それは、何の変哲もないごく普通の一日になるはずだった。  
 講義が終わって帰ろうとした矢先。  
 岡戸鷹人は不意に足を止めて耳を澄ました。  
 非常に微かではあるが、ベートーヴェンのピアノソナタ、『熱情』の第一楽章がどこからか流れてきたのだ。  
 現在でこそ篠原学園大学音楽部声楽科に通っている鷹人だが、篠原学園初等部にいた頃はピアノコンクールで勇名を馳せていた。  
 だからこそ、その曲の弾き方に興味を覚えた。  
 曲全体のテンポが、今まで聞いた事のある演奏の中でも特に速いのに、それでもクラシックの範疇にギリギリ踏みとどまっている事に、おもしろく感じる。  
「JAZZでもやってたのかな」  
 ぽつりと呟きながら、鷹人は曲が聞こえてくる方向に向かって歩き出す。  
 そして、たどり着いたピアノ室の前。  
 聞こえてくる曲の、テンポの速さと音の強さ、その解釈の見事さに、ぞくりと背筋が粟立つ。  
「凄い、な」  
 ぽつりと呟く鷹人。  
 今まで聞いたことのあるベートーヴェンのピアノソナタの中でも、一〜二を争うほどだと素直にそう感じる。  
 けちを付けようと思えば、いくらでも粗が見つかるのは確かだ。  
 試験でこのような弾き方をすれば、確実に赤点が決定するだろう。  
 けれど、その全てが一つに纏まったとき、完璧ではなくても完全なのだと感じられた。  
 曲名通り、自身の内にある熱情をはき出しているような激しさが、特にそう思わせるのだろうか。  
 そんな疑問を感じながら、廊下の壁に背中を預けて、曲に耳を傾け続ける。  
 歯切れ良く紡がれた音が見事な連なりへと替わり、ついに曲が終わった。  
 そのまま、今度はベートーヴェンのピアノソナタ『月光』が始まる。  
「久しぶりに、弾いてみるのもいいか」  
 その素晴らしい曲調に心を委ねながら、そんな言葉を口にする。  
 この演奏家にはどう足掻いても勝てない事は解っていた。  
 ピアノという楽器に対する情熱の多寡が、それほど違っているのだ。  
 それでも、捨てたはずのピアノ演奏の楽しみを思い出させてくれたことが嬉しかった。  
 気がつけば、『月光』も終わりに近づいていて、そろそろ帰らないとヤバい時間だと言うことを思い出す。  
 本当は、最後まで聞いていたかったけれど、仕方がない。  
 ため息を吐いて、鷹人は歩き始めた。  
 
 
 
 
 翌日。  
 ピアノ室に向かった鷹人は、廊下を歩いてくる一人の少女に気付いてそのまま脇に寄った。  
 廊下の真ん中を白杖で探りながら歩いている少女。  
 しっかりと瞼を開けて真っ正面に向けているけれど、それでも目の焦点がどこにもあって無い、深窓の令嬢と言った面持ちの少女が、そのまま通り過ぎるのを見送った。  
 一拍遅れて、彼女の事を思い出す。  
 ピアノ室を借りるために話を通しに言った、ピアノ科の講師で鷹人にとっては小学校の頃家庭教師もして貰っていた高瀬教授が、百年に一度の逸材だと持ち上げていた飛び級で大学に入ってきた少女だと。  
「確か、西院麗音、だったかな」  
 凄まじいまでの自信家で、しかも演奏技術はパーフェクト。  
 時折口にする鋭すぎる批評のせいで、多少嫌われていると言うことも聞いてはいる。  
 それでも、関わり合いになることなど無いはず。  
 だから、予約していたピアノ室に入り込んだ。  
 
 
「ふぅ……やっぱりダメだな」  
 数年のブランクが有れば当然のことだが、中々思うように弾けない。  
 その事にいらだたしさを感じた。  
 それに、以前のレパートリーだったショパンではなくベートーヴェンを弾こうとするのが間違いだったのかもしれない。  
 それでも、まだ弾き足りない気分だった。  
「よしっ」  
 上手く弾けないのは仕方がない。  
 そう割り切って、鷹人はまた鍵盤に指をおいた。  
 楽譜はもって来てないけど、もう数え切れないほど聞き慣れた曲だ。  
 耳コピーである程度は弾くことが出来る。  
 だから、前奏を弾きながら、呼吸を整えた。  
「……che bella cosa」  
 オ・ソレ・ミオを弾きながら歌う。  
 敬愛する、パバロッティの歌い方を基本に、自分流のアレンジを加えながら。  
 
 誰かの弾いた曲に合わせて歌わされるのとは違う、自分の思うままに弾きながら歌えることに、新鮮な驚きと意外な楽しさを覚えた。  
 だから、今は作詞作曲を自分でやるのが、普通になったのだろうかと、そんなことを思う。  
 同期の学生の中には、クラシックは高尚、低俗なj-popなんかは耳が汚れる、なんてことを言う人間もいるけれど、鷹人はそんなことを思ったことは無論ない。  
 だから、オ・ソレ・ミオを歌い終えると同時に、最近聞いたpopsをゆっくりと自分のテンポで歌えるように弾き始めた。  
 存分に歌って、最後に音を鳴らすのと同時。  
 パチパチと拍手の音が聞こえてきた。  
 思わず、手を止めて、ピアノ室の入り口に視線を向けた。  
「いいもの、聞かせて貰ったわ」  
 白杖を脇に手挟んだ西院麗音が、立っていた。  
 持ち直した白杖で周囲を探りながら近づいてくる西院。  
「てかまあ、ピアノ科にアンタみたいなのがいるなんて知らなかったわ」  
 そう言って、にっこりと笑う西院が、鷹人のすぐ目の前で立ち止まる。  
「いや、俺ピアノ科じゃないんだけど」  
 苦笑と共に答えを返して、椅子から立ち上がる鷹人。  
 誰かに聞かれながら、「自分」の歌を歌うのが気恥ずかしくて。  
「あれ、もう終わり? もっと聞かせて欲しいんだけど」  
 気安い口調で問い掛けてくる西院。  
 顔立ちや物腰から何となく想像していたのとは、全く違う言葉遣いに苦笑が浮かぶ。  
 そう思った途端、西院がくすりと楽しげに笑った。  
「ん?」  
「アンタって、わかりやすいね。なるほど、コレだったらあの音になる訳よね」  
 一人で頷く西院に、鷹人は首を傾げる。  
 何が言いたいのか解らなくて、けれど、問い掛ける気にもならない。  
「あ、珍しく楽しげに弾いてる人がいるなーって思って来たのよ」  
「そう聞こえた?」  
「ええ、他の学生……てか、講師も含めて、型を守るのに必死で楽しげにやってるのって、他にいないんだもの」  
 その的確な言葉に、何となく苦笑が浮かぶ。  
 その感想は、声楽科の鷹人も同じように持っていたから。  
「まあ、学校だからしょうがないよな」  
 呟きながら、奇妙な違和感を感じていた。  
 初対面相手だったらもっと丁寧に話すべきで、普段ならそうしている筈なのに、なぜかそんな気になれない。  
 それに、あまり人に見せない自然な笑顔が浮かんでいることも、自覚できるだけに余計不思議だった。  
「解ってるけどさ、なんか聴いてると誰も彼も忘れてるっぽく感じるのよね」  
「何をだ?」  
「楽しくてこの世界に入ったんじゃないのかなぁってね」  
 西院がそう言って浮かべる苦笑に、頷いて同意を示す。  
 確かに、技術を覚えるのに汲々としていて、楽しんでやっている学生の方が少ないように見える。  
 楽しいだけで続けるのは難しいと言われるのは解っているけど、逆に楽しくないものを続ける方が難しい。  
「あ、ところで、アンタの名前は?」  
「ん? ああ、俺は岡戸鷹人。そっちは、西院麗音だよな?」  
「やっぱりアタシの名前は知ってたか。ま、コレだから、覚え易いもんね」  
 そう言って自分の目を指さす麗音。  
 あまりにも率直で、目が見えないことに一切引け目を感じていない態度が気に入った。  
「まあ、ソレもあるけど、ピアノの腕がめちゃくちゃ上手いって聴いてたからな」  
 そう言った瞬間、にかっと嬉しそうに笑う西院。  
 その笑顔に、ほんの少し胸の奥がさざめいた。  
「まあね〜。上がいるのは事実だけど、ここの学生や講師程度じゃアタシには全然敵わないんだもの」  
 自信満々と言った言葉に、思わず苦笑が浮かんだ。  
 これだけの事を口にして、それでも多少嫌われる程度で済んでるというのは、周りがそれを認めるほど上手いと言うこと。  
 だから、何となく、彼女のピアノを聴いてみたくなる。  
「じゃさ、その腕前披露してくれよ。西院の弾く曲を聴いてみたい」  
「ん? 別に良いわよ、アンタの前だったら、気取った演奏しないですみそうだしね」  
 そう言ってゆっくりと周囲を探りながらピアノの前に移動して、椅子に座る西院。  
 ふと、こちらの方――頭半分ほど右にずれた辺り――に顔を向けてくる。  
「ん、なんだ?」  
 けれど、おおよそでもこちらの位置に合わせようとしていることを感じて、苦笑と共に問い掛ける。  
「演奏料、払ってよね?」  
「む、じゃあ、大平庵のバナナ最中でどうだ?」  
「いいわよ。あ、それと、アタシのことは西院じゃなくて麗音って名前で呼んでよね。アタシも鷹人って呼ぶからさ」  
「ああ、解ったよ」  
 
 初対面の筈なのに、どうしてそんなに気安くするのか。  
 初対面の筈なのに、どうしてこんなに気安くできるのか。  
 その理由が自分でも理解できないまま、それでも西院――麗音が演奏を始めるのを、鷹人は黙って聞こうとして、目を見張った。  
 昨日、聴いたのと同じ曲調で麗音が『熱情』を弾き始めたのだ。  
 その事に驚き、同時にこういう偶然も良いものだなと、そんなことを思う。  
 けれど、そんな思考よりも、今はただ彼女の作り出す音に身を任せていたい。  
 その思いに、全てを委ねた。  
 
 
 
 
 麗音は、ため息と共にピアノ室に入っていった。  
 白杖で周囲を探り、音でそこにいることを読み取ってピアノの傍に行く。  
 すーすーと、寝息が聞こえてくる。  
「……まったく」  
 ため息を吐きながら白杖を振り上げて、その源の辺りに軽く振り下ろした。  
「あいたっ!」  
 こつんと音を立てるのと、鷹人が声を上げるのは同時。  
 んー、っと喉の奥から声を出す鷹人に、伸びをしてるのを確認して、もう一度ため息を吐いた。  
「おはよう、鷹人。てか、寝ながら待つなんて、アンタもお大尽になったもんねぇ?」  
 にっこり笑うと同時、うっ、と鷹人が息を詰めた。  
 その声の源辺りに顔を向けて、手に持っていた袋を突き出す。  
「はい、大平庵のバナナ最中。今日はコレ食べたいって言ってたよね」  
「あー、うん」  
 鷹人の声に訝る節が有るのを聞き取って、麗音は小首をかしげる。  
「いや、これ見てお前と初めてあったときの事、思い出したんだ」  
 何気ないその言葉に、とくんっと心臓の鼓動が速さを増した。  
 やっと、思い出してくれたのだと、期待感に心がはやる。  
「ほら、俺がここでピアノ弾いてるときにさ。お前が唐突に入ってきて、拍手しただろ?」  
 言われた、内心で深いため息を吐いた。  
 このバカは、まだ思い出していないのだと、気付かされたから。  
「あの時の演奏料もコレだったと思ってな」  
「はいはい、でもまあ、最中で思い出すなんて、変な話よねー」  
 だから、わざと鷹人の言葉に話を合わせる麗音。  
 思い出していない相手に、自分から話題を振って思い出させるなんて、麗音の主義ではないのだから。  
 だから、内心でもう一度ため息を吐きながら、渡した袋をがさがさとさせる鷹人の様子に、小さなイタズラを思いついた。  
「鷹人」  
「ん?」  
「あー」  
 声から判断した、鷹人がいるあたりに向かって、口を開いて待つ。  
 空気が凍るような音が聞こえた気がして、けれど麗音は気付かないふりをして、ソレをじっと待っていた。  
「ったく」  
 苦笑の気配と共に、口に最中が押し込まれる。  
 あむっ、とその半分くらいを囓り取って残りを押し返した。  
「はい、間接キス」  
「……いまさらそんなので照れる間柄かって」  
 そんな風に返してくる鷹人が、それでもきちんと自分で食べているのが聞こえて、何となく嬉しくなる。  
 けれど、まだ思い出していない鷹人に、僅かな苛立ちがあったのも事実で。  
 だから、かもしれない。  
「そういえばさ、鷹人って好きな女のタイプってどんなの?」  
 
 そんなことを聞いてしまったのは。  
 自分と全く違うタイプだと答えられるのも、自分のようなタイプだと答えられるのも、なんとなくイヤだと思っていたのに。  
 イヤだと思っていたはずなのに。  
「俺のタイプ……、ていうと麗音だな」  
「は?」  
 想定外の答えに、思わず思考が固まった。  
「いや、恋人がそのまま俺のタイプだってっ!?」  
「恥ずかしすぎること言うなっ!」  
 ほとんど反射的に白杖を振り上げて、振り下ろした。  
 嬉しかった。  
 鷹人がそれだけ自分のことを思ってくれているのだと、麗音には感じられたから。  
 耳まで熱がこもっていて、きっと赤くなっているだろうと麗音は思う。……と言ったところで、自身の状態と子供の頃から周りに言われていた言葉から、そう思うだけでしかないけれど。  
 それでも顔がにやけるのを押さえられなくて、それがあまりにも恥ずかしすぎて、もう一度白杖を振り上げて振り下ろす。  
 ひゅんっ、と小気味良い音が聞こえた。  
「ちょっ! こらっ! 待てっ! 自分から振ってきたんだろうが!」  
 鷹人の声が先程よりも高い位置から届く。  
 言うまでもなく椅子から立ち上がったのだと理解して、それでも関係なく前に出た。  
「あ?」  
 その足が、何かを踏んだ。  
 そう感じた瞬間、麗音はバランスを崩す。  
「え、あ、あれっ!?」  
 慌てて手を前に伸ばしかけて、慌ててその手を引いた。  
 下手をすると手を痛める、そのことが怖かった。  
 けれど、予想とは裏腹にがっしりとした腕に、抱き留められる。  
「アホ」  
「アンタが、恥ずかしいこと言うからじゃない」  
 耳元で呟かれた優しい言葉に、また頬に熱がともる。けれど、即座に言葉を投げ返して思う。  
 本気でどういうタイプが好みだったのかと。  
「あー、まあ、俺が好きなタイプっていうか、気になるタイプって言うのはだな」  
 まるでこちらの思考を読んだようなタイミングの鷹人の声に驚いて、鷹人の顔の辺りに自身のそれを向ける麗音。  
 とくんとくん、と心臓の鼓動が早まっていくのを、麗音自身理解していた。  
「多分、ほっとけない子だろうな」  
「ほっとけない子?」  
 今一、意味がわかりにくい鷹人の言葉に小首を傾げる。  
 ソレを見たのだろう、鷹人が倒れかけていたこちらをひょいっと抱き上げてきた。  
「えと、ありがと」  
「どーいたしまして、お姫様」  
 少し投げやりな鷹人の言葉、それが照れくささ故だと言うことを、敏感に読み取っていた。  
 何しろ、こうして恋人として付き合うようになってもう一年も経つのだ。  
 しかも、向こうと違って麗音の判断材料は耳だけ。  
 声だけでどう思ってるのか位は、簡単に判断できる。  
「で、なんでそんなタイプなのよ?」  
 椅子に座らされて、何となく残念に思いながら問い掛ける麗音。  
「俺がさ、まだ初等部にいた頃、高瀬教授の命令で古関高校で行われたコンサートに行かされたんだ」  
 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥のさざめきが強くなった。  
「そこで、コンサート始まる前に一人の女の子と出会ったんだよ。その子がなんか俺の服の裾を付かんで、俺と手を握りたがってて、なんとなくほっとけなかったんだ」  
「へぇ、そうなんだ」  
 相槌を打ちながら、けれど、口から出そうになった言葉を何とか飲み込む。  
 ……あの時、手を握りたかったのは、見えないのだと知られたくなかったから。  
 まだ子供だった頃の、ソレは思い出だった。  
 親に連れられて行くことになったコンサート。  
 その場で、悪ガキ達に白杖を取られて、そのままむちゃくちゃに引っ張り回されて、どこに居るのか解らなくなった。  
 その時、声を書けてくれたのが、自分を体育館の入り口まで連れて行ってくれたのが、鷹人だったのだ。  
「まあ、その子とはその後あってないんだけど、あれ以来何となくそう言った困ってる子をほっとけなくなったんだよ」  
 その言葉と同時に苦笑の気配が伝わってきて、少し強引に鷹人の腕の辺りを捕まえる。  
「麗音?」  
「スるわよ」  
 あの幼い頃の大事な思い出は、鷹人にとっても大切になっていた、そう感じられただけでも今は十分だったから。  
 鷹人曰く初めての、麗音からすれば二度目の出会いの時。  
 麗音が足を止めてピアノ室に入ったのは、聞こえてきた曲の弾き方が、自分を案内してくれたあの少年の弾き方だと同じだと気付いたから。  
 
 だから、今こうして同じ時を過ごせるのが嬉しかった。  
「おいおい、まさかそんな子供の頃の相手に嫉妬してるのか?」  
「バカ、そんなわけないでしょ」  
 言いながら満面の笑みを浮かべる麗音。  
 口で説明するのが面倒臭くて、覚えてくれているのならそれだけで良いと思えて。  
 だから麗音は鷹人を強引に引き寄せて、顔を上げた。  
 鷹人からの口づけを受けるために。  
 
 甘い、甘い時間を共に過ごすために。  
 

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