水音と調理器具同士がぶつかる音が響く家庭科室。俺は最後の泡だて器の水気を払い、
蛇口をひねる。なんとか必要数を集めた新AT部の活動第一回目が無事に終わり、
ほっと息をついた。お菓子作りに慣れない他のメンバーを先に帰らせて、俺と部長である
夏実の二人での片づけは意外と時間がかかり、外はもう真っ暗だ。
「おー、バカップルまだ残ってたのかー」
ダルそうな声に視線をやると、顧問の山田がいつかみたいに教室を覗き込んでいる。
ぼんやりとそちらを見ていたせいで、夏実の手からは雫がポタポタ垂れてスカートが
濡れてしまっていた。寒くなってきているし、風邪でもひかれたらたまったもんじゃない。
冷えて赤くなった指先と制服をタオルで拭ってやりながら、山田に問いただす。
「バカップルって何んすか、センセイ」
「中原。お前って何気に大物だよ」
どうして大物なのか。確かに夏実と付き合ってるから、カップルは否定しない。けれど、
馬鹿に関しては納得したくない。だって恥ずかしいあだ名で呼び合ったりしてないし。
こうした俺の主張は短く鼻で笑われて無かったことにされてしまった。
「センセーしてると、何組もお前らみたいに幼馴染で付き合ってるやつらみるんだわ。
けど、前から疑問だったことがあるんだよなぁ。ちょうどいいから、答えろ」
「職権濫用っていう言葉、知ってます?」
「何とでも言え」
開き直りやがった。教師が生徒の恋愛事情に首突っ込むなよ。夏実も少しは否定なり
なんなりしてくんねぇかな。視線を投げると、両頬を手で押さえてヘラヘラしている。
……駄目だ。
「そんで、いつから松下のこと意識しだしたわけ? 何がきっかけなんだ? 今までは
家族みたいなもんだったんだろ?」
山田はドラマのしつこい記者みたいな勢いで質問を繰り出してくる。いい加減、夏実も
助けてくれてもいいんじゃないか。もう一度、協力を求めて見下ろすと今度は期待に満ちた
瞳とぶつかった。
何を期待してるんだろう。こいつは。
正面には似たような目をした山田。二人の無意味に熱いまなざしを受けながら俺は
顎に手をやった。
「……あー、ノーコメントで」
■□■□■□■
枯葉が舞う表とは対照的に、夏実の部屋は淡いオレンジなど柔らかい色で統一されていて、
いつも暖かいイメージだ。いつもは。けれど今日はどことなく冷え冷えとしているようなのは
気のせいじゃないはず。
宿題を進める手を休めて、部活のまとめをする夏実を盗み見る。俺が教えて作った蜜柑の
ロールケーキのレシピや写真をブログにアップしている後ろ姿は普段と変わらない。
プラスチックのアクセサリーで留めた髪形とか。変わらないはずなんだけど。
「なぁ」
声をかけると「何」と小さく返された。こっちを振り返る気配さえない。やっぱりしっかり
へそを曲げている。それとも怒ってるのか。どっちもか。
「蜜柑のロールケーキ、持って帰ってきた分食う?」
「いらない」
ヤバイな。これはかなりのレベルだ。
学校から帰ってくる間もずっとこうだった。でもさすがに甘いものを出せば機嫌を直すかと
思っていたんだけどな。
ディスプレイに映る口元は尖っていて、不満をたっぷりため込んでいるのが手に取るように
わかる。原因以外は。いや、本当は予想がついてる。
「もう、終わったし、おわり。戻っていいよ。ばいばい」
そう早口に言うやいなや、夏実はパソコンの電源を落とし、俺が広げていた教科書を
手早くまとめて押しつけた。俺の腕を引っ張って立ち上がらせようとする手を逆に取って、
胸に抱きとめる。
「きゃ、なにすんのっ?」
「どうしたんだよ」
拘束を抜け出そうともがく夏実の文句を無視して問いかけた。長年一番近くにいたんだ。
朧げにはわかるけど、ちゃんと知りたい。前みたいに勝手に判断したっていいことはないから。
苦しそうな声をあげるから少しだけ囲いを緩める。眉間にしわ寄せた横顔が見えて、
あっという間に背を向けられてしまった。夏実は許された行動範囲ぎりぎりの、俺の脚の間で
ひよこみたいに小さく体育座りをする。その襟足を指で宥めるようにゆっくりゆっくりなぞる。
だんまりを決め込んでいたけれど、あまりに俺がしつこかったからだろう。せめてもの
抵抗か、額を立てた膝にくっつけて「答えなかった……」と呟いた。
やっぱりそういうことか。山田の質問を答えなかったことが原因。
「別に山田の質問なんてどうだっていいだろ」
「聞きたかったんだもん」
「今、こうしてることが証拠だし」
「でも知りたいの」
手強い。今回はなかなか根が深そうだ。
きっかけや、理由なんて今に比べたら小さなことだと思う。それにもう、この気持ちと
長く一緒にいすぎて当たり前になりすぎて、説明なんてできない。だから答えろなんて
無理難題を突きつけられても困るんだ。
「そんなに言うなら、夏実はきっかけとか聞かれたら答えられるのかよ?」
「られるよ!」
ほんのりと赤く染まった耳を覗かせながら、はっきりと言い切った。
■□■□■□■
「まだ、小二だった頃、クラスの女の子の間で手作りお菓子をこーかんするの流行ったの
憶えてる?」
そういえば、そんなこともあったような気もしなくもない。その時はクラスが違ったから、
はっきりしなくてあやふやなまま頷く。俺の様子に疑わしげにしているが、夏実は諦めたのか
再び話し始めた。
「その頃はまだ、ママは残業が多い部署にいて。私はちっちゃかったし、家で勝手に火を
使えなかったでしょ? 使えても一人じゃ作れないし、ママは忙しくて手伝ってくれなかった
だろーし……」
そんなこともあって、夏実はよく家で夕飯を食ってた。俺の家も店をやってるから、
親父もお袋も帰りが遅い。だけど十二歳上の姉貴と十歳上の兄貴がいる。だから火も
使えたし、なにより寂しくなかった。親たちもそれをわかってたから、夏実と俺らを一緒に
過ごさせてたんだろう。
「そんなとき、誰だったか忘れちゃったけど男子が私に、言ったの。『お菓子も作れない
なんて結婚できねーぞ!』って」
「そこ、誰だったか思い出せ」
「いーから! でね、悔しくってすっごく悔しくって。クッキー作ろうってじゅんたの家の
キッチン借りて練習したの。でもやっぱりうまくできなくてさー。助けてほしくてえみちゃん
探したけど、いなくて。かず兄にはクッキーは無理ってさじ投げられるし。とうとう私、
泣きだしちゃったの」
恥ずかしくなったのか、また夏実は顔を膝に埋めてしまう。
「どれくらいそーしてたかな? 気がついたらじゅんたが入口のとこでオロオロしてた。
じゅんたって変なとこでタイミングいーよね。知らないうちに私のこと見ててくれるの。
それで、そばにきて『手伝うよ』って言ってくれたんだよ」
ここまできて、俺もようやく思い出してきた。友達と遊び疲れて、おやつを食べに帰ったら
ゴムべらを持って泣いてる夏実がいてパニックになったんだ。昔も今も俺は泣いている
夏実に弱い。
「でも、私、意地になってて。せっかく助けてくれるって言ってくれてるのに、いらないって
突っぱねたの。そんな態度なのに、じゅんたは頭なでてくれて『夏実はがんばってるんだから、
だいじょーぶ。いいんだ』って笑ったんだよ。嬉しくて、ますます泣いちゃった」
せっかく泣きやんだと思ったのにボロボロ涙を零す姿にお手上げ状態になったんだっけ。
どうにか落ち着かせて、二人で片づけをして一から作り直した。俺がタネを作って夏実が型で
くり抜いたり、焼きあがったものにチョコレートをつけたりしたんだ。
「作りながら、お嫁さんになれないー! って話したらね……じゅんた何て答えたか憶えて
ないでしょ? こう言ったんだよ『助けあうのが夫婦なんだって、とーさん言ってた。夏実が
できないなら、旦那さんが作ればいいんだよ。俺みたいに作れる人と結婚すればいいんだよ』
ってね」
「……言ったような」
夏実がこっちを向いてなくてよかった。すっげぇ恥ずかしい。よくそんなこと言っておいて
忘れていられたな。自分のことながら感心する。
俺の腕に頭を預けて、なおも夏実は続けた。
「言ったんだよ。ふふっ。じゅんたは自然といつも私を見てくれてるから。……出来上がった
クッキーを詰めながら『じゅんたみたいな人じゃなくて、じゅんたがいいな』って呟いたら、
じゅんたったらすぐに『いいよ』ってうなずいちゃうんだもん。不安になっちゃって。何度も
『やくそく?』って聞くたびに何度でも同じように返してくれた」
もう勘弁して下さい。そう言いたかったけど、話す夏実の声がわた飴みたいにやわらかくて、
甘くって、もっと聞いていたい気持ちとで揺れる。さらにふわふわ、言葉は続く。
「そのときからずっと、誰よりも、すきだよ。一番、大切なの」
幸せすぎると、人間って言葉がでないことを、今、知った。
胸のあたりから、何かが広がっていく。
「だから、じゅんたの苦手なことがんばろうって決心して、算数でしょ、理科でしょ……今は
数学と化学と物理、ぜーんぶがんばった。かず兄に教えてもらったりして。補い合うために。
じゅんたは気付いてくれなかったけど」
ああ、マズイ。泣きそうだ。「まして、それを理由にとんでもない勘違いしやがったし?」
と茶化すので精いっぱいだ。こんなに想ってくれてたのに、俺って本当に馬鹿だな。
よりにもよって兄貴のこと好きだと考えてたなんて。
「そうだよ。びっくりしたんだから! 許してあげるけどねっ。だから、知りたいじゃん。
よけーに聞きたいの。私、ちゃんと答えられたよ。ね、じゅんた、ねぇ」
俺がそうしたように、夏実の細い指が腕を繰り返しなぞる。その指を掴んで口づけた。
頭を抱えるようにして撫でる。しばらくそうしてから、俺はゆっくりと話し始めた。
外では枯葉を落とす冷たい風が吹いている。
「いつからとか、わからない。だけど、他人、家族に対して感じるのとは違うってこと
だけは言える。この気持ちは俺が俺であるのと同じぐらいだって言えばわかる? 多分、
そんなこと考える前からなんだよ、夏実。気づいたらそうだった」
「うん」
「ただ、一つ言えるなら……」
言葉を迷わせた俺を夏実が振り返ろうとする。どうしても絶対に赤くなっている顔を
見られたくなくて、それを押しとどめて夏実の匂いを吸い込んだ。
「――俺もずっと、なんでも頑張る夏実が好きなんだ。できなくても、かわりに何が
できるかって考えて、頑張るところ。あきらめないところ」
「そっか」
「ああ」
相変わらず窓の向こうは寒そうだけど、俺の腕の中には笑い声とぬくもりがある。
いろんなものに対する「好き」と、恋愛感情の「好き」の境界はとても曖昧で、
区切りなんて付けられない。けれど俺らの間には両方ともあって、たしかにあって。
もし違いをあげるなら、育ち続けて留まることを知らないことだ。
END