梅雨明けにはまだ時間のかかる六月。けれど幸か不幸か今日は抜  
けるような青空が広がっている。日ごとに強くなる陽ざしと肌にまとわり  
つくような風が入る俺の部屋で、夏実はどこから持ってきたのか、大き  
な画用紙にマジックで数学の公式を書き込んでいた。気温の上昇とと  
もに近づく期末テスト勉強の一環だ。  
「ふーんふーふんらーぶ……うん、かんっせーい!」  
 夏実が近頃ハマっているアイドルの曲の鼻歌が終わるのとほぼ同時  
に、床に転がしていたキャップをパチンとはめる。俺は今まで盗み見て  
いたのがばれないように、さもその音で気を引かれた風を装って焦点  
を合わせた。  
「じゅーんーたーっ。これを天井に張れば嫌でも毎日見るし、憶えられ  
そうじゃない?」  
「おー、サンキュ。基礎はそれで何とかなるだろうな。でも応用ができ  
ないと点はとれねぇよなぁ……」  
「そのために、こーして夏実ちゃんがカテキョをしてあげてるんでしょ?   
で?」  
 俺の手元、広げられた数学のノートを覗き込んでくる幼馴染様は、理数  
科目だけなら学年で十本の指に入る成績の持ち主だ。総合でも五十位  
より落ちたことがない。たいして俺は総合ならそこまで悪くはないが、情け  
ない話、数学は夏実の助けがないと毎回赤点の恐怖に怯えることになる  
だろう。  
 ノートと参考書を見比べ、ペンを走らせる夏実の細い首筋が視界に入る。  
なおざりにまとめられたこげ茶の髪が落ちて、汗で湿った肌に張り付いてい  
た。昔は大して変わらなかったはずなのに、いつの間にこんなに細くなった  
んだろう。簡単に折れちゃいそうで少し心配だ。触ったら、どうなる……?  
「ん、さっき間違えたのもだいじょうぶだったし、だいたい合ってたよ  
……ってどーしたの?」  
「……っ! い、や? なんでも?」  
 思わず手を伸ばしそうになったところで急に見上げられて、かなり驚い  
た。心臓が口から出ると表現した人は天才だと思う。  
「そーお? まぁいっか。今日はこんなもんでいいんじゃないかな。そろそ  
ろ他の教科も本腰入れていかないとね」  
 しばらく俺のことを不思議そうに見ていたが、夏実は気を取り直して言  
った。そしてキラキラと何かを企む時の目をして「そろそろ『報酬』がほし  
いなぁ、なーんて」とさらに続けた。  
 条件、甘いものが大好きな家庭教師。かつ、教え子の、といってもクラ  
スメイトだけども、ケーキ屋の息子。これらのことから導き出される答え  
を求めなさい……A.『報酬』は甘いもの。  
 壁の時計を見ると、もうすぐ三時になるところで時間もちょうどいい。  
全部計算した上で言い出したんだろう。俺はその言葉に頷いて、冷蔵  
庫から『報酬』を持ってくるために廊下に出た。  
 あのまま触っていたらどうなっていただろう。想像だけで頭が痛くな  
る。ただの幼馴染だからこうして一緒にいられるんだ。これが、夏実  
が近づきたい一心で数学を勉強した理由の兄貴だったらきっと違うん  
だろう。間違っちゃいけない。俺は兄貴じゃない。ただの幼馴染。絶対  
に踏み込んじゃいけないラインは確かに存在してるんだ。  
 
 今日の『報酬』を持って部屋のドアを開けると、天井に画用紙を貼  
り付けようとする夏実の姿が目に飛び込んできた。マットなんて不安  
定な物の上に乗せた箱からさらに背伸びをしているのが何とも危なっ  
かしい。  
 テーブルにトレイを置いた。そして、かわろうかと声をかけようとした  
その時だった。レモンイエローのキャミソールの背中がぶれる。ふわ  
り小さな手が宙を掻く。小さな悲鳴。  
「――っ。夏実ッ!」  
 夢中で駆けより腕を引きよせ抱きとめる。ガッと鈍い音がして、少し  
遅れて感じた胸と腰の痛みに俺は自分が成功したことを知った  
「大丈夫かっ? 痛いところは?」  
 頭、顔、首、背中、腕、腰、腿そして足の甲。足の間に座り込んだ  
夏実の全部を目と手のひらで確認する。最後にもう一度頬を両手で  
包んだところで、名前を呼ばれた。放心したような潤んだ瞳。触れた  
熱い頬。薄く開いた唇からこぼれる浅い呼吸。  
「へ、いき……みたいだな。ったく、気をつけろよ。俺があとはやるか  
ら、ほら、『報酬』食えよ」  
 体を離して、視線を外す。直視なんてできない。  
「じゅんた……」  
「せっかくのゼリーがぬるくなっちゃうだろ」  
 急かすように手を振る。ありがと、と聞こえたから「おう」とだけ返し  
た。皿とスプーンのぶつかる音がする。  
 夏実の貼ろうとしていた画用紙の四隅をテープで固定して、腰を下  
ろすと俺も自分の分に手を伸ばした。土曜だっていうのに、夏実が来  
るから平日と変わらない時間に起きて作った夏蜜柑ゼリー。その出  
来を見るふりをして微妙な距離を開けて座っている姿を透かす。  
 ゆるくまとめられたウェーブのかかった髪、ゼリーと同じような色を  
したキャミソールから覗く肩、白のショートパンツから伸びる脚。普段  
から夏実の体なんて触れているはずなのに、いつものように気をそら  
せなかった。同じ、同じ、同じだ。しょっちゅう膝に乗ってきたり、寄り  
かかってきたりしてる。それと同じ。  
 うまそうに『報酬』を頬張る夏実の濡れた唇がやたらと目立って見  
えて、それを振り払うように俺はゼリーを噛み砕く。  
 ――暑いからだ。そうだ、こんな暑い中で苦手な数学なんてやって  
るからだ。大きめに切って入れた夏蜜柑の爽やかな酸味が、ぐちゃ  
ぐちゃになった思考回路を冷やしていく。  
「夏実、今日のは?」  
「おいしーい!」  
 どことなく沈んだようだったけれど、尋ねると夏実はパッと笑ってス  
プーンを振った。いつも通りの夏実だ。なら俺もいつも通りでいられ  
る。  
 こうして今までやってこれたんだ。これからだってやっていける。変  
わって壊れてしまうなら、そのままに留めてみせる。自分の感情をコ  
ントロールだってする。  
 同じものを同じ空間で、同じように食べられるこの関係は、変わら  
ないし変えられないんだから。夏実が誰のものにもならないうちは。  
 最後の一口を飲み込むと、酸味と微かな苦みが喉を滑り落ちていった。  
 
■□■□■□■  
 
「じゅんた、問題できたー?」  
 胡坐をかいた俺の腿と腕の間から、頭をぴょこんと出して夏実が  
言った。  
「うわぁあっ?」  
 自分でもあんまりだと思うような悲鳴を上げて俺は現実に戻される。  
反射的に膝が上がるが、夏実の顎を打ちそうになって根性で止めた。  
ツバメの子供が巣から顔を覗かせるような体勢のまま、首を伸ばし  
てテーブルの上のノートに視線を走らせる。  
「もぉ、ぜーんぜん進んでないじゃん。こんなんじゃ中間テストで赤取っ  
ちゃうよ?」  
「あー、うん、そうだよな」  
 曖昧に頷くと、不審そうに名前を呼ばれる。腕の下から頭を引き抜  
くと夏実は俺の前髪を軽く払って二人の額を合わせた。ぬくもりが気  
持ちいい。  
「熱は……うん、ないね。文化祭、体育祭って続いたから疲れが出た  
のかと思ったよ」  
 まさか付き合う前の、ただの幼馴染だった頃を思い出していたとは  
言えず、誤魔化すように謝った。街はすっかりハロウィン一色で、一  
つの季節が過ぎたことがよくわかる。  
「ふふっ、変なの。病気じゃないならいーよ。じゃあ、続きがんばって」  
 顔を離して、夏実は俺の腿を枕に英単語帳をめくり始めた。ときど  
き脇腹に頭をこすりつけるようにじゃれついてくるのがくすぐったい。  
いや、だけど問題に集中すれば大丈夫なはずだ。この問題はどの公  
式を使うんだ?  
 変形膝枕だけじゃ満足できなくなったのか、勉強に飽きたのか、腰  
に腕をまわしてウエストあたりを抱きしめてきた。負けるな、俺。もう  
少しでこの問題の解答がわかるはずなんだ。たぶんXに代入する値  
が合ってれば……。  
「じゅんたの匂いっていいよねぇ」  
 ジーザス。  
「……夏実」  
「んーうー?」  
 「なーにー?」と言ったんだろう。けど呼吸ができているのか心配に  
なるほど、俺の脇腹に顔を埋めているからくぐもってほとんど言葉に  
なってない。  
「気が散るから離……」  
「きゃっか」  
 最後まで言わせろよ。わざわざ拒否するために顔を上げるな。  
「ほら『報酬』やるから、それ食ってろ。な。今日のはハロウィンを睨  
んだパンプキンカップケーキだ! 下に行ってお袋に言えば出しても  
らえるはずだから……」  
「やだっ、くっついてるのがいい! ね、じゅんた。じゅんたは、やな  
の?」  
 嫌なわけねぇだろうよ。わかっててこうやって聞くからたちが悪い。  
 
「そういうんじゃなくてだな、むしろ嬉しい、いやまあうん、だけど現状  
とか、色々事情ってもんが」  
「わかった。じゃあ今日のカテキョの『報酬』として、十五分のいちゃい  
ちゃをせーきゅーしますっ。まずはちゅうから!」  
「夏実、少しは聞く耳ってもんを……」  
 俺の言葉は「ちゅー」コールにかき消された。黙らせるには一つし  
か方法はない。また夏実に乗せられるのは悔しいが、コールをする  
唇が魅力的なのもまた現実で。ころんと体を仰向けにさせて、そのう  
るさい口をふさいだ。  
「ちゅーんんっ……んー、んう……えへ、ありがと。マンガみたいで、  
てれるー」  
「自分から誘っておいてなんだよ?」  
「……っ! そういうイジワルゆーならこうだっ!」  
 唇を尖らせたと思ったら、夏実は俺のわき腹や、胡坐をかいていた  
から丸出しになっていた足の裏をくすぐりだす。  
「ちょっ、なつ……あははは! やめっ! やめろって、待てごめんな  
さい、ふはっ」  
「だーめーっ! じゅんたの弱点は知り尽くしてるんだから!」  
「くくはっはははは! いちゃ、い……は?」  
「これもたのしーから、ありっ! あれ?」  
 両手首をまとめてつかむ。いつからこんな風なことができるように  
なったんだっけ。  
「……はぁ、いつまでもやられてばっかりだと思うなよ?」  
「うーん……やばめ? じゅんたくーん、お手やわらかに……ね?」  
「さて、どーでしょー?」  
 俺だって夏実のことは誰よりだって知ってるさ。それこそ昔の俺よ  
りも。例えば……。  
「ぅむう」  
 深く口づけると、嬉しそうな甘い声だとか。やわらかい熱だとか。  
 変わったところ、新しく知ったところ。でもずっと同じこと、ただ大切  
に想うこと。  
 日々俺らは変わっていくけれど、触れあうぬくもりは昔も今もこれか  
らも続いていくんだ。  
 
 
END  
 

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