『メイド・すみれ 8』  
 
私は走った。  
 
今までの人生で、こんなに走ったことはないんじゃないかと思うほど走った。  
豪邸の多い住宅街は敷地の広い家が多く、走っても走っても景色が変わらない。  
一番奥に、あの古びた洋館が見えて来る。  
途中で、きっちりひっつめていた髪に両手を入れて、ぐしゃぐしゃになるのもかまわず解いた。  
無用心にいつも開けっ放しになっている裏門を開けて、裏口の古い観音開きのドアを両手の拳で叩く。  
初めてこのドアの前に立ったときのように、呼び鈴を押しただけで黙って待っていることなんかできなかった。  
早く、早く、誰か。  
もし、お宅の離れが燃えていますよと知らせる誰かがいたとしても、こんなには激しく叩かないんじゃないかしら。  
叩き続けていると、お屋敷の中から慌てて走ってくるような人の気配がして、ドアが開いた。  
「……すみれちゃん?!」  
服もエプロンも埃だらけにして、髪もばさばさのまま、全身で大きく息をしている私を見て、  
芝浦さんがびっくりした顔をしている。  
「どうして、どうやって、津田さんは?」  
急に走り続けた脚ががくがくしてきて、私は芝浦さんに倒れ掛かるようにしてつかみかかった。  
「やっ、やめ、て、きて、出て、私……っ」  
芝浦さんは私を抱きかかえるようにしてお屋敷の中へ入れてくれ、廊下の向こうに向かって叫んだ。  
「旦那さま!旦那さま、すみれちゃんが!」  
それを聞いて、私はその場にへたりこんだ。  
秀一郎さんが、いらっしゃるんだ。  
「すみれちゃん、大丈夫かい。いったいまた、どういう……」  
「むこうを、出て、こっちに来るトラックに、乗せてもらって……、あとは、走って」  
ぜいぜいして、うまく言葉が出ない。  
「そりゃヒッチハイクじゃないのかい、驚いた。じゃあ、津田さんには会ってないんだね」  
津田さん?  
なんのことですか、と聞こうとして、私は廊下の向こうに人影を見た。  
「……みれ」  
かすかな声。  
急いで着たのか、シャツのボタンはひとつも留まっていなくて、ズボンの裾も片方だけ折れている。  
足元は、靴下どころかスリッパさえ履いていない。  
秀一郎さん。  
秀一郎さん。  
秀一郎さん。  
細長い足が絡まるようにたどたどしく走ってくる。  
相変わらず長い前髪は驚いた顔の半分近くを隠していて、こちらに差し出している腕は棒みたいに細い。  
向こうのお屋敷を飛び出して、ここに来るまでの間、ずっとずっと考えていた。  
ただひたすら、秀一郎さんに会いたいだけだったけど。  
もし、もし秀一郎さんに拒まれたら。  
もう向こうに返したメイドだから、うちにはいらないと言われたら、どうしよう。  
秀一郎さんがスローモーションで近づいてくる。  
それは錯覚なんかではなくて、本当に遅い。  
あ、転んだ。  
手が届きそうなところで床に転がった秀一郎さんが、細い腕を差し出して床に座り込んだ私を引き寄せるように  
薄っぺらい胸に抱き寄せてくれる。  
私はその骨ばった体にすがりついて大泣きした。  
今までずっとずっと我慢していた分があふれるように、私は秀一郎さんに抱きついてわんわん泣いた。  
「津田さんに知らせなけりゃ」  
そう言って芝浦さんが廊下を小走りに走っていき、秀一郎さんは緊張が解けて涙の止まらない私の背中を撫でてくれた。  
私、向こうのお屋敷を出てきました。  
辞表を書いて、部屋に置いて、黙って出てきました。  
秀一郎さんが原稿を落とすからいけないんです。  
きっとむこうでは私のことをすごく怒ってるから、もう戻れません。  
秀一郎さんが私のことをいらないって言ったら、もうどこにも行くところがないです。  
しゃくりあげて泣きながら、私が途切れ途切れにそう言うと、秀一郎さんは埃まみれの私の髪に鼻を押し付けるようにした。  
「……いる」  
すみれは、要る。  
 
私は、秀一郎さんを力いっぱい抱きしめた。  
「だ、だったら、どうして、返したんですか。どうして、いるからやらないって、言ってくださらなかったんですか」  
抱きついたまま、背中と肩を拳で叩いた。  
「私はここにいたかったのに。秀一郎さんだって、ここにいていいって言ったのに!」  
黙って叩かれながら、秀一郎さんは私の背中や髪を撫でる。  
「……ごめん」  
「ごっ、ごめんで済んだら警察はいらないんですっ」  
うわあん。  
子どもみたいだ、と自分でも思うくらい、泣いても泣いても涙が出る。  
ばか、ばか、秀一郎さんのばか。  
「すぐ、迎えにいく……」  
「来なかったじゃないですか!私が自分で帰ってくるまで、秀一郎さんは」  
「いや……山が」  
秀一郎さんの背中を叩いている手が、飛び出した肩甲骨に当たる。  
話したい事はたくさんあるのに、ひっく、ひっくとしゃくりあげてしまってうまく言葉にならない。  
「どっ、どっ、どうして、どうしてこんなにやせちゃってるんですか。せっかく、せっかく私があんなに苦労して  
少しお肉をつけたのに、また最初からやり直しじゃないですか」  
「……うん」  
「どんだけがんばったと思ってるんですか。なに食べてたんですか」  
「……うん」  
秀一郎さんが、背中を叩き続ける私の頭を、後ろからぽんぽんと軽く叩いた。  
「痛い……から」  
「私の気持ちのほうが、ずっと痛いですっ」  
「……うん」  
私は、足元に転がった紙袋を探した。  
ここまで走ってくる間、ずっと抱きかかえてきた、たった一つの荷物。  
すっかり皺だらけでくしゃくしゃになったその紙袋を逆さにすると、ごろんとした塊が落ちる。  
私はそれを拾い上げて、秀一郎さんの目の前に掲げた。  
「向こうのお屋敷には、高級な贈答品が、いっぱい、あるんです。本当は、もっと、いっぱい、いっぱい」  
秀一郎さんは目の前に突き出された高級ハムの塊を、目を丸くして見ている。  
また何かがこみ上げてきて、喉が詰まった。  
「もっと、いっぱい、持ってくればよかった。秀一郎さんがこんなにやせちゃってるんなら、カニ缶とかウニの瓶詰めとか  
松坂牛とか、もっともっと、持ち出してやればよかったです」  
食料庫に忍び込んで、ハムひとつをくすねてくる度胸しかなかった自分が情けない。  
「これを入れて、パン、焼いたらおいしいと、思って、私、それで」  
やせてごつごつした秀一郎さんが、すっぽりと私の体を包み込む。  
「……おかえり…すみれ」  
 
私がしますと言ったのに、芝浦さんが暖かいお茶を淹れてくれた。  
ようやく少し落ち着いて、私はダイニングのテーブルでそのお茶を飲んだ。  
ハムは、不思議そうに首をかしげながら芝浦さんが冷蔵庫に入れてくれた。  
「びっくりしたよ、すみれちゃんを取り返してきますって津田さんが出かけたばかりなのに、もうすみれちゃんが、  
しかも一人で裏口に立ってるんだからね」  
秀一郎さんのだらしなく開いたシャツのボタンを留めて、私はおかしくてたまらないというように笑う芝浦さんを見た。  
「……はい?」  
「いくら津田さんでもそれは早すぎるよねえ」  
「……はい?え?」  
私は湯のみを手に持ったまま、にこにことしている芝浦さんと、隣に座ってエプロンの端を握って離さない秀一郎さんを  
交互に見た。  
「そういえば……、津田さんは」  
くす、くすくす。  
秀一郎さんが笑う。  
「忘れられてる……」  
「いえ、別に私は、津田さんのことを忘れてるわけではないですけど」  
慌てて訂正すると、芝浦さんがふうっと息をついた。  
「まあ、詳しいことは津田さんに聞いたらいいね。すみれちゃん、洗濯室に残ってた服は部屋にあるから、着替えたらいいよ」  
ぴったりくっついてくる秀一郎さんと一緒に、階段を上がる。  
以前と何も変わらない、薄暗い廊下。  
使っていた部屋のドアを開けようとして、私は振り向いて秀一郎さんが私のエプロンをつかんでいる手を押した。  
「秀一郎さんは、お部屋に戻っていてください」  
秀一郎さんは不満そうに私を見ている。  
「すぐ行きますから。それで、コーヒーをお淹れします」  
コーヒー、という言葉を聞いて秀一郎さんはようやく手を離してくださった。  
部屋の中は、中川さんが迎えに来て慌しく出て行ったときと、同じだった。  
それだけじゃなく、ちゃんと掃除をして空気を入れ替えて、洗いたての柔らかなタオルが洗面所に置いてあり、  
洗濯室に干したままだったメイドの制服もきちんとアイロンをかけてクローゼットに吊るしてあった。  
私が、いつ帰ってもいいように。  
向こうのお屋敷の、白い布のかかった家具の真ん中に、段ボール箱とバッグがぽつりと置いてあった部屋を思い出した。  
私は汚れた制服を脱ぎ、石鹸やシャンプーのきれいに並んだユニットバスで急いで体の埃を洗い流した。  
ぱりっとしたエプロンを付けて秀一郎さんの部屋のドアをノックする。  
どうせ返事はないからさっさと開けて中に入ると、いつもの机の前に秀一郎さんがいない。  
私がさっとシャワーを浴びる間も待ちきれなかったのかと、衝立の向こうを覗いてみてもベッドは空っぽだった。  
秀一郎さんがいない。  
びっくりして部屋に戻ると、秀一郎さんがのんびりと書斎から出てきた。  
手に、何冊かの雑誌を持っている。  
私を見ると、くすくす笑いながら机にその雑誌を置いて腰を下ろして手招きする。  
「なんですか?」  
言って近寄ってみる。  
秀一郎さんが開いたのは、その雑誌の出版社が今年の賞を発表した記事。  
エッセイ・コラムの部門で秀一郎さんが3人のひとりにノミネートされている。  
次に開いた号では、受賞が決定して、秀一郎さんの名前が大きく出ている。  
一般小説部門とかノンフィクション部門とかの作家が大きく出ているけれど、私はその次に出ている  
秀一郎さんの名前を食い入るように見た。  
「ほんとに受賞なさったんですね……」  
「……うん」  
「よか……、よかった……」  
「……うん」  
秀一郎さんは雑誌から目を離せない私の腰に腕を回して、エプロンに顔を押し付けた。  
「……しない」  
「はい。え……、はい?」  
くんくん、と鼻を埋める。  
そうか、新しいエプロン。  
パンの匂いも、コーヒーの匂いもしないエプロン。  
私は雑誌の角が折れたりしないように、そっと机に置いた。  
「コーヒー、お淹れします」  
「……うん」  
 
まるで、昨日も今朝も、ずっとそうしてきたように私は後ろの棚に置いてあるコーヒー豆の缶を取り上げた。  
ペットボトルの水を電気ケトルに入れてスイッチを押し、豆をミルで挽く。  
なにか変わっている。  
違和感の原因を探して、今まで奥にあったコーヒーメーカーが前に出ているのに気が付いた。  
抜いてあったコンセントも差さっている。  
私はミルを置いて、コーヒーメーカーを抱きかかえるとコードをつかんでコンセントを引き抜いた。  
セットされているサーバーががしゃんと音を立てて、秀一郎さんが振り返る。  
コーヒーメーカーは、思っていたより重くて、私はそれを棚の下に投げ出すように置いた。  
秀一郎さんが、じっと見ている。  
私がいない間、津田さんか芝浦さんが、これで秀一郎さんにコーヒーを淹れてたのだ。  
機械で淹れたコーヒーはまずいっておっしゃってたのに。  
電気ケトルのお湯がしゅんしゅんと音を立て始めた。  
私が動かないのを見て、秀一郎さんがゆっくり立ち上がった。  
だらんと下ろした私の手を取って、手の平を見る。  
「痛い……」  
コーヒーメーカーを下ろす時に、どこかぶつけたと思ったらしかった。  
私はきっと顔を上げて秀一郎さんを見た。  
「こんなの、もういらないです。それとも秀一郎さんは、こんな機械で淹れたコーヒーが飲みたいんですか」  
秀一郎さんの肉の薄い手の平が、私の頭の上に乗った。  
その手が滑るように髪を撫で、両手で頭を挟むようにする。  
秀一郎さんの顔が近づいてきて、私の額に秀一郎さんの額がこつんとぶつかった。  
「……すみれのが……おいしい」  
気が付くと、私はまたべそべそと泣いていた。  
 
秀一郎さんが寄り添ってきたので、コーヒーはドリップしにくかった。  
危ないですから離れてくださいと言ったのに、秀一郎さんは私にくっついて、手元を覗き込んでいる。  
「……いい匂い」  
前と変わらない秀一郎さんのカップに、出来立てのコーヒーを注ぐ。  
秀一郎さんは机の前に腰を下ろして、両手でカップを包む。  
「どうぞ……」  
私にご相伴を促してから、秀一郎さんは私のエプロンを捕まえる。  
「……だめ」  
一緒にコーヒーをいただいてはいけないのかしら。  
私が足を止めると、秀一郎さんはまたゆっくり立ち上がって後ろの棚に近づいた。  
何かが、ごんと音を立ててじゅうたんに転がった。  
秀一郎さんがお客様用のコーヒーカップを手にして戻ってきた。  
「……どうぞ」  
振り返ると、床に置いたコーヒーメーカーのそばにカップがひとつ転がっていた。  
薄暗い部屋の、棚の影ではっきり見えなくても、それが私がここに置いて行った桜模様のカップなのがわかった。  
前のお屋敷から送られてきたカップ。  
たったひとつ、前の旦那さまが私にくださった贈り物。  
お礼を言って模様を褒めても、わかってらっしゃらなかったから、きっと秘書の誰かがお使いに行って、  
旦那さまはカップを見てもいないのだろうけど。  
そのことを秀一郎さんにお話したことはなかったのに。  
「買いに……いく」  
客用カップでコーヒーを飲む私に、秀一郎さんがおっしゃった。  
すみれのカップを、買いに行く。  
私はまたぐすぐすと鼻をすする。  
どうかしてる、どうして私はこんなに泣いているのかしら。  
おかえりと迎えてもらって、嬉しいはずなのに。  
どうしてこんなに。  
秀一郎さんはコーヒーカップを傾けて、一口をゆっくり飲んだ。  
それから、カップを机において、私のエプロンの端を引っ張る。  
顔を近づけると、秀一郎さんの指が私の目尻をぬぐってくださる。  
「……悲しい」  
「……え」  
「まだ……」  
秀一郎さんの、とぎれとぎれの言葉。  
 
「酸っぱいんですか。それとも、苦いんですか」  
私が聞くと、秀一郎さんはわずかに首をかしげる。  
どっちだと思う、というように。  
私の淹れるコーヒーは、怒っていると苦くて悲しいと酸っぱいのだとおっしゃる。  
中川さんが迎えに来たときに、私を引き止めずに返したことが悲しかったかとお尋ねなのかしら。  
それとも、そのことをまだ怒っているかとお尋ねなのかしら。  
そうだ、どうして秀一郎さんは、あの時私を返さないと言ってくださらなかったのかしら。  
「きっと、苦くて酸っぱいです。おいしくないです。だって私」  
ここに来るまでは、秀一郎さんに聞きたいことや言いたいことをたくさん考えてたのに。  
たくさんたくさん、言いたかったのに。  
なんにも言わないうちに、秀一郎さんがキスなんかするから。  
すごく大事なことなのに、秀一郎さんがなんにもなかったみたいに、優しくキスしたりするから。  
「……ずるいです」  
ちょっと冷たい秀一郎さんの唇が離れてから、私は呟いた。  
 
秀一郎さんがおねだりしたおかわりのコーヒーを飲んでいると、慌しいノックと同時にドアが開いた。  
「すみれさん!」  
こんなに慌てた津田さんを見るのは初めてだった。  
外出用のスーツの上着を着て、黒い書類カバンを持ったまま。  
「……あ」  
ホームベーカリーのパンが焼けましたか、とでも言いたくなるほど自然に秀一郎さんとの日常を取り戻しかけていた私に、  
津田さんは大きな歩幅で近づくと、息を吐いて肩を落とした。  
「……すみません。待ちきれませんでしたか」  
カップを置いて、慌てて立ち上がる。  
「津田さん、あ、あの、すみま」  
メガネの奥で津田さんがまばたきをした。  
「本当は、もっと早く……」  
津田さんが、うつむいた。  
「……お話しすることがあります」  
そう言って、津田さんは私を来客用のソファに座らせた。  
ひょこひょこと秀一郎さんもくっついてきて、隣に座る。  
正面に腰を下ろした津田さんが、カバンから薄い紙の書類を何枚か取り出した。  
「受け取りです。これで当家はあちらに対して一銭の借りもございません」  
「……うん」  
秀一郎さんが頷く。  
津田さんはメガネを外して鼻の付け根をつまんだ。  
隠すもののなくなった素顔に、私はなにか引っかかってまじまじと津田さんを見た。  
「…似てますか」  
メガネをかけなおして、津田さんが私に言った。  
「あちらのご主人は、私の異母兄です」  
一瞬、意味がわからなかった。  
は?とか、へ?とか言ったような気もする。  
津田さんは秀一郎さんが押し返した書類をカバンにしまって、私に向き直る。  
「あちらの先代が、34年前に水商売の女に手を出した結果が私です」  
私がきょとんとしているので、津田さんが困ったように顎を撫でた。  
あちらの先代って、向こうの旦那さまのお父さまが、津田さんのお父さん?  
つまり、とか、それは、とかぶつぶつ言う私に、津田さんはちょっと時間を置いてから話を続けた。  
「養育費はたっぷりくれましたが私の母が早くに亡くなりましたので、友人だったこの屋敷の先代…、  
秀一郎さんのお父上が私を引き取ってくれました。6歳のときです」  
以前、津田さんはここで育ったと言っていた。  
「父が私を、異母兄がすみれさんを……。これは血筋です」  
困ったように苦笑する。  
つまり、私が前にいた屋敷の旦那さまは、父子二代に渡って自分の後始末をこのお屋敷に押し付けたのだ。  
それにしても、旦那さまと津田さんが、半分とはいえ兄弟だったなんて。  
大柄でがっしりした、目も鼻もくっきりして浅黒い顔の旦那さまと、目の前にいる背は高いけれどひょろりとして、色白で切れ長の目をした顔立ちの津田さんを頭の中で比べてみる。  
……似ていない。  
「…昔、当家はあちらにいくらかの借金があったのですが、……そういうこともありまして、秀一郎さんのお父上が  
亡くなりましたときに、それらは全てなかったことになったはずなのですが……」  
津田さんが小さく舌打ちしたような気がした。  
「あのバカ兄貴」  
 
今のは、聞かなかったことにした方がいいかしら。  
秀一郎さんを見上げると、聞こえなかったふりをしている。  
「当家はすぐ動かせる現金に乏しいもので……、私がこちらに来るときに遺産分けでもらった山を売りました」  
「……え」  
「なかなか手続きが手間取って、すみれさんを取り返しに行くのに時間がかかってしまいました。……すみません」  
話が急すぎて、混乱する。  
つまり、秀一郎さんは旦那さまに借金があって、それで私を連れに来た中川さんに逆らえなかったのかしら。  
だからまず借金を返そうと、津田さんがお父さんから貰った山を売ってお金にした。  
私のために?  
私をここに呼び戻すために、津田さんの私財を売ってしまったのかしら。  
「かまいません。……あの家から貰いたいものなんて、なにもないですから」  
「でも……」  
「私があちらとそういった因縁があるもので、旦那さまは私の立場と、すみれさんを引き止めたい気持ちとの  
板ばさみになってしまわれました。……旦那さまを、怒らないでください」  
一息にしゃべったことで、津田さんは疲れたようだった。  
普段コーヒーを飲まない津田さんのために、私は小さな冷蔵庫からオレンジジュースを出してグラスに注いだ。  
「むこう……」  
私の隣で、秀一郎さんがやっと口を開いた。  
オレンジジュースで喉を潤した津田さんが頷く。  
「なんだかんだは申しておりましたが……、すみれさんは辞表を書いておりますし、先月分の給与も放棄しています。  
あとはこちらで保険や年金の手続きをして正式に雇用してしまえばいいのです」  
さすがに頼りない主人を持つ執事、事務能力は有能だと私が変に感心していると、津田さんはメガネの奥で  
きらりと目を光らせた。  
「あとは、お約束どおり」  
秀一郎さんが、くすくす笑う。  
約束?  
不安になって秀一郎さんを見上げると、秀一郎さんは私の耳もとに口を寄せた。  
「山を売ったんだから……、賞金をくれって」  
「え……」  
秀一郎さんがくすくすと笑い、津田さんが静かに笑みを浮かべる。  
主従であると同時に、気心の知れた幼馴染であるこの二人がちょっぴりうらやましくなった。  
津田さんが、前のお屋敷の人たちがびっくりするほど大胆にお屋敷に入り込み、中川さんが目を剥いて失神しそうになるほど  
激しい兄弟げんかを繰り広げて私の離職票をもぎ取ってきたこと、最後に旦那さまが「秀一郎に言っておけ、あいつは  
俺のお下がりだとな」と捨てゼリフを吐いたこと、それに対して津田さんが鼻で笑いながら  
「後悔なさい。あの人は徳川埋蔵金です」と言い返したこと。  
そんなことを、私は後になって小野寺さんから聞いた。  
私が戻ってきたことで目をまん丸にして驚いた小野寺さんも、秀一郎さんがまた書き始めたことで喜んでいる。  
どうして小野寺さんがそんなことを知っているのかと驚いたけれど、小野寺さんの出版社ではゴシップ週刊誌も発行しており、  
概して金持ちの家の使用人というものは噂好きで口が軽いものよと言われた。  
「もちろん、すみれちゃんは違うけどね」  
小野寺さんは、ちゃんとそう付け加えるのを忘れなかった。  
柄にもなく派手な兄弟げんかをしてきたばかりの津田さんは、首の後ろをなでて頭を振った。  
「ま、賞金がいくらいただけるにしても私は大赤字です。どうせ旦那さまのペン一本ではこの先たいした稼ぎも  
ないでしょうから、今回の件は私とすみれさんの終身雇用で報いていただくことにしましょう」  
終身雇用。  
深く考える間もなく、なぜか私の顔が熱くなる。  
秀一郎さんが、エプロンを引っ張った。  
「ね……。津田……こわい」  
「もっと怖い人が来ます」  
津田さんが立ち上がって、空になったグラスをワゴンに上に置いた。  
「原稿。次に落としたらただでは済まさないそうです」  
小野寺さんだ。  
秀一郎さんが私の隣でちょっとだけ肩をすくめ、津田さんはメガネの奥の目を柔らかくした。  
「今夜からお仕事をしていただきます。それまでせいぜい、いちゃいちゃなさい」  
今度こそ、私は顔も首も真っ赤になったに違いない。  
お部屋のドアが閉まり、秀一郎さんは嬉しそうにくすくす笑った。  
「いちゃ……」  
私は急いで立ち上がり、津田さんがグラスを置いたワゴンを無意味に押して部屋の中を半周した。  
なんだか、納得できない。  
 
私が一ヶ月、あのお屋敷でどんなに秀一郎さんのことを思ってきたか。  
どんなにどんなに辛いのを我慢してきたか。  
秀一郎さんにはもう私は必要ないんだと思って、我慢してたのに。  
小野寺さんに秀一郎さんは原稿が書けなくなったと聞いて、私は追い返されて行く所がなくなったって構わないと決心した。  
路頭に迷ったっていいから、秀一郎さんに会いたい。  
だから、引き出しの中のありあわせの便箋に短い辞表を書いて、まだ皆が寝てるうちにお屋敷を抜け出して、  
大きな通りで長距離のトラックに止まってもらうまで走って、降ろしてもらってまた走って、やっとやっとここまで来たのに。  
秀一郎さんは、まるでその一ヶ月がなかったみたいに私のエプロンを引っ張って、前よりちょっと甘えてきて、  
津田が怖いと言いつける。  
苦労して山を現金に換えて、むこうのお屋敷に私を連れ戻しに行ったら私はもう居なかったという津田さんと比べても、  
秀一郎さんはなにもしなさ過ぎる。  
せっかく賞も取ったのに、そのお仕事さえろくにできていない。  
秀一郎さんがきょとんとした顔で私を見ている。  
私はワゴンを机の隣に並べて、息をついた。  
「いやです。秀一郎さんといちゃいちゃするの、いやです。ずるいです」  
秀一郎さんが、のっそりと立ち上がる。  
そばまで来ると、私の頭を両手で横から挟んで、てっぺんに鼻を押し付けてくんくんする。  
「酸っぱくて、……苦い」  
そんなはずはない、髪を洗ったばかりですと言い返そうとして、それがさっき淹れたコーヒーのことだと思い当たった。  
「……ごめん」  
もう、本当にどうかしてる。  
私はまた泣いている。  
「怒ってる……」  
「おっ、怒ってます。怒ったっていいじゃないですかそれくらいいいじゃないですかっ」  
秀一郎さんに頭を抑えられたまま、私は精一杯怒った。  
「だって、秀一郎さんはご自分ではなんにもっ」  
目の前にある頼りない胸板に抱きついてしまいそうになるのを、精一杯我慢して、一生懸命怒った。  
「いうこと、きく……」  
頭の上で、秀一郎さんが言う。  
「すみれの、いうこと……きく」  
それは、秀一郎さんなりの謝罪なのかしら。  
私は、顎を伝って落ちる涙を手でぬぐった。  
「ほんとですか」  
「……うん」  
あんなに我がままで、いやなことは何もしたがらなくて、甘やかされてちやほやされたがるお坊ちゃま育ちのくせに。  
「ブロッコリーも、召し上がりますか」  
秀一郎さんが、ふうと私の頭に息を吹きかけて、聞く。  
「かたいのも……」  
秀一郎さんはブロッコリーの固い茎がことのほか苦手なのだ。  
「全部です」  
「……うん」  
「耳掃除の途中で寝ちゃうのも、だめです。脚がしびれるんですから」  
「……うん」  
「お風呂のとき、髪をふく前にぶるぶるってするのも、やめてください」  
「……うん」  
「それと、それから」  
「……うん」  
「ちゃんと…、お仕事してください」  
「……うん」  
それで全部、と秀一郎さんが言う。  
ずるい。  
もっともっと、たくさん言いたいことがある。  
「する……。みんな」  
頭のてっぺんに押し付けていた鼻を離して、秀一郎さんが私の顔を覗き込む。  
細い指が、頬をつまんだ。  
「すみれがいたら……できる」  
秀一郎さんは、いつから言葉でも魔法を使うようになったのかしら。  
 
「……じゃあ…、いいです」  
私はそう言ってしまった。  
「秀一郎さんはずるいけど、私のことむこうにやってしまったけど、迎えに来るのも遅いけど、津田さんが山を売らないと  
お金もないけど、それなのに私がいないと仕事もしないけど」  
頬をつまんでいた秀一郎さんの手が、私の顔を包み込む。  
「……いいです。おかえりって言ってくれたから、それ、全部……いいです」  
割に合わない。  
損をしたような気がする。  
でも。  
秀一郎さんが私にまたキスをする。  
耳もとで、囁く。  
「いちゃいちゃ……して、くれる」  
 
秀一郎さんが私をベッドに腰掛けさせる。  
床に膝を付いて、私の靴下を脱がせた。  
裸足のつま先を手で包み込んで、唇を寄せる。  
なんだかそれがとても恥ずかしくて、私は脚をひっこめた。  
足の先から一枚ずつ脱がして、秀一郎さんが膝の裏に手を入れて私をベッドに上げる。  
明かりの乏しい部屋の中で、秀一郎さんが私を見ている。  
手を触れずに身体をじっと見つめられるのがまた恥ずかしくて、私は秀一郎さんのシャツの裾をつかんで引っ張った。  
ご自分だけ、服を着てるなんてずるい。  
くす、くすくす。  
秀一郎さんが私の顔の両側に手を付いて笑う。  
「まだ……」  
まだ、見る。  
肩も胸も腰も、舐めるように見つめられる。  
視線って、感じるものなのかしら。  
ようやく、秀一郎さんが私に触れた。  
うなじに差し入れた手の平が、少し冷たい。  
首筋をわずかに滑っただけで、ため息になった。  
このまま、秀一郎さんの優しい魔法の手に全部預けてしまいたい。  
私は腕を上げて、秀一郎さんのシャツのボタンを外した。  
すべり落とすと、悲しいくらい骨の浮いた肩がむき出しになる。  
「おやせになりましたね……」  
思わずそう言うと、秀一郎さんはちょっと首をかしげた。  
「つける……」  
残りの衣服を取って、私は秀一郎さんを抱きしめた。  
「つけます。私が、秀一郎さんにお肉いっぱいつけて、太らせます」  
「……太らせて……食べる」  
ぺちっと背中を叩いた。  
「おいしくないです」  
くすくす、と耳もとで秀一郎さんが笑う。  
「すみれが……一番、おいしい……」  
秀一郎さんの脚に自分の脚を絡めて身体を押し付けて、私は急にひとつのことを思い出した。  
優しく撫でられ、隅々に口付けられながら、水をかけられたようにすうっと冷めていく。  
どうして、忘れていたんだろう。  
忘れて、しまえたんだろう。  
目を閉じて、このまま秀一郎さんのくれる暖かさに身を任せてしまうのは、秀一郎さんに対してずるいことなのかしら。  
黙っていれば、知られなければ、秀一郎さんはいやな思いをしなくていいのかもしれないけど。  
「……いや」  
秀一郎さんが、つぶやいた。  
「え……」  
目を開けると、秀一郎さんがじっと私の顔を見ている。  
「……いや」  
私が、するのがいやなのかとお尋ねなのかしら。  
心配そうに、私を見ている。  
細い指が、いつのまにか私の目尻からこぼれていた涙をぬぐってくださる。  
「しゅ……、わた、私……」  
ベッドに肘をついて体を起こすと、秀一郎さんが抱き起こしてくれた。  
そんなに優しくされると、言い出しにくい。  
 
「……なに」  
あばらの浮きそうな胸と細い腕に包まれる。  
指が髪をかき分けて、秀一郎さんの唇が私の耳を挟む。  
「あの。私……むこうで」  
「……うん」  
うまく声が言葉にならない。  
「……あの」  
「……うん」  
怒るかもしれない。  
秀一郎さんが、怒るかもしれない。  
「……だ、旦那さまと」  
「……」  
秀一郎さんが黙る。  
「あの……」  
「……うん」  
耳に吹きかかる秀一郎さんの短い返事が、少しだけ震えていた。  
「最初の、日に……一度……」  
「……ん」  
旦那さまが乱暴に私に乗りかかってきた感触の記憶を振り払うために、私は秀一郎さんにくっついた。  
「すごく、いや…でした」  
秀一郎さんが、私の耳に歯を立てる。  
「……怒ってますか」  
耳を噛み千切られるくらいで済むなら、耳なんかいらない。  
そう思ったのに、秀一郎さんは柔らかく私の耳を噛む。  
やっぱり、なかったことにはできない。  
秀一郎さんが怒っても、仕方ない。  
一度はおかえりと言っても、でも。  
「……ど」  
唇が耳に近すぎて、聞き取れなかった。  
「はい?」  
「……いちど」  
「はい」  
誓って、一度きり。  
「……うん」  
私を包むように抱いてくださる腕に、少しだけ力がこもる。  
「じゃあ……二回」  
「は、はい?」  
片手で私の肩を抱いたまま、そんなところだけ器用に片手でサイドテーブルの引き出しを探る。  
「二回」  
秀一郎さんが、私の前に手の平を広げた。  
そこに、小袋が二つ乗っていた。  
向こうの旦那さまと一回したから、二回しようとおっしゃるのかしら。  
私がず秀一郎さんの顔を見上げると、秀一郎さんはふっと笑った。  
「ね……。二回…」  
そういう問題なのかしら。  
納得できないまま、私は秀一郎さんが絡めてくる舌を受け止めながら目を閉じた。  
「……ごめん」  
秀一郎さんが謝ってくださるのは、何度目かしら。  
肩先に頬を押し付けると、秀一郎さんがニ、三度咳払いをする。  
「なんにも……できませんでした。あなたがいなくなって…、呆けてしまいました…」  
想像できた。  
ぼんやりと、何もせずに机に肘をついている秀一郎さん。  
「酸っぱいコーヒーを…、淹れさせて……ごめん」  
「……」  
「あなたが泣くのは……もう……いやです」  
そんなことを言われたら、また泣いてしまうじゃないですか。  
涙声でそう言うと、秀一郎さんの唇が、私の身体をなぞった。  
 
私は秀一郎さんの頭を胸に抱く。  
私の体温で温まった秀一郎さんの身体がぴったりとくっつき、腕や腰を撫でるたびに波打つように動く。  
その心地良さに、声を上げる。  
素直に、感じるままに。  
秀一郎さんが胸のふくらみを周囲からなぞりあげるように舌を這わせて、その先にある突起を唇で挟む。  
舌先でつつきながら下から手で柔らかくつかむように揉まれると、お腹の方がむずむずしてくる。  
それなのに、秀一郎さんは腕の裏側や鎖骨のくぼみや、おへその凹みまで撫でたり舐めたりしている。  
あちこちをそうされるのは心地いいのだけれど、だんだん物足りなくなってくる。  
時折、脚に触れる秀一郎さんのそれが、もう硬い。  
私は手を伸ばして、やせた身体に不似合いな大きさの熱いものをそっと握った。  
「……っ」  
秀一郎さんが短くうめく。  
「……だめ」  
しごき上げようとすると、秀一郎さんが私の手を押さえた。  
「もっと……」  
もっと、触れたい。  
でも。  
「二回……して、くださるんですよね」  
秀一郎さんが、くすくす笑った。  
「……する」  
私もおかしくなった。  
「だったら、もう下さい。秀一郎さん、すぐくたびれるんですから」  
くす、くすくす。  
秀一郎さんの指が、私の頬をつまんで引っ張った。  
「いひゃいれふ……」  
「……うん」  
秀一郎さんの膝が私の脚を割った。  
一番深いところを探り当てるように、手が入る。  
指が下から上になぞりあげられ、腰が動いてしまう。  
私の反応を楽しむように指を跳ね上げながら、秀一郎さんは覆いかぶさるようにして耳を食んだ。  
「ゆっくり……」  
耳もとでくすぐるように息が吹きかけられる。  
準備をした秀一郎さんが、抱えた私の脚を大きく開いた。  
「あんっ……」  
そっと当てられたものの熱を感じる。  
「あ、や……、だめ」  
無理。  
思わず逃げようと腰を引いてしまう私を、秀一郎さんが抱きしめた。  
「大丈夫……」  
だめと言った私の身体が、秀一郎さんを飲みこんだ。  
「あ……」  
自分で驚いた私の髪を、秀一郎さんが優しく撫でる。  
「ね……」  
大丈夫だったね。  
ゆっくりと奥に沈みこむ。  
寂しかった、心細かった、辛かった隙間を埋めてくれるように。  
そのまま、私の顔のあちこちにキスしながら静かに腰を揺らす。  
気持ちいい。  
引くときに先端が中をかき出すようにこすりつけられて、秀一郎さんが熱い息をもらした。  
胸に乗せた手が動いて、乳首を指先がかする。  
「ん、あ……」  
ぎゅっと目を閉じて、全身の感覚だけで秀一郎さんを感じると、自然に声になった。  
もう、大丈夫。  
そう伝えるために秀一郎さんの首に腕を回した。  
ゆっくりと、秀一郎さんが動く。  
それは少しずつ早くなり、強くなる。  
「……うん……」  
くちゃっという音が自分の足元から聞こえて、私の腕をすり抜けた秀一郎さんが腰を抱え込む。  
 
「あ、あっ、んあっ、うんっ」  
身体が揺さぶられるほど激しい。  
こんなにしたら、秀一郎さんが疲れてしまう。  
ただでさえやせているのに、私がちょっと目を離した隙に骨に皮を張ったようになってしまって、目の下にクマなんか作ってる。  
それでも、私は秀一郎さんがくれる幸せな心地良さに、一ヶ所から湧き上がって体中を満たしていく気持ちよさに溺れてしまう。  
「あんっ、ああっ、や、ああ、んっ……しゅ、いっ……」  
くちゃくちゃという水音と、肌のぶつかる音、秀一郎さんの息遣いと私の声。  
薄暗い部屋の中にそれだけが聞こえる。  
私の中で、秀一郎さんがきつきつなほど大きくなる。  
もう、限界。  
「すみれ……」  
ぼうっとした頭の中に、秀一郎さんの声が届く。  
もう、それに答える余裕がない。  
そこ。  
そこを、もっと、そう、もっと、もっと。  
気持ちいい、秀一郎さんが気持ちいい。  
「あ、あ!」  
短く叫んで、私がのけぞるのと秀一郎さんが私の中で震えるのと、どちらが先だったかはわからない。  
心臓のどきどきと呼吸が落ち着いてみると、秀一郎さんは私の隣で突っ伏していて、腕だけが私のお腹に巻きつくように乗せられていた。  
「秀一郎さん……?」  
「……うん」  
くたびれてしまったのかしら。  
そういえば、もうとっくに秀一郎さんはお休みになってるはずのお時間なのに。  
私が秀一郎さんにのほうに向くと、秀一郎さんもこっちに転がった。  
「……いい」  
秀一郎さんも、気持ちよかったのかしら。  
恥ずかしくなってうつむく私の顎に指をかけて上向かせ、鼻と鼻をくっつける。  
「……ねえ」  
秀一郎さんの手が背中やお尻をもぞもぞと撫でる。  
睫毛が触れそうなくらいの距離で、秀一郎さんが二度、咳払いをする。  
――――すき。  
「え?」  
聞こえたけれど、聞き返した。  
秀一郎さんは、笑わなかった。  
そして、もう一度、今度ははっきりとおっしゃった。  
――――すみれが、好き。  
――――すみれは、好き?  
私は秀一郎さんの首に腕を回して、いつも秀一郎さんがしてくださるようにその髪に鼻を押し付けた。  
「……はい」  
そのまま、秀一郎さんの上になって転がった。  
「……ほんと」  
私の下で、秀一郎さんが言う。  
「はい」  
もう一度答えて、私は秀一郎さんのぺちゃんこに窪んだお腹の上にまたがった。  
「もう一回、です」  
くすくす笑いながら、秀一郎さんが腕を伸ばして私の顔に触れた。  
「足りなかっ……」  
さっきのでは満足できなかったのかとおっしゃるのだ。  
私は秀一郎さんの皮だけしかない頬をつまんで、両側に引っ張った。  
横に伸びた口元に、キスをする。  
「いひゃい……」  
秀一郎さんの苦情で手を離し、そのまま下がりながら秀一郎さんの身体に順に口付ける。  
白くて、薄くて、ところどころ荒れてざらついた肌。  
お腹の下に来ると、秀一郎さんがぴくっとする。  
手にとって、口に含む。  
「……ん」  
秀一郎さんの手が私の頭に乗せられた。  
もう、私が一生懸命食べているのに、上のほうで笑うのはどうしてかしら。  
 
「くすぐったいですか?」  
そんなに下手なのかと心配になって聞いてみると、秀一郎さんは手を乗せていた頭をぽんと叩いた。  
「……すごく……、いい」  
嬉しくなった。  
秀一郎さんがなにもしなくても、ただ気持ちよくなれるように、私は秀一郎さんを舐めたり吸ったり、擦ったりした。  
しばらくそうしていると、このくらいでいいのに、と思うくらいの大きさを取り戻す。  
本当は、ここからまた一回り大きくなってしまう。  
私は仰向けになって目を閉じている秀一郎さんの頭のほうへ上がって、ぺちぺちと頬に手を当てた。  
「秀一郎さん。私、このくらいがいいんですけど」  
ぷは、と秀一郎さんが吹き出す。  
そんな風に笑うのは珍しくて、ちょっとびっくりしてしまった。  
秀一郎さんは私の肩に手を回して引き寄せると、耳もとでくすくす笑う。  
「……じゃあ……して」  
自分のちょうどいいところで、してみて。  
胸を撫でてくれる手から離れて、もう一度秀一郎さんの腰の上にまたがった。  
「……あ」  
手を添えて、それがもう規格外になっているのに気づく。  
「あん、もう」  
私の下で、秀一郎さんが身体を揺すって笑っている。  
「ひどいじゃないですか、これじゃ」  
自分で挿れられない。  
秀一郎さんが両腕を伸ばして、私の首に絡める。  
抱きつくようにして身体を起こして、秀一郎さんが私の耳を噛んだ。  
「……する」  
上下を入れ替えて、秀一郎さんが私の上になる。  
秀一郎さんが私の足首をつかんでひょいと開く。  
あっと思う間もなく、秀一郎さんが腰を当ててきた。  
「だいじょうぶ……」  
ゆっくりするから。  
秀一郎さんの細い指がひだを開くようにして、確認するように動かされた。  
指先が一番敏感なところを探る。  
「あんっ!」  
私の腰が跳ね、秀一郎さんはそこに自分の膝を入れた。  
ちょうどいい高さで、私の熱い場所に秀一郎さんが触れる。  
ゆっくり、二度目が入ってきた。  
「ね……、取り消し……」  
奥まで入って、秀一郎さんが乱れた息の中で言う。  
二回したから、前の旦那さまとの一回は、取り消し。  
秀一郎さん。  
秀一郎さん。  
秀一郎さん……。  
「……泣いたら……だめ」  
そう言って、秀一郎さんが私の顔にキスをした。  
今日だけ、今日だけ泣いてもいいじゃないですか。  
今日、いっぱいいっぱい泣いたら。  
そしたら、またパンを焼きますから。  
あのハムはすごくおいしいから、ハムのパンにします。  
それから、りんごとレーズンのパンとか、チョコチップのパンとか、黒糖の丸パンとか。  
だから、秀一郎さんはちゃんとお仕事をしてください。  
でないと、いつまでたっても津田さんに山のお金を返せません。  
……今、そんなことを言う、と秀一郎さんが私の上で動きながらくすくすと笑った。  
私はもう笑う余裕がなくて、揺れている秀一郎さんにすがりついた。  
 
 
 
 
……ただいま、秀一郎さん。  
 
 
――――了――――  
 

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