『メイド・すみれ 4』  
 
このお屋敷に来て2ヶ月。  
師走の声を聞いても、このお屋敷にはツリーどころかリースも飾りつけもなく、この家の人はクリスマスを知らないのかしらと不思議に思ったほど、いつもどおり過ぎてしまった。  
前のお屋敷では、12月になるのを待ちかねたように、賑やかにメイドたちが総出でツリーも窓も玄関も飾り付けて音楽を流し、使用人たちにもご馳走とケーキが出て、  
小さなダンスパーティをして、一年で一番楽しいイベントだったのに。  
 
旦那さまは、今年中に私を迎えに来てくださるおつもりはないのかしら……。  
 
呆れるほど何の変化もなく、クリスマスを迎えても、津田さんが注文して配達された食材にケーキもない。  
飾り付けがなくても、窓にスプレーで雪の模様なんか描かなくても、ちょっぴり豪華なディナーくらい用意されて、銀の靴下を履いたローストチキンやプティングや、  
大きなケーキを見た秀一郎さんが、その中の隅っこに添えてあるパンを見て一番喜んだりする様子を想像してみたりしたのも、全部想像で終わった。  
先月、秀一郎さんとのあんなところを見られてから、私はますます津田さんが苦手だ。  
津田さん本人はなにも変わった様子がないし、私をとがめることもない。  
それにどんな意味があるのかないのか、私は一人で津田さんの顔色をうかがっては気まずくなっている。  
私はひょっとして、主人とベッドにいるところを誰かに見つかる星の下に産まれたのかしら。  
そんな星がある、として。  
 
サンタがプレゼントをもってきてくれなかったクリスマスが過ぎた。  
朝、身支度をして階下に降りていくと、裏口にバケツや雑巾が置いてある。  
なにごとも時間のかかる津田さんは、先月の末あたりから年末の大掃除を始めているけれど、果たして年内に終わるのかどうかは疑問なところだった。  
私は、台所のゴミをまとめてから、秀一郎さんのお部屋のゴミもだしておこう、と思いつく。  
この時間はまだ書斎でお仕事をなさっているはずなので、お部屋まで行ってそっとドアを開けた。  
秀一郎さんは最近はお仕事が忙しいらしく、早めの夕方から書斎にこもっているし、朝もなかなか出てこない。  
これ以上やつれては、ほんとうに死んでしまいそうで、あちらのご所望もない。それはいいんだけど。  
いつもよりは少ないゴミ箱のティッシュくずを集めて、私は書斎のドアの前で足を止めた。  
この中に、秀一郎さんがいらっしゃる。  
音を立てないようにドアに耳を押し付けてみた。  
なにかがドアの向こうで動いている音が聞こえるような気がする。  
もちろん、それは秀一郎さんなのだろうけど。  
怖いと思えばなんでもオバケに見える、というようなことわざがあったけど、なんだったかしら。  
私は急いで書斎のドアから離れ、ゴミ袋を持って廊下に出た。  
そっと部屋のドアを閉めると、廊下の向こうに誰かの影が動いた。  
どきっとして壁に背を付ける。  
このお屋敷はどこもかしこも薄暗くて、少し離れた物影などは見えにくい。  
ああ、そうそう、幽霊の正体見たり枯れ尾花。  
影が動いて、窓から差し込むかすかな明かりの下に立つ。  
「すみれさん」  
津田さんの声だった。  
ほっとした私に、津田さんが近づく。  
「……そこは、開けないでください」  
「え……」  
あわてて寄りかかっていた背中を離すと、壁だと思っていたのは廊下から直接書斎に続くドアだった。  
「あ、はい、もちろん……」  
窓を背にして表情の見えにくくなった津田さんが、私を至近距離で見下ろした。  
銀縁のメガネだけが、鈍く光っている。  
「……開けると、鶴がいます」  
首でも絞められるんじゃないかという恐怖と、言われたことの不可解さに、私は顔を引きつらせた。  
津田さんは、つまらなそうにバケツを持ったまま踵を返して立ち去った。  
書斎に、なにがあるっていうのかしら。  
……ほんとうに、『出る』のかしら。  
 
少し離れたお隣のお屋敷あたりから、時々風に乗って聞こえてきていたクリスマスソングも、もう聞こえない。  
私は裏のゴミ集積場に、ゴミ袋を運んだ。  
風邪はすっかり冷たくて、今夜あたり雨が降ったら夜中にはみぞれになるんじゃないかしら。  
燃えるゴミを貯めておく箱にゴミ袋を入れて蓋をすると、冬に向けて遅い庭木の手入れをいている芝浦さんに声を掛けられた。  
「やあ、すみれちゃん」  
秀一郎さんと津田さんがあんな感じなので、芝浦さんの明るさは私をほっとさせる。  
仕事はどうだいとか、旦那さまはお休みかいなどと話した後で、聞いてみた。  
「芝浦さん、ここではクリスマスのお祝いってしないんですね」  
私があんまり残念そうにしているせいか、芝浦さんは困ったような顔をした。  
「まあ、津田さんも旦那さまもあんな方だからね。賑やかなことはお好きじゃないんだよ。お客さまも見えないしね」  
「そうですよね…。津田さんって、ここのお勤めは長いんですか」  
津田さんの顔を思い出してみたけれど、銀縁メガネと白い肌の印象が強くて、顔がよくわからない。  
見たところ、秀一郎さんよりは年上だろうけどまだ三十をいくつも出ていないように見える。  
「さあ、私は前の旦那さまに雇っていただいて、ここはまだ7、8年だけど、来た時にはもういたねえ」  
「……そうですか」  
背の低い木に冬の服を着せ終えて、芝浦さんは縄の切れ端と濡れた落ち葉を集めてゴミ袋に入れた。  
「なにか、いやなことでもあったのかい?」  
聞かれて、私はあわてて両手を胸の前で振った。  
「いえ、そういうことじゃ」  
「まあ、旦那さまは無口な方だからね。私もめったにお目にかからないが、お世話をするのを嫌がるメイドもいたし……、おっと、これは失言かな」  
私があいまいに笑うと、芝浦さんは自分の発言を打ち消すように大きな声で笑う。  
メイドが長続きしないというのは小野寺さんにも聞いたし、なんとなくわかる気もしたので驚かなかった。  
でも、もしかして。  
「それは……書斎を覗いてしまったからクビになったとか?」  
恐る恐る聞いてみる。  
芝浦さんが手を止めた。  
「書斎になにかあったのかい?」  
首を横に振る。  
「見てはいないんですけど……、さっき、津田さんが。あの、鶴がいるって」  
「鶴?」  
芝浦さんはちょっと考えて、それから豪快に空に向かって大笑いをした。  
「それは、からかわれたんだよすみれちゃん。アレだほら、部屋の中を覗いたら鶴がいたっていう、恩返し」  
すぐにわからず、私はぽかんと芝浦さんの笑うのを見ていた。  
恩返し?鶴の?昔話の?  
つまらなそうに引き返す津田さんの顔を思い出した。  
冗談は、もっと楽しそうに言って欲しい。  
私はだんだん腹が立ってきて、笑い続ける芝浦さんをそこに残してぷんぷんしながら屋敷の中に入った。  
 
台所に入ると、仕事の終わるのが遅い秀一郎さんに合わせて、津田さんがお食事の準備を始めている。  
いつ出来上がるのかわからないペースで進む調理を見ないふりで、私はさっさとベーコンエッグとトーストで朝食を済ませて片付けた。  
津田さんの背中に向かって「クェーーーッ!」と鳴いてやりたい気分だった。  
食事の後で、大掃除の合間に何度か秀一郎さんの部屋を覗きに行ったけれど、まだ書斎から出てこない。  
もう12時間以上引きこもっていることになる。  
そんなに根を詰めてだいじょうぶなのかしら。  
書斎の中で倒れたりしてないかしら。  
階段を下りていくと、津田さんが小さな段ボール箱を抱えて上がってくるところだった。  
「すみれさんに荷物が届いています」  
お礼を言って受け取って、どきどきした。  
遅れて届いたクリスマスプレゼントかと思ったけど、送ってくれるような人の心当たりがない。  
受け取って差出人を見ると、前のお屋敷で仲良くしていたメイドの名前があった。  
ほんのしばらく前まで一緒に働いていたのに、とても懐かしい。  
私は津田さんにお礼を言って、急いで自分の部屋へ戻った。  
もう少し、秀一郎さんがお仕事をしていてくださるといい。  
 
もしかして、旦那さまがメイドを使って、私にクリスマスプレゼントを贈ってくれたのかもしれない、と思った。  
それとも、迎えに来てくれる日が決まってそれを知らせてくださったのかしら。  
私は、弾む心を抱きしめてドアにカギをかけ、どきどきしながら部屋の真ん中に座り込んだ。  
ゆっくり、ていねいに箱を開ける。  
エアパッキンを取り除くと、見覚えのあるカップが出てきた。  
私が、お屋敷で休憩のときなどに使っていた桜模様のカップ。  
なぜ、と思いながら箱の中を見ると、タオルやスリッパなど、私があちらで使っていた私物がいくつか出てきた。  
いくら探しても、ほかにはなにもない。  
旦那さまのお手紙も、差出人のメイドのメモさえない。  
どういうことかしら。  
前のお屋敷に残してきた、いわば忘れ物のような私物。  
置いておいても邪魔にもならないものを、わざわざ送ってくるというのはどういうことかしら。  
背筋の方から、ぞくぞくと寒気が上がってくる。  
しばらくだから、と旦那さまはおっしゃった。  
奥さまのお怒りが激しいので、ほとぼりが冷めるまでと。  
もう、二ヶ月以上もなんの連絡もくださらない、クリスマスさえなにもない……。  
私は、きっとすぐに旦那さまが迎えをよこしてくださると思い込んでいたけれど、旦那さまはほんとうにそのおつもりだったのかしら――。  
 
どれほどそうしていたのか、部屋のドアがノックされて、私ははっとした。  
カップやタオルを箱に押し込んで部屋の端に寄せ、ドアの鍵を開けた。  
津田さんが立っていた。  
「旦那さまのお食事です」  
廊下の向かい側に、いつものワゴンが置いてあった。  
「あ、すみません……」  
津田さんは私が部屋に閉じこもっていたことには何も言わず、お願いしますとだけ言って廊下を歩いていった。  
私は鏡を覗き込んで、髪や服を確かめてから深呼吸した。  
秀一郎さんの部屋のドアをそっと開ける。  
部屋の中に秀一郎さんはいらっしゃらず、衝立の向こうのベッドも空っぽだった。  
物書きという職業も、師走はお忙しいのかしら。  
私はため息をつき、天岩戸に隠れたアマテラスを誘い出すような気持ちで、コーヒーを淹れた。  
電気ケトルがお湯を沸かす間に、コーヒー豆を挽く。  
ドリッパーに端をていねいに折ったペーパーをセットして、スプーンで豆を計量する。  
沸騰したお湯が少し落ち着くのを待って、豆の真ん中に少し注いで膨らむのを待つ。  
豆がふっくらして、いい匂いがして、後は細く長く……。  
前の旦那さまに美味しいコーヒーを飲んでいただきたくて、ドリッパーの種類やペーパーのメーカーまで調べて、研究に研究を重ねた方法。  
お食事にパンが出たときとコーヒーを淹れたときだけは、秀一郎さんは嬉しそうな顔をする。  
違う。  
私が、コーヒーの淹れ方を勉強したのは、秀一郎さんのためじゃないのに。  
大好きな旦那さま。  
どうして、迎えに来てくださらないのだろう。  
どうして、荷物を送ってきたのだろう……。  
ここに、長くいるつもりなんかなかった。  
旦那さまが呼び戻してくださるまで、ほんの少しの我慢だと思っていたのに。  
――――旦那さまは迎えに来てはくださらないのかもしれない。  
私のことなんかより、奥さまのご機嫌のほうが大事だから。  
ほとぼりが冷めるまでと私を言いくるめるのは、簡単なことだったのかしら。  
世間知らずな若いメイドなんか、たやすく騙せたのかしら。  
うまく、追い払えたのかしら。  
胸に何かがつかえて、熱いものがこみ上げてくる。  
私は、泣くまいとして唇を噛んでうつむく。  
コーヒーが、できた。  
 
秀一郎さんは出てこない。  
私は、思い切って書斎のドアをノックした。  
「秀一郎さん。お食事です」  
返事はない。  
「コーヒーも、入りました。一休みなさいませんか」  
書いていて調子が良ければ、食事で中断するのはお邪魔になる、というのは私でもわかる。  
それでも、私はドアを叩くのをやめたくなかった。  
だって、秀一郎さんは書斎にいるのだもの。  
あんなに、小野寺さんが怪しいって言う書斎。  
『出る』って編集者が噂してる書斎。  
今まさに、秀一郎さんが昔の作家の亡霊に襲われてるかもしれないのに。  
お食事が遅れて、お腹をすかせて倒れているかもしれないのに。  
「秀一郎さん!コーヒーが入ったって言ってるじゃないですか!どうして、出てきてくださらないんです!  
私のコーヒーなんかいらないっていうんですか?秀一郎さんまで、私のことをいらないっておっしゃるんですか!」  
必死で、ドアを叩く。  
秀一郎さんの返事はない。  
聞こえているはずなのに、出てきてくださらない。  
そのうち手が痛くなって、私はドアの前にへたりこんだ。  
「どうして……」  
どうして、誰も私を必要としてくれないんだろう。  
どうして私は、いくらでも代わりがいるようなメイドなんだろう。  
旦那さまのベッドには、もう違うメイドが寝ているかもしれないなんて思いたくないのに、旦那さまは私を迎えには来ない。  
カーペットに座り込むと、なんだか悲しくなった。  
もうどうでもいい。  
秀一郎さんなんか、どんどんやせこけて、病気になってしまえばいい。  
鼻がグスグスしてきて、ハンカチを探してエプロンのポケットに手を入れようとしたところで、かすかに空気が動いた。  
ハンカチを握り締めて顔を上げると、驚いたことにドアが内側に開いている。  
このドアって内側に開くんだわ、と思った。  
そんなこと、どうでもいいのに。  
目の前に、素肌にシャツを羽織った秀一郎さんがしゃがみこんでいた。  
「……どうした、の」  
細くて冷たい指が、私の頬をすべる。  
どうやら私は気づかないうちにボロボロ泣いていたらしい。  
「……コ、コーヒー、が」  
話そうとしたら、喉が詰まってうまく声が出ない。  
「お、お食事、もして、いただかない、とっ」  
「……どうしたの」  
人の話をまったく聞かないで、秀一郎さんがくりかえす。  
いつものことなのに、それがとても腹立たしい。  
私はドアを叩いた手で、秀一郎さんの薄っぺらな胸を叩いた。  
「お食事のお時間なんです!クリスマスも過ぎましたけど、別になんともないですっ!」  
「……クリスマス…」  
「そうです、クリスマスです。秀一郎さんはご存じないでしょうけれど、街は賑やかで華やかで、大イベントだったんです」  
なにを言っているのかしら。  
「もういやです、こんなお屋敷。前のところはクリスマスなんかずっと前から飾り付けして楽しくて、プレゼントを交換して、このお屋敷ったらツリーもリースもなくって、  
お買い物の配達リストに鶏肉って書いてあるからローストチキンでもするのかと思ったら、芝浦さんが串に刺して焼き鳥にして一杯やってしまって」  
「……あなたは、分けてもらえなかったの」  
「そういうことじゃなくって!」  
秀一郎さんは、握り締めている私の手を開かせてハンカチを取り、私の顎から落ちる涙を拭いてくれた。  
自分でも何がなんだかわからないまま感情が高ぶって、ひっくひっくとしゃくりあげてしまう。  
「……あなたは」  
秀一郎さんが呟く。  
「前のお屋敷に戻りたい……の」  
ストレートに聞かれて、はいそうですとは言いにくい。  
それに、旦那さまは私に戻って欲しいと思っていると信じていたけど、それももう。  
 
胸に何かがつかえて、熱いものがこみ上げてくる。  
私は、泣くまいとして唇を噛んでうつむく。  
秀一郎さんが、ため息をついた。  
「……困る」  
そう言った秀一郎さんが、私の腕をつかむ。  
「あなたが……いなくなると、また……、津田が機械で淹れたコーヒーを飲まないとならない……」  
コーヒーのドリップを、旦那さまのために毎日毎日キッチンで練習したことが思い出された。  
メイド仲間が驚くほどおいしく淹れられるようになって、旦那さまにコーヒーを差し上げることができて、とても嬉しくて嬉しくて、胸がせつなくて。  
朝、新聞をテーブルの上において私の淹れたコーヒーを黙ってお飲みになる、その横顔が凛々しくて。  
一度も、コーヒーがおいしいとはおっしゃらなかったけれど、私は幸せだった。  
私の腕をつかんでいつ秀一郎さんの手に、力がこもったような気がした。  
見ると、秀一郎さんがじっと私を見ている。  
捨てられた子犬みたい。  
悲しくて悲しくて、今ここで心臓が止まってしまえばいいのにと思っているのに、そう思った。  
息を吸い込むと、ぐすっと鼻が鳴る。  
秀一郎さんが、私の視界を遮った。  
ふわりと暖かくなる。  
「……しゅ、秀一郎さん?」  
私は、秀一郎さんにそっと抱きしめられていた。  
背中に回された腕は、いつものように艶かしい触れ方ではなく、大切なものを大事に扱うように優しかった。  
意図がわからずに戸惑っていると、秀一郎さんは私の耳もとでささやいた。  
「おなかが、すいた……」  
笑ってしまった。  
涙がこぼれるのに、おかしい。  
私はグズグズと鼻を鳴らして、秀一郎さんを抱きかかえるように立ち上がった。  
秀一郎さんの肩越しにちらりと見得た薄暗い書斎は、奥のほうでデスクランプらしい明かりが見えるだけで中の様子はわからなかった。  
秀一郎さんが書斎のドアを閉め、私はお食事を机の上に並べる。  
少なくとも今は、私は秀一郎さんに必要とされていると思いたかった。  
「……今日は……、パン?」  
皿の底に手を当てて、冷めていないか確かめていると、秀一郎さんはゆっくり私を振り返る。  
「ねえ……、パンだった?」  
私は手にした皿をちょっと傾けて秀一郎さんに見せた。  
「ラザニアです」  
秀一郎さんは机に肘をついたまま、今日はまだ洗っていない髪をかき上げて笑った。  
くす、くす。  
そんなにおかしいかしら。  
レンジで温めなおしたラザニアを前に、秀一郎さんはまだ笑っている。  
「おもしろいですか?」  
聞くと、秀一郎さんは顔を撫でて真顔をつくる。  
少し温めすぎたのか、ラザニアはフォークの上で湯気を立てている。  
それを口元まで持ってきてから、秀一郎さんは呟いた。  
「これを食べたら……」  
「はい。コーヒーはもうできてます」  
お皿の横にカップを置く。  
「……それから」  
いつもの角度で、今度は秀一郎さんがうっすら笑いながら私を見た。  
「……して……くれる?」  
すぐ、調子に乗る。  
「その後はお風呂です。それからお休みになっていただかないと」  
私が言うと、秀一郎さんがぷいっと視線をそらす。  
ラザニアが熱すぎるのか、フォークを見つめている。  
私がじっと見ていると、すっかり湯気がおさまってからゆっくり口に入れる。  
コーヒーを飲みながらラザニアばかりを半分ほどへらしたところで、手の届く位置に温野菜のサラダの皿を動かすと、細い指が秀一郎さんの顔の横でひらひらと振られた。  
また偏食を、と言う前に、気だるそうに薄い身体が立ち上がる。  
「少し寝る」  
「…はい」  
いつものように、秀一郎さんの後をついて服を拾いながら、ベッドまで行く。  
一枚ずつ衣を落とされて、白い後姿が私の前で止まる。  
 
「あの、秀一郎さん」  
ベッドに上がりかけた秀一郎さんが、顔だけ振り向いた。  
「あの」  
秀一郎さんが、身体ごとこっちを向く。  
うつむくとそれが目に入ってしまうので、私は秀一郎さんと目を合わせた。  
私が黙っていると、あくび一つして秀一郎さんは布団に包まって丸くなり、転がってこちらに背を向けた。  
なんとなく拒まれたような気がして、私は仕方なく部屋の中に引き返した。  
あの、秀一郎さん。  
書斎には、なにもありませんよね。  
私が、怖がりなだけですよね。  
だって私、ここがほんとうに怖いところだったら、もう行くところがないかもしれないんです。  
帰る場所が、ないかもしれないんです。  
秀一郎さんまで、私のことをいらないと言ったら、どうしたらいいでしょう。。  
仕事がなくなるとか住むところに困るとか、そんなことよりも、もし誰も私を必要じゃないと言ったら。  
 
私、どうしましょう。  
 
じっとしていると泣いてしまいそうだったので、津田さんを手伝って、一生懸命大掃除をした。  
津田さんの拭く一日分の窓を拭いて、芝浦さんに外してもらった照明を磨く。  
しばらくしてから、秀一郎さんの様子を見に行った。  
書斎のドアの前で一度足を止めてみる。  
物音は、聞こえない。  
衝立の向こうをそっと覗いてみると、秀一郎さんはこちらに背を向けて、まだ眠っているようだった。  
掛け布団がずれて、裸の背中と腕が出ている。  
室温は高く設定しているけれど、秀一郎さんは寒がりだ。  
起こさないように掛け布団を掛けなおすと、そっとしたつもりだけど、秀一郎さんはちょっと眉を寄せて寝返りを打つ。  
ごろりと転がって、目を開ける。  
「あ、すみません、お起こししましたか」  
「……」  
私を見る目が、いつもの寝起きのどろんとした目ではない。  
何度も寝返りを打ったのか、シーツがくしゃくしゃになっている。  
「……お休みに、なれませんでしたか?」  
「……で」  
「はい?」  
寝転んだままこちらに伸ばしてきた手を、なんとなく空中で受け止めた。  
細いわりに力のある、体温の低い秀一郎さんの手。  
手を引かれて秀一郎さんの上に屈み込むと、耳もとで秀一郎さんが言った。  
「来年まで……いてくれたら…、ツリーを買うから」  
来年まで?  
来年のクリスマスまで、このお屋敷に?  
私のためにツリーを?  
秀一郎さんが、小さくあくびまでする。  
徹夜でお仕事をなさったのにお休みになっていないことになる。  
「…秀一郎さん、お休みになりませんと」  
はふはふとあくびをしながら、秀一郎さんは私の手を掴んだまま転がる。  
当然、私も一緒に倒れこむことになった。  
「秀一郎さん、ちょっと」  
「寝てる間に……いなくなる」  
どきっとした。  
かき寄せるように抱きしめて、秀一郎さんは私の耳を噛んだ。  
「……いなくなると……、困る」  
泣きそうになった。  
秀一郎さんは、私を必要だと言ってくださるのかしら。  
たとえそれがおいしいコーヒーのためでも。  
 
なんとか、秀一郎さんにお休みになっていただこうと腕を振りほどこうとしてもうまくいかず、私はあきらめて秀一郎さんと一緒にベッドに横になった。  
とりあえず眠っていただいて、それからそっと抜け出そう。  
秀一郎さんは私の耳を噛むのをやめて、頭を枕につけた。  
今度は、鼻が触れ合うほど顔が近い。  
手の平で私の頬を撫でて、秀一郎さんは息を吹きかけるようにして言った。  
「なんで……、泣いたの」  
秀一郎さんの手が、そこにない涙をぬぐうように動く。  
「いえ、べつに」  
「……うそ」  
細い指が頬をつまみあげた。  
「……ぐぎゅ…」  
私がお返しに秀一郎さんの頬をつまみあげると、秀一郎さんが変な声を出した。  
頬は、肉が薄くて皮しかつまめなかった。  
「心配してくださったんです、か……」  
言い終わるより前に、秀一郎さんの唇が近づいてきて、触れた。  
唇を交互に吸われ、舌を絡められる。  
背中に回された手が、メイドの制服のファスナーをさぐってきた。  
「……ん、眠く、ないんですか」  
背中に温められた室温を直に感じる。  
「こ……れ、してから……、寝る」  
その言い方が気に入らず、私はまた秀一郎さんの頬の皮を引っ張った。  
「……いたい……、から。それ」  
私の手を払うと、秀一郎さんは身体を半分起こし、本格的に私の服を脱がせることにしたようだ。  
ころんころんと左右に転がされて、あっさり裸に剥かれてしまう。  
上を向くと、秀一郎さんが見下ろしている。  
頬が少し赤くなっている。  
指先でそれを触ってみると、秀一郎さんがちょっと顔をしかめた。  
「痛いですか」  
聞くと、くすっと笑う。  
「……しかえし」  
また頬をつままれるのかと思ったら、胸の頂をつままれた。  
「え、それですか」  
痛くはないけど、びっくりした。  
いきなりそんなことをされたって、別に。  
そう思ったのに、ちょっと擦られてびくっとしてしまった。  
その間にも秀一郎さんは私の耳を噛んだり、脇を撫でたりとせっせと活動し始める。  
魔法の指で触れられ、撫で回され、舐めあげられる。  
それだけなのに、腰が持ち上がってしまう。  
ただ、されているだけなのが居心地悪くて、私は秀一郎さんに触れようと手を伸ばした。  
骨が浮いてごつごつした肩に指先が届く。  
その手を取られて、うつぶせにさせられる。  
「あの……っ」  
顔を上げようとしたところで、背骨に電気が走る。  
秀一郎さんが、背筋に沿って撫で上げたのだ。  
肩甲骨の下にキスしてくる。  
背中がこんなに感じるなんて知らなかった。  
首から肩にかけてを唇がなぞり、両手が脇から前に回されて胸をやわやわと揉んでくる。  
「ん……、あっ」  
逃げようと膝を立てると、手が下がってきた。  
「あっ……」  
そこを覆うように手の平を当てて、ゆっくりと動かされる。  
背中へのキスと、胸とあそこへの愛撫。  
膝を立てたせいで四つんばいになってしまったまま、秀一郎さんに背後からのしかかられている。  
後ろからなさるのかしら。  
秀一郎さんはゆっくりと私の身体を確かめる。  
そのひとつひとつに、感覚がしびれて力が抜けていく。  
私が崩れ落ちると、秀一郎さんが抱きかかえるようにして仰向けにし、少し開いた唇をふさぐ。  
この方は、耳と唇がお好きなのかしら。  
少し下がって胸に顔をうずめると、そのまま動かなくなってしまった。  
「あの……、秀一郎さん?」  
 
秀一郎さんの頭と肩に手を当てて揺すってみると、片手で胸を寄せるようにして頬をすりよせると、ころんとベッドに落ちる。  
「お休みなんですか」  
ここで眠ってしまうのかしらと少し呆れる。  
「ん……、ちょっと」  
ちょっとでもたくさんでもいいけど、私はどうなるんですか。  
秀一郎さんは私の胸に顔を寄せ、腕を背中に回したまま、本当に眠ってしまいそうだった。  
仕方なく私は片手で掛け布団を引き上げ、横向きになったまま秀一郎さんの髪に鼻をくすぐられながらじっとする。  
秀一郎さんが私の腰を抱いているので、私は秀一郎さんの頭を抱きかかえる形になっている。  
細い黒髪を指ですいていると、眠そうな声が胸元から聞こえてきた。  
「だいじょうぶ……赤い服が……あるから」  
「はい?」  
秀一郎さんの髪を指に絡めるのをやめて、聞く。  
「昔……、父の……部屋に入って…。箪笥を開けたら、赤い服と……白い付け髭……が……びっくりして」  
「……はあ」  
なんのお話かしら。  
「それから……嫌いになって……、だけど……、あなたが好きなら、来年はツリーを買うし……赤い服も着る……」  
クリスマスのお話をなさっているのだと気が付いた。  
秀一郎さんは、このお屋敷でクリスマスに何もなかったことを私が怒って、それであんなふうに書斎のドアを叩いたり泣いたりしたと思ってらっしゃるのかしら。  
それを気にして、来年はクリスマスを祝うからと何度もおっしゃるのかしら。  
「秀一郎さん……、サンタクロースを信じていらっしゃったんですね」  
亡くなった先代の旦那さまを私は知らないけれど、きっと息子思いの優しいお父様だったのだ。  
クリスマスに、サンタの服を着てプレゼントを運んでくるくらいに。  
前のお屋敷の旦那さまが、奥さまとお子様のために枕元にこっそりプレゼントを置いたように。  
メイドたちで小さなケーキとプレゼント交換のパーティをしたあとで、私は自分の部屋で膝を抱えて眠ったことを思い出した。  
旦那さまがご家族で過ごされる、イベントのある日は私はひとりぼちだった。  
「……うん」  
眠ってしまったかと思うくらいの時間の後で、秀一郎さんが返事をしてくださった。  
「秀一郎さんがサンタクロースの扮装をしてくださるんですか」  
今度こそ、返事がなかった。  
一度火照った身体を、秀一郎さんの体温の低い身体で冷やすように抱いてみた。  
 
もしかして、もしかして来年のクリスマスまでここにいるようなことになったら。  
送り返されたカップやスリッパを思い出してしまった。  
その『もし』は、今はまだとてもとても辛いことだけど。  
もし、もしそんなことになったら。  
秀一郎さんに教えてあげよう。  
イベントは、クリスマスだけじゃないってことを。  
すぐにお正月だし、七草も節分もバレンタインデーだってある。  
ひな祭りにお彼岸にイースターにこどもの日、七夕にお月見に、いろいろ忙しいんだから。  
秀一郎さんが胸に吹きかける寝息が、私をどきどきさせた。  
肩と背中に手を当ててみると、飛び出した肩甲骨が触れた。  
ほんとに、抱き心地が悪い。  
 
しばらくすると、秀一郎さんが寝返りをうって離れたので、私はそっとベッドから降りた。  
正直、ずっと寝息が気になっていてもう限界。  
音を立てないようにメイドの制服をかき集めて、お風呂場に入る。  
タイルの床にタオルを引いてお尻を乗せる。  
膝を曲げて脚を開くと、すでに濡れたそこが外気に触れてぞくっとした。  
指先で触れると、粘着質な水音がした。  
旦那さまがあまりに私を放っておいた時などに、寂しさから何度かしたことがある。  
それを思い出すように、私は自分の身体の奥を指で探った。  
秀一郎さんが舌や指でしてくださるとおりに、触ってみる。  
「……ん」  
自分で触ると、いつも気持ちいいと思っていた場所はここなのだとわかる。  
指を差し入れたり、あちこちを弄っているうちに、一番敏感な場所を探り当てた。  
「ん……、はっ、あっ」  
声をかみ殺して、快感に集中した。  
「あ、そこ……っ」  
痛いほどに膨らんだ蕾の周囲をぐちゃぐちゃとかきまわしていると、頭が真っ白になってきた。  
もう少し、そこ、そこ。  
脚を開いてのけぞるように自分で自分を慰めている姿が、お風呂場の鏡に映って私はぎゅっと目を閉じた。  
「んあっ」  
自分の腕を閉じた太ももで強く挟み込んで、私は達した。  
はあ、はあ、と息が上がる。  
中途半端に火をつけられた身体はおさまったけれど、空しさは残る。  
どうしてこんなことしちゃったのかしら。  
のろのろと身体を起こして、私は息を呑んだ。  
お風呂場のドアの向こうで、影が動いたのだ。  
まさか、また津田さん?  
床に敷いていたタオルで身体を隠すようにしたところで、ドアが開いた。  
「……いた」  
ひょろりと病的に細い影は、全裸のままの秀一郎さんだった。  
眠りの浅い秀一郎さんは、私が抜け出したことに気づかなくとも、抱きしめるものがなくなったことには気づいて目を覚ましたらしかった。  
「いなくなっ……」  
言いかけて、言葉が止まる。  
今度こそ、恥ずかしさで死んでしまいたいと思った。  
お風呂場の空気で、私が何をしていたかが秀一郎さんにもわかるだろう。  
メイドが主人の部屋のお風呂場で、なんてことをすると呆れられて、嫌われて。  
秀一郎さんは黙ってお風呂場の中に入ってきて、小さく丸まっている私の肩に手を掛けると、つい今まで自分を慰めていた手を掴んだ。  
「……ずるい」  
そう言って、秀一郎さんが指先を口に含む。  
抵抗しようと引っ張り返しても、逃れられない。  
「自分……だけ」  
くす、くすくす。  
「え……」  
秀一郎さんは笑いながら、私の手を掴んだまま引っ張って立ち上がらせる。  
明かりの少ない部屋に隣接したお風呂場とはいえ、こんなことをした後で見られるのは恥ずかしい。  
「いや、あの、しゅっ」  
秀一郎さんは私が取り落としたタオルを踏まないようにして、部屋へ戻る。  
エデンの園を追い出されるアダムとイブの美術画を思い出した。  
ベッドに腰を下ろした秀一郎さんは、掴んだままの私の手をもう一度顔に近づけた。  
「……自分だけ、ずるい」  
もう一度、そう言う。  
さっきと同じように、手を引かれて秀一郎さんの上に倒れこむ。  
「きゃ……」  
なにかが、手に触れた。  
さっきまで自分をかき回していた指が、そのまま導かれるように秀一郎さんの熱いものを握らされる。  
「わたし……にも、して」  
顔が火を噴きそうだった。  
「あ、あのっ、あ」  
「自分だけ……ずるい」  
ほんの少し眠っただけで、秀一郎さんは元気になってしまったのかしら。  
今度は、眠気混じりの愛撫とはまるで違った。  
 
後ろめたいところを見つかったという引けめから、私は逆らえず、秀一郎さんはもう一度私の身体を撫でる。  
「ん……」  
一度自分でした場所を秀一郎さんの舌が這う。  
きっともう、そこはぐしょぐしょになっているのではないかしら。  
達しはしたものの、全身を襲っていた空しさが秀一郎さんによって埋められていく気がした。  
舐めたり差し込まれたりされるたびに腰を震わせながら、私は目の前に来たものを口に入れ、舌でなぞりあげた。  
それが硬さと大きさを増していくと、脚の方で秀一郎さんがうめくような声が聞こえる。  
秀一郎さんが身体を入れ替え、膝の裏に手を入れてぐいっと押し上げた。  
ぐっしょりになってしまったそこが、秀一郎さんの前にさらされる。  
耐え切れない恥ずかしさに、私は両手で顔を覆った。  
秀一郎さんが、ふうっと息を吐く。  
「痛かったら……」  
私は顔を隠したまま、頷いた。  
大きなものが入ってくる圧迫感は、痛さではなく、ようやく来てくれたという満足感になった。  
かき出され、押し込まれる感覚が続くと、一度収まった感覚がもう一度上がってくる。  
「うん……っ」  
いつの間にか、脚が秀一郎さんの腰に巻きついていた。  
秀一郎さんが動きにくそうにして、私の背中を抱きかかえて起こす。  
つながったまま座り込む。  
秀一郎さんはそのまま私の顔中にキスをする。  
「ん、んん……っ」  
全身から力が抜けて、秀一郎さんの胸に崩れた。  
そのせいで自分の中に収めた秀一郎さんが微妙な動きをして、私は秀一郎さんの脚の上で跳ねた。  
「ん、あんっ!」  
秀一郎さんの顔がゆがんだ。  
いけない、痛かったのかしら。  
「しゅ……、あ」  
秀一郎さんが私を仰向けに倒した。  
「それ……、反則……」  
なにがですか、と言う間もなく、秀一郎さんは激しく腰を打ち付けてきた。  
「あっ……!」  
一気に攻め立てたれる。  
耳までふさぎたくなるほど淫らな水音がぐちょぐちょと響いた。  
「ん、あ、んっ、あ!」  
すごい、こんなの。  
もっと、もっとして欲しい。  
ずっと奥まで。もっと、もっと。  
ああ、気持ちいい、すごくいい。  
「あ、もう、い……っ」  
秀一郎さんを、身体の奥で締め付けてしまったような気がする。  
耳もとで「くっ」とか「うっ」とかいう声が聞こえて、私は意識を手放した。  
 
気を失ってしまったのはほんのちょっとの間だったようだ。  
目を開けると、秀一郎さんが私を薄っぺらな掛け布団で包もうとしてくれていた。  
「……あ」  
思わず声が出る。  
秀一郎さんがシーツの端を引っ張って、私の目尻にこぼれていた涙をぬぐってくれた。  
「だい……じょうぶ」  
独り言のように、尋ねてくださる。  
「はい」  
気恥ずかしさにうつむいてしまう。  
秀一郎さんが起き上がった私をそうっと抱いた。  
「……いっしょ」  
どうやら、秀一郎さんもちゃんと気持ちよくできたようだ。  
お風呂を入れます、と言うと、少しだけ抱きしめる腕に力がこもった。  
「あと……ちょっと」  
私はそのまま黙って、秀一郎さんの気の済むまで抱きしめられていた。  
その後で、私はお風呂にお湯を溜め、どうしてもというご所望で一緒に入った。  
洗ってくださるとおっしゃったけれど、自分の身体さえ満足に洗えない秀一郎さんにそんなことができるわけもなく、私は秀一郎さんを頭から足の先まで洗いたててバスタオルで拭き、お風呂場から追い出して自分の身体を洗った。  
急いで身支度をし、ぼーっとベッドに座り込んでいた秀一郎さんの髪を乾かす。  
 
「もう少しお休みになったほうが」  
「……うん」  
乾いた髪を梳かして、よれているシャツの襟を直しながら顔を覗き込むと、秀一郎さんはくす、と笑った。  
「寝る……けど」  
私は、仕上げに秀一郎さんの髪を両手で上から覆うようにして整えた。  
「はい。コーヒーをお淹れします」  
秀一郎さんが、またくすくすと笑い、私はお尻を撫でられないうちにさっさと衝立の向こうに移動した。  
 
 
 
「……ねえ」  
秀一郎さんが私を呼ぶ。  
「はい」  
振り向くと、秀一郎さんは背中を向けたままのろのろとコーヒーを飲んでいる。  
「あなたは……、コーヒーは嫌いなの」  
豆の缶の蓋を締めなおした。  
「いいえ。どうしてですか」  
秀一郎さんがカップを置く。  
私は豆とミルを棚に戻してから、秀一郎さんの話を聞くためにその横へ行った。  
「……津田は……、コーヒーを飲まない…から、おいしくなかったのかな」  
もう一度カップを持ち上げて、独り言のように言う。  
コーヒーメーカーで淹れたなら、誰がやっても変わりはないのではないかしら、という言葉は飲み込んだ。  
「……カップ」  
「はい?」  
「……一緒に」  
手の中のコーヒーを見つめながら、秀一郎さんが呟く。  
私は秀一郎さんの横顔を覗き込んだ。  
もしかして。  
「よろしいんですか?」  
秀一郎さんが、視線を落としたまま頷いた。  
「……うん」  
照れてらっしゃる。  
秀一郎さんは、私に一緒にコーヒーを飲まないかと誘ってくださったのだ。  
その、いつにない表情に私はなんだかおかしくなって、おかしいのに泣きたくなった。  
私は、秀一郎さんのお誘いに甘えることにして、棚に余分のカップを取りに行き、昼間小野寺さんに出した客用のカップを手に取る。  
ちょっと考えてそのままカップを棚に戻し、うつむいたままの秀一郎さんに言った。  
「カップを取ってまいります」  
返事を待たずに部屋を出て、そのまま廊下を横切って自分の部屋に入る。  
ダンボールの中に押し込んだ、桜模様のころんとしたマグカップ。  
お気に入りが割れてしまったときに、旦那さまがくださったもの。  
紙袋に包装もなしで入っていたものだったけれど、抱いて眠りたいほど嬉しかった。  
必ず戻ってこれると信じていたから、前のお屋敷を出るときも当たり前のように置いてきた。  
私はそれをつかんで、エプロンの端で拭いてから秀一郎さんのお部屋へ戻った。  
 
秀一郎さんと一緒に、コーヒーをいただくために。  
 
 
――――了――――  
 

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