秀一郎さんが机に肘をついてボンヤリしていると、執事の津田さんがいつものように昼食をワゴンに乗せて運んでくる。  
ドアのところまで出て行ってお食事を受け取ると、津田さんはワゴンの下段を指差して「旦那さまに郵便です」と言った。  
見ると、書類の入ったような分厚い封筒が置いてある。  
私は秀一郎さんの横を通り抜けて、その背中側の棚に置いてある電子レンジにご飯とお味噌汁のポットを入れて30秒ほど温めた。  
秀一郎さんのお食事は一階の台所で作られ、家庭用のエレベーターでワゴンごと上がってくる。  
その一切を引き受ける津田さんが、何をするにもものすごくゆっくりな人なので、お食事はちょっとだけ冷めてしまう。  
それでも、今日は秀一郎さんがお食事が来る時間に起きていてくださったので、冷え切ってしまうことはなかった。  
 
お食事を机の上に並べてから、封筒を持ち上げてお見せする。  
「こちらに置いていいでしょうか」  
「……なに」  
面倒くさそうに箸を取り上げて、秀一郎さんが聞く。  
「なんでしょう。…出版社の封筒のようですけれど」  
秀一郎さんの箸が、焼き鮭をつつく。  
少し空いている封筒の上部から見てみると、雑誌のようだ。  
机の上にも、随分前から同じような封を切っていない封筒が積んである。  
どうやら、放っておくとこの封筒はこのままの状態でいつまでも机の上にあるに違いない。  
私は食べる気があるのかないのか、ひたすら鮭をほぐしている秀一郎さんの横で、封筒を開けた。  
「季刊セメント業界……?」  
秀一郎さんは、こういう専門雑誌に興味がおありなのかしら。  
机の上に放り出されている封筒も開けてみる。  
「月刊・山と健康?」  
私は出版社から直接送られてきているそれらの雑誌を、どんどん机の上に並べていった。  
天文科学、季刊監査役、セレブインテリア、他にもコンピューター、車、旅、野球音楽。  
およそマンガ以外のあらゆる分野の雑誌が出てきた。  
私が戸惑っていると、秀一郎さんはくすっと笑った。  
「ふせん……」  
言われてみると、雑誌にはみんな一箇所ずつふせんが貼ってある。  
そこを開いて、驚いた。  
ページの下半分くらいのコラムや、見開きで4ページにわたる解説、批評、評論、エッセイ。  
全部、秀一郎さんの書いた文章が載っている雑誌。  
『物書き』と言った職業は、どうやら本当のようだった。  
「書斎から一歩も出ないで、よくこんなに書けますね」  
思わず言うと、秀一郎さんは鮭をつついただけで一口も食べないまま箸をおいてしまった。  
「資料と……妄想」  
「妄想でお腹はふくれません。召し上がってください」  
置いた箸をもう一度持たせると、秀一郎さんはため息をついた。  
ため息をつきたいのはこっちだというのに。  
「……パンじゃない」  
子供か。  
「パンがお好きなのはわかりますけど、今回は和食です」  
この方がパンが好きだというのは、ただお茶碗から箸でご飯粒を取って一口ずつ口に運ぶのが面倒なだけで、パンのほうが手っ取り早く満腹になれるからなのだ。  
お茶碗を手に持たせようとしても、このガリガリに栄養不足なご主人さまはつまらなそうにして食べない。  
「秀一郎さん、死にますよ」  
脅かすと、くすくす笑う。  
 
仕方ないので、棚からラップを持ってきて机の上に広げ、お茶碗を取り上げてそこに逆さにした。  
興味深げに、秀一郎さんが覗き込む。  
私は箸も取り上げて、ラップに山盛りになったご飯の真ん中にほぐした鮭を埋め込むと、ラップで包んでおにぎりにした。  
小皿に添えてある焼き海苔を貼って、秀一郎さんの前に置く。  
「これだけは食べていただかないと、コーヒーは淹れませんっ」  
おにぎりというものを見たことがないのか、秀一郎さんは珍しそうに眺め、一口かじった。  
「……ふうん」  
お塩がなかったから、おいしくはないかもしれない。  
それでも、秀一郎さんは黙っておにぎりを一つ食べてくれた。  
本当は、煮物やお味噌汁も食べて欲しかったけど、仕方ない。  
コーヒーをドリップして出すと、秀一郎さんはやはり塩気が欲しかったのか、キュウリの漬物をつまんでいた。  
「秀一郎さんは、なにか食がすすむような、お好きなものはないんですか。パンでもいいですけど」  
「……」  
秀一郎さんは両手でコーヒーカップを持って、考えているのかいないのかしばらく黙る。  
「……食べないと」  
「きゃあっ!」  
油断したところを、お尻を撫でられた。  
中学生じゃあるまいし、お尻の一つや二つ触られたくらいで悲鳴を上げるなんて我ながらどうかと思うけど、この方の触り方は普通ではない。  
妙に艶かしいというか官能的というか、ちょっと触られても電気が走ったようにびくっとなって、身体が熱くなってしまう。  
「なんですか、もうっ」  
抗議すると、またくすっと笑う。  
「食べないと、……抱き心地が悪いから?」  
「そういうことではありませんっ」  
くす。くすくす。  
確かに、骨が浮くほどやせてしまっている秀一郎さんは、抱き心地は良くない。  
体温も低いし、ごつごつする。  
でも問題はそういうことではないのに。  
別に、秀一郎さんの抱き心地なんかどうでもいいし、どっちかと言うと抱かれるのは私のほうだし、というかそんなことしなくたっていいし。  
私が顔を真っ赤にして乱暴に食器を片付けている横で、秀一郎さんは少し笑いながら積み重ねた雑誌の背表紙を眺めている。  
 
「あとで、人が来る」  
ふいに秀一郎さんが言った。  
このお屋敷にお勤めするようになって半月、秀一郎さんはこの部屋と書斎から廊下にすら出ることはなく、私と津田さん以外の人が部屋に入ることもなかった。  
誰かが来る、というめずらしいことに私は手を止めた。  
「お客様ですか」  
「……編集」  
コーヒーカップを押しやって、秀一郎さんは腕を伸ばしてあくびをした。  
「お休みになりますか」  
聞くと、お決まりの「少し寝る」が言えなくなったのか、黙って立ち上がった。  
私は秀一郎さんが脱ぎ捨てながら歩く、一時間も着てもらえなかった衣服を拾いながらついていく。  
昼の間は食事やコーヒーを挟みながら数時間の睡眠をくりかえす秀一郎さんは、その度に新しい服に着替えるので、ちっとも汚れていない洗濯物が毎日山のように出る。  
ベッドを置いてある衝立の向こうまで行き、最後の一枚を拾おうと屈むと、目の前に、少なくとも嫁入り前の乙女が至近距離で目にしたと公言するのははばかられるモノが立ちふさがった。  
「きゃ!」  
慌てて曲げていた腰を伸ばすと、私の驚きなどまったくお構いなしの秀一郎さんが、湯たんぽを差し出した。  
「冷たい」  
しばらく前に電子レンジと一緒に買ってきた、チンするタイプの湯たんぽ。  
最初は興味がなさそうだった秀一郎さんも、その使い心地が気に入ったようで、時々使いたがる。  
寒いならパジャマを着るとか厚い布団を使うとかすればいいようなものだけど、うすっぺらな掛け布団一枚に全裸、という睡眠スタイルを変えようとしない。  
「あ、はい」  
洗濯物を小脇に抱えて湯たんぽを受け取ると、秀一郎さんはそのまま手を伸ばしてきた。  
撫でられる。  
私がさっと身体をかわすと、胸を狙った秀一郎さんの指は私の腕をかする。  
ちょっと睨むと、秀一郎さんはくすくすと笑った。  
「……こっちの湯たんぽも、冷たい」  
私は返事をせずに部屋に戻り、秀一郎さんはベッドに潜り込んだ。  
まったく、油断も隙もない。  
 
数分間、電子レンジで湯たんぽを温めてから、タオルに包んで秀一郎さんのところに持っていく。  
掛け布団にくるまって、こちらに背を向けている。  
その足元にそっと湯たんぽを差し入れると、秀一郎さんの脚が伸びて湯たんぽに触れる。  
まだ起きていらっしゃる。  
「秀一郎さん、お客様がお見えになるのはいつでしょう」  
「……」  
「秀一郎さん」  
「……津田」  
私はため息をついた。  
この方は、津田さんがいなければなにもできないのかしら。  
私は秀一郎さんの背中に掛け布団を押し込んで隙間ができないようにしてから、部屋を出た。  
 
津田さんに来客時間の予定を確認してから、自分の食事を用意する。  
冷蔵庫からチーズと野菜、ベーコンなどを取り出してピザトーストの準備をしていると、食材の袋を提げた津田さんが台所にふらっと入ってきた。  
「今、お食事ですか」  
荷物を作業台に置いて、私が持っているものをゆっくり順に見て行く。  
この人に細い銀縁メガネ越しに見つめられると、叱られているような気分になってしまう。  
「秀一郎さんがお休みになりましたので、お客様がいらっしゃる前に…」  
「……すみれさん」  
「はい」  
ピーマンを袋から出す。  
「編集者は、用事が終わったらすぐ帰すようにしてください。旦那さまは慣れない人が苦手です」  
「……はあ」  
人見知りの小学生や思春期の女の子じゃあるまいし。  
それに、慣れない人といっても、仕事先の担当者じゃないんだろうか。  
津田さんは荷物の中からコーヒー豆の袋を取り出して置き、冷蔵庫の前に片膝をついて、その他の食材を冷蔵庫にしまい始めた。  
その動作がゆっくりで、私は早くしないと冷気が全部逃げてしまうとハラハラしてしまった。  
最後の牛乳をドアポケットに収めて、津田さんはようやく冷蔵庫の扉を閉めた。  
「すみれさん」  
今度は、なに。  
「はい」  
私はピーマンの種を取りながら返事をする。  
「コーヒー豆を買ってきましたので、旦那さまに」  
「はい。わかりました」  
秀一郎さんはどこぞの店のなんとかというブレンドがお好みなのだ。  
「すみれさん」  
さすがに、いらっとした。  
「はい」  
「それ」  
津田さんが私の後ろに立っていて、声の近さにびっくりした。  
「私にも一枚、いただけませんか」  
振り向くと、相変わらず無表情な津田さんが私の手元を見下ろしていた。  
「もし、パンが足りないのでしたら、よいのですが」  
私は、手元の5枚入りのパンの袋を見た。  
「私、そんな大食いに見えます?」  
津田さんが、気まずそうに咳払いした。  
「いえ」  
「すぐできます。ちょっと待っててください」  
パンにピザソースを塗り、薄切りの野菜とベーコンを並べてチーズを乗せて、トースターで焼く。  
焼いている間にコーヒーを淹れ、領収書を整理している津田さんに同時に出した。  
 
「お待たせしました、どうぞ」  
「……」  
津田さんは何も言わずにじっとピザトーストを見ている。  
「あの、なにか」  
まさか、ピーマンが嫌いとか言うのかしら。  
「すみれさん……」  
「はい」  
津田さんが、顔を上げた。  
「魔法かと思いました。料理が早いです」  
早いって、作業的にはピーマンとタマネギをスライスしただけなんだけど。  
もっとも、たまに津田さんが秀一郎さんのお食事を準備しているのを見るけど、あのペースだったらまだタマネギの皮を剥いているころかもしれない。  
私は、はあそうですかどうも、と返事を濁して、今度は自分の分のピザトーストを作り始める。  
まったく、主人が主人なら執事も執事だ。  
「すみれさん」  
「……はいっ」  
トースターのつまみを回して、津田さんを振り返る。  
「おいしいです」  
私は、がっくりと肩を落とした。  
 
編集の人が来る、と言われた時間の少し前に、私は秀一郎さんの部屋へ行った。  
ドアを開け、そっと部屋の中に入って衝立の向こうを覗く。  
ベッドの上で、秀一郎さんが座り込んでいる。  
「お目覚めでしたか」  
声をかけると、ゆっくり振り向く。  
前髪の間からこっちを見ている目が恨めしげに見える。  
「……遅い」  
はいはい、と私は和箪笥から着替えを取り出して渡し、時間を伝えた。  
「……なに」  
もう、予定を忘れている。  
「お客様がお見えになる時間です。お出しするのはコーヒーだけでいいと津田さんがおっしゃいましたけど」  
「……ああ……、うん……どう、だろう」  
寝起きの秀一郎さんは、いつにも増して役に立たない。  
のろのろと着替えて、いつもの机の前に座る。  
「……来ないと」  
なにかしら。  
「はい?」  
津田さんが買ってきてくれたコーヒー豆を棚に置いて振り返る。  
「編集が、来ないと……淹れないの」  
机の上に組んだ腕を投げ出して、その上に顔を横向きに伏せた秀一郎さんがこっちを向いている。  
あいかわらずざんばらな髪が顔を半分ほど隠しているけど、見慣れてきた私には秀一郎さんがちょっと不機嫌なのがわかる。  
「いいえ。今、お淹れします」  
豆の入った缶を見せる。  
机に突っ伏したまま、秀一郎さんは私がコーヒーを淹れるのを見ている。  
電気ケトルのお湯が注がれて挽きたての豆がふっくらとして、いい香りが立ち込める。  
気のせいか、秀一郎さんが笑っているように見える。  
ほんとに、コーヒーが高カロリーな飲み物だったらいいのに。  
骨に皮を張ったような腕の横に、カップを置いたところで、ドアがノックされた。  
 
「はい」  
「小野寺さんがお見えです」  
津田さんの声がしてドアが開き、意外にもまだ若いきれいな女の人が入ってきた。  
「こんにちは、先生」  
女の人の背後で津田さんがドアを閉めて行ってしまう。  
長い髪をふわふわに巻いて、黒っぽいパンツスーツにアタッシェケース。  
いかにも仕事ができます、という感じ。  
秀一郎さんは顔も上げず、両手でカップを抱えて肘をついたままコーヒーを飲んでいる。  
小野寺さんはさっさと部屋の中に入ってくると、机の前まで進んで私に気づいた。  
「あら、新しいメイドさん?」  
「あ、はい……」  
私を上から下まで見て、小野寺さんは秀一郎さんに笑いかけた。  
「今度は長続きするといいですね、先生」  
秀一郎さんは相変わらず、ぼんやりとコーヒーを飲んでいる。  
「あたしはミルクだけでお砂糖はなしね」  
小野寺さんが片手を顔の横で振ってそう言ったので、私は慌てて新しい豆を挽く準備をした。  
石像のような秀一郎さんにまったくお構いなしで、アタッシェケースから出した書類や本を机の上に積み上げると、小野寺さんはさっさと部屋の真ん中にあるソファセットの方に移動して腰を下ろした。  
「今回お願いしたいのは、そこにあるリストの原稿です。資料と前号も揃ってます。たたき台ができたらいつもどおりメールで送ってくださればチェックします。その締めきりもリストにありますし、同じものを津田さんにも渡しておきます……」  
分厚い手帳を開きながら、一人でじゃべっている。  
「で、最近はいかがですか。少しは外出でもなさって、季節のネタでも仕入れていらっしゃいません?」  
コーヒーができるまでの間、息継ぎもなくしゃべり続けて、手帳をパタンと閉じる。  
棚の隅にあった、ソーサーつきのカップをトレーに乗せて運ぶ。  
「どうぞ」  
「ああ、ありがとう」  
重いんじゃないかと思うくらい飾りのついた長い爪で、カップを取り上げて、また私を見る。  
「あなた、名前は?」  
「武田すみれでございます」  
「まあ、かわいい」  
小野寺さんはふふふと笑ってコーヒーを一口飲んだ。  
「あら、おいしい」  
頭を下げて、秀一郎さんの後ろまで下がった。  
カップが空になっている。  
「おかわりなさいますか?」  
「……うん」  
秀一郎さんが手を伸ばして、机の上の資料や書類を引き寄せた。  
回りにある物が押されて落ちそうになるのも気にしないので、それを押さえたり積み直したりして、その隙間にコーヒーを置く。  
「すみれちゃんは若いですね」  
小野寺さんは私の名前を言っているけど、話しかけているのは秀一郎さんのようだ。  
「……」  
秀一郎さんは相変わらず返事をしない。  
「先生の好みって、わからないなあ。前のメイドは美人だったし、その前の人もすらっと背の高い人で」  
それじゃまるで、私がずんぐりむっくりのブスみたいだ。  
「……!」  
秀一郎さんが、小野寺さんの見えない机の影で、私のお尻を撫でる。  
いつもならきゃっと叫んだり睨んだりするところだけど、なんだかこの時は、秀一郎さんが小野寺さんの言う事を気にするなと慰めてくれたような気がした。  
その後も、小野寺さんは最近の芸能界のスキャンダルや若い子の流行、出版社の人事などを一人でしゃべっていた。  
秀一郎さんは相槌ひとつ打たないのに、ずいぶんおしゃべりな人だと呆れ、その内だんだんあまりにも秀一郎さんが無愛想ではないかと不安になってきた。  
原稿を依頼に来た編集者ということは、仕事をくれる人なのだし、もっとちゃんと話をしたほうがいいんじゃないかしら。  
コーヒーを二杯飲んで、小野寺さんは腰を上げた。  
「じゃあ、また来月お伺いしますね。お風邪などにお気をつけて」  
ついに、秀一郎さんは最後まで一言も発しなかった。  
 
私がドアの外まで見送ると、小野寺さんは私の腕を引き寄せてドアを閉めた。  
「ね、すみれちゃん。あなた先月来た時はまだいなかったわよね」  
「あ、はい……」  
「あたしは先生の担当になってもう2年なのに、ほっとんど口を利いてもらえないのよ。すみれちゃんは話する?」  
なるほど、編集という人も、先生の扱いには苦労するんだろう。  
「まあ、でもあまり……」  
小野寺さんは巻いた髪を片手でかきあげて、大きなため息をつく。  
「頼んだものは書いてくれるんだけど、それだけなのよね。どんな仕事がしたいとか、全然言ってもらえないし。書ける人なのにもったいないの」  
「……はあ」  
「ね、すみれちゃんは書斎に入ったことある?」  
「いえ、ありません」  
書斎には入るなと言われているし、秀一郎さん以外には、まれに津田さんが簡単な掃除をしに入るだけのはず。  
「あそこ、『出る』ってホントかしら」  
は?  
小野寺さんは声を落として私の耳もとに口を寄せた。  
「『出る』のよ。なんか、明治の文豪とか平安時代の女流作家とか外国の学者の、コレが」  
両手を目の前でぶらぶらさせる。  
「ま、まさか」  
「だからね、古今東西いろんな作家や学者のコレが出て、先生に書くことを指示するんだって。だからあれだけ多種多様な文章が書けるんじゃないかって。ま、ウワサよウワサ。編集者の間のね」  
「……はあ」  
「だって、この家ってそんなことがあっても不思議じゃない気がしない?昭和初期の建物らしいし、昼間も薄暗いし、先生はあんなだし」  
私が返事に困っていると、小野寺さんはふふふと笑った。  
「それに、あたしが一番苦手なのは津田さんなのよね。先生は黙って聞いてるけど、津田さんはあの目でじいっと見られるとね」  
「……はあ」  
「メイドさんも長続きしないのよ。やっぱり若い女の子には薄気味悪いでしょ?すみれちゃんも気をつけてね、あんまり気持ち悪かったら次を探した方がいいわよ」  
小野寺さんの滞在が長くなったのか、津田さんが音もなく階段を上がって姿を見せた。  
私の視線の先を追って、小野寺さんも振り向く。  
「コーヒーごちそうさま。とってもおいしかった」  
津田さんに見えないように、私に向かって片目をつぶり、小野寺さんは津田さんと一緒に階段を下りて行った。  
 
その後姿を見送って、そっとため息をつく。  
例え薄気味悪くても、私は旦那さまが迎えに来てくださるまではここにいないといけない。  
部屋に戻ると、秀一郎さんはまた机に突っ伏していた。  
私を見ると、ゆっくり身体を起こす。  
「レギンス……ってなに」  
なんのことかと思ったら、さっき小野寺さんがおしゃべりの中で言っていた単語。  
『最近は猫も杓子もレギンスですよ、個性がない』とかなんとか。  
私は机の上の雑誌から中高生の女の子向け雑誌を探し出して、レギンスを着用している女の子の写真を見せた。  
「……ももひき」  
ちょっと違うんだけど。  
秀一郎さんがあくびをする。  
なるほど、一方的なおしゃべりのようでいて、小野寺さんは部屋から出ない秀一郎さんに、外界の情報を伝えていたのかしら。  
「気味悪いかな……」  
「はい?」  
秀一郎さんを見ると、机に肘をついて手で顎を支えた格好で、私をじいっと見つめている。  
「あなたは……、私が薄気味悪い……かな」  
聞こえていたのかしら。  
私が即答できずにいると、秀一郎さんは少しだけ笑った。  
「寝る」  
「はい」  
いつものように、秀一郎さんの後をついて服を拾いながら、ベッドまで行く。  
秀一郎さんが布団に包まって丸くなってから、私は部屋の中に引き返し、コーヒーの後片付けをして、カップや衣類の洗い物をワゴンにまとめる。  
それを押して出て行こうとして、ふと書斎のドアが目に入った。  
 
毎晩、秀一郎さんがこもる部屋。  
『薄気味悪い……かな』  
秀一郎さんの言葉を思い出す。  
私は、この書斎のドアが開くところすら見たことがない。  
『出る』のよ。  
小野寺さんの言葉。  
まさか。  
あそこはただの書斎のはず。  
でも、もしそうだとしたら、どうして入ってはいけないのかしら。  
そういえば、書斎にはこの部屋に続くドアのほかに、廊下に面したドアもある。  
私は廊下側のドアも開けたことはないけれど、もし誰かが廊下から出入りしていても私は気づかない。  
どうしよう。  
この書斎の中で、ものすごくなにかいけないことが、薄気味悪いことが行われていたら。  
まさかまさか、と思いつつ、私はそっと書斎のドアに近づいた。  
「すみれさん」  
書斎のドアに手を伸ばす前に、戻ってきた津田さんの声がして私はびくっとした。  
「よろしいですか」  
廊下から身体を半分入れただけで、津田さんが言う。  
「あ、はい」  
私は急いでワゴンを押して廊下に出た。  
書斎のドアを開けようとしていたのを、叱られるのかしら。  
不安な気持ちで台所へ行くと、津田さんは一枚の注文用紙を差し出した。  
「買い物があればそこに書いてください。来週の配達になります」  
少し拍子抜けし、少しほっとして、私はその注文用紙を眺め、追加のキッチンペーパーや洗剤を書き込んだ。  
他にないかしらと考えていると、棚の戸を開けたままこっちを見ている津田さんに気づく。  
――さっきは、わざわざこのために私を呼びにきたのかしら。  
もし、津田さんが来なければ、私は書斎のドアを開けていたかしら。  
そこに、なにかあったのかしら……。  
 
お夕食のワゴンを押して、秀一郎さんの部屋のドアをそっと開ける。  
まだお休みなのか、部屋の中が真っ暗だった。  
ワゴンを押して入り、いつものように照明を半分だけつける。  
衝立の向こうを見に行くと、秀一郎さんはベッドの上に座り込んでいた。  
大きすぎるベッドの真ん中よりちょっと上側に、片膝を曲げて足首をつかみ、背中を丸めて肩に薄っぺらな掛け布団をかぶっている。  
「秀一郎さん?」  
呼ぶと、ゆっくり振り向いた。  
「……ああ」  
部屋の方からの明かりに、ぼんやりと秀一郎さんの顔が浮かび上がった。  
なんだか困ったような、泣いているような、笑っているような、今まで見たことのない表情。  
「あの、お食事です」  
着替えを用意しようと箪笥に近づくと、ぐいっと腕を引っ張られた。  
びっくりして振り向くと、秀一郎さんがベッドに膝をついて腕を伸ばし、私の腕をつかんでいる。  
「はい?」  
まだ眠いのかしら。  
ベッドに近づいて、滑り落ちた掛け布団を肩にかける。  
「お腹すいてませんか?」  
「……いなくなった」  
「え?」  
秀一郎さんが、弱々しく首を横に振った。  
「私が……薄気味悪いから……かと」  
なんのことか、一瞬わからなかった。  
秀一郎さんが、私をそっと抱きしめる。  
背中に回された腕は、いつものように艶かしい触れ方ではなく、大切なものを大事に扱うように優しかった。  
意図がわからずに戸惑っていると、秀一郎さんは私の耳もとでささやいた。  
 
「……て」  
 
聞き取れなかった。  
「なんです?」  
秀一郎さんの手が、背中を撫でた。  
腰骨が、ぞくりとした気がした。  
「秀一郎さん、お食事……」  
抱きしめられたままで、声がこもる。  
背中から、秀一郎さんの手の平の感触が伝わってくる。  
またあの、ぞくぞくする感覚。  
お目覚めになったばかりなのに。  
「お仕事も……なさらないと」  
お食事をして、お風呂に入って、それから夜中が秀一郎さんのお仕事の時間。  
そう言いたかったけれど、私はもう抵抗できなくなっている。  
「……その前に」  
秀一郎さんが、するっとエプロンのリボンを解く。  
腕を引かれて、ベッドに座り込んだところを抱き寄せられる。  
秀一郎さんはゆっくりした動きで、時間を掛けて私のメイド服を脱がせる。  
大きなベッドの上で、横になったまま黙ってされるままになっていると、自分が人形にでもなって悪戯されている気分になってきた。  
裸で寝る癖のある秀一郎さんは、初めからなにも脱がせるものがなく、かといって自分でさっさと脱ぐのも抵抗がある。  
それに、脱がせるために秀一郎さんの手や指が肌に触れるたびに、ふわっと身体が宙に浮くような心地よさが伝わってくる。  
向きを変えたり抱き起こしたりしながら、秀一郎さんはせっせと私の服を取り去っていく。  
下着だけになった時、秀一郎さんがぴたりと手を止めた。  
「……いや……」  
なにがいやなのかと思ったけれど、見上げると秀一郎さんが少し不安そうな表情をしている。  
私が、今『して』あげるのがいやか、と聞いているのだ。  
ここまでしておいてなにを、と言いたくなる。  
秀一郎さんは私から少し離れ、背中にシーツの感触が伝わってきた。  
頬に肉の薄い手が触れる。  
「いや……なら……、やめる」  
あいかわらず、独り言のように呟く。  
その言い方が、少しお寂しそうだった。  
私は頬を撫でてくれる秀一郎さんの手に、自分の手を重ねた。  
「いやではありません」  
秀一郎さんの低い体温に、包まれたくなった。  
 
秀一郎さんは、私の胸に手を乗せた。  
軽くさすられて、私はびくっと震えた。  
たったこれだけで、どうしてこんなに感じてしまうんだろう。  
すると、秀一郎さんは両手で胸を撫で、その間に顔を寄せた。  
手で真ん中に押し寄せて、自分の顔を挟むようにする。  
なにをしているのですか、と言ってやりたかったけど、私はその代わりに吐息をついた。  
指先が、軽く先端をひっかく。  
「ん、あ……」  
さんざん人の胸を両手で弄んでから、秀一郎さんは今度は舌先を使ってなぞってきた。  
そんな、そこばかり。  
指先が脇腹や腰を撫で、手の平が太ももをさする。  
触れた場所から、はっきりと快感が立ち上る。  
私は思わず、秀一郎さんの腕を押さえた。  
たったこれだけで、声を上げてしまうなんて恥ずかしすぎる。  
 
「しゅっ、秀一郎さん」  
「……なに」  
「交代してください」  
「……」  
手を止めた秀一郎さんが、不満げな顔をしている。  
「これから、お仕事ですし、あまりお疲れになっても差しさわりがありますでしょう」  
「……」  
私はベッドの上に座り込んで、秀一郎さんと向かい合った。  
「……え、と」  
一方的にされるのを阻止しようとあせったけれど、さてどうしよう。  
秀一郎さんの、いっそう乱れた前髪の隙間から覗く目が、興味深げだった。  
座っていると、目の前にあばらの薄く浮き出た秀一郎さんの胸がある。  
私は手を伸ばしてその胸にそっと手を当ててみた。  
薄い。  
やっぱり、もっとお食事をしていただこう。  
「……てくれない」  
秀一郎さんが、ぼそっと言った。  
「はい?」  
「……交代……したのに、なにもしてくれない……」  
くす。くすくす。  
笑われて、かっと耳が熱くなったような気がした。  
秀一郎さんの細い指が、私の顎にかかる。  
「私が……したい」  
少し冷たい唇が重ねられてきた。  
その唇を温めてあげたくなって、私は伸び上がって自分の唇を押し付けた。  
秀一郎さんの腕が私の背中に回って、抱きしめられる。  
私も秀一郎さんの首に腕を巻きつけた。  
薄い胸に、自分の乳房を押し当てる。  
秀一郎さんの舌が絡んでくる。  
「……ん、ふっ……」  
呼吸が苦しくなり、顔をそらすとそのまま秀一郎さんは私の頬や目元にキスをした。  
身体をぴったりくっつけて、お互いの顔にキスをする。  
なんだか変な気分。  
挿れもせずに、こんなに抱き合ったり触れ合ったりするのがこんなに心地いいなんて。  
以前、旦那さまとはちょっとだけキスをして、胸に触れて、あそこに指を入れられて、すぐに挿入されていた。  
それでもすごく幸せだったけど。  
 
秀一郎さんが私に体重を掛けるようにキスしてきて、とても軽いはずなのに私はあっさりベッドに押し倒されてしまった。  
バランスを崩した秀一郎さんも、私の上に倒れこむ。  
くす。  
なにがおかしいのか、私の上で秀一郎さんが笑う。  
「だいじょうぶですか」  
聞きながら、私も笑ってしまった。  
私は倒れた弾みで、両脚で秀一郎さんの腰を挟んでいた。  
身体をずらそうとしたら、押しとどめられた。  
秀一郎さんがそのまま下がって、私の脚の間に顔を入れる。  
「……あ!」  
指で押し開くようにしたそこに、暖かいものが押し当てられる。  
「……んあ、あん」  
ぺちゃぺちゃと音を立てて、秀一郎さんがそこを舐める。  
食べられてしまいそう。  
一気に駆け上がる感覚に襲われて、私は秀一郎さんの頭に手を乗せた。  
「や、それ、は、反則です」  
ぴたっと動きを止めて、私の脚の間で秀一郎さんがくすっと笑う。  
その吐息が吹きかけられて、私はまた声を上げてびくんと痙攣した。  
指で膣の入り口をかき混ぜながら、上の突起を舌先でつついてくる。  
「や、あ、ああっ、……あ!」  
シーツを握り締めて、腰を浮かせる。  
 
秀一郎さんは顔を離すと、私の腰を抱え込んだ。  
目を開けると、ちょっと大きすぎるものがそこにある。  
何度か頼まれて「して」あげてるけど、いつも始めは少し痛い。  
「ゆっくり……お願いします」  
そう言うと、秀一郎さんはまた前髪の間から私を見る。  
「これ……は、薄気味悪い……かな」  
最初に、私が「大きくて無理」というようなことを口走ったのを覚えているんだろうか。  
それと、小野寺さんの言葉を重ねたのだろうか。  
私は手を伸ばして、秀一郎さんに触れた。  
「ゆっくりしてくださったら、だいじょうぶです」  
「……わか……った」  
秀一郎さんが、そっと沈めてくる。  
今日は、痛くなかった。  
ほうっと息を吐くと、秀一郎さんがさらに深く入ってきた。  
「……んっ」  
「……痛い……かな」  
言いながら少し身じろぎする。  
その微妙な動きで、私はまた声を上げてしまった。  
それを痛いと思ったのか、秀一郎さんが腰を引く。  
私は両手で秀一郎さんの腕をつかんだ。  
「だ、いじょうぶ、です。して、ください……」  
秀一郎さんが一度身体を伏せて、キスしてくれた。  
手が、肩から胸、お腹の方へ撫で下ろされて、腰をつかむ。  
ゆっくり、ゆっくり動いてくれる。  
ああ。  
旦那さまへの後ろめたさは、まだ残っているけれど、それも忘れそうになるほどだった。  
秀一郎さんが動くたびに、しびれるほど気持ちいい。  
こんなに気持ちいいことを覚えてしまって、私はだいじょうぶかしら。  
旦那さまが迎えに来てくださったあと、満足できなくなっていたらどうしよう。  
やっぱりこんなこと、お断りした方がいいんじゃないかしら。  
でもそれで、秀一郎さんが私に気味悪がられていると思ってしまったらお気の毒だ。  
機嫌を損ねてここを追い出されてしまったりしても、困る。  
だんだん、考えがまとまらなくなってくる。  
秀一郎さんが呼吸を乱している。  
私も、切れ切れに声が出る。  
中の上のほうを削り取るように引っかけながら擦りあげられ、両手で胸を撫でられると、一瞬意識がふわっと飛んだ。  
秀一郎さんの動きが激しくなる。  
もう少し。  
快感が高まって、私は駆け上がるような感覚に身を任せた。  
「んあああっ」  
私がのけぞって達するのを見届けて、秀一郎さんがまた動く。  
「……い」  
うめくように言って、秀一郎さんが私の上に倒れこんできた。  
 
お互いに息が上がってしまい、しばらくそうして休んだ。  
「ふ……」  
どちらからともなく、笑ってしまう。  
「秀一郎さん、お食事」  
まだ未練があるように、私の胸に顔を埋めて身体を撫でている秀一郎さんの肩に手を当てる。  
「……ん」  
秀一郎さんは起き上がろうとしない。  
また眠くなってしまったのだろうか。  
ちょっと、秀一郎さんに情がわいてしまいそうだった。  
 
「……て」  
耳もとで、またぼそっと呟く。  
また?  
頭では呆れているのに、いつのまにか手は秀一郎さんの分身に触れる。  
くす、と秀一郎さんが笑った。  
「このくらい……だと、いい?」  
無意識に触れてしまったそれを、今更放り出すわけにも行かず、私はちょっと顔が熱くなる。  
「それはそれで物足りません」  
わざとそんな言い方をすると、秀一郎さんは止まらなくなったようにくすくす笑う。  
手の中で、物足りなかったそれが、少しずつ硬くなる。  
いけない、お食事とお風呂とお仕事をしていただかないとならないのに。  
「……誘ってる」  
秀一郎さんが、私の耳たぶを噛んだ。  
「違い……」  
言いかけた時、秀一郎さんの身体がびくっとして固まった。  
どうしたんだろう。  
気配に顔を上げて、私は叫んだ。  
 
「きゃあああっ」  
隠れるものも場所もない。  
いつの間にか、衝立のところに津田さんが立っていた。  
「……なに」  
私に覆いかぶさるようにシーツに手をついていた秀一郎さんが、いつもの声で聞いた。  
「今夜中に、原稿を上げていただかないと間に合いません」  
まるで何も見ていないように、津田さんがいつもの落ち着き払った様子でそう言う。  
私は心臓がバクバクして、気を失ってしまいそうだった。  
「……わかった」  
秀一郎さんが答え、津田さんはそのまま向きを変えて部屋の中へもどり、ドアから廊下へ出て行った。  
い、今のはなに?  
秀一郎さんに抱きつくように隠れていた私の背中に、秀一郎さんの手が触れる。  
まさか、このまま平然と続きをしようっていうのかしら。  
「……もういい」  
私から離れた秀一郎さんの声が、不機嫌になっていた。  
 
私は秀一郎さんに脇でくしゃくしゃになっている掛け布団をかぶせて、自分は急いで服をかき集めてお風呂場に飛び込む。  
ざっとシャワーを浴びてから服を着て、お風呂にお湯を溜める。  
秀一郎さんをバスタブに放り込んで上から下まで洗い、肩まで浸からせて100まで数えさせる。  
体を拭いて、服を着てもらい、髪を乾かす。  
ようやくこざっぱりした秀一郎さんは、なぜかずっとかすかに微笑んでいた。  
なにがおもしろいのかしら。  
こっちは津田さんにあんなところを見られて、穴があったら入りたいくらいに恥ずかしいのに。  
見てないかのように用件を言う津田さんもおかしいけど、見られて平然としている秀一郎さんもおかしい。  
これからどんな顔で津田さんに会えばいいのかしら。  
考えるだけで顔が熱くなり叫びだしたくなる。  
 
身体を動かしていた方が、余計なことを考えずに済むと、お食事の準備を始めた。  
お食事を順番にレンジで温めなおして、机の上に並べる。  
肘をついて頬杖をした秀一郎さんが、湯気を上げる温野菜とバターロールを見て、レンジの前に立つ私を振り返った。  
「パン……」  
たったそれだけの言葉で、私は秀一郎さんが機嫌を直しているのがわかるようになった。  
「そうですね」  
秀一郎さんは、微笑んだまま手でバターロールをむしった。  
その横に、温めたクリームシチューを置く。  
「熱いですからお気をつけて」  
ゆっくりバターロールを口に運びながら、秀一郎さんが言った。  
「あなたも……、熱かった」  
一瞬で、ベッドの上でのことと、それを見下ろしていた津田さんの顔を思い出して、私は真っ赤になり、それから血の気が引いた。  
すっかり忘れていたけれど、津田さんはこのお屋敷の執事なのだ、恥ずかしがっている場合じゃない。  
主人のベッドに潜り込むようなメイドを、ふしだらだと解雇しても不思議ではない。  
どうしよう、ほんとうに追い出されてしまったら。  
住む所を失う、お給料もいただけなくなる、それに。  
旦那さまが、私を迎えに来ても私はいないことになる。  
どうしよう。  
 
秀一郎さんが、コーヒー豆の缶を持ったまま固まった私を見上げた。  
「……どうしたの」  
そう言われて、私は缶をワゴンにおいて秀一郎さんがお食事をしている机に手をついた。  
「私、私……、あの、津田さんに叱られるでしょうか。あの、ここを追い出されてしまったら、行くところが」  
珍しく目を見開いた秀一郎さんが、慌てる私をしばらく見つめ、それからふいに半分残ったバターロールを私の口に押し込んだ。  
「……?!」  
ぽろっと口から落ちたパンを手で受け止めて、私もびっくりして秀一郎さんを見つめた。  
「……パン……は、おいしい、から」  
「……はい?」  
「気分が……よくなる」  
「はあ……?」  
確かに、パンがおいしいせいではないけれど、津田さんに見られた、追い出される、というパニックは少々おさまっている。  
秀一郎さんなりに、私を落ち着かせようとしてくれたのかしら。  
一般的にパンにはそんな力はありませんと、秀一郎さんにお教えしたほうがいいのではないのかしら。  
私がパンを食べないのを見て、秀一郎さんはつまらなそうに視線を机の上の皿に戻した。  
「私が…、薄気味……」  
また、それをおっしゃる。  
手の中にあるパンを、私は自分の口に入れた。  
「ん、んぐ、う、薄気味悪くなんか、ありません。ちょっと、パンへの理解が違っただけです」  
本気で小野寺さんの言葉に傷ついているような秀一郎さんが可哀想で、私はそう言う。  
いくらか、秀一郎さんの機嫌を損ねて追い出されたくないという打算もあったかもしれない。  
それでも秀一郎さんは、私がパンを飲み込むのを待って、また視線を落とした。  
「……て」  
聞こえない。  
「なんですか?」  
「……あなたは……ここにいて……」  
そういえば、さっきも何度かそんなことを言ってらした。  
『して』と言ったのだと思ったけれど。  
もしかして、秀一郎さんは『いて』と言ってくれたのかもしれない。  
『この屋敷に、いて』  
ふいに涙が出そうになって、私はコーヒーの缶を取り上げて後ろを向いた。  
 
もちろん、ここにいますとは答えなかった。  
だって、私は旦那さまが迎えに来てくださるのを待っている。  
追い出されたくないと言いながら、ここを出て行きたいと思っている。  
私が返事をしないのをどう思ったのか、秀一郎さんは少しだけ嬉しそうにコーヒーの落ちる音を聞いているように見えた。  
 
私は、どうしたいのかしら。  
 
――――了――――  
 

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