどいっぱい勉強して、知識を身につけられて。
あとはそれを活用して、池之端家の正式な跡取りとして社会に打って出るべきなのに。
なのに、場所を変えただけで相変わらず大学にい続けて、狭い世界でお金にならない研究をして論文を書きたいとでもいうのだろうか。
あんまりに情けなく思え、私は失望したとなりふり構わず大声で叫びたくなった。
「やはり、美果さんは反対されますか」
取り乱す私の耳に、夜に似合った静かなお声が届く。
夕食の頃から先程までの弾んだ雰囲気を、旦那様はいつの間にかもう纏っておられない。
私が何も言わないでいると、あの方はそれを肯定ととらえられたようだった。
「家族が生きていた頃、僕は将来兄の下で、社の一員として働くことになると思っていました。
好きな分野の研究も、所詮は学校を出るまでである、と自分に言い聞かせてもいました。
僕の専攻する分野は特殊で、これをそのまま生かせる職業に就くことなど、はなから諦めていましたから」
「…………」
突然話の矛先が変わり、警戒する。
思い出話で同情を引かれるようなことは、避けたかった。
「将来が決まっていて、好きなことを何が何でも職業にするぞという強い意志も無い。
そんなふやけた半端者であったからこそ、僕はあの時有効な手段も取れないまま、ああも易々と屋敷を追われたのでしょう。
美果さんはじめ4人の雇用を守れなかったことは、お詫びのしようもありません」
「だってそれは、あのクソオヤジが……」
クビを言い渡されたときのことを思い出し、思わず口を差し挟む。
記憶を戻すと、自分の体から怒りの炎がめらめらと立つように感じられた。
あの時の気持ちを忘れず、全身全霊で根に持っていたからこそ、私はつらくても頑張ってこられたのに。
「美果さんに支えて頂き、僕は学校を辞めずにすみました。
あなたの励ましにより、この上は勉学に励もうと決意し、生まれ変わった気持ちで研究に取り組みました」
「そうでしょう?だったら……」
いい会社に入って出世して頂いて、リベンジの機会をうかがうというのが私とこの方との共通の夢だったはず。
一体いつどこで、それが変わってしまったというのだろう。
「打ち込みすぎないようにと自分に言い聞かせるのをやめてしまえば、学問の魅力にとりつかれるのは易いことです。
いくらもしないうちに、僕は研究について、これは到底就職の時に諦めきれるものではないと考えるようになりました」
「えっ……」
「とはいえ、夢を見てばかりもいられませんから、熱心に就職活動も致しました。しかし、次第に自問するようになったのです。
僕は本当に企業に入りたいのか、学んできたことを生かしきれぬ職業に就いて、好きな研究を捨てられるのかと」
「だから……」
「僕の専攻する分野は特殊で、人を惹きつける派手さも華やかさもありません。
しかし僕には心底楽しいのです。これをもっと世に広め、学ぶ人の裾野を広げることこそが、僕の使命なのではないかと」
今まで見たことがないほど目を輝かせて、旦那様が語られるのを私は呆然と見ていた。
ああそうだ、研究のことを語られる時、この方はよくこういう目をなさっていた。
心底愛情を持っておられるということが、研究のことなど何も分からない私にも自然に知れた。
「それで、大学の募集に応募されたんですか……?」
「はい。僕の専攻ときわめて近く、待遇も申し分ありません。
これほどのチャンスが巡ってくることは、もう二度と無いと思いましたから」
黙っていて申し訳ありません、と旦那様が頭を深く下げられる。
おそらく賢明な判断だっただろう、もし私が応募の時点で知っていたら止めていただろうから。
「旦那様は、企業でお勤めされるんじゃなくて、大学の先生になりたいとお考えなんですね」
「はい。最終選考に漏れれば、その限りではありませんが」
「嘘をつかないで下さい。そんなに研究がお好きなら、一度ダメでも諦められるはずないじゃありませんか」
「それは……」
さすがに後ろめたかったのか、黙り込んでしまわれる。
旦那様は企業に就職するより、どうあっても大学の先生になりたいのだ。
欠員が出なければ新規採用の無いような狭き門なら、次の募集がいつあるかもわからない。
今回もしダメなら、今の不安定な暮らしをずっと続けると仰っているのと同じことだ。
「旦那様、旦那様は池之端家の跡取りだってことをお忘れなんじゃありませんか。
ご家族の無念を思えば、ご自分のしたいことより、奪われたものを取り戻すのを真っ先に考えるべきなんじゃありませんか」
精一杯考えて、諭すように言う。
なのに旦那様は、間髪をいれずに「いいえ」と返された。
「今の実質の当主は叔父です。僕など、もう傍流でしかありません」
「そんな!」
あまりにも情けないお言葉に、全身の血が逆流しそうになる。
自分が本当の跡取りであるというプライドも自負も、この方は捨てられてしまったのか。
「叔父達は幸いにも社をしっかりと切り回せているようですから、僕の出る幕はありません。
この不況の折に、父や兄の時代と同程度の水準を保っていられることを考えれば、経営手腕があるといってもいい」
「だって、あの人達はあんなにひどい……」
葬儀の後、あいつらがどんなに横暴な手を使ったか。
正統な跡取りである旦那様を追い出し、見せしめのために私や庭師のお爺さん達も追い出し、お屋敷まで乗っ取った。
あんな仕打ちをされたことを、きれいさっぱりお忘れになったのだろうか。
「旦那様は悔しくないんですか、あんなにひどいことをされたのに!」
腹が立って腹が立って、夜だというのに大声で言い募る。
しかしその訴えも、旦那様のお心には届かないようだった。
「確かに彼らの手法は横暴以外の何物でもありませんでした。しかし企業は、血ではなく手腕によって受け継がれるべき物です。
その観点をもってすれば、経営に長けた叔父の方が社長にふさわしいのは明らかです」
「えっ」
「僕などという青二才の素人が、ただ前社長の息子だというだけで、あの時社長になってしまっていれば……。
実力の無い者をトップに戴いた組織がどうなるかは、考えるまでもないことです。
社の業績は悪化し、皆の雇用も守りきれずに屋敷も手放していたかもしれません」
「でも旦那様は男でしょう、奪われた物を取り返して、悪い奴をギャフンと言わせるのが男じゃありませんか」
「美果さん」
旦那様が鋭く私の名を呼ばれる。
有無を言わせぬ威厳に満ちたそれは、いつものこの方の口調とは明らかに違うものだった。
手足の先から血の気が引くのを感じながらも、続く言葉を予想して私は耳を塞ぐ。
やめて、それ以上言わないで。
「引き際を知るのも男というものです。僕はもう、社と屋敷を取り戻すつもりはありません。
美果さん、どうか許して下さい。僕は、どうあっても研究を続けたいのです」
私の願いはあっけなくかわされ、むなしく宙を舞って地に落ちた。
旦那様は、ご自分の過去に引導を渡されたのだ。
私と一緒に描いていたはずの夢を放り投げて、一人で勝手に方向転換をなさったのだ。
私を置き去りにして、ご自分のことだけを考えられて。
今まで2人で頑張ってきたのは一体、なんだったのだろう。
足から力が抜けて、私は畳にへなへなと座り込んだ。
今までついぞ感じたことのなかった、旦那様への純粋な怒りが湧いてくるのを感じる。
胸が苦しくなり頭痛もして、今にも吐きそうなくらい気分が悪くなった。
「黙っていて、本当に申し訳ありませんでした」
旦那様がまた深く頭を下げられる。
「このことに関しては、いくら謝っても足りないと思います。
でももし美果さんが、それでも僕と一緒にいてやると……」
「いいえ!」
その、あまりに虫のよすぎる言葉にカッとなり、私は力いっぱいかぶりを振る。
約束を勝手に反故にしたくせに、それでも一緒にいろだなんて、馬鹿にしている。
私はただのメイドだけれど、だからってこんな無神経な扱いをされて黙っているほどお人好しじゃない。
「旦那様のお考えはよく分かりました。反対を恐れて黙っていらっしゃったことも、リベンジできない腰抜けだってことも。
本当にそう決められたのならどうぞご存分に、行きたい道を進まれて下さい」
感情を精一杯押さえ込み、緊張の糸が切れそうなのを堪えて言う。
私はこんなに低い声で恨み言を言うような、暗い人間だっただろうか。
ああそうだ、そういえば忘れていた。
実家でいびられお屋敷で馬鹿にされ、これ以上ないくらいに性格が曲がっていたことを。
この方と暮らす前から、元々私には可愛らしさもしおらしさも備わっていないのだ。
「美果さん、それは……」
「旦那様に夢を託した私が馬鹿でした。採用が叶えば、関西へはお一人で行かれて下さい。
私はもう、旦那様と一緒にいる意味を失くしました。私はメイドを辞めます」
「えっ」
「同居も解消します。もう旦那様とは暮らしたくなんかありません」
そこまで言ったところで緊張の糸がぷつりと切れ、涙がどっと溢れてきた。
みっともない姿を見られるのが耐えられず、お風呂場に飛び込んで鍵を後ろ手に閉める。
追ってくる足音は無く、暗く閉ざされた空気の中で私は一人になった。
無理矢理立たせた足からはまた力が抜け、先ほどのように床に座り込んでしまう。
タイルに残る水滴が服を濡らし、肌に冷たく感じられても、もうどうでもよくなった。
旦那様は、私との約束を反故にしてでも、ご自分のしたいようにすると決められたのだ。
あまりにひどいと怒りに任せて自分の膝を叩くうち、とうとう涙が止まらなくなった。
湿った空気の中にいると、いくら泣いても構わないように思えて。
私はひとしきり泣き、そのまま壁にもたれて眠ってしまった。
翌日から、旦那様と私の間には、まるで透明な壁ができたようになった。
旦那様は何も仰らず、私も一度言ったことを取り消す気にはどうしてもなれなくて。
今日は何時に帰る、何が食べたい、靴下の片方が見つからない。
日常の何でもない会話も一切無くなり、独特の静かな緊張感が漂うだけになった。
旦那様が時折、私を見て物言いたげな表情をされているのには気付いていたけれど。
私が旦那様に失望したように、旦那様もいっそ私に失望してくれた方がいいと、無視を決め込んだ。
なんと無礼で可愛げのないメイドだと思ってくれた方が、いっそせいせいするから。
耐え難いその雰囲気は、次第に旦那様と私の距離を遠ざけて。
朝晩の食事も別にとるようになり、夜も時間をずらして寝るようになった。
元々は主従なのだから、本来の状態に立ち返っただけのこと。
そして3週間が過ぎた頃、旦那様がやっと言葉少なに、採用が叶ったことをお知らせになった。
なるべく早くということなので、向こうでの住まいが決まり次第引っ越すことも。
私はそうですかと頷くのみで、ついていくつもりの無いことをもう一度態度で示した。
旦那様もそんな私を見ても何も仰らず、頷き返されるだけで。
考えを改めて下さるつもりのないことを、無言のうちに示されたのだった。
間もなく六畳間には、段ボール箱や梱包材に包まれた荷物が、壁に片寄せて置かれるようになって。
気がつけば、私が何も手伝わないうちに、一切の準備が整ってしまっていた。
旦那様の持ち物のほとんどは本だから、その気になれば荷造りはすぐできたとみえる。
こたつ以外の家具家電は、向こうへはお持ちにならないようだった。
メイドを辞めると言った私への、せめてもの思いやりなのだろう。
大家さんにも、私が一人でここに残ることを、旦那様の方から話して下さっていたようだ。
本当かとこっそり尋ねに来た大家さんの気遣わしげな視線に耐えられず、お願いしますと小さく言って、私は大家さんの前を逃げるように去った。
いよいよ引越しの日が近付くと、旦那様は送別会だの何だのと、部屋を空けられることが多くなった。
寂(せき)として音もない静かな部屋で、私はこれからの一人暮らしのことを思った。
そして。
引越しは、拍子抜けするくらいあっけなかった。
その日はお休みを取ったくせに、私は結局またお風呂場に隠れて、旦那様の荷物が運び出される音を聞いた。
小一時間ほどで物音がやみ、作業員が外に停めたトラックのエンジンをかける音が聞こえて。
ついでお風呂場のドアが小さくノックされて、私はびくりと肩を跳ねさせた。
「行ってきます、美果さん」
ドアの向こうで旦那様が仰ったのを最後に、足音が遠ざかり、そして玄関の閉まる音がした。
外で大家さんの声がして、そしてトラックの音が小さくなっていくのが、何か夢の中の出来事のように聞こえた。
お風呂場から出て六畳間に戻ると、あの方のいないそこは、驚くくらいにがらんとしていて。
ボロい、汚いとばかり思っていたこの部屋を、私は初めて広く感じた。
──第10話終わり──