「よーい…ピッ!」  
 
東小の体育の時間。5年2組の月曜日の4時間目は、みんなが大好き体育の時間。  
5年2組の体育の時間は、いつも50m走から始まる。  
 
今日は4年2組も加わっての合同授業。  
もちろん、クラスの注目を集めるのは、この男。  
 
「っしゃあっ!」  
 
後ろの3人ははるか後方。  
圧倒的な速さでフィニッシュ。  
 
「5秒9!」  
「さっすが橡浦!」  
 
自己ベスト。  
コンディションやスタートダッシュ、諸々がすべて完ぺきでなんとか出せるタイムとはいえ、  
小学生でこのスピードは素晴らしい。  
当然陸上の関係者ものどから手が出るほど欲しい逸材だが、野球一本、故に全ての誘いを断っている。  
 
「あのチビの唯一の取り柄だもんな。」  
「誰がチビだ?このデカブツが。」  
「うお、いつの間に…」  
 
遠くで悪態をついたつもりの山下の後ろに、突如現れる橡浦。  
遠くにいたはずなのに、いつの間にかそばに現れる速さ。ハッキリ言って、勝負にならない。  
 
「山下、勝負しようぜ!」  
「えー?チビとやってくれよ…」  
 
当然誰も橡浦と勝負したがらない。  
標的は身長181cm、体重79kg、いかにも動きの鈍そうな山下が標的なのだが、  
 
「6秒9!」  
 
小学生で6秒台は普通に速い。  
橡浦より1秒も遅いが、橡浦が異常なだけである。  
 
「なーんで勝てないんだー!」  
(そりゃ、一応スポーツやってるからなあ…ただデカイだけじゃねえし…)  
 
「よーし、そろそろ終わりにするかー!  
 最後にもう1本だけやるか。やりたい奴!」  
「もちろん!」  
 
真っ先に橡浦がスタートラインに立つ。  
こうなると責任のなすりつけ合いが始まる。  
 
「お前行けよ!」  
「お前も!」  
(まーたか…)  
 
土生は校舎からそれを眺めている。  
ちなみにこの少年、足は速いが走るのはさほど好きではない。  
 
「まったく…」  
 
そして駆り出された双子コンビ。いかにも気の抜けた嫌そうな顔。  
そんな中、スタートラインに向かって土を蹴る音。  
 
「ユキ?」  
「よーし、4人そろったな。」  
 
橡浦の隣に立ち、静かに構える。  
野球の時こそ明るいものの、普段はおとなしく、人と接することも好まない。50m走も手抜き。  
 
だけど。  
 
「よーい…ピッ!」  
 
全力の彼女の走りは、速い。  
やる気のない双子コンビを、あっという間に突き放した。  
 
 
歓声が上がる。  
わずか6秒ほどの世界に、皆がとりこになる。  
 
「6秒3!」  
「おおおおおっ!」  
 
橡浦にとってベストなタイムではないし、ユキにとっては限界ぎりぎり。  
でも、そんなの関係ない。自分と肩を並べて走るヤツがいた、それが橡浦には嬉しかった。  
 
「ナイスラン!」  
「…うん!」  
 
恥ずかしそうに、ハイタッチをかわすユキ。  
さあ、今日は楽しいソフトボールの時間だ。  
 
給食と昼休みの休憩時間は連動している。  
合わせて90分の休憩、土生は東小所属の光陵リトル全員を集めた。  
 
橡浦、山下、黒田、そしてユキ。  
クラスや学年の隔たりを超えて、5人が机を並べ、土生が給食を運んでくる。  
 
「まあ、まずはこれだな。『華麗に舞い降りたノーヒッター』!」  
「すごいよね…ラリナ。」  
「理奈さんと違って、あたしなんか、16安打も浴びたからなあ…」  
「それでも勝ったんだ。すごいことだよ。」  
「…あ、ありがと。」  
 
ふとした橡浦の言いまわし。土生は気にかかりつつも、  
 
「ま、だからこそ俺たちも理奈に負けてられないって話だぜ。  
 とにかく、来週の大会のミーティングだ!」  
「これは?」  
「監督に頼んどいた。  
 こないだの巨神のスコアブック。ま、こんなの見ても分からないだろうから…」  
 
巨神は1回戦はシードなので、実質昨日の試合のデータしかない。  
監督に頼んでデータを取ってもらい、スタメンと補足情報をもらい、土生が要約。  
 
「ほら、みんなで見てくれ。」  
 
 
巨神 13−0 太洋(たいよう) (2回コールド)  
 
1、8・鈴木(尚) 3打数3安打  
2、6・二岡    3打数2安打1打点  
3、3・新井    3打数3安打7打点  
4、7・金本    1打数1安打  
5、5・小笠原   1打数1安打2打点  
6、9・高橋(由) 2打数1安打1打点  
7、4・鳥谷    1打数1安打  
8、2・矢野    2打数1安打2打点  
9、1・下柳    2打数0安打  
 
 
「太洋は守備に評価の高いチームのはずなのに…」  
「得点経過も、なんかすごいや…とどめが新井の満塁弾か。」  
「投手もフォアボール連発、か…」  
 
その圧倒的な力の前に、制球も乱される。  
まあ、もともとコントロールが今一つの理奈にはそんなに関係のない話ではあるが。  
 
「…あれ?西村と白濱は?」  
「その事だが。こっちに資料がある。監督が集めてくれた。」  
「これは?」  
「監督が練習試合での総合成績をまとめてくれた。各投手の特徴もまとめて書いてある。」  
 
※ちなみに、分かりやすいように防御率や奪三振率はプロとおなじ9回基準としておく。  
 
 
西村―白濱バッテリー 防御率0,66 奪三振率13,50  
(とにかく剛球とカーブで押す。まあ、お前らならよく知ってるだろ。)  
 
下柳―矢野バッテリー 防御率0,50 奪三振率2,00  
(絶妙のコントロールとチェンジアップ、スライダーを駆使し、打者を手玉に取る。)  
 
上原―阿部バッテリー 防御率0,25 奪三振率18,00  
(球の速さは西村なみ。ストレートと落差の激しいフォークが武器の、リリーフバッテリー。)  
 
 
「フォークか…厄介だな、打てるかなあ?」  
「ハッキリ言えば、フォークはほとんど打てないだろう。  
 だが制球やスタミナ消費の点から、多用もできないがな。」  
 
小学生でフォークは使う選手は殆どいない。  
だが、落差とキレのあるフォークは、物にさえしてしまえばまず間違いなく打たれることはない。  
プロでも、フォーク100%という配球で相手を抑えるクローザーは存在する。  
 
「実質的なエースは上原という事になるが、さっきも言ったがフォークは長い事使えない。  
 千発は西村と下柳がローテを組んで、クローザーに上原が入る、という形になる。」  
「じゃあ、次の試合では…」  
「西村が来る、と考えるのが普通だろう。」  
 
かつての仲間と、ついに戦う事になる。  
おもむろに土生が牛乳を口に運び、  
 
「まあ、とにかく勝ちにいくまでだ。この話はおしまい。」  
 
もちろん、他の4人の心の中は、片付いているはずもないのだが。  
強力打線に加え、剛の西村、柔の下柳、…えっと、そしてクローザーの西村。  
 
 
勝てるのか?って思う。  
でも、いちばんそう感じてるのは、間違いなく翔。みんなのために、気付かれないように必死に隠している。  
 
「それじゃあ、ミーティング終了!  
 まあ木曜あたりにもう一度やると思うから、今はこの話は流していいぜ。」  
 
言わなきゃいけない。  
…でも、この話は、流してほしい。そうだよね、そう思ってるんだよね、翔?  
 
「それじゃあ、あとは自由解散!  
 好きなだけ練習して、帰ってくれ。」  
 
今日のリトルの練習は、こんな不安と隣り合わせのミーティングから始まった。…って、もう解散?  
 
「え?か、解散って…」  
「お前らの顔見てるとさ、なーんか嫌気がさすんだよな。なんでだろ?やる気がしない。  
 ヤル気だして練習してくれよ、どうせやるんならさ。」  
 
遠回しに言われたって、その意味は分かるよ。  
でも、しょうがないじゃない。  
 
「うーん…じゃあ、今日は解散、マジで解散!練習、禁止!」  
「え?」  
「練習するな、まっすぐ帰れ!そんじゃあな!」  
「あ、翔!」  
 
バッグを持って、走っていった翔。  
周りの目に気を止めず、あたしの脚も、自然と翔を追いかけてゆく。  
 
 
「…どうする?」  
「と、とりあえず俺たちだけでも…」  
「そ、そうさ、土生さんは、俺たちに…」  
 
「お前ら、さっさと帰れ。」  
 
少しだけ盛り上がっていた雰囲気が、一気に静まる。  
その声の主は、まぎれもなく監督自身。  
 
「か、監督…どうしてですか!」  
「土生さんは、俺たちにやる気を出させるために、あえて辛く当って…」  
「…帰れ。」  
 
いつもの監督じゃない。  
凍るような背筋を感じるとともに、すごすごと帰り支度を始めた。  
 
 
「あんな状態で、とても練習なんてできねえよ。」  
 
練習を中断させた理由を聞いた。その返事がこうだ。  
 
「でも、もう1週間もないのよ?少しでも上手くなるには練習するしかない!」  
「心のショックってのは、意外とダメージがでかいもんだぜ。」  
「でも…」  
「100%意味のない努力は、しない。」  
 
努力に無駄はつきもの。でも確かに、完全に無駄以外の何物でもない努力は、別。  
ずっと翔に助けられてきたあたし達が、そんな努力しかできない。…情けない。  
 
「…あいつらも、チームとしてまとまったと思ったんだけどな…」  
 
ちょっとしたつぶやきが、あたしに重くのしかかる。  
たまらなくなって、ソファーに突っ伏した。  
 
「…悪い、言い過ぎた。」  
「…そうだね、言い過ぎたね。」  
 
…悪態をつかずには、いられなかった。  
例え悪いのが、翔ではなく、あたしだったとしても。  
 
後ろに置かれた、『週刊MAX』。そこには、笑顔で写っているあたしの姿がある。  
 
「ん?どした?」  
「…途中まで、一緒に帰ろ?」  
 
帰り道が同じでも、ユキは人付き合いには疎い。  
土生の練習禁止令で、暗い雰囲気の中、橡浦はチームメイトと帰る気にはなれない。  
 
…夕陽の下で、初めてのユキとの帰り道、それも二人きり。  
 
「…でも、なんでこんな大事な時期に…」  
「ミーティングはしないわけにいかないだろ。  
 巨神との試合が決まったのは昨日。それより前にミーティングする馬鹿はいない。」  
「…そっか、試合前日にミーティングして、今日みたいな事になったら…」  
「さすが、あんちゃんだよ。」  
 
最近、アップ時に2人でキャッチボールすることが多くなった。  
最近、同じ位置で外野ノックを受けることが多くなった。  
最近…一緒に話すことが、多くなった。  
 
「ねえ、あたし…次の試合、登板あるかな…?」  
「ある。」  
「え…。」  
 
即答だった。  
 
「ユキちゃんはかっこいい。俺はそう思うな。」  
「…。」  
 
1回戦のあの試合。  
自分を認めてくれた、橡浦隼人が隣にいる。  
 
「…と…。」  
「どうした?」  
 
橡浦の一歩前に出て、向き合う。  
 
「橡浦くんの事、…なんて呼べば、いい?」  
 
バッティングセンターの明かりが、2人を照らしている。  
ユキの頬は、2種類の紅に染まっている。  
 
 
「ば、バット振りながら、考えていいか?」  
 
困ったら、とりあえず先延ばし。  
気持ちの変化についていけない時は、体を動かすのが一番いい。  
 
そう思ってマシンを相手に打席に立ったのだが。  
 
(あ、当たらない…)  
 
バッティングに集中できない。  
それを見ていたユキの心中は、いかに。  
 
「お疲れさま。」  
 
50球打って、ヒットは5本ほど。  
 
「…。」  
「ご、ごめんね、変な事言って。やっぱり、橡浦く」  
「名字はやめろ。」  
 
目の前の自販機。  
財布の中の小銭を入れようとして、…やめた。  
 
恥ずかしいけど、言いたい事がある。  
それをジュースと一緒に飲み込んでいいものかどうか。  
 
「それって…」  
「…。  
 あー!言わなきゃなんないのかなー!」  
「うん!」  
「そこ、元気よく返事する場所でもないだろう…」  
 
ちょっぴり真剣な目。  
がらがらのバッティングセンター内での、2人の子供の小さな勇気。  
 
 
「じゃあ…はいっ!」  
 
チュッ。  
 
「…え?え?え!!?」  
「こういうことで、いいんでしょ?」  
「そ、そりゃそうだけど、いきなり…」  
「…そだ、今のキスで思いついた!」  
 
おそらくはニックネームの事だろうが、どんなふうに思いついたのやら。  
と思ったら、それは今発した擬音語からとったらしい。  
 
「チュウ!」  
「…へ?」  
 
「ほー、勇気が新しく始めた野球のチームメイト、君なのかい。」  
「は、はい…」  
「どんな子供かと思っていたが、なかなかいい体をしてるね。  
 お遊びではないかと心配してたが、レベルのそこそこのようだ。」  
 
以前一度話した事があったはず。ユキの親父さんは、ユキにスポーツを思いきりやらせる教育方針。  
故に適当なお遊びではなく、そこそこのレベルのスポーツ集団でないと納得しないのである。  
 
「リトルという事でレベルが高いとは思っていたが、勇気の話や君の姿を見て、安心したよ。  
 それに、最近ユウキは君の話をよくするし、ずいぶん明るくなった。」  
「は、はあ…」  
 
どうやら体格を見るだけである程度の身体能力は分かるらしい。  
橡浦は華奢だが、スプリンターは足の筋肉はすらっとして無駄がない。  
そこを見破れれば、確かに橡浦が俊足だという事が分かってもおかしくはない。  
 
「ね、ご飯も食べていってよ、チュウ!」  
「え?」  
「そうしなさい、せっかく来たんだ。」  
「はあ…」  
 
半ば無理やり端原家に連れてこられた。  
時間も遅いわけではないので、しぶしぶついてきたが…なんか後悔。  
 
 
「…食い過ぎ…じゃない、食わされ過ぎた…」  
 
栄養満点、食事内容はまさしくスポーツ選手にぴったりのメニュー。  
だが、『たくさん食べて、しっかり動く』とかなんとか言われて、  
 
…カロリー計算は度外視ですか?親父さん。  
 
「てか、親父さんの前でもチュウって呼ぶなよ。2人の時だけにしてくれ。」  
「ユキってニックネームだって、みんなから言われてるよ。他の人にチュウって聞かれたって、問題ないって。」  
「ユキはほとんど代名詞…ていうか、最初に会ったときからユキって呼ばれてたろ。」  
 
あーあー、止めても無駄だこりゃ。  
…いや、そんな事より。  
 
「なんで、『チュウ』、なんだ?」  
「え?さっきキスした時、思いついたの。ほら、『チュッ』ってさ。」  
「…それだけ?」  
「それだけ。」  
「…。」  
 
恥ずかしくてたまらない。キスをそのまま名前にされたのだから。  
絶対にニックネームの由来だけはばれちゃいけない。  
 
…ト『チウ』ラハヤト、から取った、というのはユキだけの秘密。  
 

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