〈第一話〉
手や肩にのしかかった重い荷物を床に置くと、ドサッと大きな音がした。
本なんて紙切れの集合に過ぎないのに、何冊も重なると重いものだ。
こんな毒にも薬にもならないものを後生大事にしている、これからここで一緒に暮らす人の気が知れない。
大きな溜息をついて、私はこの狭い空間を見渡した。
私は丹波美果、十八歳。中学を卒業して田舎から出てきて、この地でメイドとして働き始め三年と少しになる。
名前の由来は、小さな果物商の長女に生まれたからという、単純なもの。
小学生頃までは幸せに育ったが、父が再婚し、新しい母や義理の兄弟との折り合いが悪くなって家を出た。
継子いじめなんて、物語の中のことだと思っていたのだが、実際に身に降りかかってきたというわけ。
口利き屋(私設の職業安定所のようなもの)に強引に頼み込み、池之端家で住み込みのメイドになった。
無学な田舎者が奉公に出るのは昔の定番パターンだけど、現在は必ずしもそうではない。
同じ地方出身者でも、小金を持った家の娘が行儀見習いとして、名家に数年間雇って頂くというのが最近の傾向だ。
都会の一流家庭で仕えたという箔をつけ、結婚の際に相手方に印象を良くするためだ。
だから、メイド仲間は少なくとも高校を卒業した少し年上の人ばかりで、はっきり言ってあまり話も合わなかった。
家庭環境を笑われ、悔しい思いをしたことも一度や二度ではない。
重労働や汚れる仕事を優先して回される屈辱にも会っていた。
それでも、新しい地で自分一人でやっていくんだという思いを胸に、それなりに頑張って毎日を生きてきた。
池之端家は、科学か化学だかの開発に携わる会社を始め、数社を経営している大きな家だ。
社長であるご当主様夫婦と、そして二人の息子の四人家族が広大な敷地に立つ洋館に暮らしている。
いいえ、正確に言えば、暮らしていた。ほんの少し前までは。
社長と夫人、跡継の長男が不慮の事故で一度にお亡くなりになってすぐ、池之端家を取り巻く環境は一変した。
この日は大学に行っておられた次男の悠介様だけが生き残られ、次期社長はこの方だと誰もが思っていたのだけれど。
会社の重役達を味方につけた前社長の義弟が強引に新社長に就任してしまい、あまつさえお屋敷に乗り込んできたのだ。
これからはわしが本家の当主になるという宣言もして。
それに伴い、悠介様は生まれ育ったお屋敷を追い出される羽目になってしまった。
つい先日までは由緒正しい名家のご子息が、今日には宿無し職無しのただの学生になったというわけだ。
人生は山あり谷ありだと言うが、それはまさにこのことだと私はしみじみ感じ入った。
お屋敷の使用人は、ほとんどがそのまま居残った。
大リストラが行われるかと心配されたのだが、さすがに新当主もそこまではやる気がなかったようだ。
広大なお屋敷を維持せねばならないのだから、使用人皆を解雇するわけにはいかない。
しかし、全員を一人残らずそのまま使うというのは、お気に召さなかったのだろう。
お屋敷で働く三十人少しのうち、四人がクビを言い渡された。
残る使用人にプレッシャーを与えるという意味で、見せしめにされたのに違いないと私は思っている。
「わしに逆らえば、今回クビを免れた者も同じ目にあわせるぞ」と言下に脅すなど、あの男の考えそうなことだ。
暇を出されたのは老齢の庭師、勤続数十年のばあやさん、先代社長の運転手、そして、後ろ盾の無い無学なメイド。
このメイドとはつまり、私のことだ。
すずめの涙ほどの退職金を与えられ、古ぼけたトランク一つに入るだけの荷物と共に文字通り放り出されるのだ。
長引く不景気の折、中卒の小娘にまともな就職先があるわけもない。
だからといって、今更実家に帰り、あの義母や義兄弟の前に膝を折ることも断じてイヤだ。
一刻も早く新しい住み込み先を探そうと決意したのと同じ頃、思いもよらない誘いがかけられた。
「美果さん。行く所が無いというのなら、僕と一緒に住みませんか?」
こう言ってくれたのは、誰あろう池之端悠介様、つまり同じく屋敷を追い出される前当主の次男坊。
自分も数日後にはここを去らねばならないというのに、他人の心配なんかしている暢気な人だ。
庭師とばあやさんと運転手は、再就職や身を寄せる先が決まっているし、立派な大人だから特に問題は無い。
しかし、年若くこれからのことが一切決まっていない私を気にしてくださり、こうして声をかけてくれたというわけ。
何でも、この方は教授に、大学から少し離れた所に下宿先を世話してもらったという。
そこへ来ないかと、私なんかをわざわざ誘ってくださったのだ。
「それは有難いお申し出ですけど…。本当にいいんですか?」
「ええ、構いませんよ。僕が不甲斐ないせいで失業者を出してしまったんだ、これくらいしなければ申し訳ない」
微笑んで言葉を続けられるご様子から、本心で言ってくださっているのが分かる。
それにしても、たかがメイドにずいぶんと丁寧な言葉遣いをなさる人だ。
使用人など人とも思わぬ上流階級の人を何人も見ているせいか、この方の物腰が奇妙にさえ思える。
「実は、本当に困っていたんです。次の就職先が見つかるまで、短期間置いていただければ助かります」
「そうですか。私も一人暮らしは不安だったから、連れがいると心強い」
よろしくと手を差し出される若い旦那様に、私も慌ててエプロンで拭いた手を差し出し、握手をした。
お屋敷を去る日、形ばかりの見送りを受けて池之端家を後にした。
失業したのは痛手だけれど、あんないけ好かないクソオヤジに仕えなくとも良くなったから、これでいいのだ。
自分を慰めるようにそう呟きながら、メモに記された住所を頼りに電車に乗った。
旦那様は一足先に下宿に入られているので、私が後追いをする形になる。
最寄り駅で降りて歩いていくと、昔ながらのごちゃごちゃとした街並みの中に次第に吸い込まれていった。
今までいたお屋敷街とは全く違う、一般庶民の住む地区だ。
田舎者の私からすれば、ここでも十分都会で、人の活気が感じられるのだが。
このような地域に、あの池之端家の次男様が住まわれるのかと思うと、忠義者でもないのに嘆かわしくなる。
「海音寺荘、って…」
下町に、こんな一流旅館のようにご大層な名前の下宿があるのだろうか。
頭の中を疑問符で一杯にしながら、入り組んだ道を歩き回る。
いい加減足が疲れてきた頃、私はやっとその建物の前に立つことができた。
え……ここ、でいいのかな…?
メモと建物のプレートを見比べ、目を泳がせる。
海音寺荘、だ。間違いない。ここで合っているはずだ。
でも、自分の中の想像図と、実際のその建物はあまりにも違っていた。
年月を経た佇まいというところまでは、全く想像の通り。
しかし、目の前のその建物は、年月により風格ではなくむしろダメージを盛大に身にまとった外観だった。
一言で言えば、吹けば飛ぶよな、いわゆるボロボロアパートだ。
あまりの事態に、私はしばし呆然と立ち尽くした。
どれくらいそうやっていたのか、正直言って分からない。
アパートの脇に人影があることに気付きふと目をやると、一人の老婦人がこっちを見詰めていた。
我に返り会釈をし、念のためにメモを見せて本当にここが海音寺荘なのか確かめる。
何かの間違いであってほしいというわずかな期待は、あっけなく消し飛んだ。
「あなた、今日来られるという話の、ミカさんなの?」
尋ねられ、呆然としながらもはいと返事をする。
そう、と微笑んだその人は、私を建物の中に案内してくれた。
聞いてみれば、この人はこのアパートの大家さんなのだそうだ。
それを聞いた途端、私は顔に浮かんでいるであろう失望の色を慌てて隠し、精一杯の愛想を代わりに貼り付けた。
一階奥のこの人の住まいに誘われ、お茶をご馳走になる。
身分証明書を見せた後、来る途中に買った菓子折りを渡すと、遠慮しつつも受け取ってくれて空気が少し和やかになった。
「池之端さんは、朝お出かけになったの。まだ戻ってはおられないと思います」
大家さんの言葉に、今の今まで忘れていた旦那様のことが思い出される。
その名が出たということは、あの人は本当にここで暮らし始めたんだ。
そして、私は今日から、ここで住むことになるんだ。この、ぼろぼろのアパートに。
頭を抱えてしまいたくなるほど、私は意気消沈してしまった。
しばらくして、大家さんは出かける用があるというので、私を二階に案内してくれた。
旦那様が一足先に入られた部屋、つまり私達二人がこれから暮らす部屋に。
階段は一段上がるごとにギシギシきしみ、天井板には雨漏りだか何だか分からないようなシミが沢山ある。
先に立って歩く大家さんの背後で、私はますます不安になっていった。
「ここですよ。207号室」
大家さんが鍵を開け、私を部屋に入れてくれる。
「お買い物は、少し行った所に大きな商店街がありますから。スーパーも別の所にあるけど、なるべく商店街を使ってくださいな」
そう言い残して、大家さんは私を残し階段をギシギシと下りていった。
一人になったところで、荷物を一気に床に降ろして部屋を見渡す。
ベージュ色の壁に古びたふすま、くたびれた畳敷きの部屋で、台所にはハエ取り紙が吊るされている。
一体、昭和何年なのだろうと疑いたくなるほど、この空間は今の時代とかけ離れていた。
大学の教授にここを世話してもらったということは、昔教授がここに下宿していたのだろうか。
とすれば、この時代のつき方も納得できる。
それにしても…と呟きながら、とりあえず部屋を歩き回って観察してみた。
玄関から見渡せるのは、板張りのキッチンと押入れと六畳一間。そしてなぜか床の間。
意外にと言うべきか、お風呂とトイレは備え付けられていた。
まだ荷解きをちゃんとしていないのか、そこここに旦那様の物らしき荷物が雑然と置かれている。
ほとんどが紐で束ねた本だ。
私が今朝お屋敷を去るときにも、残りの本を無理矢理持たされ、肩が痛くなるほどだったというのに、
まだ足りないのかという呆れた思いで一杯になる。
本なんて、場所ふさぎで重いし、読む以外の用途があるわけでもない。
とりあえず床の間に本の入った袋と束を追いやり、畳の上にスペースを作った。
あの方は整理整頓のことなど考えたことが無いのに違いない、だからこんなに散らかしておけるんだ。
それにしても、昨日は一体どうやって寝たのだろう、まさか押入れででも寝たのだろうか。
部屋にいては色々なことをぐるぐると考えすぎてしまうので、外に出た。
夕食の材料でも見繕って来ようと、大家さんに教えられた商店街へ行く。
数分後、一昔前のような魚屋、酒屋、八百屋などが店を連ねた結構大きなアーケードが見えてきた。
今度スーパーにも行ってみて、値段を比較して安い方で買おう。
荷物を抱えて部屋に戻り、早速台所を使って夕食作りにとりかかった。
お屋敷には専属の料理人がいたので、私はあちらで料理をしたことがない。
実家にいた頃、義母に家事一切を押し付けられて実地で学んだ時以来、上達は止まっている。
果たして、私の料理があの方の口に合うのだろうかと思いながら、手早く食事の用意を整えた。
そして大方の作業が終り、古ぼけた炊飯器から湯気が上がる頃、ドアの鍵がガチャリと回る音がして旦那様がご帰宅された。
「あ、美果さん。いらしていたんですか」
おっとりと言いながら、旦那様が靴を脱いで微笑まれる。
いよいよ、自分がこれからここで暮らすのだということが胸に染みた。
「お帰りなさいませ。夕食はもうすぐ出来上がりますので」
一礼してガスコンロに向き直り、焼き魚の具合を見る。
「そうですか。では僕はあっちで待っています」
旦那様は六畳間のほうに消えられ、引き戸が閉まった。
焼き魚におひたし、わかめと薄揚げの味噌汁に切ったトマト。
まるで朝食のようなメニューができた所で、引き戸を開けて旦那様の様子を伺った。
これまた古ぼけたちゃぶ台に何かの資料を広げ、取り組まれているのが見える。
「あの、食事の用意ができたんですけど…」
恐る恐る呼びかけると、ああという返事が返ってきた。
「今片付けますから。こっちに持ってきてください」
資料がドサリと床に置かれ、その様子に私は眉をしかめる。
やはり、整理整頓と言う言葉はこの人の頭の中には無いようだ。
そこから教えねばならないのかと思うと、脱力感に襲われる。
同居一日目から、いきなり注文をつけるのはまずいだろうか。気に入らないなら出て行けと言われても困るし。
「アジの干物ですか?おいしそうですね」
並べたお皿を見て暢気に言う旦那様を横目で見ながら、こっそりと溜息をついた。
私が夕食を食べ終わる頃、旦那様はまだ半分も皿の上の物をお腹に納めていなかった。
さっさと食べて仕事に戻らねばならない使用人と、ゆったり食事が楽しめる御曹司とではやはり違う。
今までは一緒に食べたことが無かったから気付かなかった。
優雅に食事を続けられるのを尻目に、自分の分のお皿を流しへ持っていく。
洗うのは旦那様のお皿と一緒で構わないと思い、待つ間にと持ってきた荷物を片付け始めた。
押入れを開けると、布団が中途半端に敷かれたままになっている。
やっぱり昨日はここで寝たのだろう。
散らかった荷物を押入れに入れれば、畳の上に布団を敷けるのに。
それすらやらないのかと、あの方の鷹揚さにまたいらいらした。
「ご馳走様でした」
腹立ちまぎれに大量の本を押入れに納めていく私の背後で、旦那様が箸を置く気配がする。
「自分の分のお皿は、流しへ持って行ってください」
そう言って私は荷物と格闘し、しばらくの後やっと粗方の物を押入れに納め終えた。
とりあえずの仮置きだから、また改めてきちんとしなければいけないのだけど。
荷物の代わりに引っ張り出した布団を脇へ置き、流しへ行って二人分のお皿を洗う。
「美果さん。お茶を入れてくれませんか?」
まだちゃぶ台の前にいる旦那様が、おっとりとした声で命じてきた。
「お茶って、急須とかお茶っ葉とかあるんですか?」
問い掛けると、沈黙が帰ってくる。
ありはしないのに、よくも注文できたものだ。
「無ければ、無理ですね」
当たり前のことを六畳間に向かって叫び、私はさっさと風呂の用意をしに行った。
旦那様のことを風呂に追い立て、その間に台所の物を隅々まで検分する。
さっき使った二人分のお皿と汁椀とご飯茶碗の他は、小さな片手鍋が一つと、箸が何組かあるだけ。
調味料も、一応味噌と醤油と塩を買ったけど、お砂糖や酢は無い。
これではすぐにメニューが行き詰ってしまうから、明日にでも買ってこなければ。
古くて小さいとはいえ、冷蔵庫と炊飯器があっただけでも儲けものだと思わなければ、やってられない。
なかなか風呂から上がってこない旦那様を待つ間、手頃な紙切れに買い揃える品を書き記していった。
結構な数になり、それにまた溜息が出る。
すぐに仕事を見つけなければ、これはすぐに困ることになりそうだ。
風呂から上がった旦那様と入れ違いに入浴を終え、さっさと上がって残り湯で洗濯も済ませようとして、ふと気付く。
ゆがんだタライは狭い物干し台に立てかけてあるが、洗濯かごも洗剤も無い。
旦那様は昨日着たものを一体どうしたんだろう、まさかそのままにしてあるんだろうか。
大いにありえる状況を思い描き、また溜息が出る。
ついこないだまでは名家のお坊ちゃまだったんだから、家事のことに気が回らないのは当然のことだ。
そう思って自分を慰めるのだけど、これから己の身に降りかかってくる仕事にうんざりした。
少しずつでも家事のことを教え、協力してもらわなければ。
洗濯は明日に回すことにして、買い物メモに洗剤と洗濯かごと洗濯板を書き加えながら、そう決めた。
六畳間でまたちゃぶ台に本と資料を広げていた旦那様に声をかけ、対面に座る。
明日にしようかとも思ったのだが、こういうことは最初が肝心だ。
しかしいきなり「家事に協力しろ」とは言いかねたので、当たり障りの無い世間話から入ろうと、昨日のことを尋ねてみた。
「夕食は、大学の帰り際に学食で多めに食べて済ませました。風呂場の石鹸は大家さんに分けて頂いた物です。
洗濯はしていません。荷物が多かったので、昨日は押入れに布団を敷いて眠りました」
あっけらかんと言い放たれ、今日何度目かの脱力感に襲われる。
自分で自分の世話もできないのか、この人は。
「それが、まずかったですか…?」
顔をしかめた私を見て、旦那様がおずおずと尋ねてくる。
何から指摘すべきか考えあぐね、私は盛大な溜息をついた。
「せめて、身の回りの物だけでも買い揃えようとは思わなかったんですか?」
「ええ。引越しを済ませただけで疲れてしまって。それに、何を買えばよいか分からなかったものですから」
「はあ」
「美果さんに相談して、追々揃えていけばいいと思いまして」
随分と暢気なことだ、私なら何は無くとも住環境を整えようと躍起になるのに。
旦那様がどこまで用意をしてくれているかが分からなかったから、あれこれ買ってこなかっただけだ。
「荷物持ちをしますから、明日にでも商店街の方へ行きましょう」
押し黙った私の気持ちをほぐすかのように旦那様が言う。
「…そうですね」
その無邪気さに毒気を抜かれ、私はただそう返すしかできなかった。
ちゃぶ台を畳み、模様のちぐはぐな薄い二組の布団を並べて敷く。
今はまだ暖かいからいいが、冬が近くなるとこれでは寒いだろう。
新しい布団を買う算段もしなければいけないと思いながら、暗い気持ちになる。
ここは、とりあえず今日をしのげる布団が二組あることに喜ぶ方が、ポジティブでいいと思うのだけど。
眠る間際に尋ねたところによると、この布団や冷蔵庫の類は大学のお友達などが譲ってくれたらしい。
明らかな不用品も押し付けられたそうだが、新しい生活に必要な品を数種でも揃えてくれたのは少し見直した。
「まだ必要な物が沢山ありますから、明日は荷物持ちをお願いします」
念を押し、私は早々に目を閉じた。
翌朝は、当たり前のことだが私が先に起きた。
手早く朝食を作ったところで旦那様を起こし、寝ぼけている口に半ば突っ込むようにして食事を終えさせた。
のろのろと着替えているのを尻目に、買い物メモに書き漏らしがないかチェックし、自分も身支度を済ませる。
布団を干してまた片付け物をしてから、旦那様を伴って商店街へ出かけた。
旦那様とて男だから、力はあるだろうと考えていたのだが、それは甘かったとすぐ思い知ることになった。
「箸より重い物を持ったことが無い」とは深窓の令嬢に対して使う言葉だが、このお坊ちゃまも似たようなものだったのだ。
仕方なく、重いものは私が持ち、旦那様には比較的軽めのものを納めた袋を持ってもらう。
それでも右に左に体が振れている傍らの人を見て、また溜息が漏れた。
この人が、大学では優秀で、教授の覚えもめでたいとはとても信じられる話ではない。
のろのろ歩くのに付き合って疲れながら、どうにかアパートに帰り着き、荷物を降ろして一呼吸着く。
瀬戸物屋のワゴンセールで買った急須と湯飲みを取り出し、お茶を入れて差し出した。
「ああ、済みません」
だるそうに言って、旦那様が湯飲みに手を付ける。
この人は、私が少しでもましな物を探そうとワゴンを見ている間、店の奥にある作家物の茶器を興味深げに見ていたのだ。
そんな品は買えるわけがないというのに。
自分のお茶を一気に飲み干して、買ってきた物を片付けていく。
昨日メモに書いたお酢やお砂糖なども、ちゃんと買ってきた。
「洗濯しますから、汚れ物を出してください」
座り込んだまま動かない人に向かって叫び、たらいと洗濯板を用意する。
わずかな手持ちのお金では、洗濯機など買えないのだ。
さあ洗おうと腕まくりをしたところで、お風呂の残り湯を使ったほうがいいと気付く。
洗濯は今夜に二日分まとめてすることに決め、昨日の残りの片付け物をした。
そして買い物のついでにもらってきた求人誌を眺め、めぼしいものに○をつけたあと、夕食の準備をした。
履歴書も買ってきたから、近いうちに書いて求職活動をしよう。
今日の買い物で、ずいぶんお金を使ってしまったから。
これからまだ必要な物も出てくるだろうから、お金はいくらあっても足りない。
勤め先の都合で辞めさせられるのだから、退職金をもっとはずめと交渉すべきだった。
ますます、お屋敷を乗っ取ったあのクソオヤジに腹が立ってくる。
いつか、必ずぎゃふんと言わせてやる。
それがいつになるのかは、分からないのだけれど。
夕食とお風呂と洗濯の後、旦那様と話をした。
昨日とは違い、これから当面のことについてだ。
最初、旦那様は大学院を中退して働きますと言ったのだが、私はそれを却下した。
大学生だと思っていたら大学院生だったのかと、別の所で発見があったのだが。
「中退なさっても、今はいい就職先なんか見つからないんじゃないですか?
それなら、卒業後のほうが引く手あまただと思いますけど」
このようにもっともらしく言ったのだが、本心は違っていた。
旦那様には失礼だが、自分の面倒も満足に見られないこの人が、まともに就職するなんてできるわけがない。
何かの間違いでどこかに雇ってもらえても、すぐクビになってしまうだろう。
卒業までの期間に成長して、少しでも真人間に近くなってから就職してくれた方が、かえって道が開けるというものだ。
運がよければ、私をクビにしたあのクソオヤジに一矢報いるほどの切れ者になってくれるかもしれない。
「しかし、それでは美果さんに負担を強いることになると思うのですが…」
珍しく先が見えることを言う旦那様に、しばし考えて言い返す。
「勿論、旦那様にも何かしらの形で稼いでもらいますよ。働かざる者食うべからずです」
「もっともです」
体力勝負以外の、何かこの人に向いているアルバイトを探せば一つくらいはあるだろう。
学歴は立派なのだから、例えば家庭教師とか。
「先に言っておきますけど、貯金は使わないでくださいよ、学費とか払わなきゃいけないんでしょうから。
そのお金は忘れて、生活費はこれから稼ぐお金だけでまかなうと考えてください」
こう言っておかなければ、後先考えずにお金を使われてしまいそうだ。
「今までは守られるお立場でしたけど、これからは旦那様が自分できちんと考えていかなきゃいけないんですからね」
しつこいかとは思ったが、もう一度念を押した。
「美果さん、さっきから思っていたのですが、その『旦那様』というのは何とかなりませんか?」
「えっ?」
私の話を神妙に聞いていた旦那様が、ふと言った。
「そう呼ばれると、自分がなんだか一気におじさんになってしまった気がするんです」
少し困った顔をして、こちらを上目遣いに見ながら言われてしまう。
「美果さんさえ良ければ、普通に名前で呼んでくださって構わないのですよ?」
「悠介様、と呼べってことですか?」
「様もいりませんけれど…」
まさか、呼び捨て?
「何言ってんですか、旦那様でいいじゃありませんか。亡くなったお父様もそう呼ばれていたでしょう?」
「でも、今の当主は叔父ですし」
「あんなヤツ、ただの乗っ取りオヤジでしょう?
前の旦那様の妹の夫ってだけで、当主の器じゃありません」
目の前の新しい旦那様は、現時点ではもっと器ではないのだが、この際そんなことはいい。
「あなたは正当な池之端家の跡取りなんですよ?もっとしっかりするべきですよ」
「は、はい…」
「その、自信なさそうな態度がそもそもいけないんです!」
「そう、ですか…」
旦那様が肩を落として小さくなってしまった。
あんまりガミガミ言うのも良くないけど、この人は自分の立場についてもっと考えるべきだ。
もっとも、全く何も考えていないわけではないのだろう、と思う。
新社長を名乗ったクソオヤジが乗り込んできた時、この方にまずは交換条件をつきつけたらしい。
「屋敷の使用人や社員の雇用を保障したいのなら、お前は屋敷を明け渡して出て行け」と。
あちらも、まさかこの方がその条件を飲むとは思わず、はったりをきかせたのだろうと思う。
しかしこの方は、その要求をあっさり呑んで、お屋敷を出て行くことを承諾なさった。
自分一人が我慢して皆の生活を守ろうとお考えになったのは、とても立派なことで、本来は尊敬すべきなのだろう。
でも、物分りが良すぎるのも考え物だと私は思うのだ。
腹を括るというなら、そんな交換条件など突っぱねて、家を守るために頑張ってほしかった。
実際、約束は守られず、私達四人はクビにされたのであるし。
これでは、あのクソオヤジの一人勝ちじゃないか。
本当に物分りがいいというなら、全員を解雇するなどありえないと思いつくはずだ。
世間知らずで押しに弱いという性格が、自らの首を絞めていることに気付くべきなのに。
改めてむかついてきたところで、目の前の旦那様に意識を戻す。
私がクビにされたこと自体は、この人のせいではないのだ。
「環境が人を作るって、昔から言うでしょう?」
「はい」
「このアパートから引っ越せない以上は、せめて呼び方だけでもちゃんとしないと、どんどん落ちぶれますよ」
「そうでしょうか」
「そうですよ。もっと『自分は旦那様と呼ばれるべき男なんだ』って、自覚してください」
「はあ」
「とにかく、これからも旦那様とお呼びしますから。『ご主人様』は、自分が犬猫になったみたいでいやなんです」
「そうですか」
「『旦那様』がいやなら、社長でも教授でも大統領でも、私が別の呼び方ができるように肩書きを準備してください」
「分かりました。しかし美果さん、日本は大統領制ではありませんが…」
「どうでもいいですよ、そんなこと!」
「済みません…」
主人に対して口調が偉そうなのは自覚しているけれど、これくらい言わなきゃ効かないのだ。
今はしゅんとしていても、数日もたてば怒られたことも記憶の彼方に飛んでいってしまう人なのだから。
「では旦那様。明日の朝食の味噌汁は、ワカメか秋茄子のどっちがいいですか?」
「ワカメ、でお願いします」
「分かりました。お休みなさいませ」
さっさと布団をかぶり、目を閉じる。
責めてばかりだと、さすがに気の毒になってくる。
旦那様と呼ぶのを承諾させた以上、これくらいの希望なら聞いてあげてもいいかと思った。
−−続く−−