(涌井もかなり疲れている…  
 この回が最終回ならともかく、まだ5回だ、精神的にも負担はあるはず!)  
 
甘い球だけを狙う。  
そしてインコースに甘く入った球を思い切り叩く。  
 
 
「どう思っているんだ?戦況を。」  
「今から3点差をひっくり返すなんて、無理だと思う。」  
「そうか?野球は結構大逆転が起こるもんだろ。それにあと5回も攻撃が残ってるし。」  
「…健太。リトルリーグは、6回までしか無いのよ。」  
 
紗英の冷静な指摘に、目を明後日の方向に泳がせるしかない東小の魔王。  
小学生の体力で、9回まで野球が出来るわけがない。  
 
「じゃあ、なんで見てるんだよ。勝負がついてると思ってるんなら、見る価値なんざ…」  
「カナたんがまだ出てない。」  
「それ見たら帰るのか?」  
「…カナたんは、何かを私に見せようとしている。それを見るまでは、帰れない。  
 たとえ負けても、何かを見せてくれるはず。」  
「ふーん。…信頼度高いな。」  
 
観客はほとんどが野球好きの人ばかりで、西小東小関係の観客はほとんどいない。  
せいぜいシバケンと紗英くらいのものである。  
土生が心の中で掲げていた、スタンドを2つの小学校のるつぼにする、という理想は、いばらの道である。  
 
 
『2番、ショート、赤松君。』  
 
(橡浦が出てくれた…本来なら送りバントだけど、3点差だと打って出るしか無い…  
 ただ、俺のバッティングじゃ、間違いなく三振かゲッツー…)  
(となれば赤松、あれだ。)  
 
土生がサインを送る。  
サインの中身は、『必殺技を使え』。  
 
涌井がセットポジションからモーションに入る。  
そしてリリースの瞬間、バントの構えに入った。  
 
(セフティーだ!)  
(そう来たか!)  
(突っ込め!)  
 
赤松のバントの構え。それは紛れもなく、ファースト方向へのプッシュバントの構え。  
 
マウンドの涌井がファースト方向に意識を傾け、ファーストの石井が猛ダッシュをし、  
セカンドの片岡がファーストのカバーに入り、ショートの中島はセカンドのカバーに。  
 
(かかった!)  
 
…そして、サードの中村は、その打球に全く反応できなかった。  
 
「サード!」  
「くっ!」  
 
涌井の体重はファースト方向に傾き、打球に体がついていけない。  
肝心の中村は、ファースト方向に転がるものだと瞬時に思い込んでいた。  
 
…これが、赤松の必殺技。  
右打者の方が不利とされるセーフティーバントを、プッシュバントというフェイクをかけるという形で逆手に取った。  
 
 
「ノーアウト、1塁2塁…やっと運が向いてきた。」  
「よっしゃ、いけえ!」  
 
土生のつぶやきに乗せられ、ベンチが声援を送る。  
その対象はもちろん、今日3番に座るユキ。  
 
(打たなきゃ…5点も取られて、このまま取り返せないまま終わりたくなんてないっ!)  
 
プレッシャーもある、疲労もある。  
それでも、意地でも打ち返す。  
 
『3番、ピッチャー、瑞原くん。』  
 
 
「おお、あいつか。」  
「…なに目を輝かせてるの?」  
 
紗英のやきもち。  
ユキを見た瞬間、シバケンの目は輝いていた。  
 
…もちろん、恋愛的要素ではない。あくまで、格闘に身を置くものとして、目を輝かせたまで。  
 
「いや、あいつ、昨日俺の頭に蹴りを入れようとした奴だろ?  
 あんな蹴り、久しく見なかったぜー。」  
「…。」  
 
安心感を感じる一方で、呆れた。  
何か違うだろうとツッコみたくなったが、ツッコんだところで意味はないと瞬時に悟った。  
浮気でないだけ、マシと思う事にしよう。  
 
…よく考えると、激しい戦いに身を投じてないという裏返しである。いい事なのかな?  
 
「ストライーク!」  
(くそ、当たらない…)  
 
いくら運動神経に長けていても、まだピッチングそのものになれていない。  
3回の大量失点も響き、スタミナがほとんど切れかけている。  
 
…それでも、意地でも打たなければならない。  
 
「三遊間!」  
「抜けろ!」  
 
三遊間のど真ん中を、転がっていく。  
決して鋭い打球ではないが、しぶとく抜け…  
 
「させるか!」  
 
ショート、中島が飛び付き、好捕。  
不安定な体勢のまま、セカンドに送球。  
 
「アウト!」  
 
俊足の橡浦との競争になり、間一髪アウト。  
それでもセカンドのフォースアウトで精一杯のはず…だったが。  
 
「ユキ!」  
(ユキちゃん!?)  
 
バッターランナーのユキが、倒れている。  
疲労で足がもつれ、転倒。本来の足の速さならそれでも1塁には余裕で間に合うが、  
 
(体が…思うように動か…)  
 
やっとの思いで立ち上がり、よたよたと走りはじめ、しかし時既に遅し。  
 
 
「あの野郎…何してるんだよ。」  
「健太、あんまりそんな事言うもんじゃないよ。」  
「でもよお、なんであんなにへとへとなんだ?俺ならまだガンガン動けるぜ。」  
「ピッチングはみてる以上に疲れるものなの!…あたしもやったことないけど。」  
 
2人にもあきらめムードが漂い始めた。  
ノーアウト1塁2塁が、2アウト3塁。初めてながらよく頑張ったユキを責める選手はいないが、  
 
…この事実は、重い。  
 
「ご…めん…」  
「は、ははは、いーよ、きにするなよ…」  
「そ、そうだ、まだ9回もあるし、山下が2ラン打って1点差に詰め寄っとけば…」  
 
土生は相変わらず表情1つ変えない。  
…そして、冷静に状況を見つめている。  
 
「…その山下が敬遠されているぞ。」  
「え!?」  
 
1階にタイムリーを撃たれているので、危険と判断しての敬遠、フォアボールの宣告。  
5番以降が貧打のこのチームにとって、非情の宣告に他ならない。  
 
「…どこへ行く。」  
「もう、投げられないよ…」  
「…。」  
 
ユキがダグアウトに入ってしまった。  
ふがいないピッチング、ふがいないバッティング、それに疲労がのしかかる。  
 
 
『5番、サード、青野くん。』  
 
「な、なんとか、しないと…」  
「…青野、どうかしたか?」  
「い、いえ、絶対に打ってきます!なんとか1点でも…」  
「ほう…」  
 
周りの人間全員が、青野を見つめている。  
…土生の狙いが、見事に的中した。  
 
「…今までならお前たちは俺に頼っていただろう。  
 正直、ずっと俺も試合に出たかったが、お前らの依存心がなくなるまでは、試合に出ないつもりだった。」  
「え?」  
 
ゲッツーという大ピンチに、自然とチームはまとまっていた。  
 
「ハッキリ言って、一刻も早く交代したかった。でないと負けるからだ。  
 でも、それじゃあお前たちが成長しない、だからリスクを承知で動かなかった。  
 この回でもし俺が動かなかったら、負けてただろう。ギリギリセーフってとこかな。」  
 
知らず知らずのうちに、チームはまとまっていた。  
もし、この場面にいたっても依存心がなくなっていなければ、土生は代打を出せず、完全に手遅れだった。  
 
「それじゃあ!」  
「だが、俺はまだ出ない。緒方!…行ってくれ。」  
「…うん。」  
 
てっきり土生が出るものだと思っていた。  
 
「ま、まずは土生さんが出て、3ランで同点に…」  
「ここは何としても1点が欲しい。何が何でも、な。  
 勝負への執念は、経験豊富な緒方の方が上だ。緒方に任せよう。」  
「でも、緒方はブランクが…」  
「執念は衰えていないみたいだがな。さて、代打告げに行ってくるよ。」  
 
土生が審判のもとへ行く。  
ネクストバッターズサークルまで緒方と一緒に歩き、1人球審のもとへ。  
 
「絶対土生さんの方がいいと思うけどな…」  
 
確実に、緒方に失礼である。  
だが、緒方は無視していた。…いや、聞こえていなかった。  
 
「あんまり言うな、怒るよ、緒方が。」  
「…そ、そうだな、あんなに怖い眼してる…」  
 
ものすごい集中力が、青野たちには鬼の目に見えた。  
周りのウジ虫を黙らせる、オーラが緒方にはあった。それは決して、今の土生でも身につけられないものである。  
 
 
『バッター、青野くんに代わりまして、緒方くん。』  
 
「あ、カナたん!」  
「出てきたな。あいつが、紗英に何を伝えたいのか…」  
「うん。」  
「でもな、喧嘩も柔道も、勝たなきゃ評価もらえないんだよな。  
 ここで求められるのは、内容じゃない、結果。  
 ハッキリ言うが、紗英が内容を見ているとしても、結果出さなきゃ全く意味がないと俺は思うぜ。」  
「…分かってる、この場面は、そんな場面だよね。」  
「!」  
 
てっきり反論されると思っていた故、意外だった。  
 
「だったら、カナたんは、絶対にヒットであたしに応えてくれるよ、…あたしに、ね。」  
 
 
「ストライーク!」  
 
際どいコース。  
少し球威は落ちたが、その分さらに制球に気を配る事でカバー。  
 
(さすが涌井、と言ったところか?)  
「ガンバレ、緒方―!」  
 
2球目、少し甘く入る。  
そこをフルスイング。  
 
「!」  
「お、緒方!」  
 
空振りの直後、膝をついてしまった。  
左膝の踏ん張りが利かず、フォームを崩してしまう。  
 
(そんな…)  
 
緒方は立ち上がったので、幸い古傷の再発は無いようだ。  
だが、青野が思わず叫んだ。  
 
「は、土生さん、今からでも遅くはないです!」  
「…あいつのプライドに、かかわるだろう。」  
「そんな事言ってる場合じゃ…」  
「プライドがあるからこそ、何が何でも打ってくれるさ。とにかく信じろよ。  
 たとえそれでだめでも、それは結果論だろ?」  
 
「ファール!」  
 
辛うじて当てる。  
だが、直球のスピードについていけず、タイミングが合わない。  
 
(ふん、代打が女なんざ、なめんじゃねえ!)  
 
決めに来る涌井。インコースにストレート。  
緒方が必死になってバットを出す。  
 
 
「ああ、打ち上げた…」  
「おっしゃ、打ちとった!ライト、いや、ファースト!」  
 
ライトが前に、ファーストが後ろに下がる。ふらふらと上がった打球が、落ちてくる。  
 
「お、おいおい、やばいやばい…」  
 
佐藤も石井も、急いで落下点に向かう。…だが、なかなかたどりつけない。  
 
「やばいやばい!落ちるぞこれ!」  
 
両者飛び付く。  
そして、両者の間で、…芝の上で、ボールがはねた。  
 
「よっしゃあああっ!」  
「タイムリーだー!」  
 
スコアに1が点灯。2点差に詰め寄る。  
山下も巨体を必死に動かし、3塁に到達。  
 
「打った、打ったよカナたん!」  
「…しかし、打った直後にコケなかったか?ひどい打ち方だったなありゃあ。」  
 
素人目に見ても、ひどいフォーム。  
だが、そんな事、紗英は意に介さない。  
 
「結果がすべてなんでしょ?…これが、カナたんの答え。  
 たとえカッコ悪くたって、執念だけでヒットにした、カナたんの答え、なんだね。」  
「あいつの答え?」  
「うん。  
 カナたんが見せたかったのは、ほかでもない、自分が頑張っている姿。それは分かってた。  
 でも、それをあたしに認めさせるには、ただ頑張るだけじゃダメ、結果を、あたしに見せたかった。  
 だから、誘った。野球観戦に。カナたんの野球を認めなかったあたしをね。」  
 
でも、結果を目の前で出されては、認めざるを得ない。  
そして、ここまで来たら年下の自分にあれだけ大口をたたいた土生翔平にも、  
自分に結果を見せてもらわないと気が済まない。  
 
 
「ようし、みんな、ここまでよく頑張った。後は任せろ。」  
「あ、土生さん、おいしいとこ取りですか?」  
「ははははは!」  
 
まだ2点負けている。だが、先ほどの悪い空気は、完全に消えていた。  
…なぜなら、ホームランを打てば、逆転だから。  
 
『6番、白井君に代わりまして、土生君。』  
 
「さあて、決めるとするか。」  
「いけー、土生さん!」  
 
一方、マウンドでは。  
 
「土生が来たか…なんでスタメンにいなかったかは分からないが…」  
「ここは敬遠だな。」  
 
土生の名前は県内のリトルリーグに知れ渡っている。  
…だからこそ涌井は、引き下がらなかった。  
 
「うるせえ!ここまできて引き下がれるか!  
 さっさと守備位置に戻れ!」  
「涌井、ここは」  
「さっさと戻れ!」  
「涌井…」  
 
仕方なく守備位置に戻る。  
こうなったら、何としても抑えてもらわねば。その細川の意志は…  
 
「この野郎っ!」  
(終わりだ。)  
 
インローのストレートをたたかれて、打ち砕かれた。  
 
「いったー!」  
「いったーー!」  
「いったーーー!」  
 
文句なしの打球が、フェンスのはるか上を突き進んでいった。  
 

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