4年生になった小さな野球選手は、待望のリトルに入る事が出来る。
ただ、それらの選手がすべて男の子と言うわけではない。
中には、リトルに入って野球をする女の子もいる。
「中沢さんが、あたしの胸に触ろうとしてばっかりで…」
…だが、女の子と言うだけでぶつかる壁もある。
監督室にいるこの女の子も、その一人である。
「…あー、まあ、そういう事もあるんじゃないか。」
「酷いです、ここに入って1ヶ月、ずっとなんですよ?
ほかの皆さんだって!」
そしてこの女の子は、とりわけ壁が高かった。
小学5年生にしては信じられないくらいの、あまりにも大きな巨乳。
それゆえ、年頃の男子の性的な嫌がらせを受けたり、いやらしい目で見られるわけである。
「…それに、1回くらいわたしの投球を見てくれたって…
この間だって、全員に対して行われたはずの実力テストで、わたしだけ見てもらえなくて…」
「しょうがないじゃないか、女の子なんだから。
女の子は男の子にかなわないのは、わかりきってるんだから。」
「1度だけ、1度だけでも見て下さい!」
そして、女の子と言うだけで、野球選手として監督から疎遠される。
たとえ、どれだけの実力を持っていたとしても。
「まあ、いいから、その話は。
それより、もうすぐ7時だ、みんなも帰るころだ。そんなことより、私の『相手』をしてくれ。」
「え…あ、相手って…」
「さあ、一緒に楽しもう。」
監督が椅子から立って、女の子の方に歩み寄る。
女の子は、まだ性的な知識はあまり持っていない。
…だが、自分の胸が大きい事。おっぱいについての知識くらいなら、10歳並みにはある。
そして、監督のいやらしい目つき、雰囲気で、
…細かい事は分からなくても、これから恐ろしい事が起こる事を、彼女は察知できた。
その恐怖心から後ずさり、そして壁にぶつかり、追い詰められた。
「さあ…」
「いやああああああああっ!」
…。
「おかえり…理奈(りな)?」
「はあ…はあ…」
「ど、どうしたんだ、理奈?何かあったのか?」
「ご、ごめんなさい…」
今までの事を話した。
泣きじゃくりながら、父親にすべて話す。
監督が理奈に対し性的関係を求めてきた部分に対しては、流石に父親も驚きを隠せなかった。
「それで壁に追い詰められて、足元にボールがあって。
怖くなって、監督に向かってボールを思い切り投げたの…」
「そうか、怖い思いさせたな、怖かっただろうな。」
「ごめんね、せっかくパパが紹介してくれたリトルなのに、
もう、あのリトルにはいけない…」
「気にするな、理奈は何も悪くない、監督が悪いんだ、ボールを投げて、正解だったよ。
もうあのリトルにはいかなくていいから。パパが明日言っておくから。」
仮にこのことを裁判で訴えたとしても、証拠不十分で何も起きないだろう。
むしろ、濡れ衣を着せられたと監督がおおっぴらに言ってしまえば、本当に彼女はどこのリトルにも入れなくなる。
「ごめんね、これで何度目だろ、
パパにせっかくリトル紹介してもらって、そのたびにすぐにやめてしまって…」
「理奈のせいじゃないんだ。
また、パパがリトル探してやるからな。」
「うん、ありがと。
やっぱりわたし、野球がやりたい…」
どうやら、巨乳が原因でリトルの入退団を繰り返してきたようである。
ただ、唯一の救いは、彼女の野球に対する思いが消えていないこと。
父親は、理奈が野球をやめるようすがない事だけは、ホッとしていた。
…もちろん、好きでもない男、それも中年男に処女を奪われなかったことにも。
「…パパ、またキャッチボールして。」
「ああ、もちろんだよ。ごめんな、ずっと辛い思いばかりさせて。」
庭にはブルペンが建っている。
実はこの父親、高卒でキャッチャーとして2年だけプロ野球に在籍していたことがある。
戦力外を受けて、不幸せにするわけにはいかないと当時付き合っていた彼女と別れたのだが、
別れを切り出したときに妊娠している事を告げられ、
生まれてくる子の事だけは責任をとることを約束し、出産後に別れた。
その生まれてきた子が、この理奈である。(時々2人とも母親と会っているらしい。)
「おっしゃあ、ナイスボール!」
「えへへ、ありがと。」
わが子可愛さでも、お世辞でもない。
野球が好きなだけある。理奈のストレートは、本当に速いのだ。
チャンスをもらえないだけで、仲間や監督が巨乳目当てであるだけで、
実力だけならトップクラスなのである。
…。
「はっ…はっ…」
住宅街を1人の少年が走っている。
ジャージ姿で、黙々とランニングを続ける。
ふと、躍動感のあるミット音が聞こえてきた。
(…なんだ?)
「パパ、もう1球!」
「よっしゃ!」
どうやら親子のキャッチボールである。
しかも、ピッチャーが女の子である。
そのあまりにも痛快なミット音につられて、庭のブルペンが見える位置まで足を運ぶ。
(…速い!)
「おっしゃ、ナイスボール!」
「うん、ありがと!」
(110は間違いなく超えているぞ!?)
そのピッチングに惚れた。
女の子に惚れたわけでも、巨乳のせいでもない。野球選手として惚れた。
「…でも、女の子だから、どれだけ頑張っても、認められないのかな。」
「そんな事はないぞ。」
「でも、女の子だからって理由で実力を見てもらえないし、…おっぱいをエッチな目で見られるし。
…いろんなリトルに行って、やめてしまって、…今日もそうだよ。」
「気にしなくていい。
また、新しいリトル探して、入ればいいから。」
「うん。」
少女の事情を、柵越しからきいていた。
そして、思った。
(こいつ、これだけの速球なのにどのリトルにも認められてなく、所属してもいないのか!?)
チームのエースを獲得できる、チャンスだと。
…。
「そろそろあがるか。」
「うん、パパ。ありがとうね。」
「またリトル探してやるからな。がんばろうな。」
「…つぎは、いいリトルがといいな。」
カコン
「…何の音だ?」
ふと、音のした後ろの方を振り向く。すると。
カコン
「だれだ、石を投げるのは!」
「…僕です。」
「何者だ。」
「娘さんに用がある。…あなたにも聞いてほしい事です。」
柵越しに、少年の姿が見える。
だが、暗くて顔はよく見えない。
「えっと、誰?」
「…さあな。君が女の子ピッチャーだな。」
「う、うん…」
「今、どこのリトルにも入ってないらしいな。」
聞いてたんだ、と思い、うつむく。
その様子を見ながら、話を続けた。
「…あの川の河川敷のグラウンドに、リトルチームがある。
来い。」
「え…。」
理奈に差し出された、救いの手、願ったりかなったりの手。
だが、今までと同じじゃないのか、という不安もあった。
「不安か?今までと同じかもしれないという、不安が。」
「そ、そんなんじゃ…あるかも。」
「ま、見に来いよ。
うちの荒くれやんちゃ坊主ども、異性とかなんざ知ったこっちゃないし。」
「…でも、なんでわたしのために?」
「簡単な事だ。
…お前が、欲しい。それだけだ。」
そう言い残して去っていった。
結局、顔はよく見えなかった。明日河川敷に行けば、会えるのだろうか。
…。
「ここね…あ、あった!」
いつもよく見る近所の川だったが、不思議とそのチームやグラウンドの存在には気づかなかった。
5,6人の子供が、楽しそうに野球をしている。
「楽しそうにやってるけど…でも、本当にこれ、リトルのチームなのかな…?
子供会とか、リトルじゃない少年野球もいろいろあるし…」
リトルチームはスポンサーがいることも多く、ほぼ例外なく設備が整っている。
が、このチームはどう見てもボロのグラウンドに薄汚れたユニフォームや道具で練習している。
練習の雰囲気もどこか違う。普通は監督の指示で決められた練習を厳しい雰囲気のもとでさせられるが、
このチーム、子供たちだけで自由に楽しそうにノックをしている。
…そもそも、リトルは2,30人は普通いるが、このチームは9人にも満たない。あまりにも少なすぎる。
これが本当にリトルのチームなのだろうか。
(でも、今のところ行くあてもないし、ここで野球ができるのなら…
うん、まずは聞いてみようっと。)
河川敷に続く石階段を下ると、すぐ横のベンチにだれか座っている。
間違いなく大人なので、おそらくこのチームの監督だろう。ただ笑いながら選手の練習を見ている。
「あ、あのー。」
「…あ、俺の事呼んだ?
てか君、どこかのリトル?練習試合の申し込み?」
「あ、わたし、どこのリトルにも今所属してないんです。
このユニフォームは、以前在籍したリトルのもので…」
振り向いた監督。かなり若い。20代半ばだろう。
理奈は以前在籍したリトルのユニフォームを着ていたので、練習試合の申し込みと間違われた。
「こ、ここにリトルがあるって聞いたんですけど…
…本当にここってリトルのチームなんですか?」
「はは、悪かったね、設備はぼろぼろ、チームは弱小、人数ギリギリだから、そう思うのも無理ないわな。」
「あ、す、すみません!」
「いやいや、仕方のない事さ。
でもね、彼らは、俺が何も言わなくても、自分たちだけで率先して練習しているんだ。
それに対して、俺は何も口を挟む必要はない。こんな監督、リトルの監督らしくないわな。」
そう言って朗らかに笑う。
とりあえず、ここがリトルのチームだという事は間違いない。
「俺の名前は中井。明るく楽しくをモットーに、このリトルチームを作ったのさ。
優勝を目指す、なんてことより、明るく楽しく、ね。」
「はあ…。」
「女の子だけど、ユニフォーム着てグローブを持ってきてるって事は、選手志望かな?」
「あ、はい!ピッチャーをやりたいんです!」
今までの監督は、こっちからしつこく言わないと、マネージャー扱いしていた。
だが、この監督は最初から選手として見てくれている。それだけでもうれしかった。
「そうかい。そういえば、誰にこのチームの事聞いたんだ?」
「あ、えっと、暗くて顔も見えなかったし、名前も言ってなかったけど、
…なんか寡黙な人でした。」
「ああ、あいつか。名前を言わないなんて、奴らしいな。
奴の紹介なら、君は見どころのある選手のようだね。」
「あ、あの、奴って一体…?」
「おーい、悪いが集まってくれー!」
完全無視された。
全員がぞろぞろ集まってくる。…合計、たった8人。理奈を入れても9人ぎりぎり。
だがその中に、昨日の男の子らしい子は見えなかった。
(ん?別のリトルのユニフォーム…スパイか?)
(んなことよりみろよ、すげ…なんだあの胸…)
(揉んでみてえな…吸ってみてえな…)
(しかもカワイイ…)
ひそひそ声が聞こえる。
聞き取りにくい声だったが、過去にも同じ事が何度もあり、こういう事には敏感だった。
いやらしい目で見られているのも感じる。ここでも同じなのかな、嘆く。
だが、それは杞憂に過ぎなかった。
「今日からウチに入る事になった…名前は?」
「え!?も、もうこのチームのメンバー扱いですか!?」
「そのために来たんだろう。何寝ぼけた事言ってるんだい。
ていうかね、うちは人数ギリギリなんだ。入ってもらわなきゃ困るんだよ。なあみんな。」
大爆笑が起こる。
「監督、強引すぎだぜ!」
「らしいっちゃらしいけどな!」
「新入り、あきらめた方がいいぜ、うちに興味持ってきた以上、監督はもう逃がしちゃくれねえよ!」
何が何やらもうわけがわからない。
だが、1つだけわかったことがある。
…ここの選手は、年頃の男の子である以上、確かに性に対する興味はあるみたいではある。
だがそこには、自分を選手として見てくれる、確かな仲間意識があった。
その証拠に、(性的なものではない事で)自分をからかっている。
初対面時のいやらしい目だった最初を除けば、仲間と分かれば自分を仲間として見ている目をもっている。
確信を持った、ここならやれる、と。自然と笑顔になった。
今まではこんなことなかったのに。男の子の前で笑顔になれるの、いつ以来だろう。
「わたしの名前は、野村理奈(のむら・りな)です!よろしくお願いします!」
「よろしくぅ!」
「いよっ、新入り!仲良くやろうぜ!」
「これでお前、ラリナが入ったからレギュラー陥落だな!」
「なにぃー!?」
あらら、喧嘩が始まっちゃった。…ん?ラリナ?
「ちょ、ちょっと、ラリナって?」
「え?のむ・らりな、だろ?名前。」
「いや、き、切るところが違う…」
「え?そうなの?ま、いいや、いいんだってこれで!ニックネームって事でいいだろ?」
「ラリナ!ラリナ!ラリナ!」
ラリナの大合唱。もはや仲間を通り越している。
確かにこんな形を自分は求めていたのだが、流石にこれには戸惑った。だが、もはや逆らう術はないようである。
(ま、いっか…)
「そういえばさ、ラリナ。なんでこんな弱小リトルを選んだんだ?
てか、知名度も低いのに、よくここがわかったよな?近所なのか?」
「あ、えーと…」
「ああ、土生の紹介でここに来たらしい。」
「あ、兄貴の!?」
一同がどよめく。
突然、選手の一人が目の色を変えて理奈の前に飛び出してきた。
「あ、あの、俺!」
「…な、なんですか?」
今までの場合、このシュチュエーションでは巨乳目当てで付き合いを求める先輩選手ばかりだった。
いやらしい目が見え見えだったので断ったのだが、この大柄な少年の目にはそんな様子はない。
「俺の名前は山下力(やました・ちから)です!ら、ラリナ姉さんと呼んでいいですか?」
「…はい?」
「この山下力、土生のアニキの一番弟子です!
その兄貴が認めたという事は、相当の実力者、ぜひ、下においてください!」
どこかおかしい、このリトル。
監督も含めて、変わり者が多すぎだ。
「…ぐおっ!?」
山下の頬に、グーパンチが飛んできた。
山下が吹っ飛び、今度は山下よりも小柄な少年が目の前に現れる。
「お、おいらの名前は橡浦隼人(とちうら・はやと)!姉御と呼ばせてください!
橡浦隼人こそ、あんちゃんの最強の子分です!」
「んだと橡浦!このチビ!」
「山下、てめえのようなデカブツ、暑苦しくてたまんねえんだよ!」
目の前で火花が飛び散る。
理奈は、ただ呆然と眺めるしかなかった。
「と、とにかく、俺たちに、ラリナ姉さんの球を見せて下さい!」
「あんちゃんが認めたんだ、姉御はすごい球を投げるんですよね?」
「へ?」
他の連中も理奈がすごい球を投げるものと思っているらしい。
それほどまでに土生と言う少年は慕われているのだろうか。
「あ、で、でも、もし期待に応えられなかったら…」
「そんなわけ、あるわけがないじゃないですか!」
「あうう…か、監督…」
「気にするな。仮に期待に応えられなくても、勝手に期待するこのガキどもが悪い。
とりあえず、投げてくれないかな?君の球を見せてよ。」
初めて、自分の球を見てもらえる。
周りの期待こそ気になるが、これほどうれしい事はなかった。
急ぎ足でマウンドに向かう。キャッチャーが装備を付け、ミットを構えた。
(初めて…野球選手として、リトルでプレイできるんだ…よし!)
左手でボールを握り締め、大きく振りかぶる。
そして、左腕がうねる。
次の瞬間、キャッチャーの後方にあるフェンスが、カシャンと音を立てた。
「…へ?」
「な、なんだよ、今の速さ…」
「あいつ、捕れてねえじゃん…」
「お、お前がやってみろよ、絶対にとれるわけがないだろ!」
密かに、監督はスピードガンでスピードを計っていた。
(118!?アップなしでこれか!?)
小学生6年男子で、全国トップクラススピードが125くらいと言われている。
7キロは結構差があるが、アップをしていないうえ、理奈はまだ小学5年生、しかも女子。
理奈にも驚いた。自分はこれだけの球を投げられるのか、と。
父親こそ平然と取っていたが、自分の球はこんなにもすごいのかと。自信になった。
「す、すげえよ、ラリナ!」
「でもよお…これ、だれが取るんだ?」
みんなが顔を見合わせる。
誰かがこの球をとらないといけないのだ。となると、当然この2名が名乗りを上げる。
「ラリナ姉さんの球をとれるのは、がっちりとした体のこの俺、山下力だ!
ラリナ姉さん、俺に投げ込んでください!」
「馬鹿言うなこのデクノボー!反射神経抜群のこの俺、橡浦隼人に!」
また喧嘩。
慌てた理奈は、こう提案する。
「あ、ありがとね、二人とも。わたしの球をとるって言ってくれて。
とりあえず、捕れたほうがわたしのキャッチャー、ってことにしない?」
「「じゃあ、俺が先に!」」
「あうう…じゃ、じゃあ、先に名乗りを上げた山下君からでいい?」
「いえーい!おまえは指くわえて見てるんだな!
俺が取れてお前は取れないから、お前の出番はまったくねーぜ!」
「なんだと!?姉御、容赦なくこいつを豪速球で捻じ伏せてください!」
やれやれ、と思いつつ、装備をつけた山下に対し、豪速球を投げ込む。
案の定、
「ぐああっ!」
捕れない。
もう1度、と催促され何球か投げ込むが、結果はやはり同じ。
「けっ、だから捕れないと言っただろーが!俺に代わりな!」
「うるせえ!どーせお前も捕れねーよ!」
意気揚々と装備をつけてミットを構える。だが、やはり捕れない。
山下同様何球も催促するが、結局捕れなかった。
「やっぱダメだ、俺たち全員、取れっこないよ…」
「無理だ、速すぎる…」
全員理奈の速球に歯が立たない。
これではいくら気に行ったチームでも、意味がない。
やはりもっと強いチームに行くべきなのか、この素敵なチームを涙をのんであきらめてでも。
「やっぱり、土生さんにしか、この球はとれないよ。」
「そうだな。土生さんなら、この球をとれる。」
土生?
さっきから、その名前が何度か挙がっているけど…
「えっと、その土生さんは、いつ来るの?」
「いつもは時間通りくるんだけど、今日は日直で居残りしてますよ。
そろそろ来ると思います。」
「土生さんは、ウチ一番の実力者ですよ!」
山下と橡浦が、口をそろえてそう言った。
…そして、噂をすればなんとやら、である。
「あ、来た!」
「土生さん!あなたが紹介した女の子が、来てますよ!」
…階段を降りてくる少年が一人。
その落ち着いた、物静かな雰囲気、間違いなく昨日声をかけてくれた、あの少年。
「…そうか。」
「土生さん、さすがですよ、こんなすごいピッチャーを連れてくるなんて!」
「…たまたまだ。」
「なんですけど、あまりにすごい球なんで、俺たちじゃ無理なんです。」
「…分かっていたことだ。」
全員がその台詞に唖然とした。
よーするに、最初から自分がキャッチャーをするつもりだったらしい。
無言でプロテクターとレガース、マスクをつけ、構える。
「あの、…昨日は、どうも。」
「…。」
「あの、わたしに、何か、言う事とか、その…」
「…何を言えばいい?」
「…いえ、なんでもないです。」
確かに何も言う義務はない。だが、何か言ってほしい、と思う願望も自然だと思う。
とはいえ、土生は聞き入れてくれそうにもない。泣く泣く投球フォームに入る。
(ううう…なんか調子狂うなあ。)
「…。」
(ええい、とにかく、投げればいいんでしょ、投げればあ!)
やけくその全力投球。
…次の瞬間、乾いたミット音。
「…。」
「と…とった…」
「土生の兄貴、捕ったぜ!」
歓声が上がる。みんなが土生によってたかる。
理奈も感動して土生のもとに駆け寄った。
「す、すごい!完璧に取った、すごい!」
「…捕るだけで、精一杯だ。」
「もう、照れなくていいって!」
「…。」
「あ、いや、なんでもないです。」
「監督。俺、今日からサードからキャッチャーにコンバートします。」
どうやら、本職はサードの様である。
キャッチャーでないにもかかわらず軽々と捕っている、という事実に、再び驚かされた。
「ふーん?好きにすればいいよ。」
そして、コンバートという重要で大事な事を適当に受け流す監督に、三度驚かされた。
「それじゃあ、野村。今日から…これ、背番号1だ。」
「あ、…え、いいんですか?」
「いいも何も、うちのエースはお前で決定た。
…このゼッケンは使い回しなんだが、ずっとこの1番は、」
少し監督の様子がしんみりしている。
まわりを見ても、すこし選手たちがおとなしくなっている。
「新たな、持ち主にふさわしいエースを、待っていたんだ。」
「え…それって、どういう…!?」
どう言う事、と聞こうとしたその瞬間、右肩に手を置かれた。
「は、土生君?」
「…。」
「え、えっと…。」
「聞くな。」
こうして、理奈の新たなる野球ストーリーが、幕を開けた。