『メイド・すみれ 7』
芝浦さんが珍しく困ったように口ごもりながらその来客を告げたのは、秀一郎さんがダイニングで少し遅い朝食を召し上がっているときだった。
「秘書の中川さんとおっしゃる方が…、すみれちゃんを迎えに来たって言ってるんだけどね」
秀一郎さんにほうれん草のバターソテーを食べるように小言を言っていた津田さんが、眉根を寄せる。
「……すみれさん、応接室にお茶をお願いします」
突然のことに呆然としているうちに津田さんがダイニングを出て行き、私はただその背中をただ見送ってしまった。
中川さんなら私も知っている。
前のお屋敷の旦那さまの第一秘書で、髪をきれいに後ろになでつけて、いつも怒ったような顔をしている。
メイドたちのちょっとしたおしゃべりや、使用人のわずかな手抜きを見つけてはメイド長や執事を叱る、怖い人だった。
そんな人が、わざわざ自分で出向いてきたと思うと恐ろしくて頭が真っ白になる。
「……ねえ」
秀一郎さんが、ぐいっと私のエプロンの端を引っ張る。
いつもより力強い。
「いて……」
秀一郎さんが、私を見上げていた。
「すみれちゃん、お湯を沸かしてくるからね」
様子を見ていた芝浦さんが、そう言って台所に行った。
エプロンの端を握ったまま、秀一郎さんが二度、咳払いをする。
「ずっと……ここに、いてくださいと……お願いしました」
秀一郎さんが、一生懸命話そうとしている。
私は床に膝をついて秀一郎さんの顔を下から見上げた。
言葉が出てこない。
中川さんが来た目的は、私の迎えだという。
私は、もののようにやり取りされる。
「秀一郎さん……」
声が震えているのに自分で驚く。
早く、応接室のお客さまに、お茶をお出ししなければいけないのに。
――――ほとぼりが冷めたら、迎えに行く。
あのお屋敷を出されるとき、旦那さまはそうおっしゃった。
それを信じて待とうと思っていたけれど、秋が過ぎて冬になっても、お迎えはなかった。
もしかして、あれは嘘だったんだ、言いくるめられて追い出されたんだと思うようになった。
それでもいいと、その方がいいとも思った。
だって、そうしたらずっと秀一郎さんのお側にいられる。
毎日秀一郎さんのお世話ができる。
ここにいたい。
秀一郎さんの、お側にいたい。
「すみれは、……ここにいる」
秀一郎さんが、もう一度言った。
台所で、お茶の準備ができている。
「……はい」
そう答えて、私は秀一郎さんの手をエプロンから外した。
ただ、お客さまにお茶を出しに行くだけだ。
それだけ。
ティーセットの乗ったワゴンを押して、応接室のドアをノックした。
中に入ると、中川さんはソファに座った背をまっすぐに伸ばして前に倒し、膝に腕を乗せて津田さんと向き合っている。
相変わらず、髪はぴかぴかだった。
「……お宅も人手が足りないようなら、すぐに新しいメイドを紹介しよう」
ドア近くでティーポットに茶葉を入れながら、私は冷やりとした。
かなり年下とはいえ、他家の執事に対してなんて横柄な物言いだろう。
こちらに背を向けている津田さんの表情は見えない。
津田さんは、なんて言うんだろう。
「裕二くん。借りたものは、返すのが当然だよ。金も、メイドもね」
津田さんが、ぐっと言葉に詰まるのがわかった。
中川さんに、津田さんが押されている。
それに、中川さんは津田さんを裕二くん、と呼んだ。
津田さんの名前を初めて聞いた。
中川さんは、どうして津田さんを名前で呼ぶのだろう。
秀一郎さんの亡くなったお父さまと、前のお屋敷の旦那さまが古い知り合いだということで私はここへ来たのだから、双方のお屋敷に長く勤めている中川さんと津田さんに面識があっても不思議ではない。
だからといって仕事上の相手を名前で呼んだりするかしら。
……金も、メイドも?
貸したメイドを返せという言い方も悲しいけれど、お金も?
それは、貸借のルールを強調するために引き合いに出した言葉なのか、それとも。
津田さんが、動かない。
「武田」
焦れたような中川さんが急に呼んで、私はびくっとした。
「それはいいから、荷物をまとめなさい。すぐに帰る」
どうしよう。
津田さんが私の返却に同意したなら、私は中川さんの命令に逆らえない。
でももし、津田さんがお断りしてくれれば。
すみれさんは返しませんと言ってくれれば。
私は、他家の使用人である中川さんの命令なんか、後ろ足で蹴ってもいいのに。
「主人と、話してまいります。少々お待ちください」
津田さんが立ち上がった。
私の横を通ったときに、お茶を出すように呟いた。
津田さんが応接室を出て行き、私は止まっていた手を動かしてポットにお湯を注いだ。
大丈夫、きっと秀一郎さんが承知なさらない。
だって、ここにいてもいいとおっしゃったもの。
ここにいてください、とおっしゃったもの。
津田さんが部屋を出てドアが閉まると、中川さんはソファによりかかって脚を組んだ。
「まったく、なんだって私がこんなことを」
ティーカップが、かしゃんと音を立てた。
「し、失礼しました…」
「主人に色目を使ってベッドに潜り込むようなメイドの尻拭いなぞ、汚らわしい」
手が震えて、うまくお茶が入れられない。
「勘違いするなよ。主人たるもの、奥方の機嫌をとってメイドを追い出したなどと外聞が悪いから呼び戻すだけだ。旦那さまの沽券に関わる。戻っても、今まで通りのメイドではないからな。庭師と一緒に外回りの雑用でもやれ」
胸の奥が、しんと冷えてくる。
ああ、旦那さまは迎えをよこしてくださったわけではないんだ。
ただ、自分がメイドに手をつけてクビにしたとなったら外聞が悪いから、引取りはする、というのだ。
ワゴンの端をぎゅっと握り締めて、私はうつむいた。
中川さんに震える手でお茶を出して、止まらないお怒りを聞いている時間がひどく長かった。
しまいには、最近の若いメイドは主人の目を盗んで仕事をサボったり、物品をちょろまかしたりするという小言になった。
津田さんはなかなか戻ってこず、それが永遠に続くのではないかと思う頃、ようやく応接室のドアが開いた。
口を閉じ、組んでいた脚を戻して中川さんが眉を上げる。
津田さんが、私に向かってゆっくりと言った。
「すみれさん。……仕度を、してください」
重い足を引きずって、階段を昇った。
津田さんは、秀一郎さんとどんなお話をしたのかしら。
ついさっき、ここにいてとおっしゃった秀一郎さんは。
階段を上がると、廊下の左が秀一郎さんのお部屋。
秀一郎さんは、今はもうお休みなのか、それともお一人で机に突っ伏しているのか。
お部屋からは、物音ひとつしない。
中に入って、ここに置いてください、中川さんを追い返してくださいとすがることはできなかった。
私はメイドだから、ここへ行けと言われて従ったのと同じように、元へ戻れと言われたら従わなければならない。
私は、右側の自分の部屋のドアを開けた。
ここに来るとき持ってきたバッグに、少しの着替えを詰める。
別に送った分の荷物は、その箱に戻してテープで閉じた。
ものの数分で、仕度はできた。
私はほとんどの時間をこの部屋より、秀一郎さんのお部屋や、台所や、洗濯室で過ごしてきた。
使用人の数が少ないから、いろいろな仕事を手伝わなければならなかったけれど、楽しかった。
芝浦さんは気さくで陽気で、津田さんもこちらがポンポン言いたいことを言っていれば付き合いやすい人だった。
――――楽しかった。
バッグを提げて廊下に出て、秀一郎さんのお部屋のドアを見る。
秀一郎さんの、食後のコーヒーはどうしたのかしら。
それに、パン。パンはどうするのかしら。
こみ上げてきた涙を、手の甲でぐいっとぬぐった。
大丈夫。
私なんかいなくたって、大丈夫なんだ。
コーヒーはコーヒーメーカーが淹れてくれるし、パンはホームベーカリーが焼いてくれる。
私がいようがいまいが、秀一郎さんの毎日に何の変化もない。
新しいメイドが来たら、私より上手にコーヒーを淹れるかもしれないし、パンだって手ごねで焼くかもしれない。
大きいとか痛いとか文句を言わずに、秀一郎さんのお相手をするかも……。
涙が出そうになって、私は首を振った。
秀一郎さんは、私を引き止めてはくださらなかったのだ。
返せといわれたら返してしまうんだ。
メイドなんて、いくらでも代わりがいる。
このお屋敷に、秀一郎さんに、私はいらないんだ。
津田さんと芝浦さんが、裏門まで見送ってくれた。
芝浦さんは、ちょっぴり涙ぐんでいた。
津田さんは、こわい顔をして銀縁メガネの奥からどこかを見つめていた。
中川さんの運転する車の後部座席で、私は津田さんと芝浦さんと、古びた洋館が見えなくなるまで窓に張り付いていた。
太陽の日差しが、かすかに春を思わせたけれど、ちっとも心が弾まない。
まっすぐ座れと中川さんに言われて、私は前を向いてシートベルトを握った。
「その髪もなんとかしろ。だらしない」
そのほうがいい、と秀一郎さんの言ってくださった、肩に下ろした髪を私はポケットに入っていたゴムで結わえた。
――――すき。
あれはやっぱり、私の聞き間違いだった。
――――すき。
そう思ったのは、勘違いだった。
メイドの分際で、思い上がりだった。
私は、不機嫌そうに運転する中川さんに聞こえないように、小さく呟いた。
――――さようなら、秀一郎さん。
メイド長にだけ挨拶をして、私はすぐに前と同じように働き始めた。
事情を知っているらしいメイド長は、厄介な部下が舞い戻って来たというように顔をしかめていた。
仲間のメイドたちは、私が旦那さまの知人の家へしばらく手伝いに行っていたと思っているらしかった。
まるで昨日までみんなと働いていたように違和感がなく、それが私には違和感になる。
もしかして、私は秀一郎さんの夢を見ていただけなんじゃないかしら。
休憩のときに、私のカップがないとお茶当番のメイドが言った。
「武田さんたら、忘れ物を送ってあげたのに、また忘れてきたの?」
仲のよかったメイドがそう言って笑う。
「変わったお屋敷だっていうし、いらないかとは思ったけど送ったの。不便はなかった?」
お礼を言って、厨房にあるカップでお茶を飲んだ。
カップやタオルなんか、どのお屋敷にも予備がいくらでもある。
わざわざ私物を送ったのは、厄介払いをしたかったメイド長の指示かもしれなかった。
旦那さまからもらった桜模様のカップは、まだ秀一郎さんのお部屋にあるだろうか。
仕事は、中川さんが言ったように下働きではなく、前と同じメイドの仕事ではあったけれどひどく疲れた。
一日の仕事が終わると、メイドたちは私に他のお屋敷の話を聞きたがったり、いない間の出来事をしつこく話してきた。
今朝までは秀一郎さんのお世話をしていたのに、メイド仲間に囲まれておしゃべりに加わっているのが不思議だった。
以前は楽しかったメイドたちとのおしゃべりも、休憩のお茶もお菓子も、苦痛でしかない。
相部屋だったメイドに、頭が痛いから先に部屋へ戻る、と言うとそのメイドはちょっと変な顔をした。
このお屋敷は使用人も多くて、お風呂も大浴場だし、部屋も二人か三人の相部屋だった。
聞くと、私がいない間に部屋替えがあって、私が使っていた部屋は空き部屋になっているという。
まるで伝染病患者の部屋のように隔離された気がして、私はメイド長を少しうらめしく思った。
「でも、武田さんの荷物はそこへ置いたはずだから」
家具に白い布をかけた空き部屋に、中川さんの車に積んできた段ボール箱がポツンと置いてある様子が、簡単に想像できた。
それでも、今は一人になれることのほうがうれしい。
夕食後のおしゃべりの輪を抜け出て、使用人たちの部屋が並ぶ離れの棟に向かう。
部屋のドアを開けようとして、その隙間に赤いものが挟んであるのに気づいた。
まさかと思いつつ、ドアを少し開けてその赤い紙を取る。
名刺ほどの大きさの、その透かし模様のあるカードに数字が四つ書かれている。
書かれた数字は、『2100』。
腕時計の時間は、九時。
見慣れていた、忘れていた、旦那さまからの合図。
私は操られるように、誰かに見つからないようにしながら旦那さまの部屋へ向かった。
帰ってきたというご挨拶だけはしないといけない、と自分に言い聞かせた。
指定の時間を数分遅れて、ドアをノックする。
どうぞ、という旦那さまの声。
一言でもいい、その声を聞きたくて、聞けただけで嬉しくて舞い上がっていたのはそんなに前のことではないはずだった。
「遅かったな」
ドアを開けて中に入ると、旦那さまがベッドに腰掛けてタバコを吸っていた。
学生の頃に柔道の選手だったというがっしりしたお体を白いバスローブに包んでいる。
冬でも日焼けしたお顔のこめかみの辺りに、白髪が数本。
お変わりなかった。
ちらりと私を見て、手招きをする。
お側に立って赤いカードを返すと、旦那さまは私の頬に大きくて肉厚な手の平を当てた。
「制服を、新しくしてもらえ」
はっとして、自分の着ているメイドの制服を見る。
このお屋敷では、使用人は元旦と6月に、夏と冬の制服を支給される。
お正月を秀一郎さんのところで過ごした私は、去年の冬服を着ていた。
ご自分はもちろん、使用人の隅々まで身なりに厳しい旦那さまらしいお言葉。
以前のように、素直にそれを旦那さまのお優しさと受け止めることができなくなったのはどうしてかしら。
くたびれた服装を叱られたように思えて、私はうつむいた。
旦那さまはサイドテーブルに置いた水割りのグラスを取り上げて、指を一本立てた。
言葉が少ないのは秀一郎さんも同じなのに、どうしてこんなに印象が違うのかしら。
「どうした。シャワー浴びて来なさい」
挨拶だけ、のつもりだったのに、命令に逆らえない。
どうしてかしら、前は呼び出されるのがあんなに嬉しかったのに。
ドアに赤いカードとそこに走り書きされたメモを見つけるたびに、心が弾んだのに。
背後で、私がお渡ししたカードを旦那さまが破り捨てる音がした。
旦那さまは、証拠を残さない。
ベッドの上で、旦那さまが私にキスをした。
顎を強くつかんで口を開けさせ、舌を絡める。
私はぎゅっと目を閉じた。
旦那さまが胸をつかむ。
どうしてかしら、少しも嬉しくない。
私の反応が悪いせいか、旦那さまは私の上にまたがると後頭部に手を入れて起こした。
目の前に、旦那さまのそれがあった。
まだ準備のできていない柔らかいそれ。
旦那さまの手がまた私の顎をつかみ、口の中に押し込まれる。
にがい、苦しい。
旦那さまが腰を動かして押し付け、私は泣き出したいほど辛いのを我慢した。
口の中で大きくなってくる。
耐え切れなくなって私が口を離して咳き込むと、旦那さまは腕をつかんで引っ張った。
「咥えなさい……」
手で根元を握らされ、先端を咥える。
「う……お、いいぞ……」
旦那さまが私の頭に手を置いて、優しく撫でてくれる。
手が胸をさする。
「ああ、う……、おお」
旦那さまがますます大きくなる。
いつまでこうしていればいいのかしら。
旦那さまはいつも私にこうさせる。
以前はおいしいとさえ思っていたのが嘘のように、味も臭いもきつい。
秀一郎さんは、こんな無理矢理なことしなかった。
私を撫でたり吸ったりしているうちに、とても大きくなってしまって、私も秀一郎さんが欲しくなった。
しばらくすると、旦那さまが声を上げながらびくんびくんと震えて、私の肩を押して引き離した。
「…良かったぞ、武田」
武田。
このお屋敷では、みんな私をそう呼ぶ。
武田。武田さん。
旦那さまが私を仰向けに倒して、脚を抱えた。
すみれさん。すみれちゃん。……すみれ。
秀一郎さんのところでは、ごく自然にみんながそう呼んでくれた。
「なんだ、まだ全然濡れてないな。久しぶりで緊張してるのか」
旦那さまの言葉も、私に優しくしてくださっていると思えた頃があったのに。
指先がひだをなぞり、押し込まれる。
何度も弾くように撫で上げられ、かき回されているうちに、そこが潤ってくる。
目を閉じてさえいれば、旦那さまのお顔は見えない。
「感じてきたな」
そんなわけない、ちっとも気持ちよくない。
そう思うのに、時々体がびくんと震える。
旦那さまが押し入ってきたとき、私は情けなくて悲しくて、声を上げた。
「相変わらず、しまりがいい……」
私の声をどう思ったのか、旦那さまが言う。
「そんなにいいか?」
後はもう、ただ辛いだけだった。
旦那さまはなかなか終わらず、それにご自分でもいらだったように私の太ももやお尻を平手で叩いた。
ベッドから降りて私を立たせた旦那さまは、腕をつかんで後ろから攻め立てた。
「うお、うっ、うああっ」
獣の叫びのような声が頭上で聞こえ、いきなりベッドに投げ出された私の上に、旦那さまの吐き出した精液が落ちる。
数ヶ月前にはあれほど幸せだった行為が、とてつもなくひどいものに思えた。
起き上がることもできずに横を向いていると、旦那さまの舌打ちが聞こえる。
私は、抱きついたり甘えたり、そういうことを一切せずにただ旦那さまにされるままになっていただけだった。
ご機嫌を損ねただろう旦那さまになにか言う前に、小さなタオルが一枚投げられる。
さっさと服を着て出て行けとおっしゃるのかと、私はのろのろと体を起こした。
旦那さまが別のバスタオルでご自分の腰をぬぐうと、そのままシャワールームの方へ行くのが見えた。
部屋のすみにまとめた衣服を拾うときに、体に鈍痛を感じ、脚に何かが伝って落ちる感覚があった。
生理が始まったのだ。
旦那さまが不機嫌になるのも仕方ない。
私は体のだるさを押して服を身に付け、ベッドを整えてから急ぎ足で部屋を出て、使用人用のトイレに駆け込んだ。
さんざんだった最初の日以降、旦那さまからの赤いカードはなく、中川さんとも顔を合わせず、ただ以前より少し厳しくなったメイド長の元での仕事が淡々と続いた。
私はなにかを考える暇をなくそうとするように、誰よりも一生懸命体を動かして働いた。
メイドの嫌う力仕事や戸外の仕事も引き受けたので、一ヶ月もする頃には他のメイドたちには重宝がられ、メイド長もたまに優しい声をかけてくれるようになる。
それでも、私にはなにも嬉しいことではなかった。
だって、ここには秀一郎さんがいない。
秀一郎さんのそばには、もう私以外の誰かがいるのだろうに。
窓を拭いていたメイドに、使用人棟のゴミをまとめてくると断って、私は一人でみんなが出したゴミ袋や古雑誌を縛っては次々と運んだ。
途中で紐のゆるくなっている雑誌を縛りなおそうとして、見覚えのある週刊誌に手を止める。
それは、小野寺さんが担当している雑誌の最新号。
秀一郎さんが、『日々是麺麭』を連載している雑誌。
急に懐かしさがこみ上げて、私はその雑誌を紐から抜き取ってその場にしゃがみこんだ。
連載は、どうなったのかしら。
私がパンを焼かなくても他の誰かがパンを焼いて、秀一郎さんがそれを文章にしているのかもしれない。
誰か、他の誰かのことを『家人』と呼んで、そのパンがとてもおいしいと書いているのかも。
雑誌を膝において、表紙に小さく載っている秀一郎さんのお名前を指でなぞる。
ぱらぱらとめくってみても、一ページほどしかない記事はすぐに見つからず、私は目次を探した。
表紙には確かに秀一郎さんのお名前があるのに、目次に『日々是麺麭』がない。
見落としたかと思ってよくよく探して、私は心臓が止まりそうに驚いた。
――――『日々是麺麭』は、筆者急病のため休載します。
筆者急病。
秀一郎さんが、病気?
私が知るかぎり、秀一郎さんは栄養失調じゃないかと思うほどガリガリでもお風邪ひとつ引いたことがなかった。
毎日、津田さんが栄養を考えてお食事を作っていたし、私も薄着ばかりする秀一郎さんが寒くないよう部屋の温度に気を使っていたのに。
どうしよう、どうしているのかしら。
中川さんが手配した新しいメイドは、湯たんぽを使っていないのかしら。
津田さんは、秀一郎さんにブロッコリーやほうれん草やピーマンを食べさせていないのかしら。
あんなに熱心なお仕事を休んでしまうくらいだから、ひどく悪いのかもしれない。
いつからだろう、今もかしら。
ひょっとして、風邪なんかではなくて、もっともっと重い病気。
お医者さんを呼んだかしら、病院に行ったかしら、まさか入院、手術。
秀一郎さんが病院なんかでおとなしく出来るはずがない。
それとも、おとなしくしてしまうくらい具合が悪いのかしら。
病院の白いベッドで、体中に管をつながれて目を閉じている秀一郎さんを想像して、ぶるっと震えてしまった。
津田さんはなにをしてるのかしら、芝浦さんは、新しいメイドは。
私は居てもたってもいられず立ち上がって、その雑誌を抱きしめて納戸の中をぐるぐると歩き回る。
だからといって、行くことは出来ない。
私は秀一郎さんに一言もなくお暇を出されたメイドで、今はこのお屋敷で雇われているメイドで。
「武田さん?」
私の戻りが遅いのを心配したメイドが、納戸を覗いた。
「どうしたの、顔色が悪いけど。狭いところで動いて気分が悪くなったんじゃない?」
「……そうかしら…、そうかも」
ぼんやりと答えて、その後の心配してくれるメイドの言葉も、耳に入らない。
秀一郎さん。
秀一郎さん。
秀一郎さん。
どうしよう、泣きそう。
雑誌を縛りなおす前に、私は雑誌の後ろ表紙をちぎってエプロンのポケットに押し込んだ。
このままではいられない。
だって、秀一郎さんが、秀一郎さんが。
ゴミを運ぶふりをして、こっそり電話のある使用人棟の休憩室に行く。
冷たい指先で、雑誌に印刷されている編集部の電話番号をプッシュする。
何回かのコールの後で男の人が出て、雑誌の名前を言う。
「あの……、そちらに、小野寺さんという方は」
取り次いでもらえないかと思ったけれど、男の人は申し訳なさそうに小野寺はまだ出社していないと謝った。
夕方くらいならいるかもしれないと教えてくれる。
私はお礼を言って電話を切った。
もう、頼れるのは小野寺さんしかいないのに。
もしかして、会社に行く前に秀一郎さんのお見舞いで病院に行っているのかもしれない。
お具合はかなり悪いのかしら。
まさか、まさか万一なんてこと。
喉を通らないお昼ご飯の後、私はメイド長にそのくらいにしなさいと言われるまで、時間を忘れてひたすら冬越しをした庭の草をむしったりゴミを拾ったりし続けた。
なにかしていないと、泣いてしまいそうだったから。
まだ冷たい早春の土と草で泥だらけになった指先を、手の平で包み込むように握り締めた。
秀一郎さんの、体温の低い指や足先や唇を思い出して、私はまた泣きたくなった。
使用人たちが自分の部屋へ引き上げた夜の時間を待って、私は消灯された廊下をそっと小走りで休憩室に向かった。
ずっとずっと心臓がどきどきしたままだった。
まだ、小野寺さんは編集部にいてくれるだろうか。
午前中より短いコールで、また違う男の人が出た。
もしもし、と言う声が震えた。
小野寺さんの名前を告げると、こちらの名前を尋ねてから保留音に切り替わる。
「すみれちゃん?!」
どこかから走って戻ってきたような声で、小野寺さんが叫ぶように電話に出た。
「はい、すみません、おひさし」
「……ああ、そうね、おひさしぶりだこと」
その言い方が怒っているようで、私は言葉を失った。
なんて聞けばいいんだろう、今更。
「あの、週刊誌を見て……、休載になってましたから」
「……今さあ、すみれちゃんどこにいるわけ?先生のとこ辞めて」
少しためらってから、お屋敷の住所と名前を言う。
「へえ、ずいぶん羽振りのいいとこへ行ったのね。あたし、言わなかった?辞めるタイミング間違えないでって」
確かに、そう言われたことがあるような気がする。
でもそれは、私が秀一郎さんを薄気味悪がっているなら、我慢しなくていいのよという意味じゃなかったのかしら。
受話器を握る手に、力がこもる。
「すみれちゃんの辞めたタイミング、最悪。先生、せっかく賞も取ってこれからって時に全然書けなくなっちゃったのよ」
「はい……?」
「すみれちゃんが来てから、先生すごく変わったわよ。本の出版も決まってたのに、もうおしまいかもね」
おしまい。
秀一郎さんが?
「小野寺さん、…週刊誌に載ってた急病って、そんなに悪いんですか」
小野寺さんは電話の向こうでちょっとため息をついた。
「ああ、あれ。あんなの常套句だけどね。作家がどうしても締め切りまでに原稿を書けなかった時の」
「書けなかった……」
「あたしも電話したり家に行ったり、ずいぶん急かしたけどついに落としてくれたわ。初めてよ」
頭の中が混乱する。
「じゃあ、秀一郎さんは」
「ピンピンしてるわよ。まあ、先生のいつもの状態がピンピンと言っていいのだったらね」
少しだけ、ほっとした。
秀一郎さんは、本当に病気ではないのだ。
ただ、書けなくなってしまった……。
「どうなるんでしょう、これから……」
「さあ。書けない物書きなんか物書きじゃないからね。連載も打ち切りかな」
連載打ち切り。
「そんな……」
「他の仕事だって落としてるかもしれないわよ。そうなったら本当に先生おしまい」
毎晩毎晩、書斎にこもって『資料と妄想』で文章を書いてきた秀一郎さん。
朝、お疲れの様子があってもたくさん書けたときは嬉しそうだったし、書くお仕事がお好きなのだとわかる。
それなのに。
「家は大きいけどさほど財産があるわけでもなさそうだし、使用人二人も置いてどうするのかしらね…」
「……」
「授賞式もあるっていうのに。ああ、困ったわ。ま、すみれちゃんには関係ないんだろうけど」
「……あの」
小野寺さんを遮って、混乱した頭を整理する。
「ちょっと、お聞きしたいんですけど」
「なによ」
「賞っていうのは……」
「聞いてないの。すみれちゃんがいたときだと思うけど。うちの社の賞、今年のエッセイ・コラム部門に先生がノミネートされたって知らせに行ったはずだけど」
小野寺さんがまた怒った口調になる。
ちょっと嬉しそうに秀一郎さんが「内緒」と言ったのは、その賞にノミネートされたことなのかしら。
もし受賞が決まったら、教えてくださるおつもりだったのかしら。
そして、その時には私はもういなかったのだ。
一緒に、お祝いして差し上げたかった。
津田さんも芝浦さんも、喜んだだろうに。
きっと芝浦さんは、先代の旦那さまにご報告しなくちゃって言いながら泣いていただろうに。
「担当編集としてあたしも晴れ舞台なんだけど、肝心の先生が原稿落とした上に授賞式も欠席なんてなったら……」
「……もうひとつ、いいですか」
「なによ、あたしもうドレス買っちゃったのよ」
「使用人が二人っておっしゃいましたけど、新しいメイドはいないんですか?」
「ああ、いないわね。先生が選り好みしてるのか向こうから断られるのか。だいたいすみれちゃんが奇跡的に長く続いた方なんだから、ああもう、なんで辞めちゃうかなあ」
その後も、小野寺さんの愚痴は続き、私は廊下に人の気配を感じて電話を切った。
少なくとも、秀一郎さんがご病気ではないという確認だけはして、ちょっとだけほっとした。
そしてもうひとつ。
秀一郎さんのお屋敷には、新しいメイドがいない。
ご不自由しているのではないかしら。
津田さんがコーヒーメーカーでコーヒーを淹れて、レシピどおりにパンを焼いているのかしら。
脱ぎ散らかしたお洋服は、ちゃんと拾っているかしら。
お風呂の温度は、熱くしすぎていないかしら。
秀一郎さんは、自分で髪や体を洗えているかしら。
顎の下に一本だけ生えるおひげは、剃り残していないかしら。
湯たんぽは使っているかしら、ベッドから蹴り落としたりしてないかしら。
私はさっきまでと別の心配でどきどきしながら、自分の部屋に帰った。
戻ってきて以来、まだベッド以外の家具には白い布がかかったままの、私の部屋。
この一ヶ月、このお屋敷でいかに私が上の空だったのかが改めてよくわかる。
そうだ、私は考えないために一生懸命働いたつもりで、ずっと考えていた。
ずっとずっと、秀一郎さんのことを考えていた。
――――すき。
そうおっしゃったのが戯れだったとしても。
秀一郎さんは、二度おっしゃった。
――――すき。
それは、私が秀一郎さんのことが好きかというお尋ねと、もうひとつ、秀一郎さんが私を。
もしそれが、私の勘違いだったとしても。
私は、まだお返事をしていない。
――――ねえ、すみれは、私を好き?
秀一郎さんはそうおっしゃったのだと信じたい。
そして、私はそれに答えなければいけない。
秀一郎さんが私のことをいらないのだとしても。
私には、秀一郎さんが必要だもの。
いらないと言われたって、かまわない。
私はライティングデスクにかかっている布を外し、引き出しを開けてそこに備え付けの便箋を取り出した。
――――了――――