『メイド・すみれ 6』  
 
毎朝、私は秀一郎さんのお部屋で、お風呂の支度をしてからコーヒーを淹れる。  
ドリップされたコーヒーがサーバーにたっぷりできるころ、書斎のドアが開く。  
一晩中、資料やパソコンに向かってお仕事をなさっていた秀一郎さんが、コーヒーの香りに誘い出されて出てくるのだ。  
「おはようございます」  
「……うん」  
机に向かって座った秀一郎さんの前にカップを置く。  
少しお疲れになった赤い目で私を見上げ、ちょっと微笑んでおっしゃる。  
「……どうぞ」  
お許しをいただいて、私は自分のカップにコーヒーを注ぎ、スツールを寄せて秀一郎さんの隣に腰掛ける。  
これが、毎朝のお決まりになった。  
 
一緒にコーヒーをいただいて、秀一郎さんがあくびをなさってからゆっくり立ち上がる。  
着ていた服を一枚ずつ脱ぎ落としながら、秀一郎さんがお風呂に向かい、私はそれを拾い集めながらついていく。  
袖をまくり上げてお風呂場へ入り、秀一郎さんを上から下まで洗う。  
薄いヒゲを剃って、クリームをつけて、体を拭いて、服を着ていただいて、髪を乾かす。  
「はい、おしまいです」  
朝のフルコースが終了すると、秀一郎さんはご機嫌で立ち上がった。  
少し前までは、時間を見計らって津田さんがワゴンにお食事を乗せて運んでくるのが決まりだった。  
でも今は、秀一郎さんは机の前の指定席に戻らず、私の後をついてくる。  
廊下側のドアを開けると、お部屋を出る。  
秀一郎さんが、お部屋を出るのだ。  
初めのころは考えもしなかった、ありえなかったはずのこと。  
私の斜め前、日の光がほんの少し入るだけの薄暗い廊下を、それだけでまぶしそうに目を細めて歩く。  
階段を降りて台所と続きになっているダイニングスペースへ入っていくと、津田さんがテーブルにお食事を並べている。  
「おはようございます」  
「……うん」  
そう、秀一郎さんはご自分のお部屋ではなく、最近ダイニングでお食事を召し上がるのだ。  
 
少し前の、節分の日の夜。  
私は豆まきがしたいからと、秀一郎さんに紙でできた鬼のお面をかぶってもらおうとした。  
約束したじゃありませんか、してない、しました、してない。  
豆は痛いと逃げる秀一郎さんは、ちょうどお食事を運んできた津田さんに助けを求めた。  
ここで豆をまかれると迷惑ですという津田さんの意見で、私は秀一郎さんをダイニングに誘った。  
ほんとうにいらっしゃると思わなかったけれど、秀一郎さんは腰を上げた。  
そして、鬼は芝浦さんが引き受けることになって、私たちは普段使っていなかったダイニングで豆まきをしたのだ。  
芝浦さんは鬼のお面をかぶって、「泣く子はいねがー」と言いながらダイニングに入ってきて、津田さんに「それは違います」とやり直しをさせられた。  
ダイニングテーブルの椅子に座ったまま、横着に鬼に豆を投げる秀一郎さんは、それでも楽しそうだった。  
豆まきの後で、私がそれぞれに齢の数だけ小豆の甘納豆を入れて焼いたパンを食べた。  
私のはずいぶん豆が多いと芝浦さんが笑って、その後で津田さんが恵方巻を三本出してきて、秀一郎さんがお腹を押さえながらギブアップして。  
私は恵方に向かって、秀一郎さんがもっともっとお元気になって、お笑いになって、太ってくださるように願った。  
その願いがかなったのかどうか、秀一郎さんはそれからお部屋を出てダイニングでお食事をなさるようになった。  
先代の旦那さまがご存命の頃は、ご一緒にお食事をなさっていたというから、ひどく久しぶりにお部屋を出たことになる。  
心なしか、お顔の血色も良くなってきた気がする。  
よかったよかった、すみれちゃんのおかげだよと芝浦さんが男泣きしたのは、内緒にする約束をした。  
 
今朝も、ごく自然に、秀一郎さんはダイニングのテーブルにつく。  
今日の朝食はスープと卵とソーセージ、それに黒糖のパン。  
柔らかくしたバターをつけたり、そのままちぎって口に入れたり、やはりパンばかり召し上がる。  
秀一郎さんがお食事をなさっている途中で、津田さんが一度ダイニングに入ってきて足を止めた。  
棚にしまうナプキンを手に持ったまま、私が秀一郎さんにもれなく食べていただくために手元にお皿を寄せているのを見る。  
「……なにをなさってるんです」  
津田さんは棚にナプキンを入れると、私の隣に立った。  
秀一郎さんは基本的に箸を持った手を上下させるだけなので、箸の下にお皿を置かないといつまでも同じものだけを召し上がる。  
それで私は、秀一郎さんのお食事の進み具合を見ながら、お皿を動かすのが習慣になっていた。  
「甘やかしすぎです」  
津田さんが、いつになく怖い声で言う。  
「幼稚園児だって自分で食事ができます。旦那さまはとっくに大人ですから」  
わかってはいるけれど、秀一郎さんは大人になっても自分で食事ができないんだから仕方がない。  
秀一郎さんがテーブルの下で私のエプロンを引っ張った。  
顔を近づけると、秀一郎さんは私の耳もとで小声でささやく。  
「津田は……こわい」  
「なんです、ひそひそと。旦那さま、ブロッコリーもどうぞ」  
津田さんはじろっと秀一郎さんを睨みつけ、とにかくご自分で、と念を押して台所へ戻っていった。  
お部屋で秀一郎さんのお世話をしていた頃は気づかなかったけれど、津田さんはけっこう秀一郎さんに厳しい。  
靴下を履かずにスリッパで廊下を歩くと注意するし、コップをコースターでなくテーブルの上に置くのも小言を言う。  
私なら黙って手を貸してしまうことを、津田さんはいちいち秀一郎さんにやらせるのだ。  
それはまるで、行儀の悪い子どもをしつける親のようだ。  
そして、私にはすぐに拗ねて黙り込んでしまう秀一郎さんが、津田さんには逆らわない。  
秀一郎さんは津田さんの背中を見送って、木の枝のような腕を伸ばして遠くのお皿からブロッコリーを取った。  
いつだって、津田さんの言うことだけは聞く。  
ブロッコリーを食べながら、秀一郎さんが私を見上げた。  
「べつに、なんでもありません」  
ぷいっと横を向くと、秀一郎さんはまたエプロンを引っ張る。  
なんですかと身体を屈めると、半分に割った黒糖パンが差し出された。  
間違ってる。すべての不機嫌が、パンで治ると思っているのは、間違っています。  
そう言ってやろうと思ったけれど、秀一郎さんがあんまり嬉しそうに私にパンを差し出してくるので、言えなくなった。  
しかたなく、私は口を開けて、大きすぎるパンの塊にかじりついた。  
「……おいしい」  
わかっています、黒糖パンは最近の私の自信作なんですから。  
言い返してやりたかったけど、もぐもぐしてて声が出せない。  
それに、秀一郎さんがあんまり嬉しそうだから。  
お食事の後で、秀一郎さんはお休みになるためにお部屋へ戻った。  
私がまだちょっと不機嫌なので、秀一郎さんは廊下を歩きながらむやみに触ってくる。  
「だって……津田は、こわい」  
ちゃんと、わかってらっしゃるのだ。  
秀一郎さんが、私がいくら言っても食べないブロッコリーを、津田さんに言われれば食べることで、私が機嫌を悪くしてると。  
私はそっぽを向いて、ぺたぺた触ってくる秀一郎さんからちょっと離れた。  
だいたい、お食事のお手伝いをしなくていいなんて言われたら、私の仕事が減ってしまうし、秀一郎さんのおそばにいる必要がなくなってしまう。  
それでも、お部屋に戻ってコーヒーをドリップし始めて、その香りで目を細める秀一郎さんを見ると不満も不安もどうでもよくなる。  
秀一郎さんは、私の淹れたコーヒーが一番お好きなのだもの。  
すると秀一郎さんが急に顔をしかめて私を見た。  
「苦い。ここ」  
口元を指差して、ぺろっと舌を出す。  
嫌いなブロッコリーを食べたから、口の中が苦い。  
言ってることがわかる自分もどうかと思いながら、私は秀一郎さんの顔を覗き込んだ。  
「お水、飲みましょうか」  
すると、秀一郎さんは首を横に振って、くすくすと笑った。  
ただ、苦手な野菜を食べたことをほめて欲しかっただけなのかしら。  
まったく、子どもなんだから。  
コーヒーをお出しすると、秀一郎さんは私にスツールを勧めて「どうぞ」とおっしゃる。  
私は自分のコーヒーをカップに注いで、秀一郎さんの隣に座る。  
一緒にコーヒーをいただいて、秀一郎さんはまた服を脱ぎ散らかして衝立の向こうにあるベッドに上がって掛け布団に包まる。  
湯たんぽをレンジで温めて、足元に差し入れて、私はワゴンを押してお部屋を出た。  
 
台所に戻ると、津田さんがのんびりとお食事の後片付けをしていた。  
布巾のかかったカゴの中には、黒糖のパンがまだ残っている。  
「すみれさん、それをいただいてもいいですか」  
はっきり認めないけれど、津田さんもかなりパン好きらしい。  
私は昨夜のパスタの残りを炒めなおすことにして、津田さんの横に立ってピーマンやウィンナーを切りはじめた。  
野菜は多めに炒めて、半分はオムレツにして津田さんのおかずにしようと思った。  
「……すみれさん」  
お皿を食器洗浄機に並べながら、津田さんが言う。  
「はい」  
「ありがとうございます」  
私はまだ、オムレツを作るとは言っていないけれど。  
「旦那さまが、少しずつ行動的になりました。すみれさんのおかげです」  
「え、いえ、私はなにも」  
いきなりだったので、返事がしどろもどろになった。  
お部屋ではなくダイニングで食事をしたり、週に一度か二週に一度、パン屋や公園に一時間ほど出かけることがそれほど行動的だとは思わなかった。  
「いえ、一時はあきらめていました。……旦那さまは、このまま引きこもりになってしまわれると」  
以前は、私がこのお屋敷に来るずっと以前は、そうではなかったのかしら。  
「先代の旦那さま……、お父上がご存命の頃はいくらか外出もなさいましたし、お仕事で人に会われたりもしていました」  
津田さんが食器洗浄機に洗剤を入れ、スイッチを押す。  
「お父上が亡くなられて、すっかり気落ちしてしまわれました…」  
秀一郎さんは、お父さまが亡くなったのがよほどショックだったのかしら。  
すると、津田さんは不愉快そうに眉根を寄せた。  
「だいたい、旦那さまが秀一郎さんを甘やかしすぎたのです。奥さまを早くに亡くされたので不憫だとおっしゃって」  
「……はあ」  
「砂糖漬けの上に、蜂蜜がけです。おかげでご自分ではなにもできない人になってしまいました」  
「……はあ」  
「メイドも手を焼いて次々辞めて行きますし、使用人も減りました。私がどんなに……」  
珍しく多弁になった津田さんは、そこではっとしたようだった。  
「……いえ。すみれさんが、良くしてくださるので……本当に、助かります……」  
津田さんがこんなにお話をするのは珍しい。  
私はフライパンで野菜を炒めた。  
「あの、津田さんはこちらのお勤めは長いんですか」  
食器洗浄機は、見張っていなくてもお皿をきれいにしてくれますよ、というのは黙っていた。  
「……私は、ここで育ちましたから」  
もしかして、津田さんのお父さんかお母さんが、ここで住み込みのお勤めをしていたのかしら。  
「じゃあ、秀一郎さんの子どもの頃もご存知なんですね」  
炒めあがった野菜を半分お皿に取り分けて、フライパンに卵を入れてオムレツにする。  
「お小さい頃は私の後ばかり付いて来られました。後にこれではいけないと心を鬼にしましたが」  
黒糖パンと牛乳で食事を済ませようとしている津田さんの前に、オムレツを置く。  
「あ…、ありがとうございます」  
フライパンの前に戻って、パスタの仕上げにかかる。  
「ただ、私も先代の旦那さまが亡くなった後はつい昔のように甘やかしてしまいました」  
熱いオムレツに苦心しながら、津田さんが言う。  
「すみれさんがいらしてからも、気にかけるあまり…余計なことまで。お詫びします」  
津田さんはお食事をしながら話しているし、私は背を向けて調理をしている。  
それが、あの日衝立の奥にまで踏み込んだことなのだと気づいて、私は津田さんの顔が見えない位置にいることを感謝しながら顔から火を噴いた。  
いつも監視されているように感じた薄気味の悪さも、言葉が少なくて表情の乏しい津田さんが秀一郎さんのことを心配しているがゆえの行動だったのかしら。  
主人も執事も、わかりにくいところがよく似てると思ったけれど、それは子供の頃から一緒だったせいなのかしら。  
「すみれさん。……旦那さまを、よろしくお願いします」  
振り向くと、津田さんのメガネがオムレツの湯気で曇っていた。  
 
食事と後片付け、洗濯や芝浦さんの手伝いの庭仕事などをしてから秀一郎さんのお部屋に戻った。  
衝立の向こうのベッドを覗くと、秀一郎さんがうつ伏せで眠っている。  
苦しくないのかしら、と思いながら、飛び出している足に掛け布団をかける。  
そのまま寝顔を見ていると、ふいに目が開いた。  
目が開いたのを見ているのに、お目覚めですかと聞くのもおかしい。  
私が黙っていると、何度か瞬きをした秀一郎さんが寝返りを打って上を向く。  
両手を布団から出して、差し出してくる。  
秀一郎さんの上に屈みこむと、その細い腕が私の首に絡みつく。  
そのまま抱き起こすと、秀一郎さんは私の耳もとでくすっと笑った。  
秀一郎さんはベッドの上に座り込む。  
抱いた背中が、少しだけ柔らかくなった気がする。  
「秀一郎さん。まだお休みになりますか」  
聞くと、秀一郎さんは私に抱きついたままふにふにとあくびをした。  
「津田に、叱られた…」  
私の努力の成果のような秀一郎さんの背中をもう一度撫でてから、そっと引き離す。  
「いいえ、私は叱られませんでした」  
私が、秀一郎さんを甘やかしすぎると津田さんに叱られたかと心配してくださっているのだ。  
「津田は……こわい」  
箪笥から着るものを出して渡すと、それを身につけながら秀一郎さんは繰り返した。  
そんなに津田さんが怖いなら、私が津田さんに叱られたと訴えても、秀一郎さんはかばってくださらないのではないかしら。  
「あなたも、こわい」  
秀一郎さんが、シャツのボタンを留めるのを半分であきらめてしまったので、残りを代わりに留めた。  
これも、甘やかすということになるのかもしれない。  
「私、怖いですか?」  
ボタンを二番目まで留めて、秀一郎さんを見上げる。  
「……怒ると、コーヒーが苦い」  
「まさか」  
「うん……」  
秀一郎さんが、私を見下ろして変な笑い方をした。  
そのまま衝立の向こうに歩いて行かれるので、急いでベッドを整えてから追いかけた。  
「秀一郎さん、コーヒー、違うんですか」  
いつも同じ豆を同じ量で、お湯の温度も気をつけて同じように淹れているのに。  
机に向かって腰を下ろした秀一郎さんは、いつものように頬杖を付いた。  
「怒ると、苦い。悲しいと……酸っぱい」  
びっくりした。  
「来た頃……酸っぱい」  
このお屋敷に勤めはじめた頃。  
私は、悲しかったとおっしゃるのかしら。  
なにを、悲しんで。  
……ああ。  
そうだ、そうだった。  
私は、悲しかったんだ。  
前のお屋敷の旦那さまに、追い払われるようにここへ来て。  
いつお迎えに来てくださるかと、そればかり考えて、悲しくて恋しくてせつなくて。  
そのころのコーヒーは、酸味が強かったのかしら。  
いつから、コーヒーは酸っぱくなくなったのかしら。  
「じゃあ、今はいかがですか」  
電気ケトルでお湯を沸かし、豆をミルで挽く。  
「……ごはん、食べないと……苦い」  
少し身体を斜めにして、コーヒーを準備する私を見ながら、秀一郎さんはそう言ってくすくす笑う。  
とびっきり、苦いコーヒーを淹れてやりたくなった。  
「……おいしい」  
ドリップされたコーヒーが落ちはじめ、秀一郎さんは徐々に頬杖を倒して机に頬を乗せた。  
「はい?」  
「最近の、おいしい」  
ずるい。  
秀一郎さんは、いつもそうやって最後は私をちょっとだけ喜ばせることをおっしゃる。  
 
クリームをひと垂らししたコーヒーを、秀一郎さんの前に置いた。  
ブラックがお好きな秀一郎さんが、うらめしそうに私を見上げた。  
「胃が荒れますから、今回はそちらでどうぞ」  
秀一郎さんは、毎日たくさんのコーヒーを飲むので、ちょっと心配でもある。  
「やっぱり……こわい」  
ぼそっと呟いてカップを口に運ぶ。  
聞こえてますよ。  
言おうとしたら、机の上の電話が鳴った。  
秀一郎さんが動かないので、私が受話器を取り上げる。  
この電話は外線では鳴らないので、津田さんの内線だというのはわかっていた。  
秀一郎さんが、クリーム入りのコーヒーを少しずつ飲みながら、耳をそばだてている。  
私は送話口を手で覆って、秀一郎さんに言った。  
「小野寺さんからお電話です」  
秀一郎さんが、手を伸ばして受話器を受け取る。  
「……はい」  
なにかしら、今は月に一度の訪問の時期ではないけれど。  
短く何度か返事をした後、秀一郎さんは私に受話器を返し、私はそれを電話機に戻した。  
「……あした」  
明日、小野寺さんが来るのかしら。  
「何時ですか?」  
「……じうじ」  
「わかりました」  
秀一郎さんが、手の平を上に向けて私に向ける。  
「どうぞ」  
言われるまで忘れていた。  
自分のカップに、コーヒーを注ぐ。  
スツールに腰を下ろそうとしたら、秀一郎さんが椅子を回してワゴンからコーヒークリームのビンを取り上げた。  
蓋を外して、私のカップにクリームを入れる。  
「ずるいから」  
自分だけ、ブラックで飲むのはずるい。  
クリームをワゴンに戻して、秀一郎さんが満足そうに笑った。  
ほんっとに、子どもなんだから。  
「小野寺さんは、急ぎのお仕事ですか」  
つい、ぽろっと言ってしまった。  
わかりもしないお仕事のことに口を挟むなんて、分を越えている。  
「あ、すみませ……」  
「内緒……」  
「はい?」  
内緒って、なにかしら。  
お仕事のことはわからないけど、だからって。  
「内緒」  
口元に微笑を浮かべながら、意地悪なことをおっしゃる。  
「……じゃ、いいです」  
そう言ったら、頬をつままれた。  
「いひゃいでふ……」  
くす、くすくす。  
答えたくないのか照れ隠しなのか、秀一郎さんは私の頬をつまんで引っ張ったり、撫でたりした。  
顔が変形しますからやめてください、と抵抗する。  
結局、なにも教えてくださらずに秀一郎さんがもう一度お休みになってから、私はパンの仕込をする。  
今日はプレーンの食パンを焼いて、津田さんの作ったチキンのハーブ焼きでサンドイッチにしてもらう予定だった。  
秀一郎さんが覚えていらっしゃるかどうかはともかく、明日は節分の次のイベントの日。  
冷蔵庫を開けて、チョコレートやココア、生クリームなどがレシピどおり揃っているのを確認した。  
明日はバレンタインデー。  
とびきりチョコたっぷりの菓子パンを焼くつもりで、もう何度か試作品も作っている。  
その度に試食する津田さんや芝浦さんも絶賛してくれた完成レシピは、メモしてコルクボードに留めてある。  
試作の段階で気づかれないよう、すぐにエプロンの匂いをかぎたがる秀一郎さんを警戒して、何度もエプロンを取り替えたり換気扇をありったけ回したり、明日のためにがんばった。  
節分に、私のお願いを聞いて豆まきをしてくださった秀一郎さんに、お礼の気持ちをこめて。  
 
台所に水を飲みに来た芝浦さんが、声を掛けてきた。  
「いよいよ明日だね、すみれちゃん」  
「は……、はい?」  
芝浦さんは、にこにこしてコルクボードのメモを指さす。  
「バレンタインデイ。旦那さまに、あのチョコパンを焼くんだろ?」  
直球で言われて、私は頬が熱くなった。  
「別に、バレンタインとか、そんなの関係ありません。チョコのパンなんて今までも作ってるじゃないですか」  
へえ、そうかい、と芝浦さんがニヤニヤする。  
私は必要もないのに棚の扉を開けたり閉めたりしていると、配達された食材を運んできた津田さんがテーブルにパン用の強力粉を置いてくれた。  
「明日ですね……。チョコレートパン」  
津田さんまで。  
「明日でも、あさってでもいいんですけど、まあ材料もあるので、明日作ろうかなって、どうしてお二人ともそんなに笑ってるんですか」  
芝浦さんがお腹を抱えて笑い、津田さんもメガネの奥の目をわずかに柔らかくして口角を上げている。  
私はいたたまれず台所を飛び出した。  
 
翌日のバレンタインデイ。  
朝食の後、すぐに小野寺さんがいらっしゃいますよと言ったのに、秀一郎さんはベッドにもぐってしまった。  
午前中にチョコパンを焼こうと思っていたのを午後に変更して、音を立てないようにお部屋を片付ける。  
十時少し前に、衝立の奥を覗いて秀一郎さんに声を掛ける。  
目を開けないので、身体に手をかけて揺する。  
ほんの少ししかお休みになれなかったので、秀一郎さんは眠そうだ。  
「お目覚めになれますか」  
秀一郎さんは仰向けに寝転がったまま、両手を伸ばす。  
上に屈みこむと、私の首に腕を回して起き上がる。  
裸の背中を抱きかかえると、まだまだ軽い。  
「……秀一郎さん」  
「…うん」  
「前は、ご自分で起き上がってらっしゃいました」  
秀一郎さんは私の肩に顎を乗せてふにふにとあくびをした。  
「いつから、私が起こさないとならなくなったんでしょう」  
「……うん」  
話にならない。  
そういえば、ここに来た頃は秀一郎さんはもっとちゃんとお話してくださったような気がする。  
最近はしゃべるのも面倒くさそうに、単語を並べることが多い。  
私がそれで言いたいことがわかるから、通じるのだけれど。  
津田さんが、甘やかしすぎだと言うのもわかる気がしてきた。  
でも、お小言を言っている時間はない。  
秀一郎さんを引きはがして、服を着ていただき、髪を梳かしてお部屋の方に押し出す。  
机に向かって腰を下ろしたところで、内線で津田さんが小野寺さんの来訪を伝えてきた。  
お湯を沸かしてコーヒーの準備をしていると、津田さんの案内で小野寺さんが部屋に入ってくる。  
びっくりした。  
いつもはいかにもキャリアウーマン的なパンツスーツ姿なのに、今日は明るい色のスカートをはいている。  
「おはようございます、先生」  
指定席のソファに座らず、机を挟んで秀一郎さんの向かいに立つ。  
ワゴンでコーヒーを淹れながら、私はその様子をちらっと見た。  
秀一郎さんのほうは、いつもと変わらず頬杖をついている。  
「これ、チョコレートです」  
差し出したのは、読めない英単語が銀色で箔押しされた紙袋。  
「あ、すみれちゃん。これにはコーヒーより紅茶の方が合うのよ」  
私はドリップの手を止めて、秀一郎さんを見た。  
秀一郎さんはなにもおっしゃらず、私は仕方なく小野寺さんに言われたとおり紅茶を取りに台所へ行く。  
部屋を出てドアを閉めるとき、背後で小野寺さんが秀一郎さんになにか話しているのが聞こえた。  
もしかして、私に聞かれたくない話があったのかしら。  
紅茶の葉とティーセットを乗せたワゴンを押して部屋に戻ると、話は終わったらしく小野寺さんはソファに座っていて、秀一郎さんの前には包装紙を開かれた、見たことのないようなきれいなチョコレートの箱。  
紅茶の茶葉をポットに入れてお湯を注ぎながら、私はそのチョコレートに目を奪われてしまう。  
芸術的な模様や飾りがついた、きれいな小さなチョコレートが並んでいる。  
紅茶と、そのチョコレートを三つ乗せたお皿をテーブルに出すと、小野寺さんはウエーブのかかった長い髪を手で背中に払った。  
「先生、召し上がってください。日本にはなかなか入ってこない、イタリアのパティシエのチョコなんですよ」  
 
秀一郎さんは小野寺さんに返事をせず、戻ってきた私のエプロンを引っ張ってティーカップを机のすみに押しやった。  
「やだ」  
紅茶はいや、コーヒーが飲みたい。  
小野寺さんが不愉快そうに眉をひそめ、私は心の中で、よしっ、と呟いて、新しくコーヒーの準備をした。  
秀一郎さんが目を細めてコーヒーを飲み、小野寺さんは繊細な細工のプチチョコレート三粒を口に入れて一気に紅茶で流し込んだ。  
「じゃ、失礼します。また来ますね、先生」  
秀一郎さんは聞こえなかったようにコーヒーを飲み、私は小野寺さんを送って廊下に出た。  
ドアを閉めると、小野寺さんは髪をかき上げてため息をつく。  
いつもは時間を見計らって階段を上がってくる津田さんも、まだ来ていない。  
「すみれちゃんもよく辛抱してるわね。あ、もしかしてあんまりメイドさんが長続きしないからお給料上げたのかしら」  
「……はあ」  
「私もねえ、顔が好みだからずいぶん頑張ってるんだけど、もう我慢も限界だと思ってたのよ。2年もろくに口をきいてくれないんだもんね」  
我慢の限界、と言いながら、小野寺さんは笑った。  
「このタイミングで吉報が入れば、もう少し担当やろうかな。編集としても晴れ舞台だし」  
「……はい?」  
「おっと、これはまだ内緒。すみれちゃんも、ほどほどにね」  
津田さんが、階段を上がってきた。  
強制送還の時間らしい。  
「ま、今回のことがあってもなくても…、あの顔は、2年は我慢する価値があるわね」  
片手をひらひらと振って津田さんの方へ歩いていく小野寺さんの背中に頭を下げながら、私は今聞いた言葉を頭の中で繰り返した。  
――――顔が好みだから、ずいぶん頑張ってるんだけど。  
――――あの顔は、2年は我慢する価値がある。  
部屋を戻って、コーヒーのカップを空にした秀一郎さんがこっちを見ていた。  
その顔を、まじまじと見た。  
小野寺さんが、お好みだという顔。  
「……なに」  
ドアを背にして、突っ立ったまま秀一郎さんの顔を見ていると、聞かれた。  
少し広い額と、細い眉、くぼんだ目と細い鼻梁、げっそりとこけ落ちた頬にとがった顎。  
頭蓋骨に皮を張ったような顔の、どこがいいのかしら。  
首を振りながらそばまで行く。  
「ねえ……」  
「だめです、今日はコーヒーを飲みすぎになりますから、おかわりは差し上げません」  
秀一郎さんは素直にカップを置いた。  
「……どうぞ」  
小野寺さんのくれたチョコレートの箱を、私のほうに押した。  
「いいんですか?」  
私も女の子の端くれとして、甘いもの、特にチョコレートは大好きだ。  
上にナッツと金箔の乗った一粒をいただいて、口に入れる。  
濃厚なビターチョコの中から、甘いチョコレート。  
おいしい、こんなおいしいチョコレートは食べたことがない。  
「おいしい……」  
思わず呟くと、秀一郎さんはチョコレートを箱ごと持ち上げた。  
「どうぞ」  
「え?そんな、せっかく小野寺さんがくださったのに。おいしいですよ」  
秀一郎さんは箱を私に押し付けて、首を横に降った。  
「チョコは……あなたが」  
そう言って、嬉しそうな顔をする。  
「え…っ」  
思わずチョコレートの箱を取り落としそうになった。  
危ない、高価なチョコレートなのに。  
チョコレートは、あなたがくれるから、いらない。  
秀一郎さんはそうおっしゃったのだ。  
手の中にある、宝石のようなチョコレートに目を落とす。。  
どこかのデパートか、チョコレート専門店のようなところで買ってきたのかしら。  
それとも、ネットかなにかでお取り寄せしたのかしら。  
どちらにしても、私などには手の届かない、買い方さえわからないような品。  
冷蔵庫にある、スーパーの製菓売り場で買ってきたチョコレートと割引されたココアのことを思い出した。  
自分が作ろうとしているチョコレートパンが、ひどく野暮ったくて安っぽいものに思えてきた。  
ホームベーカリーにココア生地を練らせて、安いチョコを刻んで混ぜて、それを丸めてオーブンで焼く。  
この手の中の箱に並んでいる、一粒一粒に違う細工の施された繊細なチョコレートに比べて、なんて無骨なのかしら。  
 
「そんな、私が秀一郎さんにチョコレートなんて差し上げるわけないじゃないですかっ」  
思ったより、大きな声が出てしまった。  
「バレンタインの意味を間違ってます、チョコレートは女の子が好きな人にあげるものなんです。メイドが主人に差し上げるわけないじゃないですか」  
秀一郎さんの顔から、微笑みが消えた。  
どうしてかしら、胸が痛い。  
「……それ、は」  
秀一郎さんの細い指が、私の抱きかかえているチョコレートの箱を指差す。  
「これは、ですから、小野寺さんは、秀一郎さんのことが」  
自分で言っていて、そうかもしれないと思った。  
他の出版社の編集者はちっとも寄り付かないのに、きちんと毎月顔を出したり、無愛想な秀一郎さんにめげずに話しかけ続けたり、もしかしてこれはいわゆる仕事がらみの義理チョコではないのかも。  
「お顔が、お好きなんだそうです」  
そう言うと、秀一郎さんは不機嫌になって横向きに机に突っ伏した。  
「……あなたは」  
まさか、私には頭蓋骨に皮を貼っただけに見えます、とは言えない。  
それに、肉が薄い点を除けば、顔立ちはそう悪くないのかもしれない。  
好みかどうかと言われても、よくわからないけれど。  
私が返事に困っていると、秀一郎さんは顔を上げた。  
「寝る」  
シャツのボタンを外しながら、秀一郎さんは立ち上がる。  
衝立の方へ歩くのを、脱ぎ捨てられた服を拾いながらついていくと、ベッドの脇で最後の一枚を足先から抜き取って床に落とした。  
薄っぺらな掛け布団をはがして、こっちに背を向けて横になる。  
拾い集めた服を床において、隙間のできないように秀一郎さんに掛け布団をかけた。  
「秀一郎さん、湯たんぽ温めましょうか」  
「……」  
お返事がない。  
本当に拗ねてる。  
私は服と湯たんぽを持って引き返し、湯たんぽをレンジで温め、洗濯物をワゴンに押し込む。  
数分後、温まった湯たんぽをタオルに包んでベッドへ行き、秀一郎さんの足元に入れる。  
もう眠ってらっしゃるのかと思ったら、足が動いて湯たんぽをベッドの下に蹴り落とした。  
駄々っ子か。  
私は知らんぷりでそのまま部屋へ戻り、ワゴンを押して台所に戻った。  
 
「そろそろ、準備しますか」  
秀一郎さんのお昼を仕度している津田さんが、声を掛けてきた。  
試食の段階で、チョコレートのパンはお食事には向かないので、おやつにしようということになっていた。  
「やめました」  
コーヒーと紅茶のカップを食器洗浄機に入れながら言うと、津田さんが手を止める。  
ただでさえ作業が遅いんだから、手は動かした方がいいのに。  
「どうしたんです……」  
聞かれたら、急に腹が立ってきた。  
レシピを工夫して、何度も試作して、その度に芝浦さんや津田さんとああでもないこうでもないとはしゃいでいたのが馬鹿みたい。  
「やめたんです。パンにチョコなんか入れて、なにがいいんですか」  
秀一郎さんの脱いだ服を洗濯室に持っていくのも面倒になって、調理台の横にある椅子に腰を下ろした。  
「やめたんです……」  
言っているうちに悲しくなってきた。  
津田さんが、隣に来る。  
「どうしました」  
「……」  
返事をせずにいると、津田さんが動く気配がした。  
がさがさと、紙の音。  
顔を向けると、小野寺さんの置いていったチョコレートの箱を見ている。  
「……秀一郎さんがくださいました。いらないそうです。小野寺さんの持ってきたチョコレート」  
「そうですか」  
なんとかかんとかですね、と私の知らないカタカナを言う。  
「すごく、おいしいんです。食べるのがもったいないくらい。きっと一粒何百円もするんです」  
自分の言ってることが、情けない。  
「それ一粒で、製菓用の大きな板チョコが買えるかもしれないですよ」  
「でも、旦那さまは召し上がらなかったんですね」  
私は、頷いた。  
 
「そんなおいしいチョコレートでもいらないんです。どんなものだっていりませんよ」  
「旦那さまが、そうおっしゃったんですか」  
「……おっしゃらない、ですけど」  
「旦那さまはそんなにチョコレートがお好きですか」  
津田さんがたたみかけてくる。  
私は身体を起こして、膝の上で手を組んだ。  
秀一郎さんはチョコよりパンのほうがお好きかも知れないけど、秀一郎さんは私がチョコレートを差し上げると思い込んでいた。  
小野寺さんがくださった、豪華で繊細なチョコをいらないというくらい。  
それなのに、私が準備していたのは、子供だましのチョコパンで。  
叱られた子供の言い訳のようにボソボソ言うと、津田さんは指先でメガネを押し上げた。  
「チョコレートのパンはおいしいです。最後に完成したレシピのは特に」  
「……でも」  
「旦那さまは、編集者がその辺で買ってきたチョコレートより、すみれさんが何日もかけて準備したものをお喜びだと思いますが」  
「……」  
「なんでしたら、さりげなくお食事のときにお持ちしてもいいですし」  
「……」  
津田さんが、息をつく。  
「おまかせします。すみれさんの、お好きなように」  
立ち上がって、思い出したように付け加える。  
「そういえば、来月までに女の子の好みそうな焼き菓子を調べておくようにと言われました。…なにがあるのでしょうね」  
ホワイトデイ。  
私はしぶしぶ立ち上がった。  
お洗濯をして、アイロンをかけて。  
その前に、卵を冷蔵庫から出して室温にもどしておかないと。  
別に、今日が何の日だって、パンは毎日焼くんだし。  
たまたま、それがチョコのパンだって、偶然だし。  
それに、芝浦さんが楽しみにしてるから。  
しかたないから。  
 
 
衝立の向こうを覗くと、秀一郎さんがベッドの上に座り込んでいた。  
いつもより早くお目覚めだったのかしら。  
「秀一郎さん……」  
後ろ向きで胡坐をかいている背中に声をかけて、はっとした。  
「あ、すみま……」。  
もしかして、ご自分でなさっているのかと思った。  
最初に「してくる」と言われたときはひどく驚いたし恥ずかしかったけれど、最近はそんなことなくなっていたのに。  
時々は「して」とおっしゃるのに、やっぱり足りないのかしら。  
慌てて引き返そうとすると、秀一郎さんが振り向いた。  
「……遅い」  
違った。  
ただ、早く目が覚めてしまったのに私がいなかったのでちょっと不機嫌なのだ。  
変にどぎまぎしながら、箪笥から服を出す。  
後ろから、秀一郎さんがエプロンのリボンを引っ張った。  
「はい?」  
「くれないの……」  
「はい……?」  
たたんだ服を抱えて振り向くと、秀一郎さんが膝立ちになって私の腰を抱き寄せて、エプロンに顔をうずめる。  
あ。しまった。  
秀一郎さんはふんふんと匂いをかいだ。  
「……くれる」  
「なんですか。風邪を引きますから、早く着替えを」  
変な格好で抱きついているから、背中からお尻まで見えてしまう。  
背中の上からシャツをかぶせて、巻きついた腕を引きはがそうとすると秀一郎さんが顔を上げた。  
「いい匂い……」  
鋭い。  
試作の時はエプロンにチョコレートの匂いが染み付かないように気を使ったけれど、さっき下準備をしたときのままエプロンを換えていない。  
秀一郎さんはシャツに袖を通しながら、嬉しそうに呟いた。  
「チョコレート……」  
 
その後、お昼を召し上がるのにダイニングにいらしたときも、なにげなさそうに台所を覗こうとして芝浦さんに阻止された。  
チョコレートの匂いをかぎつけたに違いない。  
「いつ……」  
お食事をしながら、私のエプロンをひっぱる。  
お昼のメニューはじゃがいものニョッキで、パンですらない。  
「なにがですか」  
悔しいから、私もとぼける。  
津田さんが通りかかったときは、お皿を並べ替えていた手を引っ込めた。  
人の気も知らずに、秀一郎さんはくすくす笑う。  
 
秀一郎さんがもう一度ひと眠りしたときに、チョコレートのパンは焼きあがった。  
試食してもらった芝浦さんと津田さんが絶賛し、私はどきどきしながら丸いパンを三つ、カゴに入れてお部屋に運んだ。  
机の上にカゴを置き、コーヒーの準備をしていると、秀一郎さんが動く気配がした。  
ベッドを覗くと、秀一郎さんが寝返りを打ってこっちを向いた。  
「できた……」  
なんのことですか、というのもばかばかしくなって、私はちょっと笑ってしまった。  
「おやつ、召し上がりますか」  
自分の腕枕で横になったまま、秀一郎さんが嬉しそうに目を細める。  
「見る」  
横着なことをなさる。  
パンのカゴを持って行くと、腕を伸ばす。  
カゴを置いて、屈みこんで抱き起こすと、秀一郎さんは私の肩に顎を乗せてふふっと笑う。  
掛け布団で座り込んだ秀一郎さんの腰周りを覆って、バスタオルを肩にかける。  
その間に、秀一郎さんはカゴに手を伸ばしてパンを取った。  
「チョコレート……」  
たまたま、偶然です。  
いつもは出さない時間にパンだけ出すのも、それがチョコレートパンなのも。  
まだ温かいパンを口に運ぶ。  
それを横目で見ながら、着替えの準備をしていると、秀一郎さんが呼んだ。  
「ねえ……」  
「はい」  
「これは、バレンタイン……」  
中は熱々らしく、はふはふしている。  
チョコレートが溶けて、口の中を火傷したりしないかしら。  
「大丈夫ですか、熱くありませんか」  
「……うん」  
手の中に残ったパンを半分に割いて、私の口元に差し出す。  
「おいしい……」  
私は素直に口を開けた。  
秀一郎さんはくすくすと笑い、食事の合間だというのに小さな丸パンをふたつも召し上がった。  
きっともうパンのことだけに夢中で、チョコとかバレンタインとかはすっかり忘れてる。  
なぜかしら、少しだけがっかりしてしまった。  
口の端にチョコレートがついているのを、指でぬぐって差し上げると、手首をつかまれた。  
そのまま指を口に含んで、ねっとりと舐められる。  
「着替え、なさいますか」  
手を取られたまま聞くと、秀一郎さんはいきなり手を引いた。  
ガリガリのやせっぽっちなのに、こういうときだけすごい力が出る。  
バランスを崩して秀一郎さんの胸に倒れこむと、ぶつかったところがごつっとして痛い。  
まだまだ、太らせないと。  
そんなことを考えているうちに、秀一郎さんは私を抱きかかえてエプロンをほどいている。  
「ちょ、しゅっ」  
睡眠とチョコレートのパンで、急に元気になってしまったのかしら。  
私の抵抗もおかまいなしに肩から制服をすべり落とし、下着のままの胸に顔を押し付ける。  
鎖骨の下にキスされて、気分がふわっとなった。  
「…うん」  
すっかりその気になったらしい秀一郎さんが私の上になり、服を脱がせてベッドの下に落とした。  
 
このまま、流されてしまうのかしら。  
秀一郎さんが、チョコレートパンをどう思ったのかもわからないまま。  
私は、力いっぱい秀一郎さんの胸を両手で押し返した。  
秀一郎さんが、不思議そうな顔をする。  
「ずるいです」  
「……なに」  
「秀一郎さんはずるいです。なんかこう、適当です。手抜きです」  
したくなったら、いきなり押し倒してしまう。  
私の気持ちなんかおかまいなしで、だったら気持ちを盛り上げるようにしてくれればいいのに、それもなしで。  
前はもう少しちゃんとお話もしてくれたのに、今はうんとかなにとかばっかりで。  
私はただのメイドかもしれませんけど、ちゃんと心があるのに。  
何日も何日もかけてチョコレートのパンを焼くくらいには、秀一郎さんのことを思っているのに。  
秀一郎さんは私を抱き起こして座らせると、頬に手を当てて親指で目尻を擦った。  
ちょっと、泣いてしまっていたらしかった。  
「……ごめん」  
秀一郎さんが、ぽつりと言った。  
主人が、メイドに謝罪するなんて。  
そのまま、秀一郎さんの細い腕が私を抱いた。  
何度か耳もとで咳払いをする。  
「手抜きの、つもりはなくて」  
「……え」  
「もともと……あまり多弁ではないのですが」  
「え?」  
「言葉を減らしても、あなたがわかってくれるので……つい」  
「秀一郎さん?」  
「甘やかされると果てしなく甘えるたちなので……お坊ちゃんだから」  
そこまで言って、秀一郎さんは肩を落として息をついた。  
「……疲れた」  
ふっと笑ってしまった。  
「お話、できるじゃありませんか」  
「……うん」  
また元に戻って、秀一郎さんは私に抱きついたままふにふにとあくびをした。  
「あなたは……すごく、抱き心地がいいので……」  
「……秀一郎さんは、抱き心地が悪いです」  
くすくす笑いながら、秀一郎さんが私の耳を噛む。  
「ん……、あっ」  
秀一郎さんの手が、滑るように身体をなぞる。  
ぞくぞくする感覚に、声が出る。  
胸からお腹、脇から太ももまでくまなく撫で回され、口付けられる。  
秀一郎さんの手は魔法の手だ。  
触られるだけで、どうしてこんなに気持ちがいいんだろう。  
秀一郎さんは下のほうに下がっていき、脚を抱え込んで肩に乗せた。  
「きゃ…」  
いきなりのその恥ずかしさに私は短く叫んでしまった。  
閉じようとすると、秀一郎さんの頭を挟み込んでしまう。  
「んあっ」  
生暖かい柔らかいものが擦りあげてきた。  
何度も、何度も。  
ぺちゃぺちゃと音がして、秀一郎さんが私を食べてしまう。  
「や、も、だめ……」  
びくんびくんと背が反り返ってしまって、私は秀一郎さんの肩を叩いた。  
「あ、あんっ」  
秀一郎さんは身体を起こし、舐めていたそこに指を当てたまま私の髪を撫でる。  
「手抜き……すると怒る」  
痙攣がおさまったところでそう言われて、私は顔が熱くなる。  
「そういうことではっ」  
「大丈夫……ちゃんと、する」  
ちゃんと、って、これ以上なにを。  
 
秀一郎さんの指先が、私の中で動いた。  
「んきゃっ……」  
「怒ると……こわい」  
くす、くすくす。  
反論する間もなく、秀一郎さんは私をころんと転がすと、襟足の髪をかき分けてうなじにキスをした。  
そのまま背骨にそって下りていく。  
「……んっ」  
うつぶせになったまま、ぎゅっと目を閉じた。  
「すべすべしてて……気持ちいい」  
秀一郎さんが、脇腹を撫で、腰骨の辺りに唇を押し付けて言う。  
手が体の下にもぐって胸に触れる。  
「大きさも柔らかさも……すき」  
「え、あ、の」  
そんなこと口に出して言われるとものすごく恥ずかしい。  
今まで、最中にそんなこと言ったりしなかったのに。  
「いい匂いも……す、る……」  
「ちょ、そんな、あの、秀一郎さん、そういうの、ちょっと」  
「気持ちいい……」  
人の言うことを聞いてない。  
「気持ちいい……すみれ……」  
秀一郎さんはそう言いながら私のお尻を撫でた。  
もしかして、ちゃんとお話してくださいと言ったからなのかしら。  
だからってなにも、こんな時に実況中継しなくても。  
「いえ、いいです、それ、あんっ、あっ」  
後ろから、準備をした秀一郎さんが腰を抱きかかえる。  
硬く大きくなったものが擦りつけられた。  
「まだ……痛いかな」  
敏感なところをかすりながら往復する。  
「あ……んっ、はあ……」  
「私は……もう、いいけど」  
何をおっしゃっているのかしら、もうっ。  
確かに、押し当てられているものはもう準備万端に感じる。  
「ゆ、っ……」  
「ゆっくり、する……」  
鈍い圧迫感と共に、秀一郎さんが入ってくる。  
「ちょっと、入った……けど」  
ですから、そういう実況中継はいりません。  
「狭い……」  
文句言わないでください。  
「……すごく、いい、ん、だけど」  
秀一郎さんが、呼吸を荒くする。  
「もうちょっと、いれ、ても」  
もうっ。  
私はシーツを握り締めた。  
「いい……かな」  
確認しないでくださいっ。  
「……顔」  
片脚を持ち上げて、私を半回転させて仰向けにする。  
「赤く、なってる」  
顔にかかった髪を指先でよけてくださる。  
「気持ちいい……?」  
なんてことを。  
「抜けちゃった…」  
恥ずかしくて恥ずかしくて、私は両手を拳にして秀一郎さんの薄っぺらい胸を叩いた。  
その手を押さえて、秀一郎さんはくすくす笑う。  
「大丈夫、すぐ……また挿れる」  
そういうことではありませんっ。  
その言葉通り、秀一郎さんは体勢を変えて私に乗りかかってきた。  
 
「先っぽ……」  
「う…ん、あっ……」  
奥のほうから、ぞくぞくする。  
「もっと挿れて…も、いい」  
「ですから、っ、そういうこ、あんっ」  
ぐっと押し込まれた。  
中が一杯になる。  
「んっ…」  
はあっ、と秀一郎さんが息をつく。  
「気持ち…い……、きつ…」  
「やめ、あ、んっ」  
「く…、うあ……、う」  
しゃべろうとする秀一郎さんの声がうめきになった。  
いつも私は秀一郎さんに触ってもらって、挿れてもらって、頭の芯がしびれて身体が蕩けて。  
でも、ちゃんと秀一郎さんも気持ちよかったんだ。  
私に触れて、気持ちいいんだ。  
「秀一郎さん……」  
「……うん」  
動きが緩やかになって、私は一息ついた。  
「私……、いいですか」  
汗ばんだ額に長い前髪を張り付かせて、秀一郎さんが笑った。  
「……うん」  
それから、思い出したように付け加える。  
「すみれが……、いちばん、おいしい……」  
 
中が、気持ちいい。  
すごく、絡み付いてくる。  
ここのとこが、大きくなってる。  
触ったら、気持ちいい?  
おっぱいの先っぽが、とんがってる。  
きれいな色で……おいしい。  
いっぱい溢れてきた。  
すみれも、感じてる。  
 
消えてなくなってしまいたいほど恥ずかしい言葉をささやかれながら、私は秀一郎さんに蕩かされた。  
のけぞって声を上げると、秀一郎さんも短くうめく。  
そのままちょっとの間休ませもらってから、秀一郎さんはまた動いた。  
中で、秀一郎さんが震えた。  
上がった息を整えてから秀一郎さんは後始末をし、私を背中から抱いてくすくす笑った。  
「なんですか」  
「……うん」  
前に回された手が、胸を弄ぶ。  
「秀一郎さん、ずっ、ずいぶん、おしゃべりでした」  
「……うん」  
くす、くすくす。  
「お話してくださいと言ったのは、そういうことではありません」  
「……そう」  
「もう、またそれですか」  
くす、くすくす。  
「話、する……」  
「本当ですか」  
さっきだって、ちょっと文章になった言葉をしゃべっただけで疲れたとおっしゃってたのに。  
私は秀一郎さんに向き合うように寝返りを打った。  
秀一郎さんは腕枕をしてくださり、私はあばらの浮いた胸に顔を寄せた。  
 
そういえば、クリスマスになにもないと私が泣いたときも、秀一郎さんは来年はツリーを買うとおっしゃった。  
お正月も節分も、なにかしらしてくださった。  
お話もしてくださらないなんて手抜きだと言ったら、疲れるまで話をしてくださる。  
「うん……。しゃべる……。ブロッコリーも……、食べる。苦い、けど」  
秀一郎さんの胸の中で、今度は私が笑った。  
「どうしてですか。私、怒るとこわいですか」  
秀一郎さんは、私の頭にキスをした。  
「バレンタインのチョコレートは、……好きなひと……」  
うっ、と返事に詰まってしまった。  
バレンタインのチョコレートは女の子が好きな人にあげるもの。  
それは、私が言ったんだった。  
「あれは、パンです」  
「……すき」  
手が、胸をさする。  
ねえ、と秀一郎さんが繰り返す。  
好き?  
私が?秀一郎さんのことを?  
私は、チョコレートパンで秀一郎さんに愛を告白したと思われているのかしら。  
「バレンタインには、義理チョコというものがあります」  
秀一郎さんが、私の頭を噛んだ。  
「いたた、痛いです」  
「……いじわる、言うから」  
「そういうことなさると、苦いコーヒーを淹れます」  
「……すき……」  
「はい?」  
聞こえないふりをしたけど、心臓がどきどきする。  
今、秀一郎さんはなんておっしゃったのかしら。  
好き?  
まさか、秀一郎さんが私のことを?  
主人が、メイドなんかを?  
私のことが好きだから、ブロッコリーを食べるとおっしゃるのかしら。  
まさか、まさか。  
「なんですか……」  
恐る恐るもう一度聞き返してみたのに、お返事をしてくださらない。  
「あの」  
「……ん」  
私の頭に顔を押し付けて、背中に腕を回して、秀一郎さんはもう半分眠っていらっしゃる。  
もう、肝心なことを教えてくださらない。  
それに、こんな状態でお休みになってしまったら、私は抜け出せない。  
秀一郎さんはいいけど、私は勤務時間で、仕事がたくさんあるのに。  
そう思いながら、少し火照った秀一郎さんの胸に抱かれているのは心地良くて、眠くなった。  
 
少しだけ、ほんのちょっとだけ。  
だって、秀一郎さんが離してくださらないから。  
ほんの少し、一緒にお休みしよう。  
それから、秀一郎さんにおいしいコーヒーを淹れる。  
悲しくて酸っぱかったり、怒って苦かったりしない、おいしいコーヒー。  
大丈夫。  
秀一郎さんがいてくださったら、きっとおいしいコーヒーが淹れられる。  
なんだかとても暖かくて、眠い。  
前のお屋敷の旦那さまに出て行くように言われてこのお屋敷に来たときは、こんな気持ちになれるなんて思いもしなかった。  
私は、幸せな気持ちで秀一郎さんにくっついた。  
 
 
 
 
前のお屋敷から、旦那さまのお迎えが来た。  
 
――――了――――  
 

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